未来に続く過去の夢に

 偉大なる太陽を遮る巨大な雲が天空を貪欲に支配し、真昼の光を薄闇の中に閉じこめていた。
 不吉な予感を与える雲が、不意にぐずり、と動く。
 同時に大気の流れが変化した。
 乾燥してさらりとした感触を与えていた風が急速に湿り気を帯び、水の気配が強く砂上をよぎりゆく。
「雨が、ふるかな」
 ぽつりと、声が響いた。
 抑揚に欠けた声。それはともすれば大人びた印象を持たせるが、声音そのものはひどく幼い。
 それもそのはず、灼熱の大地と激しい太陽の元に晒されながら、くすみ一つない鮮やかな金色の髪を持つ者は、十才にも満たない子供だったのだ。
 ぼんやりと子供は上半身を壁にもたれていた。彼が背を預ける壁は、木材ではなく石材で作られており、壁と同時に柱の役目も果たしている。
 がらんと広い円形状の部屋には柱が見あたらない。
 壁は高く頑丈で、居住空間の快適さを追求するため、ないしは装飾のためと説明しても疑問が残る吹き抜けの高い天井を支えている。途中、石の継ぎ目はあったが大きな切れ目はなかった。
 窓のない、がらんとした密室の中。
 あるのは高い天井近くの小さな通風孔だけ。
 少年が「雨が降る」と言ったのは、雲の動きを見ての言葉ではなかった。通風孔から流れ込んでくる、僅かな外気を感じ取っての事だ。
 茫としていた少年が、不意に唇を噛みしめ身を捩る。
「若ぁ、いたいの?」
 あどけない声が冷たい部屋に響いた。
 驚いて、少年が深淵の青より更に深い碧の瞳を下に向けると、まるで鏡のように同じ色の瞳と出会った。
 壁に上半身を預けた少年よりもさらに幼く、甘えるように彼の膝に茶色の髪の頭を乗せて眠っていたはずの幼女が見つめてくる瞳。
 少年を見つめる瞳の中には、幼女が抱える彼への絶対的な信頼と、その人を失ってしまうのではないかという怯えとがはっきりと宿されている。
 まるで、世界に残されているのは、自分と、そして目の前の少年だけだと思っているかのようだ。
 けれど、それはあながち間違いでもなかった。
 彼等が身を寄せ合う場所は、豪奢な飾りと調度品とに巧妙に真意を隠された、高貴な者を幽閉する為の場所だったのだ。
 少年は幼かったが、自身が幽閉されていることも、その理由も知っていた。己と、たった一人自分の側にいる幼女の立場もきちんと分かっていたのだ。
 少年の名前はバルトロメイ=ファティマ。幼女の名前はマルグレーテ=ファティマという。彼等は従兄妹同士であり、砂漠の王国アヴェを治めるファティマ王家の、正当なる血流の……最後の持ち主であった。
 本来彼等の側にいて、子供たちを暖かく見守っているべきであろう家族の姿はない。
 それは束の間の哀しみの中で失われていた。
 あの日。
 永きに渡る、アヴェと隣国キスレブとの怠惰で悲しい戦争を終結させる為に、奔走し続けたアヴェ国王エドバルド一世は、和平条約を結ぶ目途がつきそうだと、穏やかに笑ったものだった。それを父の膝の上で聞いていたバルトは、無邪気に、人々が平和に暮らせる世の中がくるのだと信じた。
 最後の調整の為にキスレブへと向かった父を見送った日が、最後の別れになるとは。幼い従妹を抱き上げた母の、優しい声を聞く最後の機会であったことなど。
 シャーカーン。
 例えここで朽ち果てるような事になったとしても、最後の一瞬までこの名前は忘れないと、バルトは自分自身の存在にかけてに誓っている。
 アヴェの宰相でありながら、私利私欲に走り、権利を得るために父を暗殺した男。静かな王宮の一室に、私兵を乱入させ、目の前で母を惨殺した男!
 振り向いた先にあったのは、黒よりも暗い深紅。
 飛び散った鮮血、転げ落ちた母の頭。子供を守ろうとする母親の手だけが、未だ意志を持つように自分に向かって伸ばされ、力を失い、ぱたりと床に投げ出されるまでの永遠の一瞬。
 シャーカーンは笑っていた。
 緋色の惨劇の中、一人狂ったように笑っていた。
 そしてシャーカーンは叫んだのだ。
 視界の先で凶刃に倒れる母を目の当たりにし、硬直した自分を抱えて逃がそうとする人々に。されるがままにマルーと共に外に出されかけた自分に。
「誇り高きファティマ王家の王子が、まさかこの状態を捨て置いて逃げるなどということはないでしょうな! 御名に恥じぬよう、出ていらしてはいかがか! もし出てこないのならば、代わりに城下から殿下と同い年の子供らを連れてきて、一人ずつ処刑して差し上げましょう。面白い座興でありますからな!」
 なおも哄笑する男の声が、鼓膜の中で反芻する。
 内容の残虐さに驚愕する前に、身体が震えた。
 どくんと、心臓の中で流れる血液がはぜた。
 させてはならない、考えるより早く身体が動く。
 自分がこの国を守るべき王族であるから、などという理屈や大義を思い浮かべたのではない。
 城下の子供をすぐに連行してくることなど出来ない。代わりに、シャーカーンは肉食獣めいた暗い笑みを浮かべ、まだ少女っぽさの残る侍女の一人の髪をつかんで中央に引きずり出す。視線を受けた男の部下が、腰の凶器を抜き去る光景は、まるでスローモーションのようにはっきりと…。
 無意識だった。
 乳母の手を払い、悲鳴を上げる侍女をかき分け、シャーカーンの立つ場へと駆ける。
「やめろ! お前の探す人間はここにいる!」
 そうして、気づいた時には叫んでいたのだ。
 周囲の大人がはっと息を呑む中、シャーカーンを見下ろす螺旋階段の上に立ち、糾弾するように指差して。
 はっきりと見据えたシャーカーンの瞳の中に、己を見付けた事への暗い歓喜と、どす黒いなんらかの感情の影を、確かに見付けた……。



「ねぇ、痛いの? 若、死んじゃやだよぉ」
 すすり泣くような声が聞こえた。
 自分と同じ色の瞳に触発されて、しばらく感慨にふけってしまったらしい。彼の沈黙を、痛みを堪える為のものだと勘違いした膝の上の従妹が、不安そうな表情を浮かべている。
 バルトは困ったように笑ってから、縋るような眼差しで返事を待つマルーの頭にそっと手を置いた。
「死なないよ。マルーを置いていったりしない。傷だって、別に痛くなんてないから」
 抑揚のなかった先程の言葉とは異なり、ひどく優しい声音を出す。手は幼女の頭を撫でていた。
 そうされて、やっとマルーは落ち着いたようだった。
