翼舞い散る

「アナスタシアっ!」
 荒野と、視野全体を埋め尽くす紅の中。一際高い声をなげられて、彼女はゆっくりと振り返った。
 生ぬるい、戦場にて散る血液の温度にも似た湿度の中、在りし日の穏やかな空を思わせる青色が一瞬広がる。
「マリアベル」
 何かを惜しむように、願うように、祈るように。恐らくは万感の思いをこめて名を呼び返した彼女の双眸は、今静かに濡れていた。
 目の前に危機がある。
 一人の命を左右するのではなく。全ての命をもてあそぶ危機が、世界の全てを押し包もうとしていた。
 ―― ロードブレイザー。
 それが危機の名前。
 そして彼女が倒すべき敵の名前。
「マリアベル」
 もう一度、己を呼びとめる少女の名前を求めて、声を重ねる。金色の髪を結びとめた少女の影は、まろぶようにして走りよってきて、すぐに顔の判別のつく距離に変わった。
「アナスタシアっ!」
 二人、名前を呼び合うこと以上の言葉が出ない。
 きゅっと唇を噛み締めると、アナスタシアは片足を踏み出した。一週間という戦場の日々は、剣など振るったこともない己の身体を限界まで疲労させている。
 けれど立ち止まることも、諦めることもしなかったアナスタシアが、今、立ち止まっていた。
 ロードブレイザーを倒すことが出来ないと知った。
 人が抱く負の感情が、あの災厄に力を与えつづける以上。アガートラームの剣を持ってしても、完全に滅ぼすことは出来ないのだ。
 ―― 封じるしかない。
 いつ目覚めるか分からないにしても。
 僅かな平和を取り戻す為に、敵を封じなければならない。
 ―― アガートラームと……
「私を、犠牲に、することで」
 ―― 封じることが辛うじて可能になる。


「………覚えていて」
 押し殺した感情の結果、どこか乾いてしまった声でアナスタシアは言った。
 続くのは、別れの言葉になるのかもしれない。
 それを敏感に感じ取って、アナスタシアの目の前まで走ってきた彼女は眉をひそめる。
 誇り高いノーブルレッドとしての自覚がそうさせるのか、それとも彼女の性格ゆえなのか。
 唐突に訪れた危機の中、永遠の時を共に生きる数少ない同胞を全て失い、一人きりになりながらも、彼女は立ち上がって戦う道を選び取ったのだ。―― 唐突に現れた希望の光、剣の聖女に定めを押し付けようとはせずに。
 マリアベルはノーブルレッドの特徴を色濃く宿す真紅の瞳を細めると、不意に青白い腕を伸ばしてアナスタシアの衣服についた汚れを払う。
「もう少し身だしなみにも気をつかうべきじゃな、アナスタシアも」
 戦場にはひどく不似合いすぎる言葉。
 アガートラームを片手に握り締め、吐き出したくない言葉を、今にも口にしようとしていたアナスタシアは目を見開いて、くすりと笑った。
「そうね。もう少し、おしゃれがしたいわ」
「アナスタシアになら、我がノーブルレッドの伝統的衣装をかしてやってもよいぞ」
「あら、マリアベルのサイズじゃ入らないわよ。私の方が背が高いもの」
「むっ!女子のよさは身長ではかってよいものではないぞ」
「私の方が胸だって大きいわ」
「アナスタシアー!」
 それは言うてはならぬことじゃ、と唇を尖らせて抗議すると、アナスタシアが楽しそうに笑う。―― けれど、その目元に光り始めていた涙は、乾くどころか、みるみるうちに大きな雫に変わりはじめていた。
「……マリアベル。今、だれか私をみているかしら」
「アナスタシアが誰からも見えぬように妾がしてやる」
「私ないてもいいかしら」
「よい。愚かな人間どもが否定しようとも、ノーブルレッドたる妾がよいというておるのじゃ。誰にはばかることがあろう!」
「私も愚かな人間? マリアベル?」
「……アナスタシアは特別じゃ。なにせ妾の……友達ゆえな」
「じゃあ、泣いてもいいわね。友達の前で泣くのは、誰にでも許されているはずの権利だものね」
 いい終えたアナスタシアの身体が震える。
 慌てたようにマリアベルは背伸びをすると、思い切りよく両手を伸ばして友人の首の後ろを押さえ抱き寄せた。腰を屈めた形になったアナスタシアの顔が、自分の首元に埋まるように。
「マリアベル。覚えていて、ねえ、お願い覚えていて」
「……アナスタシア」
「私、死にたくなんてない。痛いのはいやよ。明日がなくなるなんていやよ。マリアベルともっと一緒にいたいわ。ノーブルレッドである貴方が寂しくないように、貴方と一緒にいてねって子供たちに伝えたいわ。好きな人に好きだって伝えたいわ。ねえ、どうして。どうしてみんな、あんなにも簡単に絶望してしまうの。どうして簡単に、他人から与えられる未来を許容しようとするの。どうして?どうして?どうして一緒に戦ってはくれないの。どうして、望んではくれないの、未来を!」
 叫んで、小さな友人の身体をかきだく。
 望みは山のようにあった。
 願っている明日も、手に入れたい未来もあった。
 特別など一つも持っていなかったはずの、自分が持った特別。絶望しないこと。明日を望むこと。生きたいと叫ぶこと。
「勝手に私を聖女にしないで!私は、死にたくなんてないのに。―― 選択が他にあるなら、そっちを選ぶわ。私の腕はこんなにも振るえていて、足だって前にすすみたくないって叫んでる。なのに―― 選択がどこにもないなんて!!」
 人の絶望がロードブレイザーに力を与えるならば。
 どうして人は希望を抱いてくれないのか。
「妾は諦めぬ」
 ぽつりと、マリアベルが呟く。
 顔を上げようとしたアナスタシアの頭を抱く、マリアベルの腕に力が込められた。―― 剣の聖女と同じく、震えているその細い両手に。
 だから気付く。
 死ぬのを恐れている自分と同じように。
 共に戦う道を選び取ってくれた永遠を生きる彼女が、自分を失うことをひどく恐れてくれていることに。


