午後の時間 お昼寝法則

 天はあくまで澄んでいた。
 僅かに浮かんだ雲は天上を過ぎ行く風に流されて、すぐに姿を消してしまう。太陽の光は穏やかな優しさで大地を見守っている。砂漠の国、真昼のアヴェでは決してみせない優しい太陽の、母の顔。
 現在ユグドラシルは、その雄大にして優美な巨体をゆったりと海に預け、陽射しを燦燦と受けていた。
 軽いエンジントラブルの為に、普段は海中を優美に進むこの艦は、海上で停止中である。
 こんな時、普段は戦闘に明け暮れ命をすり減らしているフェイたち戦闘メンバーは暇になってしまう。手持ち無沙汰な彼等の目前で、整備士たちが戦場のような喧騒で、艦内を駆けずり回っていた。
「なんか、邪魔みたいだなあ。俺達」
 はあ、と一つ息をはいてフェイが言うと、自然とガンルームに雁首揃えてしまった者達が苦笑する。
「しょうがないわ。だって、エンジントラブルのメンテ方法、分からないもの。それに、私が行ったら殺されちゃうわ」
 くすくす笑いながらエリィが言ったのは、かつて催眠暗示状態で、ユグドラシルのエンジンを停止させてしまった過去の実績があった為だった。
 確かにあのオヤジさんなら、エリィが再び機関室に現われたら殺しはせずとも怒鳴りつけるかもしれない。そう考えて、さらにフェイは息をつく。
「邪魔になるときは、邪魔をしないようにすることこそが、協力というもの。でも、こうやって座っているだけっていうのも芸がないですよね」
 横手からひょいと会話に入ってきて、整備し終わった銃をビリーはテーブルの上に置いた。どうやら暇な時間を持て余しているのは、彼も同じらしい。
「最近変に戦闘がなかったから、ギアの整備もいらないし。俺達って、戦闘ないと暇なんだなぁ」
 戦いなんて嫌いだと思っているのに、実際に戦いがなくなると、時間を持て余してしまう。その矛盾にフェイが自己嫌悪に陥りかけた時、機関室に降りようとガンルームの扉を開いて、シタンが現われた。
「おやおや。若者たちが何を顔をつきあわせて、溜息大会を開催しているのです? 不健康ですねえ」
 片足でかつかつと足踏みしながら、眼鏡を押さえて彼は言う。僅かに手や頬に汚れが付いているのは、今回のエンジントラブルに何らかの手伝いをシタンがしている証拠だった。
 フェイがそれを見て、又、溜息を吐く。
「だって先生。俺達なんの役にもたってないみたいだし。戦闘しか脳ないのかなあって、ちょっと思うよ」
 どうもフェイの思考は暗い方、暗い方に向かってゆく。そんな自分の被保護者の状態に苦笑して、シタンは少しばかり首を傾げるようにして考え込んだ。
「そうですねえ。だったら、折角ユグドラシルが海上で停止しているんです。甲板上に出てみたらいかがです? シグルドや若くんには、私が了解を取ってきて上げますから。フェイ、エリィの水着姿を見れる、これはチャンスですよ?」
 いたって真面目にシタンが言う。
 からかわれていると気づかずに、フェイは真っ赤になった。戦闘の為に集まった面々が、水着など持っていないことは、考えれば分かることだったのに。
「せ、せ、先生! 俺はべつに、そんなつもりで!」
「あら。じゃあフェイは私の水着姿、見たくないのね?」
 悪戯っぽく言って、エリィは下から可愛らしくフェイを覗き込み、柔らかに睨んで言う。近くで見てしまった少女の可愛らしい顔に、フェイはすっかり血が頭に上り、
(だって、だって、こ、こ、心の準備が〜)
 などと、水着姿を見るのになんの準備が必要なのか良く分からないが、様々な思考が脳裏をギアブースター使用状態のごとく駆けずり回り、蹂躪し、恐らく…ショートした。
 傍観者であるビリーの方が、フェイの気がおかしくなってしまったのではと、心配したほどだ。
 挙句の果てに、
「そんなことない! エリィの水着姿、すっごい見たい!」
 などといきなり仁王立ちになって、茹でダコさながらの状態で断言する。今度はシタンとエリィが呆気に取られた。
