追憶と共に生きる者へ

 それが――本当に見えたわけではない。
「やめて! ゼプツェンが勝手に? いやあ!」
 叫んでも、泣いても、止められぬ現実。
 封印されていたグラビトロン砲が咆哮をあげる。
 そして変化。
 圧倒的な衝撃に砕かれた装甲。
 同時に視界が映像を捕らえる。
 あまりに簡単に、あっけなく、コックピットを蹂躪する贖罪の熱に焼かれ、爛れ、溶けてしまう人の肌。
(お父様!)
 見えないはずの映像が、目の前を染めてゆく。
 穿たれた眼窩が何かをを求めるように見開かれ、どろりとした音を立て肉のこぼれる指が、真っ直ぐに伸ばされ、ぼたり、と落ちる。
 それは、まだ、蠢いていた。
 身体から切り離された事を知らぬように、ただ一つ求めるものを得るために、ず……ず……と音を立て、動く。
 鋼の巨人。つい先程、永劫の闇へと一人きりの肉親を放り込んだゼプツェンを目差し、進みくる。
(やめて)
 言葉にならぬ思いが、胸を支配した。
 嘔吐感が込み上げてくる。
 はいずり、蠢く物。それはかつて大切な人の身体の一部であったものだ。忌まわしいものではない。本来ならば、否定してはならない父が差し伸べる手だ。
 けれど、手を取る事など出来ない。
 やってくるのは身体から切り離された腕。高熱に焼かれ、所々卑猥な骨の白を見せ付ける肉体の残骸だ。
(やめて!)
 ひゅうひゅうと喉が鳴って、悲鳴もあげられない。
 やがて、手は登ってくる。
 彼女の身体を、抱きしめる為に……。


  「きゃああ!」
 夢の中とは異なる、実際に呼吸器を震わせて発生された自分の声に驚いて、暗い夢からマリアは目覚めた。
 心音が激しく打っている。まるで心臓が破けてしまうのではと思うほどで、マリアは右手で胸を押さえた。
(ここは…どこだったろう)
 未だ現実と夢の境をさ迷う意識が覚えた疑問を抱えて、マリアは懸命に細い理性の糸を手繰りよせる。
 そうしてやっと、シェバトの見慣れた自分の部屋にいることを思い出した。時間はひどく遅い。
「今日は……そう、ソラリスがシェバトに攻めてきて……そして……」
 夢ではない、残酷な現実が悪夢以上に彼女を責める。
「お父様」
 待ち望んだ再会だったはずだ。
 もう一度父に会えたら、何を話そうか。どうやって甘えようか。そればかりを、いつも考えていたはずだったというのに。
 現われた父は、間違いなく父であるのに、違った。
 彼は変えられてしまっていた。
 人質であった自分を逃がし、完成したギア・ゼプツェンをもまんまと運び出してしまった父ニコラを、当然ソラリスは許さなかったのだ。
 そして、目の前に父は現われた。
 純粋な力を求める心に洗脳され、人の命を愛しむ優しさを奪われた、哀しい抜け殻のような父が。
 破壊者として、アハツェンと共に現われたのだ!


「この声は…お父様?」
 残酷な予感に声が震える。
 口腔内が一気に渇き、それは掠れた音になった。
 マリアの震えをよそに、ソラリスに現われたアハツェンから響く懐かしい声は、ジェネレーターを守り抜いたフェイ達を嘲笑い、マイクロ波を放つ。
「なんだ? ギアが動かなくなったぞ!」
 最初に困惑した声を上げたのはフェイだった。
 それに答えるように、別のジェネレーターを守っていたバルトが唇を噛む。はっと目を見開き、反応の失せた操縦管を睨み付けたのはビリー。起きた現状を把握しようとするのはシタンだ。
 様々な会話を通信が伝える中、マリアは呆然としていた。父の声が、父でなければ為せ得ないアハツェンの技術が、非情な現実の認識を容赦なく彼女に強要してくる。
 ゼファーの声が遠くから聞こえた。
 女王は何かを言っている。
 落ち着け? 落ち着けと、言っている?
(落ち着いて、親殺しをしろと!?)
