目の前にあるのは、紅い夕日。
美しいというには、あまりにも凄惨な。
血の色だ。
大地を流れる死人の血を浴びて染めあがった、断末魔の色。
かつて、鮮血の軍師、と呼ばれた男がいた。
彼の髪は、その名のとおり紅かったという。
こんな、色だったのかもしれない。
そんな、深紅の夕日を眺めている。
ふ、と彼は自分の手に視線を落とす。
夕日を受けて、深紅に染まっている。
まるで、返り血を浴びたかのように。
ぞくり、とする。
恐怖のせいではない。
そうでは、なくて。

「ラス!」
背後からの声に、振り返る。
「シャティ」
「こんなとこにいたのね」
声は、言葉が終わらぬうちに自分の目前まで届く。
シャティ、と呼ばれた彼女の、笑顔も。
隣に立った彼女は、夕日へと視線をやる。
「すごい夕日だね」
それから、視線は彼の方へと、戻る。
「ラスは、夕日を眺めるのがクセだね」
彼女は、彼のことに関してはいつも正確だ。
夕日が好きなのではない、と知っている。
彼の名は、セイラス・ルン・ガルテ。
エイデガル王国の周囲を固める五公国、ガルテ王国の公子だ。
後継ぎに相応しい頭脳の持ち主、と言われている。
いや、それどころではない。
彼の才は、かつて建国戦争の時に、鮮血の軍師として恐れられた軍師、ガルテの再来だ、と。
その才ゆえに、彼は家族とは別の場所で育てられた。
彼の才を、最大に伸ばすために。
周囲にいたのは、全てが師といっても過言ではない中で、彼女だけが異質だ。
師のうちの一人の娘であるシャンティは、いつも彼の側にいた。
彼女には理解できぬ、政治経済の書を解説されているときも、槍の稽古をつけているときも。
離れている時の方が、少ない。
「そして、夕日を見るときだけは一人がいいんだね」
シャンティは、にこり、と微笑む。
セイラスも、にこ、と笑みを返す。
「シャティが、僕の側にいる意味を考えていたのさ」
「そう、どういう意味なの?」
指を一本、立ててみせる。一つ目、の意味だ。
「見ている者がいる、という緊張感を与える」
「誰かが見ていなかったら、手を抜くという意味?」
「そうしたかもしれない、という意味だね、いままでシャティがいなかったことはないんだから」
ただ、公国同士の均衡をはかり、エイデガル王国を保持するだけには彼の才はオーバースペックだ。
これだけで十分というところの判断を下してしまえば、あとは適当に流すこともできるはず。
それをしなかったのは、シャンティが見ていたからだ。
「確かにそうね、で、次は?」
「普通に笑うことができる」
周囲の人間は、ガルテの再来というフィルターを通して彼を見る。
特別な存在として。
「ああ、悪戯の相棒というわけね」
と、シャンティらしい解釈をしてみせて、首を傾げる。
「他には?」
何気ない、問い。
だけど、シャンティは気付いている。だから、問う。
セイラスの中で、シャンティが側にいることを肯定する最大の理由。
「封印」
「じゃあ、お役目終了したらさようなら?」
「躊躇い無く、そうするね」
あっさりとした答え。
封印の意味は、二人ともわかっている。
ガルテの再来、と言われた。
本当に、この才は匹敵するのか?
自分でも、ぞくりとするほどに、試したくなるときがある。
この大地を、朱に染め上げたとしても、だ。
そして、その思いは。
こんな夕日を見た時に、強くなる。
ガルテの髪の色を思わせる、鮮血の夕日を見た時に。
「ラス」
名を呼ばれて、セイラスはシャンティへと視線を向ける。
「人はね、所詮、自分で思ったようにしか生きられないと思う」
にこり、とシャンティの顔に笑みが浮かぶ。
「だから、私がラスにとって封印なら、それでいい、けど」
「けど?」
今度は、セイラスが首を傾げる。
「私は私の望みで、なにがあろうとどこであろうと、ラスの側にいる」
「なぜ、と訊いてみてもいいかな?」
「わからない?」
逆に問われて、セイラスの顔には、少し戸惑いを含んだ笑みが浮かぶ。
「・・・わかるよ、僕も同じことを思っているから」
そっと、手をシャンティの頬に伸ばす。
「この大地がどうなろうと、シャンティだけは側にいて欲しい」
シャンティは、視線を外さずに見つめている。まっすぐな視線だ。
セイラスは、言葉を継ぐ。
「例えこの身が、紅に染んだとしても」
揺るぎ無い視線のまま、シャンティは微笑む。綺麗だと、思う。
「うん、側にいるよ、だから、連れて行ってね・・・どこであっても」
作者:月亮さま
月亮さまから40万HITのお祝いで頂きました!
本編も外伝も、それほど書き込んでいなかったセイラスのことを、すっごくすっごく考えてくださっているのが伝わってきて幸せだったのです。
色々危ないキャラではあるだろうなぁと思いながら書いていたのですが、これを読んで、やっぱり危険人物だ!と改めて思ってしまいました。アトゥールとはタイプが違う知恵者だろうなとかこっそり思っています。
お礼に、この光景をみているグラディールを書きました。
そしてあらためて、こんなまともなことを考えているグラディールを書いたのは初めてかも!とか思ってしまった私が居ます。
お礼にグラディールサイドの話です。

