暁がきらめく場所
出会い
前 頁 目次 後 頁

 長く編んだ二つの髪が、突然の強い風に背後にながれた。
 娘は軽く目を細め、風を受け流す。しばし待ってから、萌黄色の長い丈の裳裾を揺らして再び歩き出した。長い髪と清楚な娘らしさを強調する服装をしているのだが、どこか少年のような凛々しさあるのは、無駄のない所作の為であるらしかった。
「なにか嫌な予感がするわ」
 呟いて娘は足を止める。
 最高齢の公王が治めるレキスの一粒種、ダルチェ・エル・レキスであった。
 今すぐに踵を返して船に戻ろうか、と考えて溜息をつく。
「許されるわけがないわね」
 彼女がここに降り立ったのは、レキス公国を含む五公国を率いるエイデガルの主、フォイス・アーティ・エイデガル皇王に呼び出された為だったのだ。彼女に命令を拒否する権利はない。
「なんで行きたくないのかしら? フォイス皇王陛下にお会いするのは嬉しいはずなのに」
 不思議に思いつつ歩いていると、足元に落ちた歪な形の影に気付いた。顔を上げると同時に、あからさまに怪しい声が降ってくる。
「よお、ダルチェ。なんか不機嫌そうだな」
 嫌味っぽく溜息をついて、ダルチェは高圧的に腕を組んだ。
「ねぇ、知っている? 馬鹿とニワトリは高いところが好きなのよ」
「ニワトリねぇ。風鳥と金狼に知り合いはいるけどな、ニワトリは友達にはなれないな。交友を暖める前に食っちまうだろうし」
 含み笑いをしつつの返答に、ダルチェはやれやれと首を振る。
 誰の声かは分かっていた。エイデガル広しといえど、五公国の後継者である彼女にこんな口を利ける人間は少ないし、皇城の木に登る人間はさらに限られている。
「これが、剣聖とまでいわれる男だなんてね。末法だわ」
「珍しい。ダルチェが俺を誉めてるぞ」
「誉めてないでしょ! 剣が強いなんて単なる事実よ。貴方の人格が問われないから、剣聖なんて言って貰えているだけっ」
 大声を張り上げてしまった所で、ようやくダルチェは手玉に取られたことに気づいた。臍を噛み、頭上で笑っているだろうアデル公国公子カチェイ・ピリア・アデルの顔を心の中で殴り飛ばす。
「あー、ダルチェー!」
 怒りに震えていたダルチェの耳に、軽やかな子供の声が届いた。
 驚きに初めてダルチェは顔を上げる。意地の悪い笑みを浮かべているカチェイの存在は想像通りだった。だが、振ってきた声の主がいる気配はない。
「カチェイ!! アティーファ皇女殿下をどににやった!?」
「アトゥールの膝の上」
「こっち、こっちだよ、ダルチェっ」
 楽しくて仕方なさそうにはしゃぐ無邪気な声に、ダルチェは頭痛がした。カチェイとその相棒が樹に上のは勝手にすればいい。落ちて腕を折ろうが足を折ろうが、笑い飛ばしてやればいいのだから。
 けれどこの声の主は違う。エイデガル皇家のたった一人の跡継ぎである、皇女殿下のものなのだから!
