時の果てに待つ邂逅

 指を伸ばす。途端に感じた冷たさに、真紅の瞳を細めた。
 躊躇うように二度。確認するようにも二度。瞬きをし、周囲を見やってから、指先に感じる冷たさに額を寄せる。
「……アナスタシア…全て、終わったぞ…?」
 伝わってくる冷たさが心地よかった。
 ノーブルレッド城最後の主であり、唯一の住人である者の声。
 どこか幼さを感じさせる、鈴の音を転がしたような声音。
 探るように、求めるように、冷たいソレに額を押しつけたまま、声をつづる。
 ロードブレイザーの脅威に脅える日々は、ついに終わったのだ。
 誰か一人が、なしたわけではない。
 地上に住む、全ての命が祈り、戦い、勝ち得た結末。
「それでも…やはり、犠牲はあったぞ。アナスタシア。妾は、体に流れる英雄の血筋と、誰よりも世界情勢が見えてしまうがゆえに――簡単には希望を夢見ることが出来なかった…二人を救えなかった」
 ヴァレリアの子孫達を見守ってやって。
 それが、最後まで生延びたいと全身全霊で叫んでいた親友の叫びだったのに。
「すまない、アナスタシア」
 必死に守ろうとはしたのだ。
 絶望せぬように、命を犠牲にせずに済む方法を見出すことが出来ぬように。
 手を伸ばして、知恵を与えて、仲間を信じろとも、言ってやったのに。
 小猫のような仕種で、彼女は金色の髪を揺らせ、冷たいものに付けた額を僅かに動かした。
 まるでそこに、誰かがいるような仕種で。
 冷たいもの。―― 鏡に、額を付ける。
「全ては終わったのじゃ。だとすれば……アナスタシア、ロードブレイザーを封じて、消えた、アナスタシアはどうなったのじゃ?」
 瞳が急激に熱くなる感触に、慌てて両手を持ち上げて、閉ざしたままの双眸を押さえる。
 ―― 泣きたくはない。
 泣いても、誰も側に居ないことを知っているから。
 ―― 側に居たいと言う者はいる。
 けれどその存在も、時の移ろうままに、すぐに消えることを知っているから。
「人は―― 愚かで…なんと儚い存在であることか…」
 鏡に額を付けて、映る己の姿だけに他者の気配を感じようとしたまま、呟きつづける。
 ノーブルレッド城。
 少女の外見を持つマリアベルだけが住む場所。



 ゆっくりと空を見上げた。
 さらりと、質感のある青天を宿したような髪が揺れる。
 なんの変化も宿さない、閉ざされた空間の中を彼女は歩いた。 
「全て、終わったんだわ」
 一つ、何の気なしに吐息を落とす。それがやけに溜息のように感じられて、娘は眉をしかめた。
「大概、自分の感情に素直ね。私って」
 剣の聖女と勝手に呼ばれ、死にたくもないのに時代を走り抜けなければいけなかった。その原因と多大な悲劇を与えてきた存在、ロードブレイザーがうち滅ぼされたというのに。
「少し、期待していたかな? ここから出るとか……戻れるとは、思ってなかったけれど」
 美味しいものを食べたり、おしゃれをしたり、時には夜通しおしゃべりをしてみたり、好きな人のことを思ったり。そんな事が出来なくなって……一体どれほどの時がすぎたのだろうか?
 もう―― 側にはルシエドもいない。
「私、本当に一人ぼっちになったんだ」
 平気だとは思う。もう慣れてしまったから。
 けれど―― 平和が戻って、脅威もなくなった現実が戻ったというのなら……話は違う。
「もう。とりあえず、ここに置き去りにされるだけっていうのは、なしにしておいて欲しかったわ。このままじゃあ、過去を映し出すだけのあの場所に…入り浸ってしまいそう」
 悲しい時代の記憶ばかりを映し出すけれども。
 そこには声があって、人がある。なによりも親友の温もりがある。
「貴方に会いたいわ、マリアベル。少しね、見えたのよ。私。アシュレーが全ての思いと共に戦った瞬間に。貴方が戦っているのが―― 見えたのよ」
 たった一人、剣の聖女としてではない”アナスタシア”としての自分を見つめてくれた親友。死ぬなと、叫んでくれた、たった一人の人。
 ―― 英雄の悲しみを知ってくれた、小さな友達。
「すこしは変わったのかしら? ノーブルレッドの寿命がどれほどであるのか、私、知らないけれど。髪とかね、結ってあげたかったわ。お揃いの服を作ってみたりしてね。マリアベルは可愛いのに、格好はいつもあんなだったんだもの。ああ、でも、きっと服装とかも変わってしまっているんでしょうね」
 ぺたん、と。
 石畳の上に腰を落とす。そうしようと思ったのではなくて、力が抜けてしまった。そうなって初めて、ロードブレイザーを封じなければと必死に思ってきた自分を、知る。
 ―― もう、するべきことはない。
 世界と、自分とを、繋ぎ止めるものは何一つないのだ。
「…ねぇ、私…どうしたら、いい?」
 幻ではない。確実なものを求めて、床の上に両手をついて前に進む。うすぼんやりとした鏡が一つ、そこにはあったはず。
 時を止めてしまった自分を認めたくなくて、今まで見たくなかった己の姿。どうせ見ても、閃光と共に消えていくしかなかった日と同じ姿しかないのだろうから。
「でも、今、幻ではないのは……」
 鏡に映る自分しかない。
 近寄って、手を伸ばす。
 触れた冷たいもの。冷たいと感じる自分。それは幻ではなく、確かに存在する自分が感じたモノ。
「結構美人だと思うのよ? 好きな人を、振り向かせてみせようって思っていたの。頑張れば大丈夫じゃないかな、とも思ってた」
 最後に残っていた”ロードブレイザーを封じる使命”は消え果て、何もない自分が残る。
「これはなに? 私は生きていたかった。そして今、ここにいる。これは生きているってことなの? 誰もいない、声も聞こえない、ただ幻だけがある中で。これも生きているって言えるの!?」
 叫んで、強く、抗うように鏡を叩いた。
「英雄ってなに? 英雄の血筋というだけで、なぜ人々を背負わなければならない使命を与えられるの? どうしてあの子達は死ななくちゃいけなかったの? どうして、どうして私はここにいるの!」
 解放されるかと思っていた。
 そう―― あの時代には帰れないから、ようやく本当の意味での死を果たし、魂に戻るのだと。
 強く、強く、鏡を叩く。



