唯一

 目が覚めた瞬間、景麒は叫びそうになった自分に気づいて目を見張った。心の臓が激しく鼓動を打ち、夢見の悪さを語っている。牀榻からゆるやかに上体を起こし、額に張り付いた髪を払った。
 何を口走ろうとしたのか、景麒は分かっている。
 十二の国に十二の麒麟。王が倒れれば国は荒れ妖魔がはびこる。国に王をもたらすのが麒麟であり、麒麟にとって王は無条件に大切な存在であった。
「――主上」
 囁くように口ずさむ言葉の、なんと便利なことか。
 王を指す言葉であるからこそ、聞けば誰でも、玉座にある王を想起する。
 心の臓が静まりゆるやかになれば、体中を暖かに包んでくる王気に、自然目が細まった。
 景麒が選んだ王は二人。一人は短命に終り、今一人は現在苦難の道を共に歩む。
 主である陽子を思えば、景麒の顔に表情の変化こそ訪れないものの、幸せな気持ちが心を包む。少女の王は政を疎む気配をみせながらも、乗り切ろうと思案し、克己するために懸命になった王の心根が嬉しく誇らしかった。
 だが。嬉しいと思えば思うほど、苦しくなるのだ。
 変わることは出来ると、王その人が見せ付けるたびに。輝かしいまでの覇気を誇らしく思うたびに、景麒は苦しくなる。
 二度目の王を見つけて、最初景麒は落胆した。
 頼りなげな瞳と、状況の理解よりも現実から逃避する心も、弱々しげに周囲を拒絶する姿も。姿かたちは似ておらずとも、その人を形成する全てが似すぎていたのだ。
 景麒が選び、景麒によって王となり、景麒を疎み政を疎み、景麒に恋した女王。
 名を、舒覚という。
『景麒』
 水を含ませたかのようなしっとりとした声で、かの人はいつも景麒を呼んだ。
『そなたがわたくしのもの』
『わたくしだけのものであればいいの』
 白い指先が金の髪を梳いてきた感触も、気弱い娘の風情で寄り添ってきた表情も、寸分たがわずに景麒は思い出すことが出来る。
 ――王は麒麟にとっては唯一の存在。
 無条件に慕い、無条件に寄り添いあうことを望み、民に慈悲をたまるようにと願うのが麒麟の性だ。
 王の為に存在しながら、王のためだけの存在になることは出来ず。
 胸をこがすほどの慕わしさを唯一の存在に向けながらも、新たな王を選んでしまえば、唯一であったはずの事実さえ崩れてしまう。
「私は」
 ――わたくしだけを見て。
「大切な方だと、申し上げてきたというのに」
 ――景麒。景麒っ!
「唯一無二の方であると、思っていたというのに」
 泣ければ良かろうにと、景麒は不意に思った。元々泣くような性格ではないのだから、泣くわけもないが。性格だけの問題ではなく、泣くのは今の王に悪い気がして憚られる。
 陽子の成長は、誇らしさと同時に、ひたすらに景麒を追い詰めた。
 人は変わるのだという現実と、景麒自身では変わる手伝いすら出来ぬ現実とが。
 