「出来ません! そんなこと、絶対に!」
 抗うように叫んでいた。
 愛機ゼプツェンのみが戦えるのだと誰かが言う言葉が、まるで氷のように心に忍び寄ってくる。
 あれはもう、父ではないと他人はいう。
 けれど父は父なのだ。どうして戦えよう!
「あたチュがいくでチュよ! マリアしゃんは、ここでまっているでチュ!」
 葛藤に渦巻く心に、可憐な声が響いた。
 くるくるとした可愛らしい瞳は、懸命に絞り出したのだろう勇気が湛えられている。その眼差しに、心からの優しさを湛えて、人とは異なる種族の小さき獣は肯く。
「まって! 危ない、危ないわ!」
 マリアの声を無視し、チュチュは勢いよく走り出す。
 目の前に立ち塞がる敵――なんという忌まわしい言葉だろう。父を差す言葉が敵だなどと!――から仲間を守るために、戦おうというのだ。
 巨大化し、戦おうとするチュチュ。
 仲間を守るため、肉親と戦うことが出来ないマリアの心を救うための、優しい行為を嘲笑う父。
 そして、シタンの娘ミドリの声。
「呼んでる。あそこじゃない。でも、呼んでる」
 なにかが、自分の中で弾けた。迷いがほどけた。
 もう迷ってはいけないと。
「ゼプツェン! 待たせてごめんね。行こう!」
 気付いた時には叫んでいた。
「アハツェン、貴方を倒します!」
 と。
『身体は失っても、心はゼプツェン、いやマリア。お前と共にある。これからもずっとな…』
 
 父は紅蓮の炎にまかれながら、確かにそう言った。
 ゼプツェンと戦う未来を想起し、設定されていた良心回路。自らが娘の敵となり、それに覚悟をもって娘が対峙する決意を下した時、発動するように仕組まれたプログラム。
 確実に、娘に父親を殺させるための回路。
 マリアの行為は確かに父を救ったのかもしれない。
 操られていたとはいえ、父の心は苦しみ悲しみつづけていたのだから。
 けれど…。

  救いを請う者は、
   救いを請われ、それを為す者の苦しみを
     知っているだろうか?


 がたんと、不意に音が響いた。
 驚いて身体を震わせ、意識を現実へと戻す。
 音は、窓枠においた写真が落ちたのものだった。
「お父様」
 写真までが、父をこの手にかけた現実を糾弾しているような気になる。いやいやをするように頭をふって、ふと、マリアは喉がひどく渇いていることに気付いた。
 乾く喉とは裏腹に、口腔内はひどくねっとりしていた。それは体内を流れる血液の濃度を思い起こさせ、彼女は吐き気を覚える。
 マリアは震える手で写真を戻し、思わず走り出す。
 行く場所は一つしかなかった。
 父を葬った存在。けれど自分の側にあると言ってくれた父親自身が眠るゼプツェンの元へ。
 きれる息もかまわずに走り続け、飛行板に飛び乗る。
 普段ならばすぐゼプツェンに辿り着くが、今日ばかりは違った。というのも、シェバトに収容された、アヴェ王朝最後の王子・バルトロメイ=ファティマの保持するユグドラシルの甲板に、移動されていたからだ。
 夜明けと同時にユグドラシルはシェバトを発つ。
 全ての悲劇を生み出す、隠された都市。神聖国家ソラリスに直接攻撃を仕掛けるために。
「ソラリス。絶対に、私とゼプツェンが、お前を滅ぼす黒き翼になってやる! お父様と私の絆、それを奪おうとした奴等なんて!」
 憎しみの言葉を口にしている間だけは、手に残る父を殺した感触から、解放される気がする。
 唇を噛み締め、必死に駆ける少女の姿を、彼女と同じく眠れぬ夜を過ごし、ユグドラシルの甲板近くに出てきていた少年が見付けた。
 少年――ビリーの表情は曇っていた。なにかをひどく思いつめている、そんな印象を持たせる瞳をしている。
 子供の頃に母を目の前で失い、幼いながらも必死に妹を守ろうと気丈に振る舞ってきた彼の、唯一の心の支えであった教会。それを、ビリーは失ってしまっていたのだ。
 教会こそが真実だとずっと信じていた。
 信仰を否定されるくらいならば、帰ってきた父親を否定することも、彼が投げかける教会への不審を無視することも簡単だった。
 間違っているはずがない。それが答えだった。
 けれど、結局それは間違っていたのだ。
 自分が受けた哀しみから人々を救う行為と信じていた、エトーンとしてウェルスを排除する行動。
 ウェルスが哀しい存在だなど考えた事もなかったのだ。
 けれど。現実は、自分が手にかけたウェルスというのは、教会に保護を求めてきた難民たちの慣れの果てだった。
 地上支配の一環として作られた教会によって、彼等はソラリスに送られ、軍事実験によって死霊化させられてしまったのだ。
 お前も人を裁いていたではないか、とストーンは自分を嘲笑した。自分と妹を助けてくれた、尊敬する人。実際は、母を殺させた張本人にすぎなかったあの男!
