暁がきらめく場所
出会い 第三話

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「お姫様の登場だな。アティーファ、転ぶなよ」
 なんとか問題用紙を取り戻そうと機会を伺うリーレンが、喜色満面で振り向くのを確認しながら、カチェイが言う。
「一体いつ試験終っていたんだ? 終ったらすぐに戻ってくるって、約束していたのに」
 エイデガル皇立の学院において、高成績を修めねば馬鹿にされると、必死に頑張っているリーレンにアティーファは配慮していた。だから、試験期間中は遊びに誘うのを我慢していたのに、先に公子達と楽しそうにしていたので膨れたらしい。
「アティーファ、別に私たちはリーレンと遊んでいたわけじゃなかったんだけれどね」  一応は助け船を出す親友を見やって、カチェイは笑い出した。
「ま、からかって遊んでたってのは事実だけどな。リーレンにしてみりゃ、遊ばれて困るって所だろう」
「カチェイもアトゥールも、リーレンをモテアソブなんてダメだ!」
 びしっと指を付きつけて、いきなり幼い頬を紅潮させてアティーファが言い切る。
「……そ、その言い方はちょっと強烈だぞ、アティーファ」
 本当に絶句したカチェイの前で、アトゥールも目を見張っている。そして二人の公子はお互いがお互いに動揺していることに気付き、ごまかすように笑いあった。
「以後、奇妙な言葉はアティーファの耳に入れないようにしような」
「そうだね。読ませる本の内容も気を付けておくよ」
 さり気なく、兄馬鹿な二人は皇女の教育方法を再確認している。
 アティーファは兄達の動揺など捨てて、リーレンに飛びついた。
「リーレン、遊ぼう!」
 わくわくと目が輝いている。
 彼女がリーレンに対する態度は家族に対するものだ。けれどアティーファに片思いしているリーレンにしてみれば、嬉しさと恥ずかしさに真っ赤になっている。
 微笑ましい少年少女を見やっていたカチェイが、ふと眉をしかめた。
「なんだ、剣激の音?」
 いぶかしげな親友の声に顔を上げて、アトゥールも目を細める。
「確かに、聞こえてくるようだけど」
「近衛兵団の御前試合とか、あったか? 今日」
「いいや、ないはずだよ」
 ならばなぜエイデガル皇城の、しかも皇王の執務室近くで剣戟の音が響くのか?
 自然眼差しを鋭くする二人の公子に、リーレンはある事を思い出して声を上げた。
「あ!! そういえば皇女、フォイス陛下がダルチェ公女とにこにこ笑っている方を連れて歩いて行かれました」
「父上が? ダルチェと、にこにこ笑ってる人間と一緒に歩いて?」
 リーレンの腕を取ったまま、アティーファは翠色の瞳をくるりと動かした。
 今日父が皇城に呼んだのはダルチェだけだのはずだ。父の側近の中で、常ににこにこ笑っている人間をアティーファは見たことがない。
 穏やかな表情を常にしている人間はいる。アトゥールがそうだ。けれど、始終笑っている人間というのは、少し珍しいのではないだろうか?
