――俺は呪縛をかけてしまっただろうか?
声が聞こえたと思った。
暖かな日差しが差し込んでくることこそが似合う、辺境の小さな村の、素朴な家の中で。
「……あ、れ?」
「どうしたの、アシュレー?」
きょとん、と振り向いてくるリルカに、慌てて彼は手を振った。
「いやさ、今なにか声が聞こえた気がしたんだよ」
「プーカも聞いた気がしたノダ」
突然に割って入ってきた声に、穏やかな風貌の青年は振り向く。
「プーカも?じゃあ、ティムは?」
「すみません。僕はとくには…」
首をかしげながら、ティムが麦畑の色をした髪をゆらす。
「聞こえたノダ!プーカ嘘ついてないノダ!」
「そっかぁ。じゃあ、僕が聞き逃したのかな?」
空中を滑るように進んで、ティムの視線と同じ高さに留まるプーカと会話を続ける二人をみやってから、アシュレーは肩を竦める。
目の前には、車椅子の男。一見してすぐ分かる。――その精神が正常ではないことくらい。
けれど落胆する素振りはまったくなく、車椅子の男に話し掛けているのは、ブラッドだ。
「ブラッドって、落胆すろ、とかそういう前に、物凄く相手を信じるんだな」
不意に口に出してアシュレーが言う。
驚いたブラッドが振り向いて、額当ての下、鋭い双眸を幾分か不思議そうに揺らせた。
「どういう意味だ?」
「いや……その、さ。ブラッドって信用する、って決めたら。相手がどういう状態であっても、どう思っていても、落胆しないんだなって思って」
――裏切られたと思ってしまったことがあった。
情報が随分と敵に把握されていて。行動しても、先手をうとうとしても、なぜか打てなかった――その状態の中。
彼は寡黙で、過去を話そうとはしてくれなかった。
その上、やけに多くの事を知っていて。――不自然なほどに頼りになったから。
今思えば、疑うには随分と脆弱な理由でしかなかったのに。
「アシュレー? どうしたの?」
メリルにお茶でもどうですかといわれ、リルカとティムの分だけ甘いココアだったことに歓声あげていた彼女が、くるりとふりむく。
元気で明るくてすこしおっちょこちょいで。
無理せずにそうしていられる性格なのだと、思っていた。
その明るさに何度も救われていたから――彼女が強がって、必死に笑っているときがあることなど、考えもしなかった時がある。
『リルカは辛いときでも笑うんですから、少し――気を付けてあげてくださいね。なんか、貴方には、甘えてるっぽいし』
完全に不機嫌だ、という顔をして。
シエルジェ自治領区を出ようとした瞬間に、走り込んできた少年の名はテリィといった。
誰もが無理をしている時がある。
頑張っている時がある。
笑ってるから、黙っているから、泣かないから、感情を見せないから。
――平気だという答えには、ならない。
「なんでもない、リルカ。なんかちょっと、子供っぽかったな時分、って思って」
「そうかなぁ?アシュレーはちゃんとやってると思うけど。こら、平気へっちゃら!」
「随分と助けてもらってるから、平気でいるだけだよ」
助けてもらっている。
分かる。今はもうそれが分かる。だから――間違えない。
ブラッドは相変わらず怪訝そうにして、リルカは場を明るくする為なのか笑っている。メリルはきょとんと、心配そうにブラッドをみつめ、ティムはプーカと喋っていた。
「カノン…は、外か」
苦笑してみる。
個人行動を好む娘。けれど――仲間だという認識を持ってくれてからは、遠くに行ったりはしなくなった。入り口部分で、見張りのようなことをしている時が多い。
「仲間って、なんかやっぱり…いいよな」
「……なんか、今日のアシュレーって感傷的だね」
どうも話についていけないよと、リルカが盛んにアンブレラを器用にまわしながら唇を尖らせた。
「――戻るか」
短くブラッドが言う。
「あれ、もういいのか?」
「元々用事があるわけではない。長居して迷惑をかける理由はない」
いっそぶっきらぼうな程に的確に答えるので、肩を落とすメリルが少し可哀相になる。
けれど引き止めるだけの理由がアシュレーにあるはずもなく、結局は肯いて歩き出した。
――呪縛をかけてしまったかもしれないんだ。
また、声が聞こえた。
今度ははっきりと。
最後に家を出ようとしたアシュレーは勢いよく振り向いて、彼を見る。
ブラッドの親友であり、スレイハイム解放戦争により精神を壊され、今――いつ終るともしれない休養を撮り続けている、彼を。
「……ビリー…さ…ん?」
――呪縛?