□ ■ □ ■ □ ■



 慶国女王中嶋陽子は、いつになく上機嫌に政務をこなしていた。普段より決裁にかかる時間が短くすんでいるのは、若き女王の傍らに、灰茶の毛並みが柔らかそうな半獣の楽俊が佇む為だった。
 あらたに手に取った書類の中に、読み解けぬ文字を見つけて陽子が顔を上げる。そうすると楽俊は笑って、丁寧に意味を教えるのだった。
「陽子は随分と文字が読めるようになったなぁ」
 そよそよとゆれる髭を嬉しそうに動かして、褒めてさえくれる。政務の間中隣りに付き添って、手厳しい愛の鞭をくれる教師役にしごかれることが多い陽子にとって、楽俊が側に居るのはとても楽しいことだった。
「あーあ」
 大きく伸びをすると、半獣の親友は目を細めてふっさりと笑う。灰茶の毛並みがひどく柔らかそうで――事実柔らかいのだが――陽子は抱きつきたくなって、首を振った。
「どうした、陽子? 疲れたのか?」
「ううん。なんでもないよ、楽俊」
「陽子、なんでも根をつめすぎるのはよくねぇぞ。茶でも貰ってきてやるから、ちょっと待ってな」
「あ、いいんだ、楽俊! 本当に疲れたわけじゃないんだ。それに」
 珍しく言葉を言いよどむ。楽俊が不思議そうに振り向いて、長い尻尾が揺らした。
「早く済ませて、楽俊を案内したいんだ。私の国を見てみたいってくれた楽俊に、一緒に見て欲しいんだ。折角の休みに来てくれたんだ、それくらいさせて欲しい」
「そうか」
「私が、そうしたいんだ」
 笑って、陽子は頑張るぞと袖を肩まで持ち上げる。慎みをもてと小言をいいながらも楽俊は笑って、定位置に戻ろうとして顔を上げた。
「――楽俊? ああ、景麒」
 隣りに戻らぬ友人を追いかけて、陽子は己の半身を見つける。普段と変わらぬ表情だが、なにやら憔悴しているような心持ちがして、若き女王は首を傾げた。
「どうした?」
「別段、なにも」
「なにも、じゃないだろう? 景麒、随分と深刻な顔をしているように見えるぞ」
 眉を寄せて陽子が詰問する。景国主従のやりとりはぶっきらぼうに見えがちだが、実際は硬い絆で結ばれつつあるのを楽俊は知っている。半獣はただ尻尾を振った。
「陽子、おいらは向こうにいってるから、景台補と話をしたほうがいい」
「楽俊?」
「大丈夫。今日明日に帰るってわけじゃねぇんだ、焦ることはない」
 耳の後ろをかいて、楽俊はほたほたと部屋を後にする。
 取り残されて困惑する陽子をみやって、景麒は憮然とした。
「よろしいのですか、主上」
「え、なにがだ?」
「来訪を喜んでおられたではありませんか。楽俊殿を呼び止めたほうがいいのでは」
「いい。楽俊は私のことを考えてくれるから、今は席をはずすことにしたんだろう。確かに、景麒のことが気になるな。どうした?」
 処理済のものを横によけ、未処理のものと混ぜないようにして立ち上がる。
「なんなら鈴に頼んで、お茶でも貰おうか?」
「いえ。お気になさらず」
 動かさない表情に隠された、景麒の感情の動きに陽子が気づくようになったのは最近のことだ。陽子は呆れて首を傾げて、半身の前で腕を組む。
「それが気にするなと言う者の態度か? 景麒、私に言いたいことがあるのなら、はっきりと言ってくれ。私はそれから逃げたりはしない」
「主上はお変わりになられた」
 景麒が声を落とす。それがなぜか、喜びと悲しみを等分に含んだ声に聞こえて、陽子はぽかんとした。
「景麒?」
「主上がお気になさることはないのです。私はこれで失礼致します」
「あっ、ちょっと待て!」
「――何か」
「その……。いや、言っておこう。何か悩んで苦しいのなら、私にも言ってくれ。私も何かあったら、景麒に言うようにするから。言わないですれ違っていくのは、勘弁して欲しい」
「私は誰よりも主上を信じております。主上は変わられた。間違いなく、良い方向に」
 珍しい景麒の素直な言葉に、陽子が大きく目を見開く。その隙に場を後にした景麒の唇が、声もなく――私には出来なかったといった気がした。
「……景麒?」
 呆然とした陽子に返事はなく、様子のおかしな麒麟の相談をしようと、楽俊を探して彼女も飛び出す。



 景麒、と呼ぶ声がした。
 歩きすぎる道行からではなく、記憶に残る声が。
 麒麟であるから王が愛しい。同じように民が愛しい。
 最初の王は、わたしだけを見てくれと言っていた。民意の表れでもある麒麟に、それは無理な話だった。そして舒覚は乱心した。
 失道の病にかかった時、景麒はどこか安心していた。選んだ大切な王が道を失い、乱心し、人々を苦しめる姿は見たくなかった。同時に何故か確信もしていたのだ。舒覚が自分を残すことはないだろうと。
 あれだけ景麒に執着した女王は、景麒のためだけに命を簡単に捨てた。彼を残したのだ。たった一人の大切な主に置き去りにされて、景麒は困惑した。
 舒覚は真実、景麒を望み、景麒を愛し、景麒の為だけに命までも捨てた。
 景麒は再び王を選んだ。
 それは、唯一の存在であったはずの舒覚が、唯一ではなくなることでもあった。
 王のために存在するのであって、たしかに景麒は舒覚のために存在していたのではなかった。それは同時に、新たなる主である陽子のために存在しているのではないということになる。
 王だから、その相手が愛しい。舒覚だからでも、陽子だからでもないのだ。
 景麒の為だけに死んだ、唯一だった王のことを思うと、景麒は苦しくてしかたなかった。
 ケイキ、という音の響きが好きだといって、舒覚は景麒に字を与えなかった。せめて字を賜っていればと、景麒は埒もつかぬ事を思う。舒覚だけが呼ぶ名があれば、その名の存在は舒覚のものであったかもしれぬというのに。
 ――どうしようもなかった。