「あれ? あれれ? 誰か来てたのかな」
 分からないのが悔しいのか、段々アティーファは唇を尖らせ始める。彼女の機嫌を損ねたいわけではなかったリーレンは、助けを求めて年上の二人を見上げた。
 カチェイとアトゥールは、何やら嫌そうな表情をしていた。
「まさか。にこにこ笑っている奴っていうのは」
 エイデガル皇王フォイスが、他人を巻き込んでまで意味ない行動を取るとは思えない。
 確かに市民から人材を引き抜いてくる事が多いので、知らない人間の姿が皇城内にあるのは珍しくない。けれど皇王の目の前で笑っていられる人間は、限られているはずだ。
「ちょっと待て。私は嫌だからな、カチェイ。頭痛がしてきた」
 額に指を添えるようにして、アトゥールが唐突に言い出した。カチェイが視線をゆるやかに向ける。
「そういえばあいつが苦手だったっけか」
「……あれが得意な人間なんて、この世にいるのか?」
 珍しく不機嫌な声を上げるアトゥールと、同じように不機嫌そうなカチェイの二人に、アティーファがリーレンの腕を掴んだまま二人に近寄ってきた。
「カチェイ、そのにこにこしてる人間と、アトゥールは何かあったのか?」
「……昔ちょっとな。嫌なことが確かに」
 説明して良いものかどうか悩んだのか、カチェイの歯切れが悪い。これは本人の承諾を得ねばならないのだろうと、アティーファはねだるようにアトゥールを見上げた。
「ねぇ、なにがあったの?」
「どうしても知りたいのかな。アティーファは」
「うん! 知りたい! アトゥールのことなら!! な、リーレンも知りたいだろう?」
「え、ええ。まあ」
 ……確かに知りたい。
 どうみても今のアトゥールは狼狽している。こんな姿、正直いえばリーレンは生まれて初めて見た。普段の彼はいつだって、穏やかな態度を崩さずに全てを対処しているのに。
 純真な二人の眼差しに、沈黙を決め込むのは不可能だとアトゥールが溜息をつく。けれど自分自身の口から説明するのは嫌なのか、長い髪を押さえながらカチェイを見やって黙り込んだ。
 仕方ねぇなというように、カチェイが肩を竦める。
「……にこにこ笑ってる奴ってのは、ガルテの第二公子グラディールのことだろうけどな。このグラディールってのは、それは優しい性格の持ち主なんだよ。で、誰かが無理をしているのも、辛い目にあっているのも、誰かが怪我をしているのも嫌で、辛さを与えている要因を解決しようと行動を起こしちまう男でもある」
 語りながら思い出す。四年も前の光景を。
 あの頃は、よくアトゥールは原因不明だが、激痛を伴う発作を頻繁に起していた。一気に血の気が失せて真っ青になり、唇を噛み締めなければ声を押さえることも出来ない発作の凄まじさに、カチェイはひどく心配していた。けれど、医師にかかっても治療方法はないのだと苦しそう本人に断言されて、連れて行くのを止めたことが何度もある。 
 他人に弱みを見せたくないのだ。その気持ちは痛いほどよく分かるから、カチェイはアトゥールが発作を起すたびに、さり気なく人目のない場所に移動できるようにしていた。
「で、なあ。まずいことに、グラディールの奴が気付いちまったんだよ」
 親友同志とはいえ、年がら年中一緒にいるわけではない。その時はアトゥール一人で佇んでいて、突然やってきた激痛に耐えながら、必死に外見を繕っていたのだ。けれどグラディールは気付いてしまった。
 大丈夫かと大声をあげ、目立つ行動で走りより、痛みを耐えるアトゥールを抱えようとした。当然迷惑だと拒絶したアトゥールに、病人を心配するのは当然の権利だとグラディールは怒り出したという。
「……本当は思い出すのも嫌なんだけどね」
 アトゥールが憮然とこぼした。
 カチェイは息をついて、二人の子供はきょとんとする。
「とにかく、父上がそのダルチェとグラディールを呼び出したのには意味があるだろうから、いってみよう!」
 アティーファが一同を促す。
 このまま根掘り葉掘り聞き出して、場をより暗くすることよりも、受け流した方がよいと咄嗟に判断したに違いなかった。



 ――息が乱れ始めている。
 正直驚いていた。
 フォイスにガルテ公国第二公子と剣の手合わせをしろと言われたことも、剣など握ったこともないという男を瞬時に倒すことが出来な現状にも。
 両手に軽く握った剣を、力が足りない分を速度で補ってダルチェは振るう。神速とまで呼ばれるほど早く剣を扱うアトゥールには遠く及ばぬが、その速度はかなり早い。軽々と避けれるものではないはずだ。
