巧と爽子

40万企画のリク小説を書いた際に、描いて下さったイメージイラスト。
とっても可愛くて凄くお気に入りなのです。さりげなく爽子をリードしようとする巧の表情とかが可愛らしくって。
40万企画モノは全て消したのですが、これは許可を貰って頂物に掲載しなおしています。小説のほうは、続きのオチが実は追加してあります。

 斉藤爽子は少しばかり困っていた。
 ぐるりと周囲を見渡してみる。ビルの谷間から差し込んでくる太陽の日差しに目をやられて、慌てて目を細め手を持ち上げた。
「暑いなぁ」
 目の前の信号が青に変わる。
 すぐに歩き出そうとして、突然爽子は背を突き飛ばされた。何がおきたのか分からないままに、バランスが崩れる。意表をつかれすぎて、体勢を留めることが出来なかった。見事に前に転んでしまう。
「いたっ」
 片方のミュールが脱げた。
 手にかけていた、小さな鞄がアスファルトに打ち付けられる。
 雑踏は転んだ爽子を無視して、前に、前にと進んでいく。
 低まった視界をいっぱいに埋め尽くした、人の足。
 足、足、足。
 これはまるで、枝葉の落ちてしまったあとに佇む冬の木立のようだった。
 隙間に、鮮やかな色がある。
 脱げてしまった、先ほどまではいていた、爽子の靴だ。


 突然、恥ずかしくなった。
 周りが自分を笑っているのではないかと思った。
 転んで、地面にぶざまに手を付いて、呆然としている自分が恥ずかしいと。
 ――なんで?
 何故、突き飛ばされて転んだほうが、恥ずかしいと思わなくてはいけないのか?
 思考がぐるぐると回る。今やるべきことは、考えることではなく、とりあえず立ち上がるべきだというのに。おちた鞄を広い、投げ出された靴の所までいって、立ち上がるべきなのに。
 体が動かない。
 そういえば先ほどから、音も聞こえない気がする。
 色は、足ばかりが見える歩道に転がった、靴の色だけが――。
「あっ」
 爽子は声を上げた。
 たった一つだけの有彩色である靴が、空中に持ち上がったのだ。
 勝手に靴が持ち上がったっ!と考えて、考えた内容の馬鹿さ加減に気づき、ようやく爽子に冷静さが戻ってくる。
 慌てて立ち上がろうとして、先に声が耳朶を打った。
「爽子さんっ!?」
「――え?」
 聞きなれた声に、目を見張る。
 転がってしまった爽子の靴を手に持って、目を丸くしているのは。
 ――中島巧、だった。