「どうした、アシュレー」
低く落ち着いたテノールの声が自分を呼んでいる。
これは――カノンだ。やはり入り口で、見張りをするようにたっていてくれた彼女だ。
「い、いや、なんでもないよ」
――呪縛って、なんだろう?
スレイハイム解放戦争時代。
英雄と呼ばれた男がいた。ブラッド=エヴァンス。今、共にARMSの仲間として行動を共にしてくれている、彼のことだ。
けれどそこに隠されている秘密を、アシュレーは知らない。
スレイハイムの英雄であるのかないのか。それに――あまり執着していなかったから。
最も頼りになり、共に死線を潜り抜けていくかけがえのない戦友の正体がなんであろうとも、彼は彼にかわりないと――今のアシュレーには思えるのだ。
だからアシュレーは知らない。
かつて生まれおち名付けられてよりずっと、ブラッドと呼ばれていた男がいて。
ビリーと呼ばれていながらも、意志を受け継ぐ為に名を捨てブラッドとなった男がいたことなど。知らなかったのだ。
『俺はお前に全てを押し付けただけだろうか?』
くらい、くらい。闇の中で、何度も考えていた。
最後の意識が白く燃え尽きていく瞬間に、一番の親友の顔を見ることは出来なかった。
だから、半ば強引に取り替えさせた認識票の――刻まれた名前を必死に見詰めて。
――解放軍はどうなるのだろうか?
思いながら苦笑した。
分かっていたはずだ。あの時。引き止めようとした親友をなぐって気を失わせた後、走り出した自分には。
――あいつがいるから、無理が出来た。
――なにがあっても付いてくる奴だから。
――途中で力尽きても。その後を、引き継いでくれるだろうから。
けれど。
それは――呪縛を、無理矢理、かけたことになるのかもしれない。
半分以上壊れた心と、心の中の狭い狭い闇の中。
様子を見に来る親友がくるときだけ、本当に僅かに、外界を感じる。
そして思う。
確かに昔から無口ではあったが、もう少し喋っていたのではないだろうかとか。
もう少しよく笑っていた気がするとか。
壊れそうなほどに全てを背負い行おうとする、眼差しをしてはいなかったような気がするとか。
――いつか、お疲れと、言ってやりたい。
謝るよりも、そう言いたかった。
無理をさせた。無茶をさせた。そして必要のない罪悪感を与えてしまった。
(俺は知っていたさ)
自分が戦闘不能になり、それでも英雄に縋ってくる人間たちを前にして。
お前がどう行動するかなど、分かっていた。
(親友、だからな)
――呪縛をかけてしまったろうかと、また考えながら。
彼は、親友と共に来る人間たちに感謝して、少し腹を立てた。
羨ましいのかもしれない。
かつては戦場に常に共にあった。
どんな時でも、死ぬ気はしなかった。困難にも勝利を掴めると思っていた。
――共にいればなんでも出来ると。
まるで子供のように思っていたから。
だから彼は。
親友達が訪れて。少し、現実に立ち戻る心の一部で、そんなことを思っていたのだ。
「……アシュレー!」
カノンの声に苛立ちが入っている。
はっと身体を震わせて、無理矢理に笑顔を作った。
「今いくよ!」
叫んで手を降る。何時の間にか、全員村の入り口部分まで行ってしまっていた。
そして、振り向いて。
部屋の中、虚ろなままの眼差しで、座りつづける男に。
――一礼した。
そして今度こそ本当に、アシュレーは走り出していた。
どうして一礼したくなったのか、その理由は彼には分からない。
ただ無性に、そうしたくなったのだ。
「ブラッド!」
「どうした」
「あの人、絶対に直るって確信した」
「?」
途端に首をかしげたブラッドの肩を思いっきり叩いた後、
「よーし、みんな、次のレイポイントに行くぞ!!」
アシュレーは大声を出して、走り出していく。
―――空は、まだ快晴を取り戻していない。
「戻」