午前の授業の終了を告げる鐘が鳴った。
この手の音にバリエーションはあんまないんだな、と思いながら秋庭四朗は立ち上がる。
「ちょ、秋庭、待てって!」
呼ぶ声が聞こえた。
それに華やかな声までもが「一緒に食べようよー」と続いて、慌てて振り向く。
短くかりあげた黒髪の少年が、真剣な表情で振り向いてきた四朗にびくっとして目を丸くした。
――いつもの、あの明るい仲間たちの姿はない。
己の失態に聞こえぬように四朗は舌打ちをして、黒髪の少年がなにか言う前に教室を出る。
無機質な廊下を進み、購買で適当にパンを買う。そのまま誰もいない屋上に向かって扉を開け、段差に腰かけた。
喧騒の音があまりに近い。正直、この屋上は爽やかな場所とはいいがたい。
人工物ばかりが視界を埋め尽くしていて、四朗はふと”山が恋しいな”と思った。
「ここって、なんもないっしょ? 都会からきた秋庭くんには、物足りないかもしんないよね」
千枝の声がした。
ずっと聞いていたくなる声だったから、聞き役に徹して笑っていると「もう、黙んないでよ……」と言って、照れてしまう少女の声だ。
けれど、今度は振り向かなかった。
――だって分かっているのだ。あいつらがここにはいないことなんて。
いや、いないのではない。そこからいなくなったのは”自分”の方なのだから。
「なんもないっしょ、か……」
なにもないとか、物足りないもなにも。
稲羽には、お前たちがいたじゃないかと、買ったぱさついたパンをかじりながら思う。
そういえば、八十神高校の購買部の争奪戦はかなり激しかった。コンビニでもなんでもある都会と違って、弁当を持ってきていなければ、購入場所が限られるので当然だったかもしれない。
「なにがいいよ? 買ってくっからさ!」
よく、昼休み前の授業の終礼がなると同時に、教室を飛び出しながら陽介が言ったのを思い出す。
最初は頼んで、慣れたら一緒に行って、菜々子のために料理を覚えてからは弁当あるぞと答えたりしたのが昨日のことのようだ。
大きくもないパンをむりやりつめこみ嚥下して、リアルに思い出されては消えていく仲間たちの声を痛切に聞きたいと思った。
稲羽市をあとにしてまだ一ヶ月もたっていない。だというのにこんなにも落ち込んでいる自分は、別れ際にしがみついて涙を見せた、菜々子以上に子供のようだった。
秋庭はすごい、秋庭は強い、秋庭は冷静だ、と。
あのとき、何度も何度も言われた。その称賛が、落ち込んでいる今の自分には、思い出すたびに痛い。
「強い、か」
守るべき存在が近くにあれば、どんなにも強くなってみせる自信はある。
――誰かの為に泣いて、誰かのために一生懸命になって、誰より傷つきながらたっている仲間たちのためであるのなら。
ため息をついた。
味気ないパンをむりやり食べ終えることもないか、と思ったところで、いきなり携帯電話が震えだす。
なんだ、と思って携帯電話を出せば、ディスプレイに陽介の名前が表示されていた。
持っていたパンを取り落としそうになりながら、あわてて通話ボタンを押す。
こちらが昼休みなら、あちらも昼休みのはず。休み時間に電話をするのは不思議なことではないけれど、学校の中であまり携帯電話を利用しているところを見たことがなかったので、なにか起きたのかと気持ちが焦った。
『秋庭? いま、平気か?』
耳朶を打った、明るい声。
先ほどまで、何度も幻聴のように聞いてしまった”過去からの声”ではなくて、間違いなくそれは”今の声”だった。
なぜか胸が熱くなってしまって、すぐに言葉が出せない。それを困惑と受け取ったらしく『あ、悪い、まずかったよな?』と電話先の声が焦って切ろうとする。
見えるわけもないのに、四朗は慌てて首を振ってしまった。
「いや、大丈夫だ。一人だよ、陽介は?」
『無理してね? 本当に大丈夫かよ? いやたいした用事じゃないんだよな、コレが』