「大丈夫、爽子さん?」
「大丈夫、大丈夫。それにしても巧くん、どうしてさっきから私に背を向けてるの?」
「だってさ。変な奴がきたら嫌じゃん。爽子さんわかってないかもしれないけど、その体勢って、結構あぶない……」
 語尾を濁して、巧が肩をすくめた。
 少年の小さな体が、爽子の前に立ちはだかって、周囲の視線を遮断している。
 横断歩道で合流した二人は、近くにあった公園に移動していた。爽子はアスファルトで足を擦りむいていて、絶対に傷口を洗わないとダメだと巧が言い張ったのだ。
 足を洗えば、自然にスカートの裾が持ち上がる。
 爽子に片思いをしている巧にしてみれば、そんな様子、変な奴らに見せてたまるかといったところだ。――恥ずかしくて直視できないので、背を向けている。
「でも、巧くん、どうしてこの辺りの地理に詳しいの?」
「俺ね、歩くの好きなんだよ。適当な駅で降りて、良く歩き回ってるから、案外このあたりには詳しいんだ」
「適当な駅で降りてって……一人で?」
 爽子は喋りながらも、手早く傷口についた汚れを落とし、水滴をハンカチでぬぐう。巧が拾ってくれたミュールに足を差し入れ「もう大丈夫」といった。
 大丈夫の声に巧が振り向く。
「勿論。だってさ、誰かと一緒だと、好きな道にいけないじゃん? 俺ね、路地とか見つけてその先に進んでいくのがすきなんだよ。ちょっとした探検みたいでさ」
「そういえば、久樹も探検と称して色々なところに行くのがすきだったわ」
「久樹さんのことはいいじゃん。ところでさ、爽子さん、何してたの?」
 まだふっくらとした頬を膨らませて、話題を無理やりに巧が変える。不思議そうに爽子は首を傾げてから「あのね」と小さな鞄から紙切れを取り出した。
「ここに行かないとダメなのよ。丹羽教授から、お使いを頼まれちゃってね」
「丹羽せんせぇ? なんで?」
「実はね。私と久樹、丹羽ゼミに所属してるのよ。春先にあんなことがあったから、私たちのこと、ちょっと疑ってるっぽくってね。探られて、他の教授たちが私たちのことに注目してしまうよりも、いっそ側に居たほうがいいかなって思ったのよ」
「ふーん。まぁ、爽子さんがそれでいいならいいけど。久樹さんに無理やりやらされてない?」
「久樹が私になにかを強要するなんてこと、ないわよ」
 くすくすと笑って、爽子は巧の肩に軽く手を置く。
 爽子の髪の香りが少年に届いて、巧はうっすらと赤くなり「とりあえずさぁ」と大きな声を出した。
「丹羽先生のお使いだったら、急いでたんじゃないの? なんでこんなところに?」
「こんなところ?」
 爽子が首を傾げる。どきまぎしながら、巧は困り顔をになった。
「そうだよ。だって、この地図の場所って、全然逆じゃん」
「え? 逆?」
「うん。……もしかして爽子さん……」
 巧の声が僅かに低くなる。爽子の目が怪しい方向に泳いだので、はぁ、と少年は意気を落とした。
「迷子?」
「そう、みたい」
 小学生に止めを刺されて、爽子はがっくりと肩を落とす。片思いの相手を悲しませるつもりなどまったくない巧は慌てて、意味もなく首を振って見せた。
「そ、そんな悲しがることないじゃんっ! いいよ、じゃあ、爽子さん一緒に行こうよっ」
「え?」
「だから、一緒に行こうって。爽子さん急いでるんだろ?」
「うん。そうなんだけど……。巧くん、案内してくれるの?」
「どうせ遊んでただけだしさ」
「でも、一人じゃないと、色々探検できないんでしょう?」
「いいってっ! 爽子さんの、その、んと……」
 突然に言葉をつまらせた巧に、爽子が「なに?」と尋ねる。巧ははりつけたような笑みを浮かべ「なんでもないっ!」と大声を上げると、爽子の手を取って歩き出した。
「こっちっ! こっちから行った方が近道だからっ!」
「ありがとう」
 素直に手を引かれたまま、爽子も歩き出す。
 途中、巧は爽子の手を握ったことに気づいて、遅まきながら我に返った。
 恥ずかしいやら、悪いような気がするやら、で慌てながらも。結局は幸せで、爽子が何も言わないので、そのまま手を繋いで進むことにした。
 途中、「仲良い姉弟ね」などといった声が聞こえてきたので、ビシッと睨みつけたりをしながら、目的地にはたどり着いた。
「巧くんっ」
 中に入っていく前に、爽子が明るい声をなげてくる。
「ありがとう。すっごく助かっちゃった。でね、あのね、お願いがあるの」
「なに?」
「ここで待っててくれる? 一緒に帰って欲しいのよ」
「い、いいよっ!」
「本当? 帰ったら、一緒に夕飯食べに行きましょうよ。今日のお礼に奢るから」
 嬉しそうに爽子は笑って、ビルの中に走っていく。


 帰りの道程も分からないから、一緒にかえってと言われただけなのは理解している。
 それでも巧には嬉しくて、待っている間、爽子の手を握っていた手を見つめていた。
 一応デートだ、などと一人考えて照れながら。


