それは夢が抱くもう一つの現実

 聞えてくるたった一つの音。
 繰り返されるリズム。
 鼓動の音? それとも存在のリズム?
 分からない。
 呟いて、青年へと変わりゆく曖昧さを潜ませる年頃の少年は、長く伸びた黒髪をたゆとわせ、頭上を仰ぐ。
 身体を覆いつくすのは波の形。全てを支配するのは深海の圧力。蒼。藍。碧。青。それは深淵の、あお。
 音は続いている。一定のリズムを保って。
 現実を知らせる唯一の絆……。



 肌を刺すほどに、冷たさが痛みを与えていた。
 それに初めて気付き、金の細波のような髪をした少年がふいと顔を上げる。はずみに、彼は初めて自分自身の関節がひどく強ばっていたことに気付いた。
 それはもう随分と長い間、同じ体勢のまま立ち尽くした為の結果だったが、彼に自分自身がそんなことをしていたという自覚はなかった。
 むしろ一瞬だったように思えている。
 奇妙な違和感を僅かに首を振って追い払い、彼は又、同じように前を見つめた。
「………フェイ…」
 ひどく苦しげな、鳴咽のような呼び声。
 初めて手に入れた親友の名。彼にとって呼ぶのが辛い相手では決してないはずの人。普段と同じならば、いつもと同じならば、笑ったまま言えた名前。
 そして今。呼び声に、声は返らない。
 名前を呼べば、当たり前のように名前を呼び返してくれた友人。きっとそれは、彼にしてみれば当たり前の事だったのかもしれない。友人に呼ばれて、友人の名を呼びかける。そんなことは。
「フェイ。俺は、嬉しかったんだ。お前が、俺の名前を呼んでくれたってこと。アヴェの王朝を継ぐ者を意味する言葉たちだけが、俺を示していた。そんな中で、お前が俺の名前を呼んだ事が、どれだけ俺を救ったのか。そんなん、お前、知らないだろうけどさ」
 返らぬ言葉を理解しながら、少年は続ける。
 まるで話しかけることだけが、自分と、相手とを繋ぎとめる唯一の術であると思っているかのように。
 フェイは、眠りつづけている。
 別人格イドを顕現したことにより、一瞬にソラリスを瓦解せしめたフェイの力を恐れた人々よって施されたカーポナイト凍結によって与えられた人工的な眠り。自身を否定したことよって生まれた、自己の意志による眠り。
 その、双方の力に身を預けて、彼は眠る。
 友人の苦しみに、気付く事もなく。
 彼は意識の海で、そう、眠る。
「フェイ、お前の眠りに。夢は、安らぎはあるのか?」
 かつんとフェイの眠る棺にも似た容器を僅かに蹴って、小さく、彼は言った。
 胸が苦しくて仕方なかった。
 親友を否定などしたくなかったのに、と。



 また、音がした。
 リズム。存在の、リズム。命の証。
 誰かが泣いているんだろうか?
 大切な友人が。そんな風に、不意に思えた。
『くだらないな』
 不意に声が聞こえてくる。
 身を委ねるあおい空間以外は何もない、だからこそ穏やかで無限の虚無の漂わせる場所を切り裂く声に、びくりと身体を震わせて、黒髪の少年は振り向く。
 真紅の衝撃。身を切り裂くには充分の、熱。
「……イ…ド…」
 呆然と目を見開いてから、彼は気付く。
 ここは、彼だけの為の場所だ。他人が入り込めぬ意識の海の中。甘美な現実からの逃げ場であり、同時に吐き気を催すほど汚濁した場所でもある。
 自分自身の意識の海の中。
 そこに居るのは自分だけ。
 そう。ならば、イドが居る事は不思議ではない。
 白皙の肌と、激情を宿す真紅の髪。自分自身の中に確かにある、「欲望」という人格のみを保持する男。
 彼もまた「フェイ」なのだ。「フェイ」から生まれた、もう一つの人格。違いようのない自分自身。
『ふん。お前などに用はない。臆病者の下位に甘んじ続けるのももう飽いた』
 傲慢な宣言に、ほんの僅か怒りを覚えたが、それもまたすぐに消えてしまう。そんな彼をせせら笑うようにちらりと見やり、イドはぐるりと周囲を見渡した。
 限りなく黒に近いあおい空間。
 外界から目を背け、眠りつづけるには最適の場所。
 そして意識の殻に閉じこもり続ける為に今まで意識の表面に出ていたフェイによって誕生させられた、膝を抱えて俯くもう一人の、フェイ。
『どいつもこいつも』
 逃げて、苦しみを誰かに押し付ける事しか知らない。
 そんな感慨が不意に浮かんで、イドは舌打ちした。
 破壊と憎しみと、それらの衝動と欲望のみを具現化した自分に、そのような感慨など不必要なものであるからだ。
『夢? 』
 不意に、イドは眉をしかめた。
 意識の海の底にまで響いてきた、誰かの声に。
 ――眠りに、夢は、安らぎはあるのか?
『……少なくとも…』
 何かを言おうとして、イドは止めた。
 変わりにざっと真紅の髪をかきあげ、唇を歪める。
 だから、分からなかった。
 イドの心に浮かんだ答えが、何であったのかなど。
 己自身にも、他人にも、父である男にも。否定されることしか与えられぬ男の心に、何が。
 そんなふうに自嘲めいた表情で、不意に響いてきた優しい言葉に返事をしようとしたイドを見て、なにかがひどく胸の中で苦しかった。
 取るな、と叫びたくなる。それはイドが返事をしていい相手ではないのだ。自分の為に、自分の事を、思ってくれている友人の声に。
 答えていいのは。いいのは?
 自分だけ、のはずだから。
――この光景は僕だけのものだ。イドになんて、母さんを殺した恐い奴になんて、見せてやらないよ――
 何故か、そんな声が聞こえてくる…。