携帯電話の先で響く、本気で心配そうな陽介の声に、自然と笑みが浮かんでくる。
「お前たちのこと考えてたから、驚いただけだよ。で、なに?」
『それがさあ、今、かーなりピンチなわけ。だよな?』
陽介の声が、誰かの同意を求める響きになった。
そういえば、電話先の音はやけに賑やかな気がする。
一人や二人ではない、もっと人間がいるような感じがするのだ。
陽介の声が遠くなったと思ったら『先輩、大変なんスよ。どうしたらいいッスかね』と、完二の声がした。
「完二?」
『ういーっス。先輩、もう助けてくださいよ。里中先輩と、天城先輩が、俺らに実験台になれっていうんスよ』
ほとほと困った声で訴えられても、どうも状況が読めない。
詳しく説明してみろと続けたところで、いきなり元気のいい声が響いた。
陽介の声を聞いたときからあがっていた鼓動が、もうひとつ余分に激しくはねた。
だってこれは、痛切に聞きたいと思っていた声のひとつだったから。
『もー、聞いてよ秋庭くんッ。こいつらまじムカつくんだよ。せっかく雪子と二人で弁当作ってきたのに!』
「弁当?」
『いまだに林間学校のことを根に持ってんの。ケーキはちゃんと作れたのに』
千枝がむくれると、陽介の声が『あれはクリスマスの奇跡だ! きっといつもじゃねえ!』とわめくのが聞こえてくる。それに完二も同意しているらしく、千枝の声がいきなり遠くなった。
携帯電話を誰かに渡したらしい。
耳を澄ませば、誰かの髪がさらりと揺れる音を、携帯電話が拾った。
『秋庭くん?』
「雪子か」
『うん。あのね、お弁当持ってきたよって言ったら。第一声に、”味見はしたのか?”って言われたのよ』
雪子の声は相当低い。
これはかなり傷ついたのかもしれないと思ったが、味見をしていないのも間違いないようだった。板前さんに手伝ってもらったとも言わないから、千枝の家に泊まりにいって、二人だけで作成した弁当であるのかもしれない。
さてなんと言おうか、と考えながら、四朗は段差に再び腰を下ろした。
「千枝と雪子の二人で作った?」
『うん。いつまでも物体Xとか言われたくないし。……それに千枝と約束したの』
「約束?」
『秋庭くんが五月に帰ってきたら、二人でおいしい料理を作って食べて貰おうねって。だから』
頑張ったんだけど、と雪子の声が小さくなる。
――また、胸が、痛くなった。
秋庭はすごい、秋庭は強い、秋葉は冷静だ、と仲間たちは思っているから。
寂しがっているのは自分たちだけで、俺のほうは平気なんだろうと思っているのだろうけど。
――寂しいのは、こっちのほうだ。
振り向いても陽介はいない、隣から千枝の元気のでるおまじないのような声も聞こえない、見守るような眼差しで見つめてくる雪子もいない。クラスを出ても、完二たち下級生もいないし、好意をまっすぐにぶつけてくるクマもいないし。
家に帰っても、おかえりなさいといってくれる、菜々子だっていないのだ。
「ずるいよな」
『え?』
今、なんていった? と、雪子は続けようとしたのかもしれない。
けれど、千枝の攻撃から逃げ出した陽介が、どうやら雪子にぶつかりそうになったらしく。雪子の細い手から携帯が飛び出し、それを持ち主がキャッチして『悪ぃ、天城大丈夫か!?』と陽介が声を上げた。
「陽介」
聞き取るのか、聞き取らないのか、まるでそれが未来を告げる託宣のような気がしながら、四郎は低く名前を呼んだ。
誰よりも一番周囲にアンテナを張っている親友は、耳からは離れた位置にあるだろう携帯電話からこぼれた秋庭四朗の声を聞き落とさなかった。陽介が真剣な顔になったのか、騒いでいたはずのほかの仲間たちの声まで消えて、静まってしまう。
「なんか、みんな一緒で、羨ましいよ」
それだけを言って。
返事を待たずに、こんなことをいって、こんな態度をとるのはらしくないと知りながら。
四朗は通話を切って、電源を落としていた。
「戻」