「ご、ご、ごめんね。フェイ。あのね、水着はちょっと、持ってないのよ。あ、でも、水遊びくらいは出来るわね。ブーツとタイツさえ脱いじゃえば。って、きゃああ、フェイ!? どうしたの! フェイーー!」
 エリィが着ているのはかっちりした軍服だが、良く見ればミニスカートだ。スリットの入り方はきわどい。タイツを脱いでしまえばどうなるか――それを想像してしまったフェイ、不幸だった。
 かーーと真っ赤になって、倒れた。
(ちーーん。ご愁傷様)
 教会所属であったビリーが、なぜ心中で仏教形式のおくやみをするのか、それは永遠の謎だ。
 ともかく、シタンはユグドラシルの艦長と副艦長、ありていに言えばバルトとシグルドに、甲板使用許可を貰うべく、場を逃げ――いや、後にした。



「って、甲板の使用許可? んなもん、一体なんに使うんだよ?」
 渡された資料から目を離し、怪訝そうに振り向かせてバルトはシタンの言葉に返事をした。
「いえ、フェイたちが暇なようですから。とかく暇だと、色々考え込んでしまうもの。それよりは、折角太陽の下にいるのですから、外に出るのはいい気分転換になると思いましてね。潜水が再び可能になったら、風に当たる事も出来ませんから」
「あ。なるほど。別に俺はかまわないぜ? トラブルの方は内部だから、甲板上に機材はでてねえし」
 ほっとした表情になって、バルトが言う。その態度に、少々シタンは不審を覚えた。
「若くん? 甲板を私が何に使うつもりなんだと想像したんですか?」
 少しばかり険しい目付きで尋ねる。
 その眼光の強さに危険を覚えて、バルトは慌てて顔をそらし、
「い、いや。別に。なんでもないよ」
 取り繕うように言って、わざとらしくシグルドに書類の内容を二、三確認する。腹心の方も心得たもので、いかにも重要な話をしているかのように受け答えてみせた。
 シグルドが側にいる以上、追求は出来ないと判断し、意外とあっさりとシタンは険しい目付きをやめる。
「まあ、今日の所は追求しないでおきましょう。では甲板を使用していいんですね?」
「ああ。いーよ。しばらく動きそうもねぇし、みんなは遊んでてくれって伝えておいてくれ」
 さらりと言って、バルトはシタンがブリッジから去るのをきちんと確認し、息を吐いた。
「若。本当にヒュウガが何をすると思ったんです?」
「いや。だってさ、シグ。先生だろ、なんか妙な改造でもしそうじゃないか」
「妙な改造というと?」
「そうだなあ。ビリーのレンマーツォみたいに、ボタン一つでギアが機乗者を迎えにくるとか…」
「………?」
「あの先生。レンマーツォ発進の方法を聞いてさ、その現場をすごーく見たがってたからさ。目ぇ輝かせて、絶対にビリー君今度見せて下さいね、だぜぇ?」
「たしかに。ヒュウガなら、やりかねない」
 そう呟きながら、シグルドは思い出していた。
 バルトたちがまだ見たことのない、エレメンツ専用機。あれの特殊機能を一番喜んでいたのは、ヒュウガだった。シグルド的には、あれに乗らずにすんだことが、バルトとマルーを無事に救い出せた事の次に、幸運だと思っている。
「――。それはともかくとして。若も甲板に行かれたらどうです? 修理に使用する機材関連の報告は終わっているのですから」
「べーつに。俺はそんな気分じゃないからいいのさ」
 子供っぽい仕種を交えて言うと、彼はすたすたと歩いて普段は別の人間が居るブリッジの椅子に座り込んだ。
「シグは機関室を見に行ってやってくれよ。俺がいくと、異常反応するからなー。あいつら」
 かつてバルトとシグルドが片目を失うに到った事件。燃え盛る炎の中に飛び込み手動でエンジンを停止させた事でユグドラシルを救ったとはいえ、変わりに片目を永遠に失ったことに、機関室の人々がひどく負い目を感じていると気付いている。だからなるべく近寄らないようにしているのだ。
 ぶっきらぼうに見えて、その実細やかな優しさを見せる若い主君の言葉にシグルドは微笑みを浮かべた。
