人恋しくて、寂しい気持ちになることは、誰だってある。
大人だってそうなのだから、まだ小さい子供だったらなおさらで、きっと親に甘えたりしているのだろう。
堂島菜々子はそれをしない。
寂しいときに、寂しくないよと笑って首を振るのだ。
お父さんがいるから(でも忙しいから)
菜々子は寂しくないよ(わがままは言わないよ)
そういって、笑うのだ。
菜々子は知らないかもしれないけれど、菜々子は夕方になる電話が苦手だ。
夕方になる電話は、たいてい「今日は遅くなる」とか「今日は帰れない」とか、告げてくるものだから。
菜々子自身が押し込めてしまった感情の奥で、本当はとてもとても、寂しくて、人恋しがっている子供なのだ。
突然に、天気が崩れた。
「きゃ!」
吹奏楽部の後輩が悲鳴を上げて首をすくめる。
学校の大きな窓から、とてつもない迫力で空を裂く稲光が見えた。
間髪いれずに、雷鳴が轟く。
「まずい」
思わず、眉を寄せて秋庭四朗は立ち上がった。
天気予報では、激しい雷雨に警戒しろとは言っていなかった。
急いで荷物をまとめる。
こういう時に一番に動いてくれるのは親友の陽介だが、今日はどうしてもバイトがはずせないと言っていたから、電話したい気持ちをぐっと耐えた。
連絡をしてしまえば、きっとどんな無理をしてでも様子を先に見に行くと言い出すだろうから。
「先輩!?」
どこかすがるような色のこめられたソレをあえて無視して、四朗は「妹が家で一人なんで」と部長に叫んで、学校を飛び出した。
傘なんて持っていない。
第一、雷鳴轟く中、持っていたとしても傘をさす気にはなれなかっただろう。
叩きつけるような雨の中、体中が一瞬でぬれていく。
持って帰るほうが悲劇になると思って、貴重品以外の荷物は教室に置いてきたのが正解だったようだ。この濡れ方では、ビニール袋に入れたとはいえ、財布と携帯電話の無事を祈りたくなる。
視界が悪い。むかってくる車に水をはねられるだけならいいが、事故にでも巻き込まれたらたまったものではない。
急ぎながらも警戒は怠らなかったせいか、普段より時間がかかってしまった。
玄関を開ける。
稲光が、また上空を走った。
「菜々子!」
大声で呼んだ名前に、雷鳴が重なる。
家の中はシンとしずまっていて、人の気配がない。
菜々子は部屋で小さくなっているのだろうか、泣いていないだろうか、そればかりが気がかりで、濡れてなかなか脱げない靴にいらだった。
なんとか靴が脱げて、乱暴に靴下を脱いで、いったん脱衣所に向かう。
本当ならば塗れた服も脱ぐべきなのだが、それをする時間が惜しくて、自分用のバスタオルだけ乱暴にとって、階段を駆け上がった。
「菜々子!」
もう一度声を上げて、ノックと同時に扉を開けた。
窓から一番遠い部屋の隅で、布団が盛り上がっていた。
すぐ側に駆け寄って、隣に腰を下ろす。頭にかけたバスタオルで手を拭き、そっと布団の上に手を置いた。
「菜々子」
優しく名前をさらに呼ぶ。
「おにい、ちゃん?」
きつくあわされていた布団の端が、少し、開いた。
また、稲光。
カーテンが閉まっていない窓が、容赦ない光の光景を映し出す。
きっと怖くて、窓に近寄れなかったのだろうと思って、慌てて立ち上がってカーテンを閉めた。
すぐに側に戻って、少しだけ開いた隙間を覗き込む。
「ただいま」
よしよしと布団の上から撫でると、菜々子がいきなり胸に飛びついてきた。
大きな目いっぱいに涙がたまっていて、どんなに心細かっただろうと思うと、部活動をしていた自分に腹が立ってくる。
ぎゅう、としがみついて。菜々子は冷たい感触に目を見張った。