 けれどバルトの顔に、自分の頭を撫でるだけの僅かな動きをするだけで、隠し切れない苦痛の色がよぎるのを見付けて、又、眉をしかめる。
「でも、さっきもいっぱい、若、ぶたれてた。ボクのぶんまで、いっぱい。血だって流れたの、知ってるもん。ねぇ、どうして若は、シャーカーンにファティマの碧玉のことをおしえないの? おしえたら、若ぶたれなくってすむんでしょ? ボクの分までぶたれて、ぼろぼろになって、血だらけになって、死んじゃったみたいにならなくって……すむんでしょ?」
 喋っているうちに、嫌な現実を思い出してしまったのだろう。次第に声がしゃくりあげるようになってきて、ついに幼いマルーは泣き出す。
「どうして……どうしてこんな恐い目にあうの?」
 二歳ばかり年上の従兄にすがりついて呟く。
 彼女には激しすぎる変化が分からなかった。
 優しい叔父夫婦と、兄のように自分を可愛がってくれる従兄。気さくな王宮の兵士、親しみを込めて自分たちを呼んでくれる王都ブレイダブリクの人々。
 恐いことなど何一つなかったのだ。
 優しくて暖かい世界。それこそが自分のあるべき場所だったはずなのに。
 ほんの数ヶ月前まではたしかに存在していた優しい時間を思い出せばだすほど、哀しくなってしまう。
 完全独立をはたす宗教国家ニサンにおいて、始祖ソフィアの教えと国を守る役割を担ってきた大教母の正当な跡継ぎであるマルーだが、彼女はまだ僅か四歳の幼子でしかないのだ。
 そんな彼女に、ニサンの大教母となる者としての誇りや態度を望むのは酷というものだった。バルトが、六才とはとても思えぬ毅然とした態度を崩さないでいられている事の方が、殆ど奇跡に近い。
 バルトは碧い瞳を天井に向け、どうマルーを慰めればいいものかと思案する。
 まるで大人のような態度を必死に取り続ける彼だが、本当は恐怖と苦しさと先の見えぬ悲惨な現実への不安で胸はいっぱいだった。本当ならば泣き出して、誰かに縋りついてしまいたかった。
 けれどそれは出来ず、バルトは不安でいっぱいのマルーの為に、必死に笑顔を作る。
「ごめんな。俺が、もっとおっきかったら、マルーをこんな恐いことから救ってやることだって、守ってやる事だって出来たのかもしれないのに」
「若が悪いんじゃないもん! それに、若はボクを守ってくれてるよ!」
 そう言って、マルーはさらに盛大に泣き出した。大好きな従兄を慰めたいのだが、言葉が出なくてもどかしいのだろうか。さかんに首を振っている。
 マルーの大袈裟な反応に驚いて、バルトは目を丸くした。それから小さく笑う。
「ありがとうな。マルー」
「お礼言われるような事、ボク、してないよぉ」
 涙でべとべとになった顔に至極真面目な表情を浮かべて言い切るマルーに、更に笑いを誘われる。
 それを見て、泣いていたはずの彼女も笑った。
 マルーは、バルトはいつも無理して笑ってくれるのを知っている。だが本当は、今のように自然に笑ってくれる顔を見れるのが一番嬉しいのだ。
「でも、本当に、どぅして若はシャーカーンにファティマの碧玉のことを言わないの?」
 しばらくしてから改めて聞かれ、少年は目を伏せた。
 ――ファティマの碧玉。
 アヴェの建国王ファティマ一世が後世の子孫の為に残したとされる、伝説のファティマの至宝だ。
 そのありかを示すものが、ファティマの碧玉であると、王家では伝えられている。
 至宝が具体的になにであるのかは、伝わっていない。
 だがアヴェの王権を簒奪したシャーカーンにしてみれば、それが何であるにせよ、至宝を手に入れることには深い意味があった。
 一つは至宝が巨大な力をもたらすかもしれないという純粋な望みだが、もう一つは、簒奪者にすぎない自分が、正当なアヴェ国王が持つ至宝を手にすることで、自己の立場を正当化出来るからである。
 簒奪者である彼の思惑を裏切り、国内で旧王家を指示する者は多かった。その事実が明らかになるにつれ、ファティマの至宝に対するシャーカーンの執着は日増しに倍増していったのだ。
 だからこそ、シャーカーンは目障りであるはずの二人の尊い血筋の子供を殺さないでいる。ファティマの至宝へと繋がる、碧玉の在処を聞き出すために。
 無論その手段は苛烈を極めた。
 アヴェ最後の王子であるバルトは、毎日のようにシャーカーンのふるう鞭に打たれている。幼い子供の柔肌を裂き、肉を断つ苦痛は凄絶の一言に尽きた。
 それは無論、彼だけではなくマルーにも与えられるはずであった。
 けれど現実は、一度として彼女は鞭にうたれたことはない。受けるはずだった痛みを、流すべき血を、バルトが全て替わりに受け続けることで、マルーは守られてきたのだから。
 六才の子供には耐えられぬはずの残虐さ。
 けれど、バルトロメイ=ファティマは屈しなかった。
 悪夢のような毎日。死の淵を垣間見るほどの苦痛。
 与えられる傷は、即死に到る程ではないにしろ、確実に体力は削られ、血液は不足した。同時に脆い子供の身体は激しい発熱をも訴え、既に自力で立ち上がる事すらバルトは出来なくなってきている。
 それでも彼は口を割らなかった。
 バルトは、秘密を明かせば命を助けるなどというシャーカーンの言葉が、嘘であると悟っていたのだ。
 けれど真実を話さず細い命を長らえ続けたとしても、一体どんな意味があるのだろうかと思う時もある。
 自分たちが助かる可能性など、一体どれほどあるというのだろうか?
 父が信頼した人々の殆どは、王家の人間が凶刃に倒れたあの日に粛正されてしまっている。
 そんな状況の中で、危険をおかしてまで生死不明にされているだろう自分達を助けにくる人間がいると信じられるほど、幸せな思考回路を残念ながらバルト持ち合わせていなかった。
 一番可能性の高い未来は、このまま秘密を胸に抱いたまま、マルーを一人残し自分が先に衰弱死することだろう。しかも今現在の状態を思えば、それはそう遠くない未来の出来事だと断言さえ出来た。
 ならば、いっそ死んでしまえば。
 暗い誘惑が、精神に首をもたげてくる。
 マルーを一人この苦しさの中に取り残し、どうせ衰弱死する未来しか待っていないのならば。彼女と共に自ら命を絶ってしまうのが最も楽で、最善の方法なのかもしれない。
 けれど、結局それは出来ないでいた。
 どうして? と思う。何故命を少しでも長らえようとしているのだろうかと。心のどこかで、何かを待っているような気がするのは何故だろう?
