夜話

 その日はどうも夢を見たらしい。
 輪郭を失って、茫漠となって、指の間からこぼれおちる水のように、分からなくなってしまった夢だ。
「あら、珍しい」
 ぱかりと目を開けて、珠晶は呟いた。
 とめどなく、とまることもなく、水の玉をはらはらと。

 涙がこぼれている。

 珠晶は立ち上がると、そのまますべるように堂室をあとにした。
 長楽殿の磨きたてられた廊下を進み、路亭へと進む。
 結い上げられていない髪を、風が、なぶった。
 珠晶はまっすぐにたたずんで。
 はたはたと、涙を、落とす。
「あたし、なにを悲しんでいるのかしら」
 ひどく悲しくて胸がしめつけられているのだが、はて、具体的になにを悲しんでいるのかが、まったく分からない。
 ただ、とめどなく、涙がこぼれて落ちていく。

 ぱたり、ぱたり、音をたてて。
 水のしずくが落ちるのは、とまりそうもない。
 もしやどこかで、旱魃でもおきているのだろうか? 

「あたしも、自覚をもたぬままに、斃れるのかしらね」
 呟いたところで、背後でなにかが震えた気配にきづいて、珠晶は振り返る。
 小さな彼女の背で、しどけなく、黒絹がゆれた。
 目を細めて、大きな体を小さくさせて、おろおろとしている影に、小さな女王は息を落とす。
「なにやってるの、あんた」
 本当は尋ねなくとも、そこに誰がいるのかなど、分かっていた。
 彼女がまもるべき、恭国の民意を具現化する、神聖なる麒麟。
 王のために存在しながら、その実は王のために存在するのではないと、珠晶は思っている。
 だから、彼女は、麒麟に名を与えることはしない。
 王のためではなく、民のために存在するのだから。民が呼ぶ名で、彼女は麒麟を呼ぶ。
「……主上」
 気弱な声が、やわやわと響いた。
 珠晶の瞳からは、はらはらと涙がこぼれおちるままであるのに。なにゆえに泣く珠晶よりも、たたずむ供麒のほうがか弱くみえるのか。
「恭国の民はただ耐える民なのかしらね」
 首をふり、また、珠晶は外を見つめた。
 遠く、眼下に広がる、彼女の国土を、民を、求めるように。
「……なにを?」
「民意を具現化するのが麒麟なのよね。あんたはそんなでしょ? だったら、恭国の民は耐える民なのかしら。弱いとは思わない、でも、変える民ではなさそうよ」
 王を失えば国は滅びゆく。死にゆく国の速度を、恭国の民は懸命にひきのばして生きてきたと珠晶は思う。
「あたしは、とどまるよりも進むわ。……あたしが斃れるとしたら、きっとそれが原因ね」
「主上っ!」
 麒麟が、悲鳴を一つあげた。
 彼のたった一人の王は、瞳からとめどなく涙をこぼしたまま、凛とした眼差しを麒麟に向ける。
「本当のことよ。あたしはそれを気をつけなくちゃいけないわ。もちろん、あんたもね」
「私、ですか?」
「そうよ。……具合はわるくない?」
「どこも悪いところなどございません。主上」
 距離を、つめることも出来ずに。
 王と麒麟は互いに見詰め合ったまま、闇夜に対峙する。
「主上が……珠晶さまだけが、私の王なのです」
「あたしはひとりで斃れる。あんたを連れてはいかない」
「主上っ!!」
 叫んだ麒麟をみて、珠晶はごちた。なんと、おそろしげな言葉を、麒麟にむけているのか、と。
 体躯を小さくし、幼い赤子のよう、泣き出してしそうな供麒の前で珠晶は唇を噛む。 
 衣擦れの音もしずやかに、珠晶は麒麟の側へと寄った。
「かがみなさい」とささやいて、小さな手で麒麟の頬を包んでやる。
「あたしは簡単にたおれたりはしないわ。あんたが選んだ王を信じなさい」
「……珠晶さま」
「大丈夫よ」
 あやすように、手で麒麟の頬をなでてやる。そうされて、ようやく落ち着いた麒麟を前に、また珠晶は思うのだ。
 ――たとえ、今、泣いたとしても。
 麒麟は王に仕える。
 おいていってくれるなと泣いても、貴方だけだと叫んだとしても。
 新たな王を前にすれば、胸の歓喜をとめる術など彼にはないのだ。
 ――麒麟はどこまでも国のもの。
「かなしいわね、王と麒麟ってのは」
「珠晶さま?」
「ごめんね、斃れるときはつれていくって言えなくて」
 冷たい言葉を、優しくささやいて。
 珠晶は「もう戻りなさい」と、背をむけた。
 小さな女王の背に、これ以上ないほどの拒絶をみてとって、供麒はしおしおとうなだれる。
「どうか、早くにお戻りください」
 そう、呟いて。