 それをグラディールは避ける。
 最初は避けるだけだったのだ。けれど、グラディールは次第にダルチェの太刀筋を見、剣の扱い方を覚え、習得し始めている。長く手合わせをすればするほど、相手は強くなっていくのだ。ダルチェの体力は著しく低下していくばかりだというのに。
 信じられないと思いながら、今、ダルチェは楽しかった。
 彼女は同じレベルの相手と戦ったことがない。大抵相手の方が強すぎるか、弱すぎるかのどちらかだった。それがひどく嫌だった。同等の実力を持つ者同志で、全力をぶつけてみたいというのが本音だ。
 にこにこと笑っていたグラディールの顔つきにも変化がある。真剣な眼差しは、彼の中に覇気を証明するようだった。それがまた、背筋を走るような戦慄を与えて来て、どうしようもなくダルチェを昂揚させる。
 想像以上の好勝負に、フォイスは満足して目を細めていた。
 その背を見付けて、走って来たアティーファが声を上げる。
「ちちうえー!」
 側近も宰相も側近くにいない。これならば、飛びついていいという事だ。
 昼日中から父親に甘える機会などそうないので、アティーファの声はひどく楽しげだった。娘の声にすぐに気付いて、父親もくるりと振り向き相好を崩す。
「今日も元気だな、アティーファ」
「うん! 朝と同じく、元気のままだよ!」
 応えながら、両手を広げた父親の腕の中に飛び込む。抱き着いた感触を確認して笑い出す様子は本当に無邪気で幸せそうで、見ているリーレンは幸せな気持ちになっていた。
 黒髪黒眼の少年の頭を、何故かカチェイが軽く撫でる。
「――え? カチェイ公子?」
「普通はな。あれ見たら、羨ましいとか、妬ましいとか、少しは感じるもんなんだけどな」
「え? 僕が何を妬むんですか?」
「あの光景」
「??? 皇女が嬉しそうで、僕は嬉しいですけれど?」
「それが本心なんだろうけどな。ちったあ、羨ましいとか思う気持ちもあったほうがいいと思うぜ、リーレン。現状に満足し過ぎてると、闘争本能が消えて、背伸びをしなくなる」
「背伸び、したほうがいいですか? 毎日牛乳飲んでいるんですけれど」
「あのなぁ」
 そういう意味じゃねぇよと言葉を続けたくなったが、結局はやめた。
 かつて助け出してきた魔力者の子供は、奇怪なほどに擦れていない。妬んだり、羨ましがったり、負けたくないと考えたりすることも殆どなかった。
 素直なのは良いことかもしれないが、素直過ぎるというのもよくない気がしている。横を見れば、同じ心境であったらしいアトゥールが、ゆるやかに首を振って溜息を落としていた。
「あれじゃあ、いつまでたっても子供のままだろうね。精神が発達しない」
「ガキの頃に受けた心の傷ってのは、どういう方向に影響を与えるか分からんな」
 最低限の望みしか持たず、期待せず、得られるだけのもので満足できるようにすること。それがリーレンが幼少時に受けた心の傷が彼に与えた、影響であるのかもしれなかった。
 カチェイとアトゥールの二人が、異常なまでに他人に弱みを見せることを嫌うようになったかのように。
「あまり考えていたいことじゃないね。それより、ダルチェとグラディールの手合わせ。あれはちょっと、まずい事になるかもしれない」
 無理矢理話題を変えて、アトゥールが剣激の音を高く響かる二人を見やった。フォイスに抱き上げられて御満悦のアティーファが振り向く。
「なんで、まずいことになるかもしれないんだ?」
 ダルチェとグラディールの好勝負はレベルが高く、子供の目でも見ていると楽しい。だからなにか良くない状況になるとはアティーファには思えなかった。
 リーレンも皇王親子を見詰めていた視線を剥がして、二人を見上げる。
「ダルチェは、今までずっと同等の相手と戦うことを望んでいたのに、果たせないんでいたんだ」
「うん。ダルチェは強い相手と戦うっていうことよりも、同レベルの相手と凌ぎを削るのが好きだって言っていた気がする」
 難しい言葉を使いながらアティーファが首を傾げる。リーレンがおずおずと、声を上げた。
「ずっと得られなかった状態が現実のものとなって、それで……加減が分からなくなるってことですか?」
「そういうことだね、リーレン。じゃあ、具体的に加減が分からなくなるとどうなる?」
「えっと、それは……」