 助けなど、くるはずがないというのに。
「マルー。ファティマの碧玉をシャーカーンに話しても、俺達は助からないよ。だから、いわないんだ。それにファティマ王家の人間として、俺がそんなこと、言うわけにはいかない。いかないんだ」
 ぽつりと口に出して言ったのは、暗い誘惑に負けそうになる自分を叱咤するためだったかもしれない。
「でもぉ。今のままじゃ、若が死んじゃうよぉ」
 しくしくと又泣き出したマルーを、バルトは激痛を訴える身体を無理矢理動かして抱きしめた。
「大丈夫。大丈夫だよ。お前を置いて死なないから」
 とても、マルーに自分たちが生きてここを出る術など皆無に近いのだなどと、話せなかった。
 抱きしめながら、彼は音を聞いた。
「雨が…振り出したんだ…」
 砂漠の大地に降り注ぐ雨の光景を思い出して、呟く。


 ――還りたい。
 天に最も近い場所に佇み、琥珀色の肌と対照的な月光色の銀髪を風になびかせた青年は、地上を見下ろしながら漠然とそう思っていた。
 まとう衣服はひどく硬質なイメージを抱かせるもので、軍服、という言葉に恥じぬ仕立てになっている。
「また、帰還場所の分からないホームシックにかかっているんですか? シグルド」
 多少のからかいの含まれた声が背後から飛んだ。
 シグルドと呼ばれた銀髪の青年は、振り向きもせずに「ヒュウガか」とだけ答え、黙り込んでしまう。
 ヒュウガ=リクドウ。
 風変わりな眼鏡の奥で、知識の深さを物語るような黒い瞳を持つ彼は、シグルド=ハーコートと同じく、ソラリスの士官学校ユーゲントを優秀な成績で卒業したもので構成される“エレメンツ”の一員である。
 肩のあたりで揺れる黒髪をさらさらと風になびかせながら、彼はちらともこちらを見ない同僚の態度を気にする様子もなく、飄々とした風情でシグルドの横に歩を進め、言った。
「記憶を失い、強制的なドライブの乱用により半ば洗脳されているような状態である貴方をそれほどまでに駆り立てるもの。それは一体なんなのでしょうね。少々。いえ、正直に言えばかなりの興味を覚えてしまうことですねえ」
 緊張感にかけるヒュウガの物言いに、シグルドは端正な面に僅かな苦笑を浮かべた。
「お前にかかると、何もかもが興味の対象になるな」
「気に障ったのならば、謝りますよ。シグルド」
「いや、気にしたわけではない。自分がどこに帰りたいのか、なにをしたいのか、一番知りたいのは私だからな」
 不意に強く吹き付けた風が、長く伸ばされたシグルドの前髪を巻き上げ、視界を遮る。それを鬱陶しそうにかき上げ、彼は初めてヒュウガに視線を向けた。
「ヒュウガ。私が還りたいのは、きっと場所ではないな。もっと…別の、なにかなのではないか…最近、そう思えてならない」
「……場所ではない所。では、人、ですかね?」
 機械いじりでもしていたのか、僅かに汚れた指を気にするふうもなく顎にあてて、ヒュウガは言った。
「人?」
「精神を縛られた人間をつき動かすほどのものが、故郷などの土地ではないのなら、それは、貴方を待っている人がいて、貴方自身もそこに在ることこそを願っているから…としか考えられないでしょう」
 当たり前のように答える同僚の顔を、なにか不思議なものを見るようにシグルドは見やり、それから困惑して首を傾げた。
「私を待っている人間? 私に帰りたいと望ませるほどの誰か?」
 小さく、口に出して呟く。
 湖面に投げられた石のように、同僚の言葉が偽りの静けさを保つ彼の心に、何かを訴えてくる。
 何かを、痛烈にシグルドは感じた。
 形を得ないでいたものが、急速に一つの映像を結ぼうとしている。それは変色し、輪郭さえはっきりとしていないあやふやさであったが、彼の魂を痛烈にゆさぶるなにかが、蠱惑が、確かに存在していた。
「これは…なんだ…?」
 手を伸ばせばすり抜けて行ってしまう。
 確かな答えの替わりに、手にまるで誰かのぬくもりが残っているようで、その感触のあまりの優しさと狂おしいほどの懐かしさに、彼は思い出せぬもどかしさに眉根をよせる。
(あれは、一体、誰だったのか……?)
「……くっ!」
 不意にシグルドは呻いた。
 映像をとらえようとしていた視界。なにかのぬくもりを感じた触覚。声までもが聞こえかけた聴覚。
 その全ての感覚が、不意に緋色に支配される。
「……緋色…血と同じ…の、…」
 ――早く、帰らなくては。
 初めてはっきりと彼は決意した。
 帰らねばならないと。
 早くせねば、失ってはならぬものを、失ってしまう。
「地上に行くのですね。シグルド」
 ぽつりと呟いた同僚の声が、やけに鮮明に聴覚に届き、シグルドは顔をあげた。五感を支配した緋色の感触が消え、いつもどうりの光景を視覚が結ぶ。
 まるで幻のように取り戻せなかった記憶たちが、痛いほどの青の中に、今は静かに佇んでいた。
「若、マルー様」
 そして、確かめるように呟く…。


 夜の帳が真昼の光を駆逐してしまえば、砂漠の大地は静寂と冷気に支配された別の顔を見せてくる。時折まるで海鳴りのような風の音が、低く、唸りをあげた。
 ひんやりと肌を刺してくる外気、僅かに響いてくる外界の音。遮蔽された空間内に、変わらず時が刻まれていることを実感させてくれる、唯一の現実。
 そしてもう一つ。静かなリズムを刻む、吐息の音。
「……マルー」
 囁き程度の声音で、不意にバルトはあどけなく眠る従妹の名前を呼んだ。昼間散々泣いて、疲れて眠りこんでしまったマルーがそれで起きるわけもなく、帰ってきた反応といえば睫毛が僅かに震えただけ。
 それをじっと見つめて、バルトは小さく息を吐く。
 身体が自分の物ではなくなったような、そんな錯覚を感じた。傷は貪欲に身体を蝕み続け、発熱は鈍い痛みと同時に、朦朧とした意識と視界を与えてくる。四肢を満足に動かす事も出来ず、全てがあやふやで。
 時々現実感を喪失してしまう。
 自分は…ちゃんと生きているのだろうか? と。
 外界に神経を尖らせてみたのも、マルーの名を呼んでみたのも、確かな現実の証が欲しかったからだ。
「まだ、生きてる」
 ともすれば焦点がぶれてしまう目を必死に凝らし、彼は寄りかかっている壁に視線をやった。最近のものらしい傷痕が、壁にいくつか走っているのが見える。
 それを一つ一つ、バルトは懸命に数えはじめた。
「三十…、えっと、五…か。………一ヶ月と、四日…」
 幾度か指の助けを借りながら答えを出し、彼は袖を止めている華奢な装身具を外す。痛みと熱に震える腕を叱咤激励し、それを押し当てて壁をひっかいた。
「これで、一ヶ月と…五日目……」
 誰に教えられたわけでも、強制されたわけでもなく、彼はこうして壁に印をつけ、時間の流れを把握していた。自分と外界との僅かな繋がりを保ち続けるために。
「あと…どれくらい、もつんだろう…」
 気を抜けばふっと遠くなる意識の細い糸を懸命に手繰り寄せて、ぽつりと呟く。
 意識を失ってしまえば、少なくともその間は痛みから解放されるのは分かっている。それはひどく甘い誘惑だった。失われる意識に身を任せたくなってしまう。
 けれど。意識を手放してしまえば。もう、二度と。、
 ―― 目覚める事は出来ないかもしれない…。
 そんな予感が、今夜に限って少年の心を支配する。
(どくんっ!)
