暁がきらめく場所
微風
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 ひとひらの雪が落ちた。
 外気にさらされた頬に厳しい冷たさを感じ、上体を起こして見つめた先に広がる光景に息を呑む。
「――雪だ」
 目覚めきっていなかった意識が一気に覚醒し、亜麻色の髪の少女は上着を羽織って窓辺へと歩いた。
 エイデガル皇都に雪が降ることは殆どない。
 雪が多く降るのは、高い山を抱くアデル、ティオス両公国だった。
 儚い白が空中を舞う。
 建物に触れて、木々に触れて、雪はすぐに溶けて行った。稀に障害物に触れずに降りてきたものも、最期にアウケルン湖に辿り着いて水に帰る。
 綺麗だと素直に思った。
 咄嗟に外に出たくなって、乱れた髪に手を添える。癖があるためにもつれた髪を手櫛で手早くまとめた。
「支度しよう」
 雪に誘われて目覚めることは殆どない。
 折角の機会を潰して、二度寝するなどもったいなさすぎる。
 顔をあらって、昨晩のうちに侍女のエミナが揃えてくれた服に袖を通した。ショートブーツをはいて、スカートのよれを手で治す。足早に扉に近づいて扉を開けた。
「冷たい」
 言葉をこぼして息を飲む。ぴん、と頬を刺してくるような清冽な冷たさがあった。
 踏み出したブーツの踵は、石床にぶつかってやけに大きな音をはじき出した。驚いて足を止めて、今度は足音を忍ばせて走り出す。目指すは中庭だった。
 走りながら、アティーファは思う。
「今日は、久しぶりに会えるんだ」
 声は知らず弾んでいた。





 一年も前に起きたことがあった。
 再び静かな日常が帰ってくると、あの激動の日々が嘘だったように思えてくる。だが、皇都に残る被害の爪痕や、レキス公国の復興が遅れている報告を受けるたびに、”現実だった”という実感を抱くのだった。
「ファナス争乱」
 アティーファにとって”永遠”という存在になった少年エアルローダが起こした騒動は、現在公式にこう呼ばれている。
 公式発表はこうだ。
 現皇王フォイスの亡き妻リルカの一族出身者であるエアルローダ・ファナスが、皇統を奪う計画を画策。ザノスヴィア王国の前国王ノイルと手を組み、一部魔力者の能力を利用して乱を起こした。
 エアルローダに協力する一部の者達は、ザノスヴィアの援助の元レキス公国に潜入し、公都の水源に毒を混入。一夜にして大混乱に陥ったレキス公国は、単独での事態解決は不可能と判断し、公妃ダルチェがエイデガル皇都に援軍を求めて使者を送る。
 援軍依頼にエイデガル皇国は次期皇王である皇女と、アデル公国、ティオス公国の各公子が騎士団を出立させた。レキス公都に到着後、敵の攻撃を防ぎ公王夫妻を救出。そのまま皇女は公子二名をザノスヴィア国境へ派兵させ、自らは本国に戻った。
 国境での戦いはザノスヴィアの状況を憂いて視察という題目でエイデガルに援助を求めていた王女リィスアーダが、ミレナ、アデル、ティオスの各公国の後ろ盾を得て国王ノイルを弾劾、退位させた。そのまま、幼い皇太子の摂政の地位にあるリィスアーダが暫定の王に立った。
 エイデガル皇都では、ザノスヴィアが保持していた魔力者を操る技術によって尖兵となった魔力者達の攻撃が発生し、異常現象が多発。一時は苦戦を余儀なくされるも、敵の首領であったエアルローダを討ち取り、乱は平定された。




「嘘ばっかりだ」
 公式に記される騒動の顛末を暗記しているアティーファは、一文一文を思い出して息をつく。エアルローダがファナスと名乗ったことがないことを、アティーファは痛いほどに知っていた。
 ――エアルローダ・レシリス。
「エア……」
 呟くとき、決まってアティーファの心は痛みを訴える。
『君が僕を忘れる日まで』
 記憶に残る風の中、痛いほどに鮮やかな色を揺らして、少年は姿を消したのだ。
「エア。私は、永遠を絶対に守ってみせる」
 決意を口にしつつ、階段を駆け降りる。重厚に閉じている扉に手をかけて、思い切り押した。ギギ、と扉はきしんで、白く儚い存在が降りしきる様が飛び込んでくる。
「きっと、積もりはしないんだろうな」
 伸ばした指先にふれた雪は、体温に負けて水になってしまった。
 あまりに儚すぎて、アティーファはそっと息をのむ。ひどく哀しい気持ちが胸に押し寄せてきて、手の平で溶けた雪を手の中に包み込んでみた。