「ねえシタン先生、若、見なかった?」
 軽やかにオレンジ色の上着をひるがえしたマルーに、すれ違いざま声をかけられて、シタンはゆっくりと首を振った。
「いいえ。見ませんでしたが。若くんがどうかしたんですか?」
 怪訝そうに不思議な形の眼鏡を押さえていう。
「ううん。別になにがあったってわけじゃないんだ。でも、ちょっと様子が変だったから、ボク心配で」
「それで話しでも、と思ったら、いなくなっていたんですか?」
「うん。部屋にもいないし、ユグドラのみんなにも探してもらったけどいないんだ。それでシグルドに聞いたら、シグルドも探しているっていうんだよ。これはいよいよ、ちょっとおなしいなって思って」
 小首をすこしかしげて、眉をひそめる。
 やんちゃな少年めいた雰囲気をしているマルーだが、そんな仕草をすると、彼女も思春期の少女なのだと良く分かった。
「確かにシグルドまで探しているとなると、ちょっとおかしいですね。勝手にいなくなったりはしないでしょう? 若くんは。とはいえ、シェバトを出られるはずはありませんし。E・アンドヴァリはありましたか?」
「うん。変わりなく」
 こくこくと肯いて、そのまま又彼女は走り出した。
「とにかく、若を見つけたら、ボクかシグルドに教えて!」
「ええ。分かりました」
 天の青によくはえる碧色のリボンをふわりと空に舞わせ、駆け去るマルーの後ろ姿を見ながら、シタンは不意に自嘲めいた笑みを唇に浮かべた。
「若くんの様子がおかしい、か。それを言うなら、全員でしょうねえ。フェイを結局、カーポナイト凍結させることに異議を挟めなかったのですから。私のように、フェイとイドの正体を知っていてもなお、彼を裏切ったような気持ちになる」
 そこまで呟いて、シタンは緩やかに首を振った。
 守護天使として、人をの行く末を見定める者として、天帝から監視者の使命を言い渡されたあの日から、己の心の痛みなど考慮に値せず、と判断したというのに。
 なのに。正体を偽り、フェイに自分を信用させ、彼を監視し続けた在りし日よりも、今の方が心が苦しいのはなぜだろうか?
 カーポナイト凍結を止められなかった事により、フェイを。そして、イドを否定してしまった今が。
「以外と私も――女々しいな」
 腰に佩いた剣に無意識に手をそわせて、溜息を吐く。
「否定しようと思ったわけでは、ないんですけれどね。総合的な意味で、貴方を救うには、ばらばらの心が一つに再び戻る事しかないと思っていたんですよ。それが、たとえ天帝の意志と異なっていたとしても」
 そして、問い掛ける相手のいない言葉を、空に放つ。