 心音が、唐突に、はぜた。
 身体の中で、中央に座する心臓が、あたかも狂暴な意志を宿したかのように。宿主である少年の肉体に反旗を翻したように。激しく、狂おしいほど強く。
「………くっ、う!」
 突如暴れだした心臓の負荷におもわず身を捩り、その動きに触発されて、全身の傷が激痛を再発する。苦痛が華奢な子供の身体を蹂躪し、否応なく蠢き、支配してゆく。けれどその激痛が、朦朧としかけていた意識を皮肉にもはっきりとした覚醒へと導いた。
「なんだっ、なにか、くる!?」
 急速にクリアになる視界。飛び込んできた映像。
 視覚が捕らえているのではない。目の前は変らず冷たい石壁があるだけだ。けれど見える。誰かが走り、誰かが叫ぶ。轟音をうならす砲門と、派手に王都の側で沸き上がった火焔の赤。そして。
「マルーっ!」
 いきなり叫んで、バルトは眠ったままのマルーの身体を抱き込んでその場から飛びすさった。
 一拍間を置き、閉ざされた空間の中に爆音と壁の崩れる破壊音が響き渡る。先程まで彼等が背を預けていた壁が、白い噴煙と派手な音と共に崩れたのだ。
「な、なにっ?」
 驚愕に目覚めた従妹の小さな口を押さえ、バルトは落ち着けと目で訴える。少年を完全に信頼しているマルーは、すぐにこくこくと肯いた。
 それを確認して、ゆっくりとバルトはマルーの身体を支えてやりながら立ち上がらせる。陽溜まりの金色と、豊穣を約する大地の茶色の二人の髪が空を舞った。
 髪が揺れる。そう。風が舞い込んできているのだ。
「外が……」
 外界と室内を遮蔽する石壁は、外部から発せられて発火性のない砲弾によって崩されていた。大きさとしては、バルトが簡単にくぐれてしまうほどのものだ。突然の出来事に呆気に取られながら、風に乱れる髪を鬱陶しそうに押さえ、少年はしばし呆然とする。
「なにが、あったの?」
「うーん。わからない」
 少々間の抜けた言葉しか返せないのも当然のことだったが、バルトは視界の端が捕らえた物に気付いて眼差しをあげた。危ないからここにいろよと従妹に言い置き、穿たれた穴のすぐ側まで歩を進める。
「ブレイダブリクの外れが、燃えてる」
 高い位置に座する部屋。その部屋に穿たれた穴から、アヴェの城下町が歴然と見渡せる。その光景の中、右手のブレイダブリク郊外から炎が湧き起こり、軍部が置かれている場所は騒然としていた。
 アヴェが襲撃されたことは間違いない。
「……これって…」
 これと同じ物を、見たことがある。
 光景を目視する前から、確かに見ていたのだ。
 轟音をまきおこす砲、火焔に煌く王都の外れ。叫ぶ人々。そして…、もう一人…。風に靡くのは銀色?
 自分の名を懸命に呼び、求めてくる、誰かの声。
 なにかが胸の中で優しかった。記憶の彼方で薄れてしまった懐かしさに、不意に出会えたような気持ち。
「そう…か、俺は…待ってたんだ。待って…」
 助かる術などありえぬ状況。
 屈辱的な仕打ち、いつ力尽きるか分からぬ現実。
 けれど生き延びてきた。自決を選ばずに生き永らえ続けた、その答えが初めて目の前にある。
「マルー、行こう。俺達を呼んでる奴がいる。絶対に逃げるんだ。死ぬわけにはいかない」
 早口で言って、バルトは上にひっかけていた上着を脱ぎ、同じようにマルーの上着も脱がせた。
「それで、どうするの?」
「ちょとな。時間稼ぎ」
 悪戯を思い付いた時のような笑みを浮かべて、バルトは従妹の小さな上着を埋もれた瓦礫の端から少しはみ出すようにして押し込んだ。
 あたかも瓦礫の下敷きになった人間がいたかのように見せかけて。それからシーツの白い布の中に瓦礫を詰め込み固く縛り、上に自分の上着を着せる。ようするに簡易的な人形のようなものだ。それを少々危なっかしいが穴の側に立てかける。
 そうこうしている内に、部屋の外で激しい物音がしだした。轟音とその被害に気付いた見張りの衛兵が、ファティマの碧玉を聞き出すまでは、大切な囚人である二人の無事を確認する為に駆け上がってきているのだろう。
「どうするの? 若ぁ、人、くるよ」
 入り口を見やりながら、マルーが怯えた声を出す。
「大丈夫。マルー、入り口の扉の横に隠れておくんだ。この足音だから、多分来たのは一人だよ。その後に沢山くるとは思うけど」
「うん」
 大人しく肯いたマルーがドアの影にかくれるのを見届け、バルトは足音に耳を澄ました。駆け上がってくる衛兵の音。その速度、時間、それらを数え、タイミングを計り、
「うわっぁああああ!」
 突如絶叫を上げて、隠れている従妹の側まで足音を忍ばせて滑り込む。ずきんっ、と身体中が強烈な頭痛を訴えたが、それは必死に無視した。
 マルーはバルトの突然の絶叫に仰天して目をぱちくりする。けれど緊迫した事態だと把握はしているので、声はあげなかった。
「なんだっ、どうした!?」
 マルーと異なり、絶叫に驚いたのは衛兵だ。震える手が錠前にかかり、カチリ、という開閉音が響いた瞬間に、バルトは手に持っていた石を思いっきり投げた。それは見事に、立てかけた人形に命中する。
 ぎりぎりのバランスで佇んでいた人形。それが傾いだ。
 ゆっくりと孤を描き、外へ落ちてゆく物。
 夜目にも鮮やかな衣服だけが、鮮烈な印象を残して。
「………っ!!」
 明るい場所であったら、間違えないはずだった。
 いくらファティマの碧玉の在処を聞き出す前に、二人の貴人が命を落とせば、シャーカーンからどんな罰を与えられるか分からないと怯えていた者でも。陳腐な人形と本物の人間を間違えるわけがなかったのだ。
 けれど、衛兵は間違えてしまった。
 バルトロメイ=ファティマが、投身自殺を図ったと。
 慌てて衛兵は部屋の中に駆け込み、落ちてゆくバルトの衣服を呆然と見守ってから、更に真っ青になった。うずたかく埋もれた瓦礫の下に、幼い娘の衣服がはみ出しているのを見付けたのだ。
