こえ
主人公の名前は”秋庭四朗”です





 声が聞きたい。
 特別なにかがあったわけではないけれど。
 椅子に座って、机に手を置いて、自分は前を見ている。
 どこにでもある、学園の、教室の風景。
 自分はまるで教室を構成する部品のひとつになったようにそこにあって。
 授業を受けて、時間が経過するのを待っている。

 声が聞きたい。

 また、思った。
 なのに。
 聞きたいと強く強く思うのに。
 誰の声を求めているのかが思い出せない。

 誰?
 誰を、自分は求めている?

 霧が視界を包んでいく。
 おかしいだろうと思うのに、此処にある人々は何も思わないようだった。
 授業の終了を告げる音がして、学園を構成する部品たちが動き出す。
 にごった、どこか重い、じっとりとした霧の中で。

 ココの空気が汚れているわけではないだろうに、酸素が足りない。
 息をしても、しても、空気が体の中に入ってこない。

 声が聞きたい。
 聞けばきっと、力が戻ってくるから(力とはなんの?)

 耳に入ってくるのは、どこか乾いた会話。
 目に入ってくるのは、どこか張り付いたような笑顔。
 ――『見たいものだけを人は見る』
 声がした。
 違う。
 見たいものだけを見て。
 聞きたいものだけを見るのなら。
 なぜ、自分の前にあるのは、こんなにも虚ろな……


 声がした。
 思い出してしまえば簡単だった。
 聞きたかったのは、この。


「秋庭くん!! しっかりしてよ!」
 大きく体をゆさぶられて、意識が一気に覚醒する。視界がぼやけてはっきりと見えない。何度かまばたきを繰り返して、ようやく今にも泣き出しそうな顔をしている少女の輪郭を捉えた。
「千枝?」
「うん。わかる? ねえ、大丈夫?」
 あふれてくる寸前の涙をこらえようとするように、千枝は袖口を目元に当てている。
 唇は時折きゅっとかみ締められて、ひどく柔らかそうなそこが痛そうで、無意識に人差し指をおって押し当てる。
「秋庭くん?」
「大丈夫だよ、千枝。心配かけた」
 落ち着かせるためにわざと、低く囁きながら、指に感じた千枝の柔らかい唇の感触になぜか背が震えた。
 首をわずかに左右に振り、おかれている状況を思い出して四郎は唇をかんだ。
 ――情けない。
 さらわれてしまった巽完二を救うためにやってきたのはいいものの、つい最近になって引いてしまった風邪と、ダンジョンの環境の悪さとが重なったのか。それともまだ十分に力をたくわえられていなかったのに、先を急ぎすぎたのがいけなかったのか。
 挑んでしまったシャドウ戦を終えた直後に、少し意識を飛ばしてしまったらしかった。
「俺は……どれくらい?」
 険しい顔をした四郎に、千枝は笑って首を振った。
「そんな気にするほどの長さじゃないよ。ほんの少し」
 目が覚めてホントによかったよと言って、千枝は立ち上がろうとする。
 それを、しっかりと手をつかんで、引きとめた。
「秋庭くん?」
「一人じゃ危ない」
「大げさだよ、大丈夫だって。雪子と花村が、シャドウにいま襲われるわけにはいかないっていって、策敵にいっちゃったから、心配だし」
「俺は千枝が心配だ」
 はあ、とため息をついて、千枝の手をとったまま立ち上がる。
「あたしは大丈夫だよ、やだなあ」
「大丈夫じゃない。大丈夫が保障されている人間なんていやしない。千枝は”自分は大丈夫”って思いすぎだ」
「で、でも、あたしは雪子を守らなくちゃいけないし」
 あわあわとしはじめてしまった少女を、四郎はそっと目を細めて見守った。
 本当はとても怖がりで、でもそれをひた隠しにして頑張ってしまう里中千枝を。
「雪子を千枝が守りたいなら、それでいい。なら、雪子を守りたい千枝は俺が守る」
「あ、あき、秋庭くん?」
「俺は、千枝が守りたいと思うやつのことは全部守ってやるから。だから千枝はもう少し、自分自身を守ることも考えてくれ」
「……じゃあさ、秋庭くんのことは誰が守ってくれるの?」
「え?」
 少しむくれた顔をして、千枝が上目づかいでにらんでくる。
 仲間たちがいるところではあまり見せない、二人っきりでいるときだけの顔で。
「わかってる。秋庭くんのことは、あたしが間に合わなかったときだって、花村が守るから大丈夫だよね。さっきだってそうだった」
 猫のような目に涙を浮かべて、千枝は取られていないほうの手首で目元をぬぐった。
「あたし、あせっちゃって、なにも出来なくって。かばって飛び出していったの、花村が先だったし。だったら周囲の警戒ぐらいやろうと思ったのに、雪子が花村と一緒に行ってくるから待っててって言うし」
 なんにも出来てないよあたし、とつぶやいて、しゃくりあげる。
 花村と雪子は回復してあげることも出来るのに、それだって出来ないんだよ、と涙声で言う。
 ぽかんとして、それから、思わず千枝の腕をつかんでいる手を四郎は引いた。
 素直に腕の中にすとんと落ちてきた少女の頭を、苦笑しながらなでる。
「俺のことを守ってくれてるよ、千枝は」
 言っても納得はしないようで、返事がない。
 けれど少女の手はおずおずと背中に回って、愛おしさに胸が痛くなった。
「気を失っているとき、ずっと声が聞きたかった」
「声?」
「それが誰の声なのか思い出せなくて、でも聞きたくて。どうしたらわからなくなったとき、千枝の声が聞こえた」
「あたしの?」
「だから思い出せたんだ」
 
 空虚な世界だった。
 すべてがあるのに、すべてがなかった。
 あの世界には、仲間たちが一人もおらず。
 そして。
 ずっとずっと聞いていたい、声が聞こえなかった。


「聞きたかったのは千枝の声だって」


「戻」