 また、声が聞こえてきた。
 あおいあおい空間の中に。
 小波のように、苦い追憶を僅かに含んで。
 そんな中で、又、声が聞こえたのだ。
 誰の声だったろうと、思う。
 懐かしい声。多分、兄のように思っていた人の声。
 なのに的確な名詞が出てこない。茫漠と霞んでいる。
 イドが、また、嘲笑っている。
 自分だけが大切だから、そうやって忘れることが出来るのさと、言っているような気がする。
 別に、自分だけが大切だなんて思っていない。
 否定したいのに、否定の言葉は口からでない。
『奇麗事さ。しょせん、そんな望みは』
 逆にイドが今度は言葉を出した。
 それは、誰に対する返事なのだろうか?
 どうして自分に対してかけられた声に、自分ではなくイドが答えるのだろうか? 
 そんな思いに、胸が、苦しくなる。
 自分が、否定されていくような感覚。
 ああ。イドが、嘲笑している。
 周りを否定しているのは、お前だろうと言っている。
 眠っていればいいのだとも。
 夢は、まだ、見れない。
 救いも、まだ、現れない。
 そもそも、救いとはなんだろうか?



 短くしている銀色の前髪をかきあげて、ビリーは不意に唇をかんだ。ブーツに覆われた彼の足はカーポナイト凍結されているフェイの元へと続く道に向かおうとしていたのだが、それが不意に止まる。
「どんな顔して、フェイに会えばいいのさ」
 少女のような端正な顔を曇らせて、呟く。
 以前とは異なり、フェイを連れ出して逃げようとしたエリィはいない。そもそも、フェイ自身、眠りつづけるばかりで、なんの意志も見せてくれなかった。
 だからと言って、自分自身を否定しなくてはならなかったフェイを、どうして更に苦しめる権利が自分達にあるのか?
「人を裁く権利なんて、誰にもない。それを、僕は知っているはずなのに。エトーンとして、裁いてしまっていた僕だからこそ」
 ぎりっと、そこで唇をかみ締める。
 神の救いなど、この世にはない。神は己の心の中にいるばかりで、直接的な救いをもたらす存在ではない。
 ならば、どうやったら、フェイは救われる?
 フェイの別人格だというイド。ソラリスを瓦解させた男が発していた圧倒的な力と、そしてそれと同じくらいの絶望を、誰が救える?
「フェイ。君はきっと、イドの悲しみだって理解しなくちゃいけないんだよ。破壊する事でしか、何も得られないと考えるしかない彼を。だって自分を救えるのは、自分だけなんだ」
 呟いてから、彼は踵を返した。
 扉を出て少ししてから、自分が入る事の出来なかった内部に駆け込んだ少女の後ろ姿を一度だけ振り返る。
「マルーさん? ああ。じゃあ、中には……」
 フェイに会うことが出来なかった自分とは違って、意識の殻に閉じこもったフェイと現実を繋ごうと考えた人間が、いるのだろう。
「親友だって言ってたもんな。だったら、辛いよね。こんな状況」
 そのまま、もう一度は振り向かずにビリーは去った。



『救いなど、あるわけがない』
 どこかで、誰かが人々の思いに言葉を返す。
 意識を閉ざし、現実から目をそらし、己の殻の中に埋没する少年には、もうそれが自分自身にかけられていた優しい言葉たちだと理解する事も出来ない。
 ただ、そこは、あおく澱んでいた。
 自分以外はだれも訪れぬ、意識の海の底。
 イドはそんなふうに考えることしかせぬ「フェイ」を、物でも見るような視線でねめつける。
『救いなど、ない』
 また、繰り返す。