 
『ウェルス化ってのは、凄まじい苦痛を伴うんだ。だからお前の銃で救われた奴等は、みんな静かな目をしてただろう?』
 
 父はそう言った。
 それは事実かもしれない。
 けれど、自分が罪もない人であった者達を、狩っていたのは事実だ。
 カツン、と一際高い音が響いて、ビリーは顔を上げた。目の前をかけていった少女の影が、丁度右手の視界の端で甲板に飛び降りたのが分かる。
 放っておいてはいけないと思った。
 自分に何かが出来るなどと傲慢な事を考えたのではない。ただ、昼間かなり精神的打撃を受けただろうマリアの思いつめた雰囲気の中に、自分と同じ苦しみのようなものを見付けてしまったのだ。
 誰かを救う行為で、自身が傷ついてしまった者の。
 マリアは駆ける己の足音に響きあうように発生したもう一つの音に気付かず、ただひたすら走り、ゼプツェンの前にまろびでる。
 遠隔操作が可能な唯一のギアであり、マリアのみを乗り手と選ぶゼプツェンは、すぐに幼い主君に気付き、僅かな振動音と共に動力を点火させた。
 それはまるで、まだ幼かった頃、父に駆け寄る自分を優しく笑って待ってくれたニコラの動きに似ていて、マリアは胸が締め付けられる思いにもだえる。「お父様……お父様、お父様!」
 巨体を屈め、手を差し伸べてきたゼプツェンの、ひんやりとする金属に頬を寄せて、マリアはその場にしゃがみこんだ。
 受けすぎた衝撃の大きさに、昼間は麻痺していた追憶が、今は彼女の心に大きな鎌首をもたげてくる。
 耐えようもなく、哀しかった。
「お父様は私と一緒にいてくれると言った。でも、私、お父様を殺してしまった。心は側にって言ってくれた。でも、お父様の肉体を滅ぼしたのは、私でしょう? 夢を見るの。お父様が崩れてゆく夢。それでも私の側に来ようとしてくれる。でも、私、近寄れなかった。恐くって、お父様なのに気持ち悪くって!」
 まざまざと、夢が目の前に再現される。
 伸ばされた手。やけにリアルに崩れた手の、黒に近い鮮血の色と、すえた蛋白質の燃える匂い。それらの全てをはっきりと思い出す。
 縋るようにゼプツェンの手に顔を埋める。
「私、どうしたらいいの? ゼプツェン、いえ、お父様。ソラリスは絶対に許さない。でも、ソラリスがなくなった後。わたし、どうしたらいい?」
 復讐の甘い美酒は、砕けそうにな心を支えてくれる。けれどそれが終わってしまったら?その予感の恐ろしさに、マリアは震えた。
「わからない、わからない、わからないの」
「きっと誰にも分からないよ。それは」
 両手で頭を押さえ、うな垂れて首を振っていたマリアは、突然の言葉にびくっと身体を震わせた。独白に返事が返ってくるなどと、一体誰が思うだろうか?
