私立湖底学園の愉快な仲間たち



 カランコロン、と涼やかな鐘が音を鳴らして密やかに佇む森と、そこに建つ広大な学園の中に響き渡った。途端に、それまでしんと静まり返っていた学園内からざわざわと喧騒がもれ始める。
 くぁ、と小さく欠伸をもらして大江雄夜は午前の間ほとんど俯けていた頭を上げた。まだ瞳のおくがぼやけているが、頭の方は十分な睡眠のおかげですっきりと冴えている。英語で言うならクリアーだ。クリーンでもいい。
(……クリーンだな)
 そんなどうでもいいことを考えながら、雄夜はのっそりと大きめな身体を起こした。んっ、と目立たぬように伸びをして、同じ体勢にしていたせいで凝ってしまった首をぐりぐりとまわす。ずごばきん、と盛大な音が出て近くにいた女子が少し驚いていたが雄夜は気づかなかった。腕を前に出してほぐしながら、ふと窓の外を見る。
 窓の外に広がるのは、広大な森だ。そして雄夜のいる所からは森のほかにも、太陽の光を受けてさざめく青い湖が見えた。
 はて、と雄夜は心の中で首を傾げた。何時から自分はこんな所に通っていたのだろうか。自分が通っていた学校はもっと、なんというか俗っぽかった気がしたのだが。そう、名前は白…白鳳……。
 …頭の中に、乳白色の濃い霧が立ち込めているような感覚。
 だが。
「…まぁ、どうでもいいか」
 思い出してはいけないことも、世の中にはあるということだ(そういうことで)
「ユウヤ?どうしたんです、ぼうっとして」
「いや。どうでも良いコトを考えていたんだが、やめた」
「…それって私のせいですか、やっぱり」
うっと呻いてクラスメイト…リーレンが眉根を寄せてすまなそうに言う。
「そんなことはない、と思う。元々大したことでも無かった。それよりも、リーレン」
「え、はい」
「同学年で敬語はどうかと、前にも言ったが」
 雄夜の問いにああ、と頷いてから、先ほどとは打って変わってにこりと微笑みリーレンは答えた。
「どうしてだかユウヤはなんだか同学年って気がしないんです。なんだかこう、私よりもよっぽど大人びていると言うか」
「そうか」
 ため息と共にそう言って、雄夜は食堂に行くために教室の扉へと足を向けた。後ろからリーレンが付いてくるのが判る。もう何度もこの友人に対しては敬語を使わなくてもいいと言っているのだが、一向にやめる気配は無い。それさえ抜かせば、雄夜もリーレンのことはそう嫌いではなかった。なんというか…なごむ。
 それはリーレンの生来の性格もあるのだろうが、育った環境も幾らか影響しているのだろう。リーレンは、ここの校長であるフォイス・エイデガルの家で育てられたのだった。雄夜は校長とじかに話したことは無かったが、話に聞く限りではそれなりに立派な人物のようである。そんな人間の下で実直に育てば、こんな少年になるのだろう。自分とは、似ても似つかない。
 それと、雄夜がリーレンを見ていて和む理由はもう一つある。それは…。
「あ、リーレンっ!」
 廊下に出て数歩歩いたところで、軽やかな鈴のように溌剌とした声が響いた。その声に雄夜は無表情のまま振り返り、リーレンは花でも咲いたかのようにぱぁっと喜色を満面に浮かべる。
 そう、これだ。この顔。
「アティーファ。アティーファも今から昼食を食べに行くところですか?」
 これ以上ないくらいに微笑んでリーレンが話している相手、アティーファ・エイデガルはその名前が示すように校長フォイスの実の娘であった。つまり、リーレンとは一緒に育った仲と言うことである。
 友人や双子の弟には朴念仁だの鈍感だの言われている雄夜だったが、流石にリーレンがアティーファに好意をよせている事くらいは判った。最も、アティーファ本人がそれに気づいているのかは甚だ疑問だったが。
 なにはともあれ、その、アティーファに対しているときのリーレンが雄夜にとって妙に和むのである。
 雄夜は犬好きなのだ。
 リーレンに失礼だとは思いながらも、雄夜は胸中でリーレンを犬に置き換えている。なるほど確かにアティーファといるときのリーレンは子犬が尻尾をふっているときの姿を髣髴とさせた。髣髴どころか、もうむくむくの子犬そのものと言ってもいい位、無防備で掛け値なしに嬉しそうだ。
「いや、私は父上からお弁当をもらっているから、何か飲むものでも買おうかと思って。ってそうだ、リーレンにも渡せと頼まれていたっけ」
「私のぶんもあるのですか?」
 ん?と何を言ったか理解できないとでも言う風にアティーファが首を傾げる。それからああ、と頷いて眉根にしわを寄せた。
「当たり前だろう、何を言ってるんだ、もう。どうする、ユーヤの分は無いけれど私たちとリィスやエアに頼んで分けてもらうことはできるけれど」