 暴走する精神状態など、リーレンには理解出来ぬことであるかもしれないと考えながら投げた質問に、案の定困って少年は黙り込む。
 カチェイがすかさず助け舟を出した。
「んじゃあ、アティーファには分かるか? 戦うのが楽しくて仕方なくなっているダルチェが、限度を超えたらどうなる?」
「模擬試合ってことを、忘れるとか」
「ま、そうだな。んじゃあそれを忘れたらどうなる?」
「ダルチェが……」
 深刻な結末が有り得ることを理解したらしく、眉をひそめた幼い皇女の耳に、突如高い金属音が響いた。目を見開いた先で、ダルチェが殺気を含めた剣筋で、グラディールが持つ二つの短刀のうちの一本を弾いたのだ。
 殺しあいは許されていない。
 たとえ公王となる者であっても、意味なく他人を害したのであれば罰せられる。 
 それが法治国家の形態を取るエイデガルなのだ。
「まずいっ! ダルチェが、父上!!」 
 息を飲んだリーレンの気配も感じながら、アティーファは焦って自分を抱き上げている父親を呼んだ。ダルチェが体力差を付けられる前に、ガルテ第二公子を殺そうと行動に移しているのが幼くとも分かる。
 苛烈すぎる心を持つがゆえに、ある程度まで精神が昂揚すると歯止めが利かなくなる。それがダルチェの最大の欠点だ。
「わたしでは間に合わんよ。大丈夫だ、アティーファ」
「だ、大丈夫ってっ!!」
 ダルチェの気質をフォイスは知っている。知っていてこの戦いをけしかけたのだ。もしグラディールに何かあれば、多大な責任の一端は父親にある。
「なにもかも、自分が動けば最善というものでもない。大丈夫だ」
 曰くありげに低く言ったフォイスの真横を、唐突に影が駆け抜けた。アティーファが眼を見張り、リーレンが息を飲んだ。
「アトゥール!?」
「カチェイ公子!」
 二人の子供の声が同時に青空に響く。フォイスだけが余裕を崩さない。
 アティーファとリーレンにしてみれば、二人は優しい兄だ。剣においても学問においても最適な師であるのだから、色々と師事してきた。けれど二人の優しい部分しか見ていなかったので、こういう事態を前に、真剣を手に行動に出るとは思ってもいなかった。
 ダルチェはグラディールの短刀を弾いた瞬間に、勢いよく身体を沈めて踏み込んでいる。突然の素早い行動の切り替えに付いて行けず、グラディールが静止してした。
 あのままでは完全に切られる。
 それを正確に認識して、カチェイがアトゥールを見やった。心得たように、アトゥールは走りながら小柄を抜き取り投げる。
 さらに踏み込もうとした、ダルチェの靴と大地を縫い留める為だ。
「――っ!」
 飛び込んできた小柄に、レキス公女の目が大きく開く。声には出さなかったが、はっきりと「余計なことを」と唇が動いた。怒りに染まった瞳になって、彼女は大地に縫いとめられた靴を脱ぎ捨てて、さらに双刀を振るおうとする。
 静かに、そして素早くアトゥールが細剣の鞘を払った。カチェイは大剣に手を添えた状態で、グラディールの前に立つ。
「……邪魔っ!!」
 ダルチェは吼えた。アトゥールが見下す。
「邪魔だと思うなら、剣を払えばいい。……可能ならね」
 淡々と言い切りながらも、ティオス公子は淡い青緑の双眸を冷たく細めた。公族としてあるまじき行動なのだ。感情を制御できぬダルチェの行動は。
 華奢な手が握る細剣が、非情なほど正確にダルチェの喉笛を押さえている。そして剣を構えていない方の手が、何時の間にか飛来して来たらしい短刀を取っていた。
「……その短刀!!」
 ――グラディールが手にしていた短刀だ。
「ダルチェの負けだね。わたしが入っていなければ、ダルチェの右肩は短刀に貫かれていた。この攻撃には気付いてなかったみたいだからね」
 アトゥールの断言に、ダルチェは唇を噛む。
 確かに気付いていなかった。アトゥールが抜刀し、そして喉元に剣を突き付けてきたことも、反撃に出た自分に向かって、グラディールが短刀を投げたことも。
 悔しさに双刀を握り締める。せめて一太刀と思ってしまう。
「ダルチェ。ちと、往生際が悪すぎるな?」
 グラディールを背後にしたカチェイが、ダルチェを牽制した。
「この漫才コンビ!! 邪魔しないで!!」
「このままグラディールを殺したら、お前は罪人だぜ? 老齢の両親に哀しませてどうするよ。なぁ、アトゥール」