「若!」
 石畳の階段に高い音を響かせて、マルーは冷たい室内に飛び込んでいった。シェバトとユグドラシル。その双方を探し回り、もう探していない場素はここしかなかったからだ。
 そして、カーポナイト凍結されたフェイと現実を繋ごうと、眠る彼に話し掛けているのではないかと思い当たる。 
 フェイを再びカーポナイト凍結させるという決断が下された後、バルトが表立って様子を変えたことはなかったが、あまり笑わなくなったことに、マルーも、そしてシグルドも気付いていた。
 初めて手に入れた友人を、再びカーポナイト凍結させるという裏切り行為が、どれほどバルトの心を苛んでいるのだろうかと、シグルドが呟いた憂いを、マルーは万感の思いで同意したのだから。
 若はどれだけ苦しいのだろうか。そんな事を改めて考えると、胸が痛かった。全てを否定して眠りつづける事を選んだフェイに、ほんの少しばかり八つ当たり的な怒りを覚えてしまうほど。
「これがエゴにすぎない考えだって、分かってるけど。でも、フェイがちゃんと意識を持ってくれていたら、凍結に反対する事だって、出来たかもしれないんだ。現実を否定することは、ボクたちを否定するのとおんなじだっていうのに」
 小さく呟きながら、マルーは必死に走って、奥の扉に手をかけた。それが異様なまでに冷え切っていて、内部装置が稼動しているのが良く分かる。
「若!? いるんでしょっ」
 叫んで、彼女は中に飛び込んだ。
 凍てついたような空間にふさわしい薄暗さの中、マルーの探し人はたたずんでいた。陽溜まりの金が、気のせいだろうか僅かにくすんでいるように見える。常に前を見定める隻眼も、今は伏せられて、睫毛が暗い影を落としていた。
 不意に、マルーは恐かった。
 眠りつづけるフェイと同じように、バルトまでが現実を否定してしまったのではないだろうかと、何故か突然思えてしまって。
 それは、人の行く末を導く為に、常に明るく眼差しあげ続けている彼の、暗く打ち沈んだ瞳が見せた錯覚であったのかもしれない。
「マルー?」 
 恐怖に打ち沈みかけたマルーを救ったのは、たった一言のバルトの返事だった。
 けれどその言葉で、マルーの硬直が溶ける。
 若は自分達の手の遠いところには行ってしまっていない。それがひどく、嬉しかった。手を伸ばせば届くところに、彼はこうしていてくれている。
 わざと元気良く彼女は階段を駆け降りて、バルトの隣りにマルーは立つ。深々と冷え込んだ気温が肌を蹂躪し、もう長い間佇見続けている従兄から体温を奪っていってしまっているのが分かった。
「若、風邪ひいちゃうよ」 
 ためらわずにマルーはバルトの手を握りしめ、眉をひそめる。伝わってくる冷たさは、まるで彼の心を象徴するようで、あまりに悲しい。
 無言のままバルトはマルーを見て、僅かに笑った。
「どうしたの?」
 それがひどく不思議に思えて、彼女は尋ねる。
「いや。人って、あったかいよなって思ってさ。俺は今まで本当に、誰かの温かさに守られて生きてきたんだなって思うよ」
「若?」
「前は、アヴェの復興とか、俺の価値は残された最後の王子であるってことしかないんじゃないかとか、色々考えもした。でも、たとえどんな理由であっても、俺という価値を認めてくれる他人が、必ず存在していたんだよな。俺には、辛い時には叱咤して、道を示してくれるシグがいて、泣けば構ってくれる爺がいて、一緒に前を見てくれるマルーがいた」
 一緒に前を見てくれる。そのバルトの言葉に泣きたいほどの嬉しさを感じながら、けれどマルーは黙っていた。彼の言葉にはまだ続きがある。それがわかるから、それを促す。
 バルトは僅かな迷いを払うように、隻眼にかかる髪を払って、小さく息を吐いた。
「俺は一体何を考えてるんだろう。こうして立っていると、眠っているフェイを見ていると、俺の名前を呼ぶ事で俺を救ってくれたあいつの哀しみよりも、もう一人のあいつの事が考えられて仕方ないんだ」
「――イド、のこと?」
 躊躇いがちなマルーの質問に、バルトは苦笑する。
「何もかも否定されたら、人には何が残る? 先生はイドとフェイは同一人物だといった。なら、なんだって一つの人格が分かれなくっちゃなんねぇ事体が生まれたんだ? 欲望の名を冠して生まれた男。破壊と、殺戮のみを保持する者。だけど、多かれ少なかれ、誰の心にだって全てを破壊したくなる時ってのはある。でもそれをしちまったら、あとで苦しいのは悲しいのは自分だって分かってるから、しないだけだ。でも、でもさ」
 苦しげに眉をひそめて、彼は、フェイを見つめる。
 いや、フェイの中の「イド」を。
「そういうのを止めてくれるのは、自分の中にある大切な記憶とか、優しい人たちだ。大切な誰かがいる世界だから、守りたい、壊したくないって思うんだ。でもイドにそれがあるか? フェイを大切に思う奴はいるさ。自惚れていいんなら、俺だってそうだ。今はここにいない、救わなくっちゃならないエリィだってそう思ってるはずだ。フェイが大切にしている人間だって沢山いるはずだ。でも、イドにはない。イドに与えられているのは、破壊するということ、殺戮するということ。それに歯止めをかける記憶もなければ、存在もねぇんじゃないかって」
「――若」
「孤独だよな。そう思うんだ。誰がその孤独を止めれるんだ? 孤独を止める存在は、全てフェイが持っている。でも、イドは何も持ってない。何もさ」