 また、一人になった。
 珠晶の黒絹は闇夜にとけて、まるで同化して消えていくよう。
「家出でもするか?」
 別方向から、声。
 珠晶は目をはるでもなく、ただゆっくりと視線をめぐらせた。
 磨きたてられた黒御影の上に、気配を完全に消していた男が立っている。
「あたしが?」
 首をかしげた拍子に、おとがいにたまった涙が、しずくとなって空中に散った。
「なにが悲しい、珠晶」
「よく、わかんないわ。夢をみた気がするけど」
「止まらんのか」
「止まんないわね」
 不思議よ、といって珠晶はそのまま歩き出す。
 黒御影の上をすべる小さな足で、華奢な体躯で、彼女がおそろしい道をすすんできたことを、男は知っている。
 しもべでもなく、臣下でもなく、彼女が望み彼も望んで、珠晶の友として男は存在していた。
 頑丘はつねに己の意思で動いて生きる。恭国にあるのも、他国にいるのも、妖獣をかりにいくのも、彼はいつも自由に決めていた。
 だから。いま、この場にいるのも、彼の意思だ。
「あたしは、なんで泣くのかしらね」
「さあ、おまえは小難しい子供だからな」
「失礼ね、もう、子供だなんていわれる年齢じゃないのよ」
「そうか」
「そうよ」
 珊瑚の色をやどす唇を、それは魅力的に笑んでみせる。
 それでも。彼女の陶器のような肌をすべる、涙の粒はとまることがない。
 はらはら、はらはら。
 こぼれおちるそれは、頑丘の目にはまるで恭国に降り注ぐ慈雨のようにみえて、彼はらしくない感想に苦笑した。
「なによ、頑丘。いま、変なこと考えたでしょ」
「別に。それより、いつまでそうしとくつもりだ」
「あたしに聞かないでよ。これに聞いて頂戴」
 つん、とおとがいをそらせた、外見は少女のままの女王に頑丘は笑う。
 本当にかるく、珠晶の頭に手をおいた。二度ばかりくしゃりとかきまぜて、頑丘は腰をおとす。
「珠晶、本当に家出してみるか?」
「あら、駆け落ちのお誘い?」
「そんなわけあるか」
 不器用な男がとたんにむっとしてみせるのが、珠晶にはひどく嬉しい。
 ――失敗せず、国を潤し続ける王を叱責しうるものなど、恭国にはもうありえぬのだ。
「頑丘ったら、あたしを甘やかす気なのね」
「なにを言う。甘えろといっても、甘えぬくせに」
「あたし、甘えてない?」
 また、鈴の音のような笑い声を立てた。
 

 それなのに。
 珠晶の目は、涙をこぼし続ける。


 頑丘は立ち上がった。
「なんかあったら、呼べよ」
 それだけを言って、去っていく。
 小声でも、呼べば届く距離に頑丘があるだろうことを、珠晶は知っていた。
 正直、困っている。
 
 はらはら。
 はらはら。

 涙がとまらないことに、困っている。
「さて、姫君の涙をとめることが出来るのは、どこの果報者なんだろうね?」
 のんびりとした声。
「来たの?」
 これには驚いたような気がした。いや……心臓は高鳴っていないから、珠晶はなんとなく分かっていたのかもしれない。
「あいかわらず、珠晶はまったく驚いてくれないねぇ」
「驚いて欲しかったの? ちょっと待ってね」
「いや、わざわざ驚いてくれなくて結構だよ」
 くすりと笑って、闇夜と共にやってきた来訪者は、するりと珠晶の前に忍び寄る。
 それから利広は当たり前のような仕草で、彼のまとう上着で珠晶を包むと同時に抱えあげた。
「何年分の涙なんだろうね」
 耳元でささやかれて、珠晶は不思議そうに首をかしげた。
「誰の?」
「おや、なんだか色気のない返事だね。きまってるだろ?」
「きまってなんていやしないわ。どうせあれよ、あたしの進む速度が速すぎる!って、泣いている者たちの抗議なんだわ」
 すこし幼い仕草で、永遠に子供のままの女王は頬をふくらませた。
 恭国よりも、ずっとずっと長い、永遠のような時間をすごしてきた利広は、目を細める。