「まさか…、そんな!」
 本来ならばここで、応援・ないしは上官に報告に赴かねばならなかったのだが、失敗を報告すればどのような目にあうか分からない、という恐怖が衛兵をすくませた。
 焦った表情で屈んで、瓦礫を避けはじめる。
 今の彼に心には、マルグレーテだけでも生きていてくれれば罪が軽くなる、そんな想いしかなく、冷静な対処というものはかなり縁遠い代物だった。
 その隙に、子供等は部屋を飛び出した。
「若、若、どこに走るの!? どーして登るの?」
「おりたって捕まるだけだよ。いくら外が騒然としてて、詰めている兵士の数が少ないっていっても、俺達のことを見逃すほどシャーカーンは甘くない」
「でも、でもっ」
 塔を登ってもさらに逃げ場などない、と言いたいのだろうが、上手く言葉を継げないでいるマルーの手を更に強く握り締め小さくバルトは笑って見せ、
「大丈夫。絶対に逃げられるから」
 きっぱりと断言する。
 本当は確信などなかった。無事に逃げられる保証など、何一つ持っていない。けれど迷ってはいけなかった。いや迷ってはいるが、迷っている様子を見せるわけにはいかない。
 人を導き治める王族たるものが、迷い悩む様子を決して他人に見せてはならない。迷う王に人は命を預けない。それを、バルトは無意識に理解していた。
「大丈夫、絶対大丈夫だ。それに来てるから。こっちでいい。マルー、ユグドラシルに!」
 意識を奪おうと牙を剥く全身の苦痛をねじ伏せバルトが小さく叫ぶ。マルーは迷いのはれた表情で肯く。
 ユグドラシルへ。
 そこに何が待っているのか、誰を見ているのか、バルトが何を確信しているのかは分からない。マルーはただ従兄を信じるだけだった。
「ユグドラシルに…」
 なにが、待っているのだろうか?
 この苦痛から本当に解放されるのだろうか?
 それはまだ分からなかった。


「シグルド卿! 王都側の奇襲は成功しました。キスレブ軍もこちらの情報に動かされ、国境に軍を派遣しております。アヴェ側は、未だ掌握できていない辺境軍に変わって、シャーカーンの私兵及び王都防衛軍が一時間ほど前に国境へと軍事移動を開始しました。あと先程の大砲ですが、確かに塔に命中しております」
「わかった。王都の警備は計画通り手薄になっていたか?」
「はい。通常時の半分にはなっております!」
 報告する若い兵の興奮で上気した顔を一瞥し、正反対に冷静な表情のままシグルドはゆっくりと腕を組んだ。さらに二、三事実関係を確認し、
「分かった。動かせるギアは、陽動の為に戦艦用ドックから離れた場所で行動を起こさせるように指示。塔に向かって、大砲は五分おいた後に再射」
 淡々と命令を下す。
 だが指示を告げるシグルドの碧眼は、外見の冷静さを嘲笑う程の激しさを秘めて、前方を睨み付けていた。
 冷静などではなかった。
「……シャーカーンめ…」
 言葉に憎悪を込めて呟く。無意識に、手が装備した鞭をぎりっと音が出る程に握り締めていた。
 緋色の感触。
 それに危機を覚え、ヒュウガ=リクドウの力を借りて地上に帰還した自分を待っていたのは、バルトの元気な声でも、甘えてくるマルーの笑顔でもなかった。
 祖国アヴェはまるで灰色の国だった。
 笑顔を忘れた民。怯える表情の子供たち。
 心優しきアヴェとニサンの王族を襲った惨劇が、あの明るかった国を変え、人々は簒奪者の影に怯えた。
 陰鬱な世情を増幅するのが、シャーカーンに逆らい見せしめに殺され晒された者達の、弔いも許されずに打ち捨てられた骸が不気味に砂上に広がる光景だ。
 故国の惨状は帰還したばかりのシグルドの心に影を落とし、そして尤も彼の心を苛む、未だ幼いバルトとマルーを襲った惨劇の事実だった。
 肉親を失い、国を失い、頼れる者もいない中で幽閉されている幼い二人の苦しみを思うと、狂おしいほどの後悔と追憶とが心の中でとぐろを巻く。なぜもっと早く帰還しなかったのかと、今更考えても詮無い事ながら、心中で反芻されて仕方がない。
「シグルド卿、若は塔に幽閉されているはずです」
 控えめな声が背後から上がり、シグルドは振り向いた。白髪の混じり出した頭髪をした男、バルトの教育係をエドバルド一世によって任じられたローレンス=メイソン卿がそこに立っている。
「ええ。けれど直接塔に行動を中心させ、目的が若とマルー様の救出にあると悟られてはこちらが不利。お二人がシャーカーンの人質にされる事態を防がねばならない」
 断固としたシグルドの言葉に、メイソンは少しばかり困ったように眉根をよせ、王城を見やった。
「作戦のことは分からぬというのに、差し出がましいう事を申し上げたようですな。無論、理解してはいるのです。一筋縄でなしえることではないと。けれど若が幽閉されている塔が崩れる様を見ると、瓦礫に下敷きにされてはいないかと…心配でなりませんな…」
 額を押さえて、メイソンが溜息交じりに言い、
「無論それは、シグルド卿も同じでしょうが」
 と、さらりとシグルドの心情をフォローした。
 帰還したばかりの自分を覚えていてくれて、すぐに王族奪還に燃える人々の輪に入れるようにと気を使ってくれたメイソンの言葉に、シグルトは知らずに緊張していた表情を少しばかり和らげ、
「若は…ご無事でいらっしゃる。瓦礫の下敷きになど決してなっておられません」
 と、断言する。
 何の根拠もない青年の言葉を頭ごなしに否定するようなことはせず、メイソンはただ黙って目を細めた。
「人と人とが呼び合う力をもつと、信じるというのも良い事かも知れませんな」
「……今回ばかりは信じようと思う。信じねば、作戦も立てられなかった。……若もマルー様も、私がいない間に、随分とご成長なさったのだろうな」