 けれど、バルトはまだ十八歳の少年であるのだから、本当ならば一緒になって遊びたいのだろう。滅茶苦茶なことばかりしているように見えて、バルトは人の上に立つ者としての責務を感じ取り、実行している。そしてそれを強要しているのは、アヴェという国そのものであるのだ。
 若は必死に答えようとしてくれている。
 そう、改めて心中で確認し、若い主君を誇りに思いながら彼は機関室へと歩を進めた。



「やっぱり気持ちいいっす。外はいいっす。ねえ、リコの兄貴――!」
 と言いながら、なぜかハマーはチュチュと追いかけっこに興じていた。ビリーは妹のプリムの手を取って、海水に触れさせてやっている。復活したばかりのフェイはというと、水に少し足をひたして少女のようにはしゃいでいるエリィ(の顔)をぼうと眺めていた。
「フェイ。それでは、変態サンですよ」
 苦笑してシタンが言うと、フェイは吃驚したように目を大きく見開き、勢いよく両手を振った。
「へ、へ、変態じゃないよ! 先生!」
「分かってますよ、フェイ。ほら、エリィだって一人で遊ぶのは楽しくないでしょう。一緒に行ってあげなさい。私は下を手伝ってますからね」
「あ、あ、うん。そうだ。先生、バルトは?」
「若くんなら、気が進まないって言ってましたよ」
 さらりと、バルト自身が言った言葉をフェイに告げて、シタンは柔らかく笑う。無論、シタンは配下であるユグドラシルの乗員が修理に奔走している間、いくらやることがないとはいえ、遊ぶわけにはいかないと思っているだろうバルトの真意には、気付いていた。
 けれどそれを言ってしまえば、フェイも気にするし、フェイたちに気を使わせたくないと考えるバルトの心も無視することになるので、言わないだけだ。
「不意の敵襲に関しても、私がいますから大丈夫ですよ。たまには、息抜きしてください」
 そう言って去っていくシタンの後ろ姿をみながら、フェイは少しばかり哀しそうな表情になった。
「やっぱり、遊んでるってのはまずかったのかな」
「でもね、フェイ。出来る事がないんだから、仕方ないと思うわ。私たちがユグドラシルの正規クルーではなく、乗せてもらっている人間だっていうのは事実なんだから。バルトとはちょっと立場が違っちゃう。それに、私たちが遠慮するの、バルトは嫌うと思う」
「ああ。そうだね、エリィ」
 ぽんっと胸の前で手を打って、フェイはふっきったように元気よく振り向いた。そして、しっかと現実に「ブーツをぬいでタイツもはいていない」エリィの太股の辺りを思いっきり見てしまった。
「あ、あ、うああああ!」
(ちーーん。ご愁傷様)
 また、離れた場所で、今度はプリムと二人手を合わせて、ビリーが言った。



 ぽかぽかと、暖かい。
 ブリッジのスクリーンが映し出す空は、薄い青。それが海の碧と出会い、交わって美しさを宿している。
 長閑だった。
 単調な動きをみせるレーダーは、敵襲の気配など全く見せず、時折艦上を飛ぶ鳥達だけを写すだけの代物になりはてている。
 優しく、平穏な時の流れ。
 正直することもなく暇をもてあましていたバルトは、あまりのうららかさに辟易していた。
 することのない現状。待機しているだけの現実。
 と、なればだ。
「だーーーーー! 眠いっ!」
 思わず背もたれに深々と腰掛けて、彼はうめいた。
「あいつら、ユグドラから落ちてねえだろうなあ。まあ落ちたって、動いてねえんだから大丈夫だろうけど。たまには息抜きする時間ってのも大事だよなあ。うちの乗組員、休憩の為に寄港したのっていつだったっけなあ。良く考えたら無理させてるよなあ」
 ぶつぶつ呟いてみるのも、眠いからだ。
 ふっと気を抜いてしまったら、間違いなく、夢の世界に連れ去られてしまうだろう。
「ねーむーいー」
 何度かその言葉を呟いて、彼は大きく伸びをした。
 それでも眠気は、去ってくれそうもない。