−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 振動を、唐突に感じた。
 びくりと額を離して、マリアベルは目を見開く。
 あどけない真紅の眼差しが疑問にゆれて、彼女は賢そうな仕種で首を傾げた。
 改めて確認することではないが、ノーブルレッド城は無人だ。触れる鏡を揺らす存在などあるわけがない。小動物が悪戯で動かせることが可能なほど、軽い鏡ではないのだ。
「なんじゃ?」
 困惑に揺れる眼差しの前で、もう一度鏡が揺れる。
 まるで誰かが、もてあました激情のままに、鏡を叩いているかのようだ。
「……誰じゃ?」
 呟いた瞬間、なぜか心音が跳ね上がった。
 鏡は揺れている。そして――金色の髪に、真紅の眼差し。幼い姿の自分を写していた場所が、くぐもっていく。  
 咄嗟に手を伸ばした。
 そうせねば、ならないと、思った。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 鏡を叩いた、手をふと止める。
 意味はない。けれど止めなければならない気がした。
 指を、伸ばす。
 もう一度硬質な冷たさを与える、鏡に触れる為に。
 鏡に触れる為だ。特別なことでも、なんでもない。
 けれど、この、何故か突然の動悸はなんだろうか?
「まさか…まさか……」
 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


 
 そして閃光。
 ぼやけた映像を結んでいた、鏡が突然に様々な事実を映し出す。
 幻ではなく、過去でもなかった。
 それは、一日、一日、重ねた日々が未来へと繋げた記録の日々。
 マリアベルがすごした日々を、自らと同じ血筋を持つ者達の姿とに、アナスタシアは涙をこぼした。
 毎日、何も変わらぬ日々の中を、ただ繰り返すアナスタシアの記憶に、マリアベルが涙をこぼす。
 手を、伸ばした。
 感じたのは―― 冷たい、鏡の感触。
「あ…」
 形が違う。 
 己しか写さないはずの、ぴたりと重なり合う影だけを写すはずの鏡。
 そこに映った影の、形が異なっている。
「アナスタシア…」
「…マリア…ベル……」
 二人、名を呼び合うことしか出来なかった。
 かつて、万の人々に死を願われたアナスタシアの元へとマリアベルは走った。死にたくないと打ち震える剣の聖女は、ノーブルレッドの少女をかき抱いて、叫び声をあげた。
 名前を呼び合うしか出来なかった、あの日を再現するように。
 先に、一瞬アナスタシアが笑う。
 これも単なる幻かもしれない。過去の映像なのかもしれない、その恐れがあったからこそ、これ以上の沈黙に耐えられなかった。
「変わらないのね、マリアベル。少しは、娘らしくなって、奇麗になってるかと思っていたのに」
 久方ぶりの邂逅に、相応しいとも思えない言葉。
 一瞬鼻血白んで、細い眉をきりりとマリアベルはあげる。けれど、すぐに笑った。
「人のことは言えぬ。アナスタシアとて、同じじゃ。ノーブルレッドたる妾がいつまでも可愛らしいのは当たり前じゃが、そなたは人の子であろう? 非常識じゃ」
「いっそのこと、性格も少女らしかったらよかったのにね? そうだったら、私、マリアベルを妹にしたわ」
「アナスタシアのような姉など願い下げじゃ。アナスタシアは…」
「なに?」 
 鏡の冷たさしか感じられない指先。 