 アガートラームを彼女が抜いてから、七日目に。
 人々はある事実を知った。
 剣の聖女が、その全ての命をアガートラームに捧げれば、目の前の危機”ロードブレイザー”を封じることが可能であることを。
 刹那。
 人々はただ一つを願ったのだ。
 何千、何万、何億という人々が。
 アナスタシア一人の死を請い願う。
 聖女に導かれて、組織的な抵抗を続けていたはずの人々は、この安易な方法に魅入られたのだ。
 なんという醜さかと、人々の希望に気づいてマリアベルはほぞを噛んだ。
 だからこそ、受け持った戦場を放棄し走り名を呼んで。
 彼女の死を願う人々の視線から、アナスタシアを守ろうとしたのだ。
 だから、アナスタシアにしてみれば。
 剣の聖女としてではなく、アナスタシアという個人を求め呼んできたマリアベルの声は。―― 己の命を願ってくれる、たった一つの祈りそのものであった。
 
 
「マリアベル、死にたくない、死にたくない、私、死にたくない」
 がたがたと震える自分の体を、情けないとはアナスタシアは思わない。これが普通のはずだ。例え自分の死が全てを救う結果をもたらすとしても。死にたくないのが人間のはずだ。
 ―― 死を突きつけられて尚、生きる望みをすてない聖女。
 皮肉だった。死にたくないと、願う気持ちが高まれば高まるほどに、アガートラームは力を増していく。欲望のガーディアンであるルシエドも能力を増していく。
 死なねばならない舞台が整っていく。
 震える友を離すまいと、マリアベルは彼女を抱く腕にさらに力をこめた。体温の低いノーブルレッドたる自分でも、触れていれば温もりが生まれてくる。
 この温もりを―― 友を、失いたくはない。
「妾が許さぬ!アナスタシアが死なねばならぬ未来など、だれが許しても妾が許さぬ!妾は……妾は、アナスタシアに生きていてほしい。そう、生きていてほしいのじゃ!」
 だから、思わず叫んでいた。
 すでに泣いているアナスタシアと、多分そう変わらぬ有り様で自分も泣いているのだろう。哀しいのだから、きっとそれは当たり前のことだ。
「……マリアベル」
 アナスタシアがマリアベルを呼んで。
 マリアベルがアナスタシアを呼ぶ。
 当たり前のこの事実が、途切れることが二人とも怖い。
「誰も祈らぬのなら、妾が祈る。妾が願う。ノーブルレッドである妾の願いじゃ。人の子の、何万人分もの力にくらいなると思え。……死なせはせん!妾がアナスタシアを死なせはせん!」
「……ありがとう、ありがとう、マリアベル」
 ―― それでも行かねばならないのだ。
 足は震えている。腕も震えている。眼差しは涙に濡れたまま、心臓は早鐘のように打ち続けるまま。
「覚えていて、マリアベル。私がもしも死んでしまって。私を生け贄にしようとする人達が、私を英雄という偶像に変えてしまったとしても。貴方だけは覚えていて。私が―― 最後まで死にたくないって叫んでいた事。それを覚えていて」
「……覚えておる」
「もう一つお願いがあるの、マリアベル」
「アナスタシアは欲張りじゃな」
「私の我が侭、きいてくれるのはもう、マリアベルだけみたいだものね」
「言うてみい。アナスタシアが望むなら、妾の好物でもなんでもくれてやる」
「ありがとう、マリアベル。じゃあ、生き残ることが出来たら。私も、一番の好きなものをマリアベルにあげるわ。だから、ね。マリアベル。約束して」

 ―― 英雄の血筋にされてしまう。
   ヴァレリアの子孫達を見守ってやって。
   そして私を覚えていて。


 鮮やかな笑顔だったと思う。
 閃光がひた走った瞬間、マリアベルが見たのはアナスタシアの笑顔と、彼女をおって走り出したルシエドの後ろ姿だった。
 ―― なのに走り出さない自分がいた。
 本当は、彼女が逝くならば、共に行ってもいいと思っていた。
「アナスタシアが望んだのじゃ。ヴァレリアの子孫達を見守れ、とのう」
 ぽつりと呟いて、彼女以外の住人を一人も抱こうとしないノーブルレッド城の中、マリアベルは歩く。
 凶星が空を走っていったのは先日のこと。
 神経質な表情のまま、対応を模索するヴァレリアの子孫の顔が目に浮かぶような気がする。
「やれやれ。やはりアナスタシアは我が侭じゃ。割の合わぬことを、願ってかってに行きおって」
 ―― 生きていたいと。
 願っていた彼女を自分は知っている。
 いつか他の誰かも知るだろうか?
 英雄という二文字に封じられてしまった。
 哀しい涙のその意味を。
「戻」