 一方その頃、甲板上で響き渡る若者たちの楽しそうな声の輪には入っていない、もう一人のファティマ姓の持ち主、マルグレーテ=ファティマは、ぱたぱたと艦内を走りまわっていた。
 手にはトレイがあり、その上にはケーキが乗っている。彼女の好物シフォン・ニサーナだが、自分が食べるための物ではないらしい。
 どうも修理に奔走するクルーの為に、シスター・アグネスから習ったお菓子作りの腕を披露し、配り歩いて(走って?)いるらしかった。
 最後の最後に息せき切って、マルーはユグドラシルのブリッジへと続く扉の前にたつ。やけ嬉しそうな表情を見れば、他の乗員に配ったことなど口実にすぎず、ここに持ってくることが目的なのだと良く分かった。
 しゅんっ、という小気味良い音と共に視界が開ける。
 同時に、彼女はやんちゃな動きで中に入り、
「若ぁ。ケーキもってきたよ。お茶にしよう!」
 少しだけ頬を薄紅色に染めて、マルーは自分に背を向けて座っているバルトに声をかけた。
 が、バルトは振り向かない。
 彼が人から声を掛けられて無視出来るような性格を持ち合わせていないことを良く知っているマルーは、不思議に思って首をかしげた。幾度かぱちくりとまばたきを繰り返し、それから軽やかに操舵からは一段下がった従兄の座る場所に駆け寄る。
「若? あれ? 寝てる……」
 伸ばして手を、マルーは途中で止めた。
 バルトは腕を組み、俯いた状態で眠っていたのだ。
 三つ編みにされた髪が僅かにほどけ、肩や唇のあたりにかかって揺れていた。強い意志を示すようにきっと結ばれている唇は薄く開かれ、常に挑むような激しさを秘める隻眼も閉ざされている。そのせいだろうか、ひどく幼い感じがする。
 伏せられた睫毛が作り出した影に気付いて、若って実は睫毛長かったんだなあ、などと思いながらまじまじと従兄の顔を見詰める。それから少しだけ躊躇してから、そおっと手を伸ばし、金色の髪に触れた。
 そして、又じっとバルトを見つめて、思う。
 アヴェ最後の王子。残された希望。常に強くあることを強要され、背負わされたものの大きさゆえに、凛としていなくてはならないバルトが普段は決して見せない、こんなあどけない表情を見ると、マルーは思ってしまう。
「若。眠ってる時しか、責任から解放される時って、ないんだよね。こんな顔、起きてる時はしないもんね」
 それはバルトと同じく、ニサンの大教母としての責任を負わねばならないマルーだからこそ、分かることだった。誰にも辛い顔をみせてはいけない。人の希望であるからこそ、明るく、強くあらねばならない。そんな枷を彼女も背負っている。共有は不可能な、本当は辛いはずの互いを悼む事が出来るのだ。
「若は強いね。だからボクも強くいられるんだよ。若と同じくらい強くなくっちゃ、ボク、若の側にいる価値、なくなっちゃうから。結構大変なんだぞ。あのシグルドに認められなくちゃいけないんだから。若の側にいるのに相応しいんだってさ。ボク、若の側にずっといたいんだ」
 起きているバルトにはまだ言えない言葉。
 マルーは従兄の髪を弄っているのが楽しくなったのか、それとも更なる悪戯心を喚起させられたのか、彼女はにまりと笑って、バルトの髪をとめているゴムを外した。ふわりと長い髪が揺れる。
「若の金髪は、陽溜まりの金色。いいなあ。綺麗で」
 三つ編みを普段しているせいで、ゆるやかに波打つあでやかな色の髪に、少女らしい感想をマルーが呟く。
 と、いきなりがしっと頭をおさえられた。
「ええ!?」
「マルーの髪は、実りをもたらす大地の色だろ? 俺は結構、好きだけどな。優しい感じで」
 そう言ってにんまりと悪戯小僧のような笑みを浮かべて、覗き込んでいたマルーの頭を押さえたのは、先程まで眠っていたはずの、バルト本人だった。
「わ、若!? 一体、いつから起きてたの!」
 口走った言葉の数々を思い出して、マルーは思わず焦りながらも真っ赤になる。それを怪訝そうに見やって、バルトは頭の上で両手を交差させた。