 怒りに手を震わせながら、ダルチェは位置を変えた。カチェイが後姿になったところで、長い髪の持ち主が見えて睨みつける。そしてぎょっとした。 「なんで呑気に寝てるのよ!!」
 大切な小さな姫君を守るべき男は、彼女を支えたりはせずに、なんと暢気に眠っていた。アティーファはダルチェの怒りがどこにあるのかが分からないらしく、ただにこにこと笑っている。
「ダルチェ、今日は父上に呼ばれてしまったのか?」
 本来、皇王からの命令を受けるのは公王の役割だ。けれどダルチェの両親は高齢で、国許から動くことが不可能に近い。近頃政務を担当するのは、後継者たるダルチェが行っていた。皇王フォイスに呼ばれるのは自然なことだ。
「ええ、今日はフォイス陛下に呼ばれて参上いたしました。お健やかなご様子、わたしくは嬉しく思います」
「ダルチェは真面目なんだな。ええっと、レキス公女ダルチェも元気そうでなによりだと思う。うぅん、今は公じゃないんだ。そこまで堅苦しくなってくれなくていいよ」
「ありがとうございます、皇女殿下」
 にこりと微笑むと、ダルチェはアティーファの前で裳裾を上げて一礼した。
「……と、いうわけで。皇女にご許可を頂いたことだから。カチェイ、アトゥール!! 貴方達が木に登るのは馬鹿だから仕方ないわ。でも、それに皇女殿下を巻き込むのはどういう了見!? 返答によっては、ただじゃおかないから!」
 唐突に態度を豹変して叫ぶ。
 「おお」と言葉を発した後、大袈裟にカチェイは身体を仰け反らせた。
「ただじゃおかないのか? 凄いなぁ。でもな、ダルチェじゃ俺の剣の相手にはならないだろう」
 のんびりと失礼なことを言ってのけ、カチェイは頭の上で手を組んで木の幹に寄りかかった。
 確かにダルチェは剣でカチェイに勝てない。わざと周知の事実を言うカチェイの非礼に腹を立て、レキス公女は屈辱に頬を染める。
 アティーファが慌てて声を張り上げた。
「カチェイっ! ダルチェを苛めるのはダメっ! 年下は苛めちゃいけないんだ」
「アティーファ、年下だからって全部年上が我慢しなくちゃいけない世の中は世知辛いってもんだぞ?」
「でも、今のはダルチェを苛めてた。だって、カチェイに剣で叶うのって、アトゥールしかいないの分かってるのに、わざと言ってたよ」
「そのアトゥールだって、俺よりは年下なんだよな。じゃあ、俺は今後アトゥールを子供扱いすることにしよう」
「……ふぅん。なら、お兄様と呼んで慕ってあげようか」
 突然会話に入ってくる声。
 ひどく嬉しそうな笑顔で、アティーファは顔を上げた。うたた寝をしていた青年が、気だるげな双眸で少女を見ている。
 アトゥールには、魔力保持者の子供でリーレンという名前の教え子がいる。今日試験があるのに自信がないと言ってなくので、仕方なしに徹夜勉強に付き合って朝を迎えたのだ。
 だから今日は本当に眠そうにしていた。 「アトゥール、おはよう!」
 嬉しそうに笑って、アティーファは彼の長い髪を片手で掴んだ。
「おはよう、アティーファ」
 青緑の瞳を細めて、アトゥールは静かに笑う。
「なんかさぁ、お前。それだと、麗しい母娘の光景のようだぞ」
 お兄様と呼んでくるアトゥールを想像して硬直していたカチェイが立ち直り、揶揄を入れてくる。怠惰な仕草で親友を睨み、アトゥールは剣呑に微笑んだ。
「うるさいよ。カチェイ。だいたい、私の歳でアティーファの年齢の子供がいるわけがない」
「真面目に答えるなよ低血圧。でもまあ確かに、十才で子供を産むのは無理だよなぁ」
「……どうして私が産むってところから離れないんだ」
「からかってるからだろう。そりゃ」
「低俗すぎる」
 調子が戻ってきたらしく、冷笑を返しながらもアティーファの髪を撫でる。犬か猫のように気持ちよさそうに眼を細めて、少女は兄代わりに懐いた。
「……なんなの、もうっ」