「アティーファ?」
 やんわりとした声が背後から響く。
 まさか声をかけられるとは思っていなかったアティーファは驚いた。亜麻色の髪にまとわりつく粉雪を揺らして、少女は振り向いて砕顔する。
「リーレンっ!」
 足首まで覆う外套を羽織った幼馴染が、両手に荷物を下げて笑っていた。
 身長が変わったわけではないが、体格ががっしりとしたような気がした。まるで成長遅滞していた頃の遅れを取り戻そうとしているかのように、ここのところ会うたびにリーレンは変化している。
 なんとなく気恥ずかしくなって、アティーファは飛びつかずに、ゆっくりと歩き出した。リーレンも歩み寄ってきて、途中でぴたりと足を止める。
「リーレン。3ヶ月ぶりだな」
 指を折って数え始めたアティーファの肩に、リーレンはごく自然な動きで彼が羽織っていた外套を羽織らせる。昔の彼にはなかった大人びた配慮に驚いて、アティーファは翠色の瞳を大きくまたたかせた。
「な、なんだか、今リーレンとの年齢差を実感した」
「何故です?」
 突然のアティーファの言葉に、リーレンは首を傾げる。彼の言葉の中に、変わっていない部分を見つけて少女は笑った。
「大人になって、なんか立派になったって言おうと思ったのに。その敬語を使うのは治ってないんだな。しみついた癖は、そう簡単に治らないってことなんだろうけれど」
 悪戯っぽく囁いて、上目遣いで顔を見上げてくる少女に、リーレンは首を傾げてみせる。
「努力はしているんですけれど。中々」
「努力してくれているんなら、いいよ。いつか治るだろうし。それよりもリーレン。今回は何処に行ってきたんだ?」
 明るい声で尋ねて、アティーファは濡れている木の幹に背を預け土産話しに耳を傾ける。
 ファナス争乱の終了後、リーレンは頻繁に皇都から連れ出されるようになった。連れ出すのはミレナ公王ロキシィで、「次期皇王の側近に、ガキはいらん」というのが彼の主張だ。
 丁度アティーファが兄と慕うアデル・ティオスの両公子が帰国した後だったので、リーレンが側から離れることに少女は大反対していた。
「だがな」
 諭すように言いながら、愛娘の髪を撫でて、こっそりと膨れているアティーファを説得したのは父王フォイスだ。
「皇都に居続けると、リーレンは無意識に遠慮して我を通せない弱さを手放すことが出来なくなるだろうよ。ならば、一度狭い場所であるここを出て、知らない世界に飛び出していくのは良いことだからな」
「でも、父上。皇都にいなくても、ロキシィおじ様と一緒にいたら、リーレンはやっぱり遠慮してしまうのではないのか?」
 だから外に出すこともないだろうと言外にねだる娘に、フォイスは更に笑う。
「久しぶりだな。アティーファに我が侭を言われるのは」
「……だって」
「ロキシィのペースに巻込まれていれば、奴が公族であることなどすぐに失念してしまうさ。私でさえ時々、あれがミレナ公王であることを忘れるからな」
「――。時々、公王はネレイルおば様なのじゃないかって、思うことは私もあるけれど」
 見つからない反対の理由を求める娘の背を、あやすようにポンポンと叩く。
「カチェイが去り、アトゥールも去った。そしてリーレンもしばし離れれば、アティーファは甘える相手が側にいない辛さを実感できるだろうよ。一度はそれを思い知って、いかに側にある者達が大切であるかを思い知るのも良い経験だ」
 どうだ?と尋ねる父王に、唇をとがらせたままアティーファは肯いた。
 リーレンはロキシィと共に旅に出て、アティーファは皇都で己の責務を果たす。
 戦いの中で、自分がどれだけ多くの人に支えられていたのかを実感した。
 戦いが終わった後、側にいた者達が去って、日常においてもかなり自分が守られていたのだと、再実感する。
 無論、守られていたのが悪いわけではない。
 頼るべきことと、自分でやらねばならないことの境界線を、自分なりに持っているのが大切なのだろうと、アティーファはこの一年で実感した。
「リーレン。今日は、カチェイとアトゥールもくるんだ」
 凍える風が吹いて、アティーファは肩にかけられた幼馴染の外套の前を合わせる。
「私は、まさか公子方があの戦いの後、公国に戻られるとは思っていませんでした」
「うん。私も正直言って吃驚したんだ」
 甚大な被害を被った皇都。