「いつって、髪ほどかれた辺りかな。熟睡してたわけじゃねぇし、そりゃ、起きるだろ」
「……。じゃあ、じゃあ、ボクが何を言ったかは?」
「髪の色が綺麗でいいなあ、とか。マルーなんか他に、言ったか?」
 正真正銘、きょとんとした顔になってバルトがいうので、マルーは内心ほっとしながらも、少しだけ、残念だったかなと思う。
 面当向かっては言えないが、いつも側にいたいという心は、伝えたい、真実の想いだったから。
 けれどマルーはそんな内心はおくびにも出さず、悪戯っぽく笑って、バルトの隣に座り込む。一つの席に二人座るのだから、それはかなり窮屈だった。
「お、おい。マルー?」
 年頃の少女と密着する体勢に、バルトが狼狽を示す。そんな反応を示すだろうと分かっていて行動に移したマルーは、余裕の笑みを浮かべた。
「いーじゃないか。たまにはさ。こうやってると、小さい頃思い出すよ。不思議だよね、昔のことって時が経つと忘れちゃうのに、幽閉されてた時の事は、昨日のことみたいに思い出せるんだ。若がずっとボクを守ってくれた。あの時の温かさだって、覚えてるよ」
「忘れられるもんじゃねぇもんな。あれは」
「うん。若がいなかったら、ボク、きっと生きてられなかった」
「それは俺も同じさ。マルーがいたから、頑張れたんだ。今だから言えっけど、自決しちまおうかって思ったのも、事実なんだぜ。でもマルーが居たから、俺だって生きていられた。お互い様だよなあ。まあ、こんなこと、口が裂けたってシグたちには言えねぇけど」
「うん。ボクも、いわない。ボクたち以外の人間は、思い出さなくっていいことだもんね」
「俺達が覚えてれば、いいさ。誰も思い出す必要なんてねぇよ。あの冷たさも、悔しさも。もう誰にも、味合わせたくなんてさ」
 眠っている時にみせたあどけなさを何処かに捨てて、隣で呟くバルトはひどく大人じみていた。それがなんとなく悲しくて、従兄が遠く感じられて、マルーは意味もなく彼にくっつく。
「ボクだって。若が辛い目にあうの、もう、やなんだからね」
「俺はべつに辛かないぞ」
「若が気付かないふりしてるだけだよ。辛いこと、辛くないって封じちゃってるから。でもボクは」 
 若がいっぱい辛いって事、知っているんだからね。その言葉を無理に飲み込んで、彼にしがみついたままマルーは黙り込んだ。我が侭な子供のような従妹の行動に困惑しつつも、バルトも彼女を無理に引き剥がすような事はしない。
 ただぽかぽかとした陽気だけが、周りを包んでいる。
 ――と。
「マルー?」
 引っ付いている従妹から聞えてくる呼吸の音が、やけに規則正しくなった事に疑問を覚えて、バルトが声をかける。
 が、返事はない。
 そうっと身体を動かして覗いてみれば、この穏やかな陽気の誘惑にまけて、マルーは眠り始めてしまっていた。思わずバルトは頭を抱える。
「あのなぁ。マルー、俺だって男だぞ。しかも一応、年頃なんだぞ。その俺の前で、寝るなよなぁ。ったく、その上こんな安心しきった顔しやがってよぉ」
 思わず泣きそうな声になってバルトはうめいたが、あえて顔はマルーの方向には向けなかった。いくらなんでも十八歳の青少年が、十六歳の少女の寝顔をまじまじと見つめるのは失礼極まりない。そう思っているのだが、時々、誰もいないというのに周りを覗うようにしながら、ちらちらと従妹を盗み見している。
 仕方有るまい。むしろ、十六歳の少女の寝顔に全く興味を示さないほうが、はっきりいって不気味だ。
「たく、可愛い顔して寝やがって。俺が襲ったらどうする!!」
 と小さく呟いた瞬間に、マルーが「…ん」とわずかに呟いたので、バルトは慌てて手で口を押さえた。拍子に、一つの椅子を二人で座っている為にバランスが悪く、マルーが下に落ちかける。慌てて手を伸ばし支えて、更にバルトは焦った。
(しまった! これじゃあまるでマルーを抱きしめてるみたいじゃないか!)