「お兄ちゃん、びしょぬれだよ!?」
「あー、悪い。慌てて帰ってきたから」
「雷、こんなに鳴ってるのに。お兄ちゃん、この中を帰ってきたの?」
「うん。菜々子に会いたくて」
でもこれじゃあ菜々子までぬれちゃうなと四郎は言いながら、けれど胸の中にある従妹を離すどころか余計にきつく抱きしめる。
「雷が収まるまで、こうしてていい? 菜々子」
「えっと」
返事に菜々子が窮したところで、また激しい雷鳴がした。
きゃ!と言って、小さくなる。それを、また強く抱きしめて、背中を撫でた。
「そうだ、よくうちに遊びに来る完二はさ。雷、得意なんだよ」
「え? そうなの?」
怖くないんだ、と菜々子が目を丸くする。
得意といっても、実は雷が鳴っていても平気という意味ではなく、雷を落としてしまうほうのこと、だったけれど。
いたずらっぽく笑ってみせて「今度、雷が怖くなくなる方法を二人で教えてもらおうか?」とささやく。
「お兄ちゃんも、本当は怖くないんでしょ?」
「どうして?」
「だって、お兄ちゃんは強いから。あのね、菜々子も怖くないんだよ。いつも、雷なっても、お留守番してたもん」
「困ったな、俺は雷が怖いんだ」
「お兄ちゃんが?」
「でも、菜々子と一緒にいると、怖くなくなるんだ。だから、雷が鳴るときは、一緒にいて欲しいな。いい?」
「う、うん」
意地悪な雷が、また鳴った。
今度は震える代わりに、菜々子の手が、ぎゅっと強く四朗の腕をつかむ。
この小さな手が、この精一杯に生きるぬくもりが、いとおしい。
ずっとずっと抱きしめて、雷が収まるのを待った。
雷がやんで、四郎はまだ時間は早いけどと言いながら、先に菜々子を風呂に入れた。
とりえあずぬれた体を拭いて、濡らしてしまった床も掃除して、エプロンをして冷蔵庫の中を確認する。
今晩はちょっと簡単になってしまうけれど、夕飯は冷やし中華ですませてしまうことにした。
具の準備を整えて、あとは麺をゆがくだけにしておく。
「お兄ちゃん、菜々子、待ってるから。お兄ちゃんも入ったほうがいいよ」
「じゃあ、そうしようかな。菜々子、コレ持って待ってて」
「あー、クマさんのぬいぐるみ? すごいね!」
「まだ試作品らしい。勝手に持ってきたから、クマには内緒な」
「え、内緒なの?」
「うん、菜々子と俺だけの秘密。じゃあ、待ってて」
菜々子のために作ったイチゴミルクを手渡して、風呂に急ぐ。
「お兄ちゃん、ここで待ってもいい?」
脱衣所の外から、菜々子の声がした。
そんなところで待っていても、面白いことなんてないだろうに。
でも、今、菜々子は多分、誰かがいることを感じられるところにいたいのだ。
「すぐあがるな」
ぽん、と頭をたたいて、秋庭四朗はとんでもない勢いで風呂に入った。
二人、湯上りの状態でソファに寄りかかる。
いつもならすぐにテレビをつけてしまう菜々子が、リモコンを手にしようともしなかった。
そのまま二人くっついて、他愛もない話をする。
話している間中、菜々子の髪をくしけずったり、頭を撫でたりしていた。
まだ、本当は、どきどきしているだろうから。
それが少しでも早く落ち着きますようにと。
「おにい、ちゃん」
ろれつが少し、回っていない。
返事をすれば、ひどく安心したように笑って、菜々子がすりよってくる。
かかる重みが少しずつ増して。
返事が聞こえなくなった。
かわりに聞こえるのは、すうすうという静かな寝息。
菜々子は、寂しいと言わない子供だけれど。
本当は、人が恋しくて。
誰かに触れていたい、普通の子供だ。
「菜々子」
そっと呼びかけて。
四郎はただ微笑んで、小さな妹を見守ることにした。
「戻」