 復旧には人手は多いほうが良い。公太子であるカチェイとアトゥールは、戦闘面だけでなく内政面においてもかなりの才能を持っている。彼等が指揮をとれば、復興はかなりのペースで進んだだろう。
 にもかかわらず、二人は急ぎ騎士団をまとめて国に帰っていった。
「今日、聞いてみようと思ったんだ。何故、二人は国元に帰ったのか」
 カチェイとアトゥールは、国元に帰りたくないと思う”何らかの要因”を持っていることにアティーファは気付いていた。その二人が、何故か即断で帰国を決意した。
「アティーファ、聞くとおっしゃりながらも、なんだか既に答えはご存知のような顔をしていますね」
「……そう思うか?」
「なんとなく。なんとなくですけれど」
「うん」
 こっくりと肯くと、背を預けた木の幹から離れて歩き出す。
 そろそろエイデガル皇城内の人々が活動を開始する時刻だった。
 今日が忙しくも華やかな一日になるとアティーファは知っている。用意が整うまでは、大人しく部屋にいる必要があるだろう。
 リーレンはアティーファに誘われるのを待たずに、当たり前のように隣を歩んだ。
「今、皇都の機能は低下してしまっている。レキス公国は公都から離れた場所に住んでいて悲劇を免れた人々だけでは国の機能を果たせなくなって来ている。当然移民が開始されるが、誰を受け入れ、誰を排除するのかで手間取り、元の姿を取り戻すのはまだまだ先だ。――こんな状態がいつまでも続けば、いつか他国はエイデガルの切り崩しを図ってくるかもしれない」
 リーレンが手を伸ばし、開けた扉の中にするりと体を進めてから、アティーファは言葉を切って息をついた。
「アトゥールとカチェイが、私の兄のような存在でいることは他国の人間も良く知っている。彼等がかなり高い才能を持つことも、あの戦いで実証され、喧伝された。国境を守るのは五公国。レキス公国の守りが低下したとはいえ、アデル、ティオス、ミレナ、ガルテの四公国の守りが高くなればエイデガルの守りはかなり堅いといえる。……エイデガル皇都が崩れていても、四公国がしっかりとしていれば」
 一端、アティーファが言葉を切った。
 珍しく言葉を迷っている様子があったので、リーレンは何を言おうとしていたのかに気付く。アティーファの肩に手を置いた。
「魔力者による特殊な攻撃でなく、通常の武力行使で四公国の守りは崩れることはない。ですか?」
「……うん」
「大丈夫ですよ、アティーファ。今の皇都は、以前よりも遥かに高い抗魔力によって守られています。攻撃的な力を、かなり吸収してしまっているみたいです。ですから、かなり長い間魔力者の攻撃は通用しないと思います」
「リーレンのお墨付きとは、なんだか心強いよ」
 苦く笑って、アティーファは軽やかに階段に足を乗せた。
「カチェイとアトゥールは、エイデガルを……いや、私を守る為に公国に帰ったのだと思う。本当はぎりぎりまで。現公王が退位するまでは、帰りたくないと思っていただろうに。私の為に、帰ってくれたんだ」
 想像というよりも、それは確信だった。
 彼等が公都に戻る日、二人の言葉はひどく少なかった。ただ、慈しむように妹のような少女の髪を撫でて、体を大事にするようにと注意して、立ち去っていった。
 後ろ姿が寂しそうだった。そう思ったのは、多分間違いではないとアティーファは思っている。
「……。なあ。リーレンの部屋はそのままにしてあるから、一度着替えてきた方がいいんじゃないか?」
 感慨を振り切って、明るく少女は言った。
「そうですね。そうします。この格好では、アティーファの誕生会に出席させてもらえないような気がしますから」
「誰が拒絶しても、私が許すよ。でも、落着かないだろう?」
「じゃあ、言葉に甘えます。……アティーファ」
 弾むような足取りで階段を上っていく少女を呼び止める。なんだ、と足を止めたアティーファに、リーレンは旅の間ずっと口にしたかった言葉を唇に乗せる。
「ただいま」
 言葉を受けて、一瞬少女は沈黙した。
 それから、昇った階段をもう一度降りてくる。
「おかえり」
 答えて、アティーファは笑った。
 その笑顔は、リーレンが覚えていた記憶の中の微笑みよりも、数倍も綺麗だった。

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竹原湊 湖底廃園
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