名付けられた束縛

 行くなと、叫んだ瞬間にそれは空虚に変わった。
 止めようとして伸ばした腕は何も掴めず、代わりに与えられたのは馬鹿なほどに激しい衝撃。
 ――痛みだと認識することも最初できなかった。
 ただ、人間が渾身の力をこめたときというのは、ここまでの強さを与えるのだろうかと何故か冷静に思う。
 意識が急速に白濁していく中。
 去っていく親友の後姿をみる。
 だから叫ぼうと思って唇を開いたけれども、声にはならず、ただ呻きに近い呼気が零れ落ちただけだった。


 世界は四つの王国で成り立っていた。
 機械、農業、商業、軍力。それぞれの特性を特化させ、発達し均衡を取りつづけ歴史を織り成してきた諸国の中で、軍事力による防御を担当したのが、スレイハイムである。
 力を保持する者が陥りやすい血の色の夢――軍事力による世界統一の野望を抱き始めたのは最近のことだった。
 無謀なまでの徴兵増員が図られ、生活の場から、労働を支える年代の者達が消えた。
 跳ね上がった税率に、何もかもを奪われた人々の哀しみの声が町や村であふれた。
 そして――国民は疲弊していったのだ。
 急激な軍事力拡大のありさまを、当然ながら他の国々は警戒していたが、攻められて防御する以外に戦争をするわけにはいかない三国は、ただ手をこまねいて状況を見守るしかなかったのである。
 緊張に膠着した瞬間を見計らったかのように、唐突に言い放って見せた男がいた。
「お前達が動けぬのならば。我々に援助の手を差し伸べよ。さすれば、スレイハイムの暴走は、同じスレイハイムの民が止める」
 組織を率いるに相応しい貫禄と、才能と、巧緻さと――そして弁舌を持って時代に登場した男。
 それが、ヴィンスフェルト・ラダマンテュスだった。
 巧みな話術によって、三国から秘密裏の援助を受けることに成功したヴィンスフェルトは、組織形成に辣腕を振るう。国に不満を持つ正規軍所属の士官を巧みに勧誘し、脱走させ、味方に引き込む。そして引き込んだ士官に命令し、元部下達も脱走させるように仕組んだのだ。
 スレイハイムの軍事力拡大が、急ぎすぎた行為であったために、軍に対して疑心を抱く者が多かったからこそ出来た芸当であった。
 しかし現実問題として、いかにヴィンスフェルトが辣腕を振るおうとも、スレイハイムに対して互角の条件を作り出すのは不可能だった。――三国の援助を受けているとはいえ、装備も訓練度も仕方ないことだが、遥かに正規軍に劣ってしまう。
 それでも。解放軍はあきらめなかった。
 希望を持たせつづけたもの。
 戦う意思の存続を可能とさせたもの。
 ――それは一人の英雄の存在が大きい。
 彼はひどく陽気な男で。
 暗い未来を予期し、絶望しまいがちな人々を明るく常に鼓舞していた。
 常に行動を共にしている男と共に、かならず最前線で戦い、帰ってくる男でもあった。
 彼の側にいれば、絶望に悲嘆する前に、明日の為に戦う気力が湧いて出た。
 スレイハイムに現れた英雄は……そんな、不思議な度量を持つ男だったのだ。
「気付けば最前線にいるんだからな。毎回毎回、いい加減にしてくれ」
「大丈夫だよ。俺は死にゃしねぇからさ」
「なぜそう言い切れるんだ?」
「俺が走り出そうとした瞬間には、お前の方が先に走り出してるじゃねぇか。他からみれば、一番最初に最前線に飛び出してってる奴って、俺じゃなくてお前だぜ?だから俺は大丈夫なのさ」
「……その論法でいくと、俺が大丈夫じゃなくなるみたいだな」
 憮然と息をつく仕種は、巨漢といってもいい体躯を持つ彼には不似合いそうだというのに……何故か彼にはひどく似合っている。
 からからと金髪の男は笑い出すと、憮然とする黒髪の親友の肩を叩いた。
「んなことねぇさ。お前が大丈夫じゃねぇときは、俺がきっちり助けてやるからさ」
「俺はお前に助けられたこと、あまりないぞ」
「そうか? まぁ、気にすんな、そんな細かいこと」
「……英雄と呼ばれるほどになったんだ。少しは安全なところにいることぐらい、覚えてくれ」
「今は楽するときじゃないからな。安心しろよ。全部終わったら、俺は超絶楽な生活を送るからな」
「……その時がきても、俺はあまり楽そうじゃない気がするな」
 またもや、憮然と黒髪の男が呟く。
 楽しくて仕方ないというように何度も笑って、金髪の男は親友の肩を叩いた。
 こんな言葉の応酬こそが。戦場に居続ける英雄とその親友の間で交わされる、会話だった。
 そしてこの会話が。彼が意識を失うしばらく前にかわした。
 最後の日常会話の一コマだったのだ。