 夕暮れが始まる。
 青くゆれる湖の色も、大いなる世界へと続く海原さえも。
 赤く、紅く、染め抜かれて、まるで血を流しているようで。
 前に立つ、小柄な影に手を伸ばし、性急にその瞳を手で覆った。
「見ちゃだめだ」
 声が上ずる。
 後ろから目を隠されて「離してっ!」と声を荒げる細い人影の抵抗を奪うために、目隠しは片手でして、開いた手で彼女を抱きこんだ。
「グラディールっ!」
 声。
 紅く染まる、この世界を鞭打つような、厳しい声。
「ダルチェ。見てはいけない」
「一体何をいっているの!? 離して!」
 声に含まれる苛立ちが、急速に膨れ上がっていく。
 視界は赤。赤い紅い、戦場の色。
「いかせない。あんなところに、行かせたりしない」
「ねぇ、どうしたのよ。グラディール」
 懇願する声に、戯言ではない真剣さを見つけたのか、抱き込まれたままの妻が抵抗を止める。それを良いことに、彼は妻の体をすばやく反転させて、胸の中に抱きこんだ。
「苦しいわ! グラディールっ!」
 紅い。
 すべてが紅い世界のから、妻を切り離す。
 赤い視界の先には、知った人間の姿。
 赤に染められるのを望み、すでに紅の中に打ち沈み、身の回りの愛しい人々をすでに巻き込みながら。まだ――踏みとどまっている、男の姿。
「ガルテ」
 彼が元々に持っていた苗字であり、過去、常に全身を紅い鮮血に染め抜いて軍を指揮したといわれている、建国戦争当時の軍師。
 彼は多勢を救うために、少数を犠牲するのを厭わなかったといわれている。
 側近くにおいていた、親しいものを犠牲にするのも厭わなかったとも。
 勝利だけを、主君たる覇煌妃に望まれて。
 望まれたすべてを与えつけて、そして――最後に凄まじいものを送り返した男。
「ダルチェ」
 強く、抱きしめる。
 ぎりぎりと骨がきしむ音が響き、苦しげに呻く妻の声を聞きながらも、さらに強く。
 妻を腕に抱きしめながら、グラディールの目は遠くに佇む男を見つめる。
 兄でありながら、グラディールが最も多くを知らない男。
 脈々と続いてきたエイデガル皇国を、破壊する”きっかけ”を生み出すことが出来る男。
 ――グラディールに、それを止めてみせろと挑発する男。
「ダルチェ、怖いんだ」
「なに、が」
 苦しいはずであるのに、ダルチェはもう、離せとは言わなかった。
 五公国の公族の中で、最も苛烈な魂を持つ勇ましき女は、今――夫の中の恐怖に正確に気づいたから。
「私に止めるとアレは言う。私はそんなことに興味がないのに。私はただ、ダルチェの側に居たいだけなのに」
「誰を止めるの」
「破壊だよ。破壊をもたらすものをだよ」
「誰が破壊を行うというの?」
「――才能、かな」
 破壊を行うのは、セイラスであってセイラスではないだろう。
 才能が、平和時には不必要だった才能が、すべてを滅ぼすのだ。
 エイデガル皇国には、その気になれば世界を動かせる才能を持つものが、多く存在しすぎている。まるで二つに割れて戦うことを、誰かに仕組まれているかのように。
「いつか試したくなるかもしれない。あの能力を、あの才能を。受けて立てる相手もいる。――世界を望む前に、国の中での戦いを楽しもうとするだろうから」
「怖いの?」
「怖いよ。ねぇ、ダルチェ。私はね、戦いなんて好きじゃないんだ」
「知ってるわ。――でも」
「そうだよ。もし起これば、私は戦うだろう。そしてそうなれば」
「グラディールは役立つでしょうね」
「多分」
「絶対、よ」
 そっと囁いて、妻は夫に力を緩めるようにと合図を送る。
「私は、側に居てあげるわ」
「紅いよ」
「いいのよ」
「――ダルチェ」


 いつか。
 あの男が衝動を抑えきれなくなれば、すべてが変わるだろう。
 紅かった。
 夕日がただ、赤かった……。