「それは勿論。こちらが手を焼くほどのやんちゃぶりですぞ。乳母子に相応しい子供がいないせいか、遊ぶといったらマルー様を連れ出してばかりで。二人で手を取って、しょっちゅうアヴェ城探検と称して、どこにでも行くのですから、困ったものです。木から木に移るなど、しょっちゅうの事ですぞ。恐らく、世界で一番アヴェ城内に詳しいお二人ですな」
「逆に言えば、いくらでも退路に使いやすい通路をご存じだ、ということになる」
「はい。左様で」
 それぞれ、覚えている二人の様子を思い出し、和やかに見えながらも重要な会話を締めくくって、シグルドは一歩足を踏み出した。
「城内に潜入する部隊を、地下ドックのユグドラシルへと向かわせる。出来るなら、強襲に見せかけるだけではなく、戦力の為にも入手したい」
 彼の言葉で、最後の作戦が幕をあける。


 痛くない場所など何処にもなかった。
 走る度に、たむろする兵を避けて無理な体勢を取り、通路とは殆ど言えぬ場所を駆け、まだ小さな従妹を支える度に、激痛と、そして高熱が与えてくる身体機能の低下があまりにきつかった。
 知らず知らずの内に息は上がり、外見の平常さを繕うことすら出来なくなってきている。
「若、若、大丈夫? すごい汗だよ、若!」
 心配げな従妹に、笑顔を見せてやる事も出来ない。
 自分だけなら此処で死んでしまってもいい。
 けれど今、手を必死に掴んでくる従妹の命も、そして命を懸けて救出に来ているのだろう人々の想いの為にも、自分の意志で諦めて、死んでしまうわけにはいかなかった。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫だ」
 何度もその言葉を繰り返し、自分自身を激励する。
 自分は塔から自刃し、マルーは瓦礫の犠牲になったと思わせ稼いだ時間など、とうに使い果たしてしまっている。ざわめきと怒声が塔内を支配し、自分たちを探す捜索範囲は広くなってきているようだが、まだ運良く、彼等は塔の上の部分にまでは伸びていない。
 部屋の壁を壊した砲弾が、再び火を噴き始め、塔上部が危険になりつつあることも、好条件だった。
 心理としても、逃げ出した者は外を目指すと考えるのが当然のことだ。まさかわざわざ逃げ場のない上に登っているとは思わないのだろう。
「マルー、三ヶ月前のこと、覚えてるか?  この塔から、地下ドックまで滑ったろ?」
 不意にバルトが振り向いて言った。
「え? うん。覚えてるよ。びゅーんって速くって、面白かったね。ちょっと痛かったけど」
 きょと、と目をぱちくりさせて答えたマルーの言葉に肯き、彼は真っ直ぐ前方を指差す。彼の言葉とマルーの記憶通り、かつて塔から地下ドックまでの緊急出撃時に使用されていた、簡単に言えば力学計算のなされた滑り台のようなものがそこにあった。
 随分昔の王の手によって、危険だと判断された代物だ。現在は壁にカモフラージュされた扉で塞がれているのだが、実はあるキーワードを打ち込むことによって使用可能である。無論、これは悪戯をしていて発見したことなので、城内で知っている人間は殆どいない。
 バルトはそれを使うと言っているのだ。
「それで地下に行く。出来るよな?」
「ええ! そこって、もっと、外に遠くなかった?  それに、若、だいじょうぶ? 結構痛かったよ、あれ」
 心底心配そうなマルーの表情に、ありったけの根性と意地を総動員させて、バルトは安心させるために笑って見せた。その実マルーの言葉はぴったり彼の不安を言い当てていて、本当は摩擦熱と空圧を耐えられる自信は、なかったのだ。
 が、他に道がないのも事実だ。
「大丈夫。別に、痛くなんかないさ。それに地下でいいんだ。なんていうのかな、分かるんだ。今、あそこにはユグドラシルがあって…うん。待ってるんだ」
「待ってる? さっきもそう言ってたね」
「ああ。マルーのことも待ってる。呼ばれてるんだ。だから、行こう。助けに来てもらうのを待ってるだけじゃ駄目なんだ。俺達だって、出来る事しないと」
「……うん。でも、若、絶対に死なないでね!」
 大きな瞳に今にも零れそうなほど涙をいっぱいに溜めて、マルーは小指を差し出した。どうやら指切りをしろ、ということらしい。バルトは少し笑って、素直に小指を従妹に預ける。
「絶対に、絶対に、死なない。やーくそく!」
 この従妹だけは絶対に守ろう。
 無心に指切りをするマルーを見ながら、バルトはさらに決意を固くした。
「いこう、マルー!」
 手を取り合って、二人は小さな穴の中に消える。


「若!?」
 いきなりシグルドは振り向いていた。
 胸をつくような衝撃に、思わず膝が折る。
 王国最新鋭の艦であり貴重な戦力である潜砂艦を強襲し、完全にシャーカーンの目をアヴェ攻略にあると欺く為の作戦は思いの他上手く行った。ゆえにやっと、バルトとマルーの救出メンバーが動き出せる、そう判断しかけた時に、だ。
 端正な顔に脂汗まで浮かべたシグルドの異変に、メイソンが真っ青になって駆けてくる。差し伸べられた手をやんわりと断わり、彼はぎりっと唇を噛み締めた。
「行くな! 塔にはまだ、行くな!」
 常の冷静さをどこに置き忘れたのか、殆ど絶叫に近い声で指示すると、そのまま彼は駆け出した。琥珀色の肌と銀色の髪が空に舞い、その姿はあたかも気高き肉食獣のようだ。
「シグルド卿、どこへ? そちらには何も!」
 仲間の動揺や誰何の声など、今の彼には届かない。
 視界を捕えるのは柔らかな陽射しの気配。聴覚を染めるのはある人物の声。縛られた心をも解放し、唯一の還るべき場所であり続けた、ただ一人の人。
「若、若! どちらです、若!」
 叫ぶ事が恥ずかしいなどと思わなかった。
 何を言い出すんだという背後の動揺も気にならず、ただ一人、自分の異変に何かを感じ取ったらしいメイソンが同じくバルトとマルーの名を呼び出した事すらも、どうでも良かった。
 ただひたすら、感覚を研ぎ澄ませて。