「そうなんですよ。若くん」
 不意に横手から声が響いてきて、バルトは無意識にマルーを背後に庇って振り向いた。響いてきた声に心当たりはあり、危害を加えてくるような相手ではないと分かるのに、そうさせるだけの底知れぬ迫力が、声に――いや存在自体に含まれていたから。
 扉を開けて現れた人物。それは、バルト達がよく知る、シタン=ウズキに間違いなかった。
「先生?」
「私は間違っていたのかもしれないですね。フェイを監視する者として、彼の父親の手によって封じられたイドの覚醒を防ごうとしていたこと、その方法が、間違えていたのかもしれない」
 かつん、と音を立てて彼は階段を降りてくる。
 常に知的な輝きをともす漆黒の瞳が、今はやけに暗い。良く見れば、腰の剣が外されていた。
「イドとフェイ。彼等は確かに、元は一つの人格であったんですよ。いえ、正確に言えば、彼等を作り出した「臆病者」とイドが呼ぶ人格から生まれたペルソナなのです。「臆病者」が、己に与えられる苦しみから逃げる為に作り出した人格がイド。イドの破壊能力を恐れて人為的に作り出された人格が、今のフェイ。私は最初、新たに生み出された第三人格であるフェイが穏やかな暮らしを続けていくことが出来るのならば、いいと思っていた。それを守ってやることが出来ればいいのだとも、ね」
 自嘲めいた笑みを浮かべて、シタンは不思議な形の眼鏡を僅かに押さえた。まるでそうすることで、哀しみが色濃く宿る瞳を隠そうとするように。
 だから、バルトは知った。自分よりも、フェイと長く共にいて、事情も知っていた彼のほうが、ひどく苦しいのだと。それを理解して、初めて彼は無意識に入れていた肩の力を抜いた。
「少しずつ、私は強引に分けられた人格の融合を計るべきであったのかもしれない。イドを私が否定してはいけなかったのですよ。誰が否定しようとも、イドとフェイが同一人物であるのだと知っていた私が、彼を否定してはならなかった。そう、思います」
「先生が別に悪いわけじゃねえだろう。ユグドラを潰された時の恐怖は、どうしようもないほどの質量を伴ってた。そりゃあ、あの時の俺は、イドとフェイが同一人物だなんてしらなかった。でも知らなかったからといって、許されるもんじゃねえ。俺は確かにあのとき、イドを憎みさえしたんだから」
「若くん」
「俺のほうがひどいぜ。最初、イドとフェイが同一人物であるっていわれて、それ自体が納得できなかったんだ。こうやって、ここで眠るこいつを見つめるまで。側に立っているだけで、心に忍び寄ってくる感情に気付くまではさ」
「感情、ですか? それは一体?」
「孤独。誰にも認められない、その上自分自身にまで否定されてしまった存在の、あまりの孤独に」
 苦笑して答えたバルトに、僅かにシタンは肯いた。
 自分という存在が認められていないのでは、という孤独。多重人格から生み出された、同じ「人」であるはずなのに、その中の人格の一つに過ぎぬというのに否定される事によって生まれる孤独。
 それは、あまりに特殊なもので、王子としての「存在」と、バルトという個人としての「存在」という二つの狭間に囚われて、苦しみつづけた彼だからこそわかることの出来た、孤独であるのかもしれないと、シタンは不意に思う。
 そんな黒髪の青年の感慨までは知りうる術がないバルトは、淡々と言葉を続けた。
「でもさ、今は分かるんだ。こうして、孤独を感じるにつれて。分かってきた。イドとフェイが同じ人間なんだって、わかるよ。感覚として。イドは確かに全てを破壊する人格なんだよな。俺は何度か見てるし。でもさ、不思議だと思わないか、先生」
「……? なにが不思議なんです、若くん?」
「だって、俺生きてるんだぜ? 素手でギアを倒す、なんつーとてつもない事ができるイドを相手に一対一でギア戦してさ、こうして生きてる。確かにシグが無茶してユグドラ潰してまで助けに来てはくれた。でもさ、その後、殺せたはずなんだぜ? 俺も、ユグドラの乗員も全て、皆殺しに出来たんだ。一回だけならフェイの意識がイドに勝ったからだって言えるかもしんない。でも、俺達あの後、何度かイドとは戦ったり会ったりしたけど、誰も欠けてねぇんだ。俺達の中の、誰も殺してないんだ」
「ええ、そうですね」
「どっかで分かってんのかなって、思うよ。フェイが大切にしている人間ってのは、イド自身にとっても、大切にする人間…大切にしたい人間であるのかもしれないってさ」
 そう言って、バルトは心配そうに彼を見ているマルーを見て、少しばかり笑った。
 微笑ましい少年少女の姿に、シタンは少し笑う。
「……。孤独。精神を蝕む最大の、哀しみ。それこそが、今のフェイも、イドも、完全に心を閉ざした本当の人格も、蝕んでいる最大のものかもしれないって思うよ。俺は」
「ええ。きっと、そうですね。そして、その孤独を一番知る事のできる位置にいながら、私は何も見ていなかった。一番フェイを見ているつもりで、その実、一番彼を見ていなかった。その結果が、これなのかもしれない」
 苦しげなその言葉に、バルトは声を返せなかった。
 ただ、彼等は凍結の眠りに就くフェイを見つめる。
 眠り続ける彼。
 全てを破壊する衝動に、荒野となりはて死の翼が舞い下りた後に広がった惨劇の現実に、疲れてしまった彼を。その中でひそやかに眠る、イドを。
 その孤独に、想いを馳せる。