 □ ■ □ ■ □ ■ □ ■ 



 爽子は巧が思っていたよりも随分早くに外に出てきた。
 手持ち無沙汰なのと暑いのとで、ちょうどビルの影に入り込んで巧は立っていた。おかげで爽子には巧の姿が見えず、が不思議そうに周囲を見渡してから声を上げる。
「巧くん?」
 頼りなげな声は普段の爽子からは想像つかぬもので、声を聞きとめた巧は慌てて表に飛び出した。
「爽子さん、どうしたの?」
「え? あ、良かった」
「うん?」
 子供らしい細い首を傾げると、同年齢の子供のように爽子も同じ仕草をする。
「巧君が先にいっちゃってたらどうしようかと思ったの。持ってた地図は巧君に渡したままだったし。一人だったら駅見つけれるかなと思ったら不安になっちゃって」
「……爽子さん」
「なに? あ、あれ? 巧君もしかして怒ってる?」
 少しむくれた表情になった子供の顔を爽子は見つめる。巧は頷いた。
「だってさ、その心配って、俺がまるで約束を守らない人間みたいじゃんか。一緒に帰るって約束した相手をおいてったりしないよ」
「そうね。そうよね、巧君がそんなことするわけないわね。ごめん」
 素直に謝って、爽子は手を差し出す。
「帰ろっ」
「――うん。ねぇ、爽子さん。爽子さんさ、迷子で怖い目にあったことあるの?」
「えっ」
 目に見えて爽子が固まる。当たったらしいと検討をつけて、巧はすぐに問いを続けた。
「なんか凄く切羽詰ってたから。昔、こうやって誰かと一緒に帰る約束してて、置いていかれた?」
「……実はそうなの」
 はあ、と小さく吐息をつく。思い出すように、爽子の瞳が空を泳いだ。
「あれは私がまだ初等部のころよ。従兄弟が二人遊びにきてて、一緒に海にいったの。久樹はその日は都合が悪くてこれなくって。従兄弟と三人で海にいったわ。普通に遊んでて、途中で喉が渇いて。買ってくるから待ってて、って言ったのに。戻ったら誰もいなかったの」
「――そっかぁ」
「吃驚して周りを探してたら、なんだか自分がいる場所さえ分からなくなってきちゃって。落ち着けば、分かったはずなのに焦りだけがぐるぐるして。もうどうしようもなくなって。結局夜になって、久樹が探しに来るまで海岸でうずくまってたの」
「ふーん。久樹さんがねぇ」
「あれ、巧くん。どうかした?」
「べーつにっ。今日は大丈夫だよ、一緒だし。爽子さんのことなら、俺だって見つけてあげる」
「巧君が?」
「うん。少なくとも、久樹さんより早く見つける」
「それは、頼もしいかも」
「だろっ!」
 無邪気に笑って、巧は爽子を見上げる。爽子も笑みを返すと、そのまま二人揃って地下鉄で白鳳学園駅へと戻った。
 見慣れた場所へと続く階段を上りながら、爽子は巧の顔を見やる。
「巧くん、今日どこでご飯食べようか。私は一旦教授にこれを届けるから、夕方に待ち合わせましょ」
「爽子さんが好きな店ってどこ? 俺、ファミレスぐらいしか知らないよ」
「そうね。んー。じゃあ、私のオススメの店に行こうか」
「うん」
 待ち合わせは、と二人決めながら、巧の心は確実に弾んでいる。
 時間を決めて、待ち合わせをして。二人でどこかに行くなんて、完全にデートだ。
 嬉しくてご機嫌の巧の頭を、いきなり誰かに叩かれた。
「てぇ!」
「あっ」
 巧の声と、爽子の驚きの声が同時に響く。
 反応の先で、いくつかの本を手に織田久樹が立っていた。
「あーっ!」
 天敵を見つけた顔で巧が叫ぶ。
「二人でなんの相談だよ、爽子」
「待ち合わせの時間を決めてたのよ」
「待ち合わせ?」
「そう」
 あっさりと答えてしまう爽子に焦りながら、巧が声を張り上げる。
「俺を無視するなっ!」
「無視してないって。で、なんの待ち合わせだ?」
「巧くんとね、夕飯一緒に食べに行く約束をしたのよ。それでね」
「へぇ、外食か。たまにはいいよなぁ」
 ぎゃんぎゃんと叫んでいる巧をわざと見下ろして、久樹が意味深な笑みを浮かべる。本当ならば邪魔をするなと主張したいだろうに、爽子の前なので要求が控えめになっているのを良いことに、久樹は調子に乗った。
「じゃ、俺も行こうかな。将斗もつれてくるよ」
「そう? でも私は巧君の分しかおごらないからね。久樹が奢ってあげなさいよ、将斗くんの分」
「ま、しょうがないか。じゃあ、時間は?」
「そうね。ん、六時に正門前でどう?」
「よし。そうするか。じゃあ、また後で。爽子、巧」
 ひらりと手を振って久樹が駆け去っていく。
 わなわなと震える巧を振り返って、爽子がひどく不思議そうに首を傾いだ。
「あれ、どうしたの? 巧くん?」
「うーっ」
「え?」
「……なんでもない。あの男、絶対にぶっとばす! 爽子さん、また後でっ!」
 威勢の良い言葉を残して、巧が久樹を追って駆け出す。
 取り残された爽子は一人不思議そうに目を丸くして、「仲、いいのね」と呟いていた。