(とくん…)
 音が、した。
「若?」
(とくん、とくん)
 命を象徴する、鼓動の、音。
 目の前にかかる長い前髪の向こうで、辿り着いた壁だと思われていた箇所が揺れる。揺れは次第に激しくなり、明確な誰かの意志によって開かれ…。
「………!」
 震えるような感動が、そこにあった。
 埃をかぶり、髪は乱れ、全身ぼろぼろになりながらも、そこには輝く光があった。人を魅了し放さぬ王者の気配。それを抱いて生まれてきた子供が、狂わんばかりに求めた相手が、今、目の前にある。
「……シグ? ああ、そっか。やっぱり」
 困惑気だったのは最初の名前を呼ぶ部分だけで、語尾はひどく確信に満ちた声に変わった。まるでそこにシグルドが居るのだと最初から知っていて、それを今、確認しただけだと言わんばかりに。
 少年はゆっくりと抱きかかえていた従妹を先におろし、自分も又地下ドックに降りたった。
 何かを耐えるように眉をしかめて、それでも彼は立ち上がる。深淵の碧を宿す双眸がゆっくりと周囲を見渡し、その視線に、発せられる煌くような気配に、人々は息を飲み…そして、どよめきが生まれた。
 歓びが、期待が、感動が生んだ無言のざわめき。
 それはまるで灼熱を宿す風のよう。
「………」
 火傷しそうなほどに熱い人々の思いに、少年は内心呆然としながらも、外見は完全な平静を装ったまま小さく肯いた。それからやっと、身近な人々に視線をやる。少しばかり怯えた様子のマルーを見、涙ぐんだメイソンを確認する。
 そして最後にシグルドを見やって、バルトは何かを言おうと唇を開きかけ、
「若!」
 けれど少年の言葉を遮ったのは、他ならぬ、シグルド自身の声だった。故意にバルトの言葉を遮ろうと思ったわけではない。感動のあまり思わず声が出てしまったのだ。
 驚いて目をぱちくりと瞬かせたバルトの前で、優美な動きでシグルドは膝を折り、礼を取る。
 形だけのものではない。お飾りの主君に向けるようなものでもない。たった一人自身で選んだ主君に最上の敬意と忠誠を現す為の、儀式に近い神聖な礼だ。
「……我が主君…。よくぞご無事で…。もっと早く、お助けにあがらねばならなかったものを、申し訳ございませんでした」
 震える声で、それだけ言った。
 けれど感動的であるはずの言葉を受けたバルトは、今まで決して見せなかった怯えをはっきりと示し、びくりと震える。
 その変化は膝を降り頭を下げている、シグルドの狭い視界の中でもはっきりと分かった。バルトが幼い子供らしい甘えの残る表情で何かを言おうとした唇を閉ざし、目を伏せてしまうのもはっきりと。
 ――何だ?
 バルトの変化に不審を覚え、原因を考えて、彼は自分の失敗を悟った。
 今だけは、シグルドは王家に使える貴族としてではなく、他の人間がどう遇そうとも、自分だけはバルトをごく普通に優しく迎えねばならなかったのだ。
 そうしなければ、バルトは血と地位の束縛から逃れる場所を完全に失ってしまうのだから。
 事実、バルトがシグルドを見た瞬間は、確かに束縛を忘れて、甘えを示そうとしていたのだ。それをよりによって自分自身の言葉が否定してしまった。
「若! 私は…」
 慌ててシグルドは顔を上げる。
 彼はバルトが王子である事に意義を見出しているのではない。ただこの少年が大切だった。それだけだった。幼いながらも従妹を守り抜き、助けが来るかどうかなど全く分からない苦痛の日々を耐えてきたバルトを、心から誇らしく思っていたというのに。
 けれど、言葉を紡ぎかけたシグルドの唇が凍り付く。
 バルトの表情は変わってしまっていた。
 少年の瞳に先程まで宿っていた無条件の甘えと安堵感は消え、誇り高い王族にこそ相応しい、凛とした――だからこそ哀しく強い眼差しが取って代わる。
 何かを必死に耐えるように拳を握り締め唇を噛み締め、未だ幼い主は、きっと眼差しを上げてみせた。
「悪かった。迷惑をかけて。もっと気を付けていれば、シャーカーンの動きも防げるはずであったのに。亡き父上に変わって謝罪する。みすみす国を荒れさせて、それを正す道も今はない。すまない」
 一言一言考えながらも、とても子供が口にするようなことではない言葉を継いで、バルトはその場に佇む人々を睥睨する。
 そして最後に、頭を少し下げた。
 幼き王の毅然とした態度に、人々は純粋に感動した。
 この少年はまさしく王に相応しい器だと。自分たちの志を裏切らず、再び国を建て直し、失われた命の償いを果たしてくれるだろうと、願った。
 そんな期待が、願いが、まるで当たり前のように幼い子供の両肩に圧し掛かってゆく。
 傍目から見ているシグルドやメイソンの方が、露骨すぎる期待を受ける少年が痛ましく思えてしまう程だった。鎮まれと人々を諌めたいのだが、バルトがそれをじっと耐えている以上、口を挿む事も出来ない。
 本当は、バルトもやめてくれと叫びたかった。人の想いに応えなければならない責務が自分の血にあると知っている。けれど辛かった。自分という個人ではない、アヴェ王朝の世継ぎとしての価値だけを望まれ、応える為に偶像を演じ続ける。
 それは確かな、未来への予感。
 誰よりも懐かしい感覚に甘えを覚えたことすら、今は遠い。シグルドの顔を最初に認めた時の泣きたいほどの嬉しさも、まるで遠い過去の出来事のようだ。
(王は誰よりも孤独なものだから…。自分の感情を最優先してはならないのだよ)
 そう言ったのは父だったろうか?
 結局、自分の価値は、存在意義は?
 ――ないのかもしれない。
 人々が欲しいのは、寄る辺となる何かであって、自分自身ではないのだ。王子であれば、人々が崇める偶像にそれなりに相応しければ、自分ではなくとも誰でもいいこと。
「行こう。そんなにゆっくりはしていられないから」
 正しいことをちゃんと言えているだろうか?