 そこはよどみ始めていた。
 美しく広がったあおが、今は消えようとしている。
 安らかな暗さは、うすぼけた暗さに変わり、頭上から幾筋かの光が落ちてこようとしているう。
 けれど、その光に、現実から目をそらそうと自己意識の眠りに落ちていたフェイは、違和感を覚えた。
 誰かが誰かを呼ぶ声。
 それは確かに自分を呼ぶ声。
 けれど、違う。何かがひどく違う。
 何故、と思う。
 ――これは、イドをも呼ぶ、声だ。 
 それに気付いて、彼は顔を上げた。
 ゆうるりとたゆとう黒髪が、波間をさざめく。
 先程まで確かに側にいたイドの姿は、今はなかった。
 それが、こわい。
 呼ぶ声が、自分を否定したのかと思う。
 呼ばれているのは、自分ではないのかと思う。
 ――孤独?
 これが、孤独なのだろうか。
 自分が自分を否定するという事。誰かに否定されるという事。認められない存在の、希薄な軽さ。
 
 孤独は。
 孤独を認識した時にはじめて、孤独となる。

 彼ははじめて、それを自覚した。
 同時に知った。今までの自分が、どれだけ他人に肯定され、存在を確かなものとしていたのかも知る。
 そしてそれを失った状態というものが、どれほど悲しく、希薄で、軽いものであるということも。
「俺は」
 久しぶりに呟いて、彼は顔を上げた。
 全てを捨て切っていた瞳に、何かが…そう、意志の影が蘇り始めている。
 ――お前の眠りに…夢は、安らぎはあるのか?
 ――ばらばらの心が一つに戻る事しかないと…。
 ――自分を救えるのは、自分だけなんだ
 自分に「フェイ」にかけられていた言葉が、今、はっきりとした重みを持って、聞こえてくる。
 紛れもなく、自分に欠けられていた、言葉たち。
「バルト…俺の安らぎは、現実にあるんだよな。先生、一つに戻るってのは、どういうこと? 俺も、イドも消える? どちらかがどちらかを吸収してしまう? ビリー本当に…イドを自分を、救えるのか?」
 自分の唇で、自分の声で、自分自身の考えで、言葉を返せる事が、こんなにも嬉しい。存在を認めてくれる人がいることが、こんなにも優しい。
 フェイは、顔を上げた。
 ――自分が自分を否定してはいけないのよ。誰かが自分を必要だって言ってくれている限りは…
 そんな、エリィの言葉さえもが聞こえそうな気がする。優しい、大切な人の声。
「君はもしかしたら、俺よりも誰よりも早く、俺とイドを、認めてくれていたのかもしれない」
 最後の最後に、エリィの名前を呟き、
「俺はもう、逃げない。なにも否定しない。目覚めの時に何がまつのか、それは分からないけれど、でも俺は、みんなが認めてくれる俺を、「自分」を否定したりはしない」
 髪がざっと揺れた。
 双眸は、無限に広がる、空間を見つめる。
 そして、
「……イド……」
 彼は、もう一つの己の名を、呼んだ。

「戻」