 勝手に話題をふって来たくせに、彼らの世界を作り上げる器用な面々を前にして、ダルチェの怒りは徐々に萎えてくる。
 ダルチェが落ち着いたのを見計らったように、アトゥールが下を見やって口を開いた。
「ダルチェ、もし座りこむ黒い影でも見つけたら、出来は気にしなくていいから問題を持ってこいって言っておいてくれるかな」
「――座り込んでいる黒い影? フォイス陛下がアトゥール達直々に助け出してこいって命じたあの魔力者の子供のこと?」
「うん! 私の友達っ!」
 嬉しそうに会話に割り込んで、アティーファが威張る。友達がいるのが嬉しいのだ。
「どうして座り込んでいると思うの?」
「苦手すぎる分野の勉強なんて、一夜で身につくわけがないからね。とりあえず、試験だけ乗り越えれる最低ラインを覚えさせたんだよね。でもそれじゃあ、満点は取れないからね。本人的には出来が悪かったと落ち込んでいるんだと思うんだよね。近づきたいのに、さ」
「そこまで分かっているなら、迎えに行ってあげればいいでしょう?」
「子供の自主性は尊重するべきだって思うよ」
「ようするに面倒なだけじゃないの」
 ダルチェの言葉に、異様に綺麗に微笑んでアトゥールは問いかけを黙殺した。絶対に図星をついたと判断して、レキス公女は溜息を吐く。代わりにあがった声はカチェイのものだった。
「お前、性格の悪さがばれまくりだな」
「カチェイの粗雑さよりは喧伝されていないと思うけどね」
「相変わらず減らず口が多い」
「減らず口が多いのを親友にしたかったとはね。念願かなってよかったじゃないか」
 切り替えして、不意にアトゥールは押し黙る。寝不足ゆえに本調子ではない親友の応対に、面白くない表情をカチェイが浮かべた。
「二人は本当に仲がいいんだな! わたしとリーレンも同じくらい仲良いかな?」
 無邪気にアティーファが尋ねながら、アトゥールに抱きつく。
 皇女はあれを”仲が良い”と思うのかと心で涙を流してから、ダルチェは一歩足を引いた。カチェイが変わってやると言ってアティーファを抱き取ったのを、撤退のチャンスと見てとって、レキス公女は走り出した。
「……ダルチェって逃げるタイミングを計るのが上手だな」
 気付いた時には皇城内に滑り込んだダルチェの後ろ姿だけが見えて、カチェイは珍しく本気で尊敬した。



 滑り込んだ皇城内で、「ろくな人格の持ち主はいやしないわ」とダルチェはぼやいた。今絡んできた人間達だけではない。他にも変人が山ほどいる。
 例えばガルテ公国の嫡子。彼は生まれたときから婚約者だった妻と、一粒種の息子と三人で家族団欒をするのが、どんな場所でも最高の幸せだと公言している。ミレナ公国には一年に一度帰ってくれば上出来の、放浪癖を持つ公王がいるのだ。アデル公・ティオス公国の各公子は先程の通り。
「確かにわたしだって、普通の女の子だなんて主張は出来ないけど」
 それでも幾分かマシなはずと、ぶつぶつ文句を口の中で続ける。
「お父様とお母様は、なるべく公家の人間の中から相手を選びなさいっていうけど。あれよ、あれ。公家の人間なんてみんなあれ。でもお父さまとお母様がお元気なうちに、安心させてさし上げたいのにね」
 レキス公王夫妻は高齢すぎて、子供は若すぎる。
 それが世間の認識だった。
 ダルチェの父は愛妻家で、その為に子供がなかなか授からなくとも、側妾を入れることを拒んできた。公国の存続が使命である公王として、彼は失格であったかもしれない。
 それでも妻を愛しぬく父の態度がダルチェは大好きなのだ。大好きな父母を安心させてやりたい。
「いいわ。公王家の人間の性格を我慢するとする。でもわたしと同い年で、わたしより強い人間がいいっていうのは妥協できない」
 自分でも不思議なのだが、ダルチェは一生を添い遂げる相手は同年でなければ嫌だった。なのに現在独身で彼女より強い公王家の人間は、多分本職は漫才師のカチェイとアトゥールだけだ。