「あ……、ビリー…さん?」
 慌てて上げた視界に、夜もふけているというのにきっちりと身形を調えたままの銀髪の少年が入ってくる。哀しみに足掻く自分を見られたことの気恥ずかしさに、彼女は無意識に乱れた髪に手を添えた。
 覗き見された事への怒りを羞恥心が吹き飛ばしてしまったのか、マリアはビリーを叱責し忘れている。
「ごめん。盗み聞きしようと思ったんじゃないんだけど。ここまで走ってきた君を見付けて」
 少々困ったようにビリーは言って、すとんとマリアの隣に座り込んだ。彼が正装とする聖服が、清掃されているとはいえ甲板につくのも厭わずにだ。
 冷静なビリーに変わってマリアが慌てた。
 その様子に、少年は少しだけ笑い、
「大丈夫だよ。見かけほど、たいした服でもないしさ。それよりも寒くない? 大丈夫?」
 逆に寝着とまではいかないが、かなり軽装でしかないマリアに向かって尋ねる。その言葉に己の身形を思い出して、少女は真っ赤になった。
「え? あ、大丈夫」
 焦って答えたものの、周囲はひどく寒かった。
 というのも、ユグドラシルの艦内やシェバトの住居施設内は空調が調えられているので良いのだが、元々が高き蒼穹を住居とする場所である。常時気温は低めなのだ。
 精神が高ぶっていた時は気付かなかった寒さが、薄い衣をまとっただけの少女の肌に痛かった。
 けれど大丈夫と答えてしまったので、マリアは今更寒いとはいえず、さりげなさを装いながら腕で両膝を抱え込む。少しはそれで寒さが防げた。
 当然ビリーはマリアの仕種の真意にすぐ気付く。
 とはいえ、もう一度やっぱり寒いのと聞き返すのは嫌味な気がした。上着を貸してあげるよ、などという気障な言葉を吐く勇気もない。黙って上着を貸すよりも、余程気障な行為だと気付かずに、ビリーは黙って羽織っていた聖服の上着をマリアの肩にかけてやった。
「僕もさ、泣けなかった…」
 ビリーが唐突に小さく呟いた。
 驚いたマリアは目を丸くしたが、彼女以上に驚いたのは少年のほうだった。どうやらそんなことを口走るつもりはまったくなかったらしい。
 本当は、ビリーは父を殺す状況に追いやられてしまったマリアを、どう慰めようかと、冷静を取り繕った顔の下で先程から必死に考えていたのだ。
「え?」
 僅かの沈黙の後、マリアが聞き返す。
「僕はね、ずっと教会を信じてたんだ。死霊ウェルスを滅ぼす事で、沢山の人が救われるんだって信じてた。なのにさ、ウェルスは」
 最初こそためらっていたビリーだったが、話し始めると迷いは消えていた。
 語りながら、ビリーは自分の両手に視線を落とす。
 そこに何を見ているのか。
 眉根をよせた端正な少年の横顔を見て、マリアはふと理解した。少女も真似するように、じっと自分自身の手を見つめてみる。
 暗い影。粘りを含むモノ。鮮血の――罪の色だ。
 それは決して目には見えないものだ。恐らく第三者には幻だと判断されてしまうもの。けれど、だからこそ、精神を呪縛してやまない、追憶の影。
「ウェルスは人だった。教会に助けを求めてやってきた、罪もない人々のなれの果てだったんだ。それを僕は、なんの迷いもなく殺してきた」
 ユグドラシルに乗員する人々の全てが、それぞれの理由とそれぞれの目的を持っていることはゼファー女王からも、そして彼等自身からも聞いていた。
 ビリーが言う、ウェルスに関する知識も耳に入ってはいた。なので思わずマリアは、それは少年の瞳に宿る底知れぬ悲しみと追憶を察してであったが、仕方のなかったことだと言おうとする。
 それを制したのは、首を振った少年の静かな動きだ。
「そうだったんだと思うよ。マリアが思ってくれたみたいに、結果としては彼等は救われていたんだ。そう、死んでしまった者達の目は言っていた。周囲の人間だってそう言ってくれた。そして自分でも、たとえ知っていたとしても、殺すしか彼等を救う術はなかったんだと思う。でもね」
 一旦言葉をきって、彼は拳銃を手に取った。
「救われた人間はそれでもいい。でも、それをしなくちゃいけなかった側っていうのは、一体、どうしたらいいんだろうって。少し、思う」