 珠晶は先を急ぐ王だ。
 改革をおこなうべき事柄を見抜き、抵抗をものともせずに改善し、結果として成功を収める女王。
 王が急ぐことのおそろしさを、利広は知っている。
 けれどそのおそろしさを、珠晶が承知していることも知っていた。
 彼女は均衡を保って、国の舵をとる。


「珠晶」
 ひっそりと名を呼ぶ。
「なによ」
「君の頬をつたう涙は、君が流したかったのに、流せないできた涙だよ」
「いきなり……」
 なぜか。
 利広の顔はひどく厳しくて、珠晶は反論をためらった。
 彼はそのままにっこりと笑って、小さな女王をやわらかく抱きしめてしまう。
「珠晶はたしかに先を急ぐ王だけどね。恐怖をしり、己を知る王でもあるよ」
 だから大丈夫と、彼は彼女のためだけにささやく。
 とくん、とくん、と。
 音をかなでる心音に、珠晶は耳をすませた。
 ――自分のものではなく、彼のものである心音に。
 しずかに、それが胸に染み込んで、珠晶はなぜか’寂しい’と思った。
 この温もりが、女王でなく珠晶に向けられる親しさが、嬉しいからこそ失ったものの大きに寂しさが募る。
「あたしは、悲しかったのね」
「悲しいという気持ちを忘れた人間に、魅力なんてないからね」
「利広、よくわかんないんだけど。どうしてそこで、魅力の問題になるのよ」
「わからないかい?」
「わからないわね」
 顔を上げて、子供の顔に大人の表情を浮かべて、珠晶は眉をよせる。
 利広は笑って、さらさらと流れる黒絹の髪を指ですいた。
「この私が、魅力のない人間のもとに通うとでも?」
「困ったわ、あたしとしたことが絶句したじゃない」
「絶句というのはね、珠晶。言葉を失うという意味だよ?」
「だから、失ったの。でも、まあ、いいわ」
 ふるっと首を振る。


 しずくが、散らなかった。


「あら?」
 小さな手を持ち上げて、珠晶は己の頬に手をおいた。
 あれほどこぼれていた涙が、ぴたりと止まってしまっている。
 驚いた、と目を見張った珠晶に笑みを向けて、利広はそのまま歩き出した。
「ちょ、ちょっと! どこ行く気よ、利広!」
「そりゃあ決まっている、珠晶とともに夜の散歩にね」
「そんなこと、許可した覚えないわよっ!」
「許可がいるかい? 家出、ではないんだから」
 にやりと唇の端をゆがめて笑ってみせる。
 暗闇の中、なにやら苦笑する気配がした。一つではなく、二つ。
「頑丘と供麒ね。趣味悪いわよ、ずっとみてるなんて!」
「いったろ? 誰が姫君の涙をとめられるんだろうって」
「賭けたわね?」
「それはもう、当然」
「で、あんたは誰にかけたのよ」
 抱えられたまま、当たり前のように珠晶は星彩の上の人となる。
 彼女に挨拶するように、星彩は嬉しげに震えて見せた。目を細めて女王は笑う。
「賭ける相手など、決まってるだろう?」
 空へと駆け出す前に。
 一言だけ、囁いた。


 小さくなっていく長楽殿で、今頃は気弱な麒麟は頑固だけれど優しい男に慰められているのだろう。
 珠晶は利広にささえられたまま、静かに顔をあげた。
「利広! あたしは、奏よりも早く斃れるかもしれないわ」
「ひどいことを言うね」
「あたしが、こうして泣くことがなくなったときに。涙を忘れたときに、きっと」
 珠晶はなぜか誘うように笑う。
「姫君の涙をとめることは出来たんだけどねぇ」
「挑戦してみる? あたしが泣きたいときに、泣かせられるか」
「なんだか、こう、魅惑の光景だね、それは」
 利広はやけに楽しそうに笑ってみせ、ふっと真顔になった。
「珠晶は一人でいく気なんだね」
「そうよ」
「一人くらい、付き添いがいるのも楽しそうとは思わないかい?」
「どうかしらね」
 連れていくとも。
 連れていかないとも。
 二人は言わずに、ただ笑った。


「戻」