 そして二人はダルチェより年上だ。
 伴侶を選びたくとも、選択肢がない。
 解決できない大きな悩みに頭を抱えて、長い廊下を歩んでいく。ふと、なんとなく右手を見やってダルチェは深く後悔した。
「――本当に座り込んでいるだなんて…」
 いじけ姿の見本じゃあるまいしと思いながら、ダルチェは視線を固定する。
 皇城は内部に巨大な中庭を保持している。その庭の端で、座り込んでいる黒い影があった。
「面倒ごとってキライなのよ、わたし」
 言いながらも、既に見てしまった事実は無視出来ない。仕方なくダルチェは中庭を進んで、膝を屈める少年に呼びかけた。
「……ねぇ、そこの黒髪くん」
「………」
「わたしと口などきけないほどに、貴方は傲慢なのかしら?」
「ご、傲慢なんかじゃありませんっ!」
「喋れるじゃない。君、リーレンでしょう?」
「そうです。なんでご存知なのですか?」
「この皇城じゃ有名よ。魔力者はいても、二人の公子に救われた例は他にないからね。って、泣きそうな顔しないでよ」
 いきなりふにゃあと表現したくなるほど、顔を歪めたリーレンにダルチェは焦った。なにせ彼女は自慢はできないが子供が苦手だ。
 百発百中、何故か最終的に泣かせるか拗ねさせるか逃亡させてしまう。多分、一種の特技だ。
 なんと取り繕おうと考えた隙に、丸まり込んで拗ねている子供は地面を睨んだまま、意外に通る声で語り始めた。
「知っています。お城の皆さんが、僕のことを怒っていらっしゃることぐらい。だって、確かに僕はカチェイ公子とアトゥール公子にわざわざ助けて頂いたし。なぜかフォイス皇王陛下に頭を撫でてもらって、アティーファ皇女殿下が手を握ってくれて。学院にも通わせてもらって、その上世界で一番可愛くって優しくって明るくって、えっと、えと……」
「なにを自慢だか、自慢じゃないんだか、分からない事を言い続けているのよ」
 げんなりとしながら、つい突っ込みを入れてしまう。リーレンは傷ついた顔で、強く首を振った。
「違います!! 自慢なんかじゃありません! 単なる事実を言っているだけで。でも、そうなんですね。自慢できそうなことを沢山して頂いているんです。一番皆さんの怒りを買っているのは、アティーファ皇女のお側に居ることが許されている事ですよね。でも、僕は……」
「妬まれようが、陰口叩かれようが、側にいるのはやめないって思ってるんです、っていうわけ?」
「そうです!! やめません! 絶対に!」
 今度は目を輝かせて声を張り上げる。
 なんだって子供はこんなにも心を切り替えるのが早いのだろう。ダルチェにはどうしても分からない。うるさいと思ってしまうのは心が冷たいからか?
「……あのねぇ、そこまで分かっているのなら。こんな所でいじけている場合じゃないでしょ?」
「そ、そうなんですけれど」
「アトゥールも気にせずにおいでって言ってたわよ。あと問題も持って来いって」
「……しかし」
 またもや悲しそうな顔になった。
 指先にまで苛々が溜まり始めていたダルチェは、思わず瞳に剣呑な色を湛えて声を荒げた。
「しかしも、でもも、うじうじも何もないの!! アトゥールが良いって言ってるんだからいいのよ! 分かったらとっとと行きなさい!」
 これは恐かったかもしれない。
 なにせ一軍をも動かす公女の一喝だ。
 体を震わせリーレンは目を丸くした。ダルチェはまた泣かせてしまったかと息を呑む。
 けれどリーレンは泣きはせずに、目を見開いたまま、礼儀正しく一礼して走り出していった。
「失礼いたしましたぁぁ!!」という声を残して。
 後ろ姿を見送って、ダルチェは深い深い溜息を吐く。
「私って……やっぱり、こう心の芯が冷たいのかしら…」
 同時に落胆した。

目次/


竹原湊 湖底廃園
Copyright Minato Takehara All Rights Reserved.