 当然のように雄夜は頭数に入れられていた。リーレンが子犬ならアティーファは何だろう、とぬぼーっと考えていた雄夜は唐突に声を掛けられて少し驚く。…まぁ最も、驚いた様子などこれっぽっちも顔に出ていないのだが。
 当然のように雄夜を頭打ちに入れているエティーファの提案はこちらの意見は聞かれていないが、全く持って不快感は無い。それがアティーファの魅力で、リーレンがこの少女を好いている最たる理由なのだろうか、と雄夜は思う。
「…エアルローダは分けてくれないと思いますが…」
 エアルローダの名前を聞いてリーレンが少し身構える。エアルローダに、リーレンは今まで何度もお弁当のおかずやらなにやらを取られていた事を雄夜は思い出した。リーレンにしてみれば冗談ではないのだろうが、エアルローダは彼も彼で、なかなかに面白い人物だ。なにせ正規の生徒ではない。アティーファに会うこととリーレンをからかうことを目的にして大胆にも学園に無許可で入り込んでいるのだった。(と、湊さんの小説ではなっていた)
「そんなことない、エアはちゃんと分けてくれる。こないだだって私がお弁当を忘れたときに学食で奢ってくれたんだから」
「それはアティーファさまだからだと思うのですが…」
 がっくしと肩を落としながらリーレンが応えた。恋の成就はなかなか難しそうだ。
 彼らに会うのは面白そうだったが、雄夜は小さく無表情にかぶりをふった。
「大丈夫だ。食堂で静夜達が待っている」
 そんなリーレンを、やはり飼い主に構ってもらえない子犬に置き換えながら雄夜はアティーファに告げる。
「そうか、じゃあ仕方ないな。また次、今度はシズヤ達も一緒に食べよう」
 雄夜の無表情をものともせず、アティーファは人差し指を雄夜の前に示してにっこりと笑った。
 ごく普通の生徒は雄夜のこの無表情さに微妙に距離を置いてくるのだが、中にはその無表情が別段機嫌が悪いからとか、そういってものではないと見抜ける人間も居て、アティーファやリーレンはその数少ない人物たちの一人だった。
 頷いた雄夜に、それじゃあと手を振ってアティーファとリーレンは廊下を食堂とは反対方向に歩いてく。後ろから見ても、やっぱりリーレンは子犬にしか見えなかった。
「もったいないことしたわね。フォイス校長の料理はプロの料理人も負ける一品ってもっぱらの噂なのに」
 理由も無くアティーファとリーレンの背中が消えるまで見送っていた雄夜に、不意に女性の声が掛けられた。アティーファとは違う、もっと精悍で伸びのある声色。
「エリクル」
 雄夜の呼びかけに、ん、と微笑んでエリクルは応えた。そしていたずらっ子のような目をして言う。
「あなたおいしいものには目が無いでしょうに。いいのかしら、こんなチャンスを逃して」
 正直なところ、それは雄夜の心境をほぼ正確に見破っていた。フォイス校長の料理が非常においしいと言うのは、今まで何度かその身をもってして体験している。育ち盛りの雄夜にとっては、量も大事な問題だったが、味がよければさらに食が進むということも同じくらい大事な問題なのだ。
「…先約がある」
 図星を突かれて、やや憮然と雄夜は返した。
「あらそれは残念。うふふ、今度はお誘いに乗りなさいな。本当においしいらしいから」
くすくすと明るく笑うエリクルに軽く肩を叩かれた雄夜は、そのエリクルの手にやや大きめな包みがあることに気がついた。
「それは?」
「ああこれ。ちょっとね、差し入れよ。どーせあの人達のことだからお昼なんて抜かすに決まってるもの」
 腰に手を当てて、エリクルは憤然と言い放った。とは言ってもそれは怒りと言うよりは、どちらかと言うと苦笑に近いものだったが。
 あの人たち、というのが誰を指しているのか雄夜には初めわからなかったが、しばし考えてからああ、と一人納得した。恐らく科学の教師である滝月惺のことだろう。エリクルと惺が恋仲だと言うのを、随分と前に誰かが話していたような気がする。とすると、もう一人というのは丹羽教授であろう。
 惺が丹羽の研究室で、真剣に将棋を指しているのを雄夜は一度ならず見たことがある。はじめて見た時は、二人とも異常なまでに真剣な顔つき出取り組んでいるので何事かと思い友人数名と乗り込んで行ったことがあるので覚えているのだ。
「…そんなに将棋が好きなのか」
 不意に雄夜が言ったことで、エリクルはやや驚いたように瞳を開けたがすぐに笑みの形に緩めた。
「まいったわね、知ってたの?」
 雄夜にとっては割と一般的なことだが、どうやら極普通の生徒の間ではそうでもないことが今わかった。(雄夜、少しショック)
「知っていた」
 実は校内を意味もなく探索することはそんなに嫌いではない雄夜であった。