「救わなくては、いけなかった者達」
「僕はさ、あの時知らなかった。ウェルスを排除している時は、彼等が悲しい存在であったんなんて。けれど今は知っている。でも、その行動を悔やむことなんて出来ないんだ。実際彼等はそれで救われていた。安らかな眼差しをしていた。それを与えた行為を悔やむなんて権利、僕にはなくなってしまったんだから」
 空に近いシェバトの、満天の星空を金属で覆われた天井の向こうに探すように、ビリーは天を仰ぐ。
「だから泣くことなんて出来なかった」
 泣いてしまえば、それは後悔と同じ意味になる。
 誰かを救った行為を貶めることになる。だから。
「走っていくマリアを見て、きっと僕とおんなじだろうって思った。泣くことは、お父さんを救うことが出来た行為を悔やんでしまっているようで、それを求めた父を馬鹿にしているような気がして、出来ないんじゃないかって。でも理性では理解している『父を救った行為』が、現実が、マリアを苦しめているんじゃないかって」
「――私」
「でもね、思うんだ。救われるものは、救った者の苦しさなんて考慮してはくれない。これからもずっと、生きていく必要のある人間は、誰かを失えば絶対に悲しいっていう、当たり前の感情さえ忘れてしまってる。でも、それは彼等だけの論理で、僕たちには当てはまらない。だから泣いたっていいんだ。復讐を考え続けねばならないほど、悲しみに対峙出来ないほど苦しいんだから。マリアは誰よりも、お父さんの死を哀しむ権利があると思うよ」
「私に、哀しむ権利がある?」
「あるよ。マリアはさ、さっき僕がウェルスを排除していたって言った時、『僕のせいじゃない』って言おうとしただろ? それと同じだよ。マリアのせいじゃなかった。そうしなければ救われなかった。そして」
「救われた者は、救った者の悲しみを知らない?」
「そうだよ。絶対にね。知らないんだ」
 珍しく断言して、ビリーは苦笑した。
 マリアは肩に彼が掛けてくれた聖服を手で握り締めて、少年の横顔に視線をやる。それから恐る恐る、ビリーの肩に自分の頭を預けた。 
 ふわりとマリアの髪から香る、思春期の少女のやわらかな香りに、さしものビリーもどきりとする。
「私、泣いても、いいの?」
「いいんだよ。マリアが悲しいの、当然なんだから」
「私――私……」
 泣いてもいい。
 哀しんでもいい。
 その言葉が、頑なな心の中にするりと入っていくのが分かる。涙をこらえていた枷が、溶けてしまう。
 マリアは少年の肩に体重を預けて、ぽろぽろと泣き出した。
 一旦悲しみを表に出してしまえば、もう耐えることは出来なかった。悲しい記憶、手に掛けた感触、それのみに駆逐されてしまった過去の、優しい記憶たちが次々と目の前に蘇っては消えていく。
「お父様。どうして、どうして、死んじゃわなくっちゃいけなかったの? 私、お父様を殺したくなんてなかった。なかったよ」
 苦痛に悲鳴を上げる少女の心の言葉を、ただ黙って、ビリーは聞いている。肩にかかる重みだけが、今の彼女を現実に引き止めている。そんな気がした。
 次第に、マリアは途切れ途切れに、夢の事や父の死に行く様の幻覚のこと話した。話してしまったほうが、楽になる。そんな気がしたのだ。
 しばらく、随分とマリアには長い時分のように思えた時が経過して、少女はやっと少年から身体を離す。
「……ごめんなさい。もう、大丈夫。ビリーさんみたいなお兄ちゃんがいれば良かったな」
 久しぶりに、はにかんだような笑みを浮かべて言う。
「お兄ちゃん?」
「うん。私、ずっと一人だったから」
「兄弟じゃなくったって、これからは一緒なんだから、おんなじだよ。もう、一人じゃないんだし。まあ、もう一人くらい可愛い妹がいても楽しくっていいと思うけど。僕としては。きっとプリムも喜ぶよ」
 これ以上の悲しみにマリアが埋没せぬよう気を使っているのか、おどけた口調でビリーは言う。くす、と少女は笑って視線を上げた。
「プリムちゃんって、こう銀髪で、これくらいの髪の長さの?」
「そうだよ。兄である僕がいうのはなんだけど、すっごい可愛いんだ」