 けれど鏡の向こうに確かに存在している、大切な友人。 
 そっと、言葉を噤んだ状態で、マリアベルは額を鏡を寄せた。
 気配が動いたような感触がすれば、鏡の向こうのアナスタシアも額を寄せる。手と手を合わせたまま、硝子越しに、触れ合うように。
「そなたは妾の友達じゃ。だから、姉などではない」
 誇り高いノーブルレッドが、人間に対しての言葉とは思えない、優しい言葉に、アナスタシアはようやく幻ではないと、納得した。自然声が弾む。
「マリアベル…貴方、そこにいるのね? 本当に…マリアベルなのね?」
「当たり前じゃ。妾のような存在が、二人居るわけがなかろう?」
「そうね。でも……ここには、貴方がいたの。ずっとね、過去の貴方が居たのよ。だから、ちょっと、混乱していたみたい」
「未来がない代わりに、過去があるのか?」
「そうね。そう過去だけは、沢山、あったわ」
「……妾には永遠と続く未来だけは、あるゆえな」
 かつん、と。同時に二人の手が鏡にぶつかった。
 寂しいはずの友人を、抱きしめたいと思った気持ちの現われ。
 くすりと笑って、アナスタシアは額を付けたときに閉ざした目を、ゆっくりと開いた。同じように、マリアベルも眼差しを開く。
 青と赤。真昼の空と、夕焼け空の二人の瞳が、静かにあう。
「ロードブレイザーを封じる為の狭間の世界が、壊れようとしてるのかもしれないわね」
 少しずつ境界がなくなって、最後は同化するのかもしれない。
「一体いつの話じゃ?」
「さあ。凄く、凄く、先の話かもしれない。ノーブルレッドであるマリアベルの、寿命が尽きるくらい先の話かも」
「妾がアナスタシアを置いていくことに、なるやもしれのか?」
 置いていかれるならばともかく、置いていくのは想像もつかない、と首を傾げたマリアベルに、アナスタシアは笑い出す。
「大丈夫よ、マリアベル。私、決めたわ」
「なにを?」
「ここから、出る方法はあるのよ。アシュレーのように、強い意志があれば戻っていける。マリナのように、戻ってこいと強く願う意志が有れば、迷わないですむ。だから私―― 貴方がその瞼を閉ざす前に、そこに戻るわ。呼んでくれるでしょう?」
「妾が?」
「そうよ。マリアベル以外の誰が、私を呼んでくれるの?」
 常に呼んでくれていた、たった一人の友達で、味方だった少女。
 遠大な時を越えてなお、自分を忘れないで居てくれる友達。
「こうしてしか、話せなくても。貴方を独りでしないで済むなら、嬉しいわ。見送るしかないから、人と知り合いたくないといったマリアベルを、本当は一人になんてしたくなかったの」
「しかしな、アナスタシア。そこに居るのは辛くないのか? アナスタシアが好きだったこと、なに一つ出来ないであろう? 食べるのも、着飾るのも、何もかも好きだったというのに」
「大丈夫。大丈夫よ、マリアベル」
「どうして?」
「だってね」
 くすり、とアナスタシアは笑った。
 昔のように。剣の聖女と呼ばれる前のように。
 マリアベルと屈託なく笑いあった、あの過去の日々のように。
「だって、一番好きだった、おしゃべりが出来るもの」
 
 

 伝説はやがて風化するだろう。
 剣の聖女とたたえられた、一人の女性がいたことも。
 全ての人々が祈り、戦った過去があったことも。
 ―― ロードブレイザーの名前すらも。
 遠大な、歴史という重みを共に生き抜いていくノーブルレッドと……狭間から世界を見つめる、二人の娘を除いて…。
「戻」