「しっかりしてください!ブラッドさん!」
 声が聞こえてきていた。
 どうやら倒れこんでいるらしい自分に向けられている、悲痛な呼び声。
「怪我でもされたんですか!?しっかりしてください!貴方に今倒れられてしまったら、俺達は!!」
 ――英雄。ブラッド・エヴァンスを呼んでいる、声。
(――ブラッド?)
 何故、その名前で自分を呼んでいる人間がいるのか?
 彼は――その名を持つ男は……。
 考える。
 解放軍は最悪の状態に置かれていたのだ。
 スレイハイム王国城に攻め込む前に、ヴィンスフェルトが自分たちを王国に売ったことを知った。
 詳しい理由はわからない。
 恐らく、想像以上に強固だったスレイハイム王国に解放軍が勝利を収めることは出来ないとヴィンスフェルトは勝手に判断したのだろう。ならば、勝てないまでも解放軍が脅威の存在であることが可能なうちにと、彼は情報を全てスレイハイムに売りつけたのだ。
 指導者たる人間に裏切られた事実に解放軍の誰もが絶望し、嘆いた。
 けれど絶望にくれる解放軍の中で、英雄ブラッド・エヴァンスだけは凛とした様子を崩しはしなかった。そして強く「流された血を無駄にはしない」と言いきると、王国城に奇襲攻撃をかけると断言する。
 三国から援助を受け取っていたヴィンスフェルトを失い、補給線をたたれ、全ての情報が露見されてしまった今。
 方法は、それしかなかったのだ。
 大量の血と、銃弾の飛び交う中。
 英雄と呼ばれる男と、その親友である男は、やはり常に最前線に立っていたのだ。
 戦闘はからくも解放軍の勝利で終わったが。
 敵味方の区別なく、全てを死に追いやる至上最高にして最悪の最終兵器――エンジェルハイロゥが起動されてしまったことを、知ったのだ。
(だから、あいつは…)
 エンジェルハイロゥを止めるといって、彼は行ってしまったのだ。
 行かせまいとした自分を強引に黙らせて。
 ――だからもう、再会することは二度とかなわぬのだろう。
 そう思えば、あまりの空虚感に胸が押しつぶされそうになる。
「ブラッドさん!!」
 また、声。
(ブラッドはいないんだ)
 そんな事、わかりきっているだろうに。何故に兵たちは、懸命にブラッドの名前を呼んでいる?
 分からなかったが、とにかく現状を知りたくて目を開く。
 ――飛びこんできたのは、あからさまに安心した様子の、兵たちの顔。
 ――そして、自分が胸元でゆれていた認識票を確認している眼差し。
(認識票?)
 ハッと目を見開き上体を起こすと、彼は揺れる銀色の認識票に視線をやった。
「一体…」
 信頼の眼差しを向けてくる兵たちに悟られるのように、口の中呟く。
(これは一体何の冗談なんだ?ブラッド?)
 答えが帰ってくるわけもないことを知りながら、心の中で繰り返し尋ねた。
 たしかに英雄の偶像化が進み始めていたのは事実だ。
 ブラッドという男の詳しい実情よりも、彼が成したこと、つむいだ言葉などが過剰に喧伝されていく。
 誰もが知っていたのは、英雄が勝利をもたらすこと。人々を導いてくれること。そして最前線に常にあること。――ブラッドの名前を保持していること。
 滑稽なことに、人々英雄を認識するに必要な条件を満たした男は、二人居たのだ。
 一人は当然だが、本物の英雄であるブラッド。そしてもう一人が英雄の親友である自分。
 兵たちが確認するように視線を投げている認識票には、ブラッド・エヴァンスの名前が刻まれている。
 死なずに再会できるようにするゲン担ぎみたいなモンさ、と皮肉屋な口調で彼がいって、認識票を交換させられたのだ。
 たかがこの程度のことで。
 ――俺がブラッドに勘違いされている?
 理解した瞬間、己の全身から血の気がさめる音を、彼は聞いた。
 英雄とはそういうものなのだろうか?
 人々が望む英雄というのは、条件さえあれば、誰でもいいものなのか?
 確かに自分は彼と常に共に居た。だからこそ、常に最前線にもあった。人々を鼓舞する際、視線の先には親友だけではなく自分の姿もあったろう。
(ブラッド……)
 友の名前を、心の中で呟く。
 そして。
 不安を必死に耐えようとして、希望を見出そうとする人々の顔を見やった。
(これが、俺の役目なのか? お前の……背負ってきたものを、俺がここで少し変わることが。お前が勝ち取ろうとした未来へとつなぐ、道の一歩になるのか?)
 誰よりも、明日を望んでいた親友。
 多分彼が英雄と呼ばれるようになったのは、最前線に常に立っていたからではないはずだ。
 明日を、未来を、手に入れる希望を勝ち取るために。誰よりも前向きだったからこそ、英雄と呼ばれた男。
(ブラッド・エヴァンス)
 ――分かった。
「なんとか、やってみるか」
 呟き、ゆっくりと立ち上がる。そして彼は眼差しに力をこめ、周囲をはっきりと睥睨した。
「エンジェルハイロゥの起動阻止成功の可能性は低い。――しかも起動された場合は、俺達に大量殺人の咎を着せてくるだろう。今の内に――解放軍を撤退させる」
 ――ブラッド・ヴァンスの名前には、まだ意味があるってことなんだろう?
 どこまで自分がやれるかなど、本当を言えば分からなかった。
 英雄ではない自分を知っている。
 けれど。
 ――親友として。
 奴が目指そうとしたものを、潰させるわけにはいかなかった。


 走り出す一瞬前に、彼は振り向いて去って行った親友の後姿をもう一度だけ探す。
 死なないゲン担ぎだ、と親友は言った。
 もしそれが本当ならば。
「……生きていろ…」
 いつか名前を返せる日がくることを強く願う。


 その五年後。
 ブラッド・エヴァンスは、元解放軍全ての兵士にかけられた容疑を一身に肩代わりし。
 イルズベイル監獄に送られることとなる。

「戻」