 半獣の親友を探して堂室を飛び出した陽子は、すぐに灰茶の毛並みを見つけて声を上げた。
「早かったなあ、陽子」
「うん。景麒はなにも話してくれないんだ」
「そうか」
 考え込む楽俊にあわせて、髭がそよそよと揺れる。ついでにぱたんと尻尾も揺れていて、陽子は目を細めた。
「とにかく立ち話もなんだから、堂室にもどらないか?」
「そうだな」
 連れだって歩きだす。巧国に流され、追っ手に命を狙われ続け、裏切られ続けた後に出会い、友となった楽俊と歩くことは、陽子にとってはとても楽しい。ついつい機嫌のよさが顔にでる陽子をみやって、楽俊は笑ったようだった。
「陽子、少しばかりやっていける自信がついたみたいで良かったな」
「そうかな? 自信、ついたようにみえるか?」
「ああ。だから、景台補のことにも気づけたんだろう? 陽子はちゃんと良い方向に進んでる。おいらにはそれが嬉しい」
「楽俊にそういってもらえると、なんだか安心する」
 堂室に戻り、二人座って膝を付き合わせる。
「それで、景麒のことなんだけど」
「陽子は景台補がどんな様子に思えたんだ?」
「そうだな。――なんだかひどく悔やんで悲しそうに見えたよ。私はまたなにかやってしまっただろうか」
「おいらには、陽子に問題があるようには見えなかったなあ」
「私ではない?」
 肯定のかわりに、楽俊の尻尾が揺れる。
「じゃあ、なんだろう。景麒が悔やむっていえば……悔やむ?」
「思い当たることでもあったか?」
「いや、もしかしたら……。楽俊、前の景王のことじゃないかな」
「先の景王のこと? ああ、そうか……」
「どうした?」
 今度は陽子が顔を寄せて尋ねる。楽俊はいやな、と子供のような高い声を精一杯低くした。
「延台補にお聞きしたことがあるが、麒麟にとって、王というのは特別な存在だろう。特に二王に仕えた麒麟の気持ちは複雑らしい」
「……複雑?」
「そりゃあそうだ。最初の王だからな。思いいれもある。――景台補は真面目な方だから、陽子の前で先の景王のことを思い出すのを良しとしないんじゃないか?」
「そんなの……気にしなくていいのに。そりゃあ比べられたりしたら嫌だなとは思うだろうけど、口に出されなければ大丈夫だよ。思い出されるよりも溜息をつかれるほうが私にとってはよほどか辛い」
「陽子はそうだな。そういうところ、おいら好きだぞ」
「ありがとう、楽俊。でも、なんで景麒はあんなにも辛そうなんだろう」
 首を傾げて陽子は思い悩む。こうして変わる前の陽子と、先の景王はよく似たところがあると楽俊は聞いたことがある。
「陽子は、先の景王を見たことがあるんだろう?」
「うん。私に似てる人だと思ったよ」
「だからじゃねぇかなあ」
「え?」
 目を細め、楽俊は耳の裏をかく。
「あのな、変わっていく陽子を見れば、先の景王も本当は変わって行けたんじゃ、ってつい思っちまうだろう。自分が到らなかったから、諌めかたが間違っていたんでは、って思い悩むんじゃねぇかな」
「そっか。――自分がいたらないと思う気持ちは、良く分かるよ」
「そういうとこ、陽子と景台補はよく似てるからなぁ」
「似てる? そうかなぁ」
「そうさ。生真面目で、少しばかり不器用で、頑固だ。だがやっかいだな。本当に景台補の憂いが先の景王に関することなら、陽子には何も言えねぇだろうし」
「そうだな。私が言ったら、もっと辛いかもしれない。気づかれたくないって思うだろうし。今はまだ」
 思い悩んで腕を組む。楽俊は小さな手を伸ばし、ぽん、と陽子の腕に触れた。
「陽子は、今のままでいい。王に置いていかれることを知っている景台補は、きっと怖いんだ。麒麟にとって、王は特別だ。王が王であるなら、本当に大事になる。それが誰であれな」
「誰でも、か」
「唯一無二の存在が、一人じゃなくて二人ってのは辛いもんだろ。特に今の景台補は、先の景王のことを思ってはいけないと考えてるのかもしれねぇから。――だからな、陽子」
「うん?」
「おいらも応援する。だから、陽子、お前はうんと長生きしろ」
「――景国を長く持たせて?」
「そうだ。余裕が出来たら、景台補も丸くなるかもしんねぇ」
「それは、少し楽しみだなぁ」 
 目を細め陽子は少し考える。
 慶国を長く持たせることが出来たと仮定して。
 最後。――自分が最後を向かえるとき、景麒はどうなるのだろうかと。
 道ずれにするのも、置き去りにするのも、全て王に運命を預けねばならない麒麟。
 王のために、心までも捧げる悲しい神獣。
「麒麟って、なんだか切ないな……」
 呟いた陽子の声に、楽俊が頷く気配がした。

「戻」