「うーん、あの人たちは将棋が好きと言うよりは考えることが好きなんじゃないかしら?きっと将棋じゃなくてチェスだったとしても今と同じくらいに熱中してるでしょうね。今がもしも…もしも戦争をしている世界だったら、もしかしたらとても非凡な才能を持っているということなのかもしれないわね」
 ふと、どこか遠くを見るようにしてエリクルが言った。その姿が先ほどの自分に似ていて、雄夜は少し首をかげる。何となく、それ以上「それ」を考えさせてはいけない気がして雄夜はエリクルに応えた。
「…だが今は戦争などは起こってない」
 雄夜がそういうと、エリクルは嬉しそうに笑って頷いた。事実、それは本当に本当に嬉しそうな笑顔だった。
「そう。だからこそ!ちゃんとご飯は食べなければいけないわ!まったく私が面倒見ないと、きっと餓死してお仕舞いよ!もう!」
 そういうエリクルは、見ていてどこか微笑ましい。しかし、相手はまかりなりにも教師である。あまり公にするのもどんなものだろうか。
 雄夜がそういうと、エリクルはきょとんとしてから不意に大きな声で笑い出した。
「あはっ、それならユシェラとフィラーラに言ってあげなさいよ。もうあの人たちなんて見てるほうが恥ずかしくなるくらいよ」
 ユシェラとフィラーラ、と言われて雄夜は記憶の棚からそれが誰かを探り出す。いくらかの顔を思い出してから合致する人物を見つけ出したが、ふと、雄夜は違和感を感じて首をかしげた。
 ユシェラという青年は、よく覚えてはいないが確か学園の大学院に通う人物だったはずだ。類まれな判断力と行動力で何年か前まで学園の生徒会長を勤めていたので雄夜も耳にしたことはあった。それと対にされたフィラーラは、雄夜と同学年の生徒だったが…。
「エリクル」
「ほんとにあの二人といったら。ふと目が合っただけで微笑みあうなんて、いまどきの恋人でもしないこと……あら、何?」
「フィラーラは確か男子生徒だったと思うのだが」
 ぴき、とエリクルの表情が固まった気がした。
 それから数秒の沈黙の後、何かを取り繕うようにぎこちなく(それこそ機械のようにぎしぎしと)微笑む。
「そーだったわね。わ、私としたことが人違いをしたみたい。うふ、うふふふふふ」
 どうみてもそれは何かを取り繕うような笑い声だったが、成る程と雄夜はうなずいた。人違いなどは、よくあることだ、仕方が無い。
 エリクルの態度は、ただの人違いにしては異常なまでに慌てていたが、雄夜は全く気にしていなかった。ただ単に気づいていないだけだとも言う。
 エリクルはしばしうふふふふとぎこちなく笑っていたが、ふと我に返って手の中の包みに気がつきいけない、と顔をあげた。
「ああそんな場合ではなかったみたい。それじゃあねユウヤ。今のは本当に私の人違いよ」
 言うと同時に、エリクルは研究室のある別棟の方角へ駆け出す。
「判った。それと走らないほうがいい、弁当の中身が崩れる」
「そうねーーーーーー」
 微妙にドップラーな声を残しながらエリクルは去っていった。あれでも学園きっての切れ者だと言うのだから、世の中面白い。
 …それにしても。
 あれだけ一生懸命走ってまで弁当をもっていくのだから、エリクルも人のことは言えないと思うのだが、どうだろう。
「ふむ」
 なにはともあれ、ごはんだ。
 今日の学食の日替わりランチは、確か芋雑炊だったような気がする。おしんことサラダもついてきて500円という、実に学生ライクなお値段だ。
 おそらく静夜や智帆は別なものを頼むだろうから、それぞれ何かを分け合うのもいいだろう。
 そんなことを考えながら、雄夜は足を学食の方向へ向けた。
 
 ふと、廊下の窓の外を見る。
 
 そこに広がるのは、広大な森だ。そして雄夜のいる所からは森のほかにも、太陽の光を受けてさざめく青い湖が見えた。
 湖の底のように、平和で、静かで安穏なこの学園。
 すでに終った物語の、これから始まる物語の、様々な話の人物達がここで羽を休める。
 仲違いすることは合っても誰かを憎みことなく、諍いは起きても誰かを殺すこともない。
 物語を背負って行かなければならない、ならなかった彼ら彼女らの、心のどこかにある湖の、深い深い奥底の願い。
 誰もが、平和に暮らせる世界。

 
 ほんのわずかな間、そこで夢見ることになんの罪があろうか。


 翠の葉は、緩やかにさざめいている。
 柔らかな雲は、ゆるやかに流れている。
 
 真黒な髪を揺らした風に目を細めて、雄夜は窓辺を離れた。
 もうすぐ始まる、自分自身の物語に戻るために。
[終]





黒白灰さんから頂いた、三作品まとめて学園モノパロ小説。
もらったときは嬉しくって、もう何度も読み返していました。幸せ〜。
ぜひ続きを書いてくださいっ!とおねだり実行中です。