 心がひどく冷たくて、自分自身の言動に怯え評価を付けながら、バルトが足を踏み出そうとした瞬間、
 誰かが、ぎゅっと少年の手を掴んだ。
 温もりが、そこから伝わる確かな命の鼓動が、現実に打ちのめされかけた少年の心を引き戻す。
 無彩色の世界に唯一現われる有彩色。
「若、ボクはずっとずっと、一緒だよ。大丈夫だよ」
 何を思ってそんな事を口にしたのだろうか。
 単に追いつめられた表情を浮かべたバルトを慰めたかっただけかもしれない。助かったことが嬉しくて、もうずっと一緒にいれるということを強調したかっただけかもしれない。
 けれど。その言葉は確かに、バルトの心を救った。
 大丈夫だと、もう本当に大丈夫だと、ずっと誰かに言って欲しかった。安心したかった。恐くて仕方なかったから。
 そんな想いが胸の中で溶けてゆく。
 従妹が手を握り締めてくる小さな温もりこそが、あの過酷さを耐えさせる力であったのだと、バルトは理解した。そしてそれは、きっとこれからも…。
「マルー…ずっと、そうだな、一緒だよ」
 僅かに笑って、バルトはしゃがんでマルーの小さな身体を抱きしめる。耐えられたはずの全ての感情が心の堤防を崩し溢れ出して、涙が止まらない。
 他人の前でなど泣きたくなかった。
 けれど。
「若、若ぁ!」
 少年の涙につられたのか、それとも実は以外に計算高く自分が泣くことで周りの目をバルトからそらせようとしたのか。それは分からないが、盛大にマルーも泣き出す。
 そんな従妹の温もりと声を聞きながら、少年の意識は次第に闇へと落ちていった。限界を超えて酷使し続けた体が、傷が、高熱による鈍さが、精神の緊張を手放したバルトに一斉に襲い掛かる。
 初めて幼い主君の痛ましい状態に気付いたシグルドが慌てて名前を呼んできて、触れてくる体温を最後に……感じた。



「若! 若!」
 そう。こんな風にひどく切羽詰まった声を、確かにあの日聞いた。王族だから必要な相手、というわけではなく、本当に心から心配する声だった。
 そこまで茫と考えてから、ふいと、隻眼を開いた。
 見上げた視界に広がるのは、どこまでも続く白き砂と、天上を覆う薄い青。そして頬をそよぐ風の形。
「あれ? ここって…」
 猛き姿を砂上に現し、颯爽と進み行く潜砂艦ユグドラシルの甲板上で天を見上げていた少年は、夢と現世をさ迷ったまま、自分の手を目の上にかざしてみる。
 はっきりとした太陽の陽射しを受けるその手は、子供の小さなものではない。それを確認し、少年は勢いよく跳ね起きて軽く背伸びをする。
「なんだ、夢だったのか」
 小さく呟いて、長く編まれた金色の髪を風にたゆとわせ、夢の時代からはゆうに十年以上もの時を経たバルトが、ゆっくりと振り向く。
「どーしたんだよ、シグ。そんなに慌てて」
 悪戯っぽい声には、充分、走行中のユグドラシル甲板上で昼寝をするなどということが命に関わる危険な行為だと承知しているふしがある。
 呼ばれた青年は、いかにも怒っていますという表情でずかずかバルトの元まで歩いてきて、思いっきり少年の耳をつねりあげた。
「あ、いってえええ! おい、こら、ひっぱるなよ!」
「引っ張られたくなかったら、引っ張られるような事をわざわざしない事です!」
 たたみかけるように言葉を返して、そのまま艦内にバルトを引きずり込み手を放し、シグルドはやれやれと言いたげに腕を組んだ。
「まったく。若は時々、分かっていてわざと無茶をしていませんか?」
「べっつに。そーんな事はないさ。俺は自分で自分の命を決められないってことくらい知ってるぜ」
「……若?」
 元気一杯の返事なのだが、その中にひどく淋しそうな響きを感じ取って、シグルドが首を傾げる。それを可笑しそうに見やってから、バルトはブリッジへと一人すたすたと戻っていった。青年もすぐ後に続く。
「……なあ、シグ。自分の手の届かない所で、大事な奴がどんな目にあってんだろうって考えんのって、結構恐いのな。お前も恐かった? あん時」
「あの時? ……若…」
 ブリッジの定位置に立ち、不意にバルトが告げてきたのがシャーカーンに幽閉されていた時のことを言っているのだと気付いてシグルドの表情が曇る。そんな副長の態度にバルトがむくれた。
「あーもー、違うっての。悪かったよ、思い出させてさあ。別に責めてるわけじゃねぇんだ。ただ、恐かったかなって…俺はそうだから、お前はどうなんだろうなって思っただけだよ!」
 ぶっきらぼうだがシグルドの負担を取り除くための言葉を告げて、バルトは青年にくるりと背を向ける。
「俺は結構恐いな。マルーが、どんな目にあってんのかと思うと…」
「恐かったですよ」
「え?」
「もう二度と、手の届かない場所であなたが傷つく事態など見たくないと思った。守る事が出来なかった自分を嫌悪もした。そう…恐かったですよ」
 常に冷静なシグルドにさらりと肯定されて、意味もなくバルトは赤くなりながら絶句し、しばらく沈黙した。それからふう、と息を付く。
「お前って時々、あっさり凄いこと言うのな」
「そうですか? それは知りませんでした」
 若い主君の言葉をさらりと微笑みで受け流す。
 それから、従妹をシャーカーンに再び捉えられたことで内心かなり苦しい思いをしているだろうに、決してその苦しみも迷いも外には出さないバルトの横顔を、そっと見つめる。
「大丈夫ですよ。無事に、マルー様を救出できます。そう信じなければ、前に進めません」
「わーってるよ。そんなの」
 暖かい言葉に返事をしながら、バルトは遠い過去のと、現在の従妹両方の姿を思い浮かべてみる。
 自分が常に明るく、前を見ていられる理由の、従妹。
「絶対に助け出す。シャーカーンの禿げオヤジには、マルーはちっと勿体なさすぎるからな!」
 いかにも自分らしさを装いながら、元気いっぱいの宣言に、ブリッジ全員が「了解!」と唱和した。
 バルトが平気なわけはなかった。
 迷いも、苦しみも、眠れぬ夜が続くほど存在している。けれどそれを人にも見せず、自分自身をも平気だと欺く術を、もう随分と昔に覚えた。
 そんなバルトの内心の葛藤を唯一知るシグルドと、爺ことメイソン卿の二人とが静かに見守っていた…。

「戻」