 いるみたいじゃないか、ではなく抱きしめている。だが、動揺している彼にはその自覚はなかった。ただこのままではマルーが再び落ちる可能性がかなりあることと、自分が動けば起こしてしまう事になるという事だけを理解する。
 しばらくかなりパニックを起こしたまま考え込んで、バルトは決意した。壊れ物を扱うように慎重にずり落ちかけた従妹の身体を椅子に戻し、その頭を自分の肩にもたれさせる。それから従妹の肩に手を回して、支えてやった。
 そこまでは、確かに冷静な対処だった。
 これでマルーが落ちなくてすむ、とほっと一息ついて、再びバルトはパニックを起こす。顔のすぐ側にマルーの寝顔があって、やわらかな少女らしい髪の匂いがひどくくすぐったい。甘やかに開かれた唇が、とんでもないほどに、魅惑的だった。
 これじゃあ自ら拷問にかけられたようなもんじゃねえか、とバルトは思う。本能の赴くままにマルーの肩を支える手にそれ以上の力を込めそうになって、幾度となく理性と本能が対決した。
「たく。目の前に人参ぶらさげられて走らさる馬の気分が、わかるような気がするぞ」
 情けないバルトの声にも、マルーが起きる気配はない。仕方なく、彼はそのまま従妹を支え続けた。



「以外と時間がかかりましたねえ、シグルド」
「ああ。だが、そのおかげで、フェイ君たちは休息が取れたようだしな。不幸中の幸い、という事にしよう。ヒュウガは甲板上のフェイ君たちを呼び戻してくれ。ユグドラシルを、バベルタワーに向ける」
「ついにシェバト。そういうことですね」
「ああ。無事につければいいのだがな」
 苦笑を浮かべて、シグルドは途中でシタンと別れてブリッジへと向かった。機関室の様子を見に行ってから、随分と時が経過している。主君が暇をかこっていなければいいのだがと、少々過保護気味の彼は考えていた。
 エレベーターを降りれば、すぐにブリッジである。
 何気なく彼は扉の前にたって、
「…………………………」
「…………………………」
「…………………………」
「……………………え?」
 優に四人分ほどの沈黙の後、シグルドは再び目前で閉まってゆく扉の柄から、僅かな傷までを、やけにはっきりと見つめていた。
 それから、考え込む。
「今のは」
 バルトが座っていた。隣りにマルーが座っていた。一つの席に二人が座り、狭いから肩を寄せ合って。マルーはバルトの肩に頭を乗せて、バルトはマルーを支えながらも、マルーの頭にもたれていて?
 まるで愛の言葉を囁きあっているような光景だ。だが、彼はぽん、と手を叩いた。それからガンルームに戻り、メイソン卿からタオルケットを受け取り、ついでに紙とペンを取って再びブリッジに戻る。
 中に入り、彼は小さく笑ってしまった。
 最初は、若とマルー様も知らないうちに大人になっていたのだと思ったものだが、
「まったく。色っぽい話しがあなた達の間で出るのは、随分と先そうですね」
 近くで二人を見て、シグルドは呟く。
 バルトもマルーもまるで子供のようなあどけない表情で、互いの身を寄せ合うようにして、眠っていたのだ。仲の良い兄妹のように。
「若とマルー様のこんなに無邪気な表情を見るのは、随分と久しぶりだな」
 呟いて、彼は眠っている二人の膝にタオルケットを掛けてやり、ブリッジを後にした。ちなみに彼が去った後の扉には、「緊急会議中。許可なく立ち入りを禁ずる。副長」という紙が貼られていた。
 途中、彼は忍び足で甲板からの梯子を降りてくるシタンとばったり出くわした。
「シグルド、悪いんですけれど」
 少しばかり困った顔でシタンが言う。シグルドは笑って、顔の前で手をふった。
「わかっている。どうせそっちも、同じような状況だったのだろう?」
「というますと? 若くんも?」
「ああ。お昼寝中、っていうやつだな。フェイ君たちもだろう?」
「ええ。可愛いものですよ、全員。ああやっていると、やはりまだ少年少女たちですね。リコたちに手伝ってもらって、取りあえず直射日光にはやられない場所に移しておきました」
 くすくすと笑いながら、シタンはエレベータに乗り込んだ。
「たまには、こういう日があってもいいですね。シグルド」
「そうだな。ヒュウガ。さて、お昼寝という気分にはなれない我々は、どうすればいいものやら」
「そうですねえ。我々もたまには、昔話でもしましょうかね」
 くすっとシタンは笑い、シグルドもそれに肯いた。
 若者達は、命のちらす戦場から久しぶりにはなれた優しい陽射しと、優しい人の鼓動に守られて、今はゆっくりと眠っていた…。

「戻」