 妹のことになると、途端に冷静さを捨てて単なる兄馬鹿になる彼だった。マリアは前方を見詰めたまま、
「うん。可愛い。特に歩き方が…」
「僕が早く歩いちゃうと、一生懸命追いかけてきて、手をね、掴んでくるんだ。それがまた可愛いんだけど、って? 随分と具体的に言うんだね、マリア」
「うん。だって、あれ」
「あれ?」
 ここで初めてビリーはマリアが自分のほうではなく、デッキの方、ようするにユグドラシル内部の方向に視線を向けていることに気づいた。
「……まさか…」
 想像したくない、けれど簡単に想像できてしまう光景を脳裏に描き、恐る恐るビリーは振り向き、
「ぷ、ぷ、プリム!?」
 可愛らしい足取りと行動で、無謀にも甲板に降りようとしている最愛の妹の姿を見つけてしまった。
 もしプリムが喋ることが出来るのならば、確実に『おにいちゃ〜ん!』と呼びかけていただろう。変わりに今、可愛い笑顔を兄に向けている。
「プリム、駄目だ! 落ちるから、またがないで! 行くから、お兄ちゃんがそっちに行くから!」
 ビリーが動揺しているのは、甲板へと降りる階段を塞ぐ格子戸(マリアとビリーは軽やかに越えた代物を)にプリムが足をかけ、手をかけ、よじ登ろうとしていたからだった。
「プリムー!」
「ゼプツェン!」
 ビリーとマリアが、慌てた声をあげる。一人は駆け出し、一人はギアに命令した。
 その間にも、プリムは格子戸を登ろうとして。
「ああああああ!!!!」
「きゃあ!!」
 両者の行動が届くその前に、小さなプリムの身体が不意にバランスを崩して落ちそうになる。
 駄目だ、そう思って、二人は目を閉じた。
「たく。なぁにを間の抜けた悲鳴をあげていやがる。ガキ共が」
 けれどビリーの聴覚を次に刺激したのは、プリムが床に叩き付けられる鈍い音ではなく、飄々とした聞きなれた声だった。
「お、お、親父ぃ!?」
「おう。ビリー。真夜のデートはもう終わりか? 情けないな。手ぐらいつないでみせろよ」
「で、で、デート!? 手をつなぐ!?」
 思わず絶句したビリーの目の前で、彼の父親のジェサイアに墜落寸前に捕まれたプリムが、そっと上着を差し出した。
「え? もしかしてプリム、これを僕に持ってこようとしてたの?」
 こくこくと頷いて、質問を肯定する。
「たりまえだ。眠れないっていうからな、散歩にでも連れてきたらお前、気障にも女の子に上着かしてるじゃねえか。ま、それじゃ寒いだろうってプリムが言うからな。持ってきたんだ」
「……親父、一体どこから見てたんだ!」
「さあねえ。どこだったかな。最近年のせいか、物忘れがひどく激しくってな」
「ボケ老人のふりなんてするんじゃない! ユグドラシルの中で一番元気なくせに!」
「ほお。シグルドんとこの、大切な"若"よりも元気か。それはめでたい」
 わざとシグルドとバルトの名前を出して息子をからかい、ジェサイアはすたすたと歩き出した。
「まあ、あんまり気にしないこったな。それに明日は早いだろうが。ソラリス潜入、だからな」
 肩車されたプリムがにこにこと手を振る。
 怒りを中途半端にいなされたビリーは、怒って良いものやら、落胆すればいいのか分からず、呆然と去っていく身内を見守っていた。
 沈黙を破ったのは、マリアの笑い声だった。
「ビリーさんの家族って、面白い」
「面白い……」
 喜んで良いのかどうか、やはり分からないという表情をビリーは浮かべる。そんな彼の心情を知ってか知らずか、マリアは明るい笑顔をみせた。
「私ね、生きていけます。復讐が終わったあとに何が待つのかは分からない。永遠に、追憶が去ることもない。それでも、生きていけるって思います」
「追憶を胸に生きる……か」
「一人じゃないから、きっと平気」
「そうだよ。一人じゃないよ。僕でよかったら、兄にでもなんでもなるからさ」
 大真面目に答えるビリーを、マリアは明るさを取り戻した顔で見つめて、強く肯いた。
 生きていけると思った。
 今を生きる人とも、失ってしまった人とも。一緒に。
―― 人はそうやって、追憶を胸に生きていく生き物で
   あるのかもしれない…

ソラリス潜入は、もう目前に迫っていた。

「戻」