「そうだね。それに、グラディールを殺してしまったら、また対等な相手ってものがなくなってしまうんじゃないかな。折角いつでも手合わせできる相手が出来そうだっていうのにね」
「――対等の相手?」
 ダルチェの心の琴線に、その言葉が触れた。
 怒りだけを湛えていた瞳を静めて、ダルチェは視線を動かす。
 その仕種に、もうグラディールに襲い掛かったりはしないと判断してアトゥールは剣を引いた。カチェイがいかにも面倒そうな仕種で振り向く。
「んで、仕方ないから聞いとくが。大丈夫なのか、グラディール」
 随分とおざなりな問いかけをするカチェイに、グラディールは何故か満面の笑顔を向けた。これが命を落としかけた人間の顔かよ、と脱力させられる。
 カチェイとアトゥールを押しのけて、グラディールはいきなりダルチェの手を取った。
「凄く楽しかったね。ありがとう」
 満面の笑顔でこんなことを言う。
 グラディールが手を取って楽しかったですねと同意を求める女は、模擬試合で本気になり、殺そうとしてきた相手なのだ。怒りをぶつけこそすれ、にこやかに話す相手ではないと普通は思う。
 頭が痛くなって、アトゥールとカチェイは仲良く溜息をついた。
「グラディールには関わり合いたくないな」
「反論しない。完全に同感する。絶対に関わり合いになりたくない。……助けなければよかった」
「俺もだ」
 珍しく疲れ切っているティオス・アデルの公子の目の前で、グラディールは熱くダルチェに語る。
「剣っていうのは、散歩するよりも楽しいな。そうだ、またよかったら一緒に手合わせをやろう。きっとその方が楽しいし。楽しいと、精神状態がよくなるのを知っているかな? 怒っているよりも、やはり人間は楽しいのが一番だからね」
「え、ええ。剣は―― 楽しいと思うけれど」
「だよね。わたしはてっきり、剣っていうのは楽しくないと思っていたんだ。でも実際はすごく楽しかったし。やっぱり食わず嫌いっていうのはいけないことだったんだな。まあ、剣は食べれないけれど。そうだ、他にも色々と話をしたいから、一緒にお茶でも飲まないかな? 凄く良いハーブティーがあるんだ。私が育てたんだけれど、お土産に持ってきたらフォイス陛下はハーブは苦手だというし。残念だなぁって丁度思っていたんだ」
「……ハーブティーは嫌いじゃあないわ」
「そうか! それはよかった。じゃあ、行こう!」
 極めつけに晴れやかに笑って、グラディールはダルチェの手を取って歩き出してしまう。ダルチェは多分圧倒されているのだろう。本当は礼儀正しい公女なのだが、フォイスに挨拶するのを失念して立ち去っていく。
「――まぁ、成功ってところかな」
「……父上、なにが?」
「アティーファ、お前が大きくなったら分かることだ。とはいえ誰かの嫁にやりたくはないものだな。そこの立ち尽くしている二人。なんなら、お前達にも見合い話を持って来てやろうか。意外に私は上手らしいぞ」
「……陛下、あれは見合いだったのですか」
「と、とんでもないカップルが出来ちまう」
 揃って心底嫌そうな顔を主君たる皇王に向ける。まあ、レキス公王が空位になるよりはよかろうと、あっけらかんとフォイスは笑った。
「……それは、そうなんですけれど」
「でも、なぁ。あいつらだぞ。レキスは行きたくない場所第一位になりそうだ」
「我が侭だな、お前達。ところで、そうだ。見合い話だ。お前らもいい加減、相手くらい連れてくるか見付けてくれと言ってこい」
 厄介な用件が終って、フォイスは機嫌が良かった。二人は顔を見合わせて、それから首を振る。
「私は結構です」
「俺も同じくだ」
「まったく。仲が良いのは結構だがな。そこまで二人で常に共にいると、奇妙な噂が女官あたりから流れるぞ。まあ、お前達が気にせんのならいいとしよう。所詮私には関係がない。ところでアティーファ、折角の休みだ。ここで茶でも飲むか」
 フォイスの目的がなんだったのか分からないアティーファだったが、父親とお茶を飲むのが嫌なわけがない。笑顔になって、少女は明るく肯いた。



 皇王親子にひっぱられて一緒にお茶を飲むリーレンを見やりながら、取り残された二人は悩んでいた。
「……カチェイ、変な噂ってなんだろうな?」
「―――いや、分からん」
「なんで女官たちから、なんだろう?」
「さあなぁ…」
 当然、答えは見つからなかった。

竹原湊 湖底廃園
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