帰還

 どよめきに気付いて、彼女はふっと顔を上げた。
 国境に程近い邑の視察に訪れ、幾つかの説明を受けていた耳に届いたざわめき。
 普通のものではない。
 緊張と、鉄と、破壊の予感をもたらす、どよめきだ。
 珊瑚色の唇がきっと引き結ばれる。炯々とした眼差しは、そっとどよめきの起きている方角を睨んだ。
 高く結い上げられた黒絹の髪がさやりと揺れる。
 傍らで、人の良さそうな顔に金の髪を持つ男が前に出ようとした。
 その、男を。
 少女は軽く手をあげることで、制する。
「動かないで」
「……主上?」
 気弱げな問いに、少女はただ首を振った。
「いいから、黙っていて。――大丈夫だから」
 体の大きな男を止める声は、どこか幼かった。
 紅潮した頬も、引き結ばれた珊瑚色の唇も、あどけない。
 彼女は子供だった。少なくとも、外見は。
 彼女の名前は珠晶という。それこそが、恭国を統べる女王の名だ。
 在位はすでに三十年。
 荒廃していた国は富みはじめ、荒廃を知らぬ世代が大人になりつつある頃だ。
 全てが順調だと、胸をはることは流石に出来ない。
 王のいない時代が長かった為に、古くからの官吏は王に対して含みを持っている。特に現れたのが幼王であったために、心酔できずに来たのだろう。
 官吏らの心情がどうであれ、珠晶は才能あるものは残した。使えるものは使っていかなければ、荒廃する国の建て直しなどは不可能だったのだ。
 ゆるやかに荒廃が収まり、国が富み始め、民に笑顔が戻りだしてもなお、古くからの官吏たちは珠晶に心を開かなかった。
 決まって、官吏たちは言う。
 隣国はもっと豊かで、規律正しい国であると。
 大王朝を築つつある範と、法治国家として成立している柳に、すぐに対抗することなど出来るはずもないことを知りながら、不満をぶつけてくるのだ。
 珠晶は、理不尽といっても良い不満から、逃げることはしなかった。
 能力があるのは事実。だから使い続けて今になり、こうして官吏らの薦めにも従って、視察にも出てもいる。
 国境沿いの邑にはまだ荒廃が残っている。
 だから、彼女はここに居たのだ。


 どよめきは緊張を強くはらんだまま、恭国主従を包囲しつつあった。剣をまじえる音も聞こえだし、金髪の男――供麒は真っ青になる。
「主上。どうか使令を」
「あんたは怖がらなくていいわ。大丈夫よ」
「あの、主上?」
「血なんて流れやしないわよ。だから安心してなさい」
 珊瑚色の唇は、場違いに思えるほどに柔らかな笑みを含んで、言葉を募っていた。
 供麒には、主の自信がどこから来るのかが分からない。
 ただ分かるのは、大切な主に危険が襲い掛かろうとしていること、だけだった。
 珠晶に含みをもつ官吏たちは逃走を始めている。彼らに仕える護衛兵は流石に踏みとどまっていたが、襲い来る男たちによって難なく排除されていた。
 人が転がされ、眠らされ、たっている者が減っていく。
 血は流れていないにしても、暴力の光景に供麒の胸はひどく痛んだ。止めなくてはと思いながらも、珠晶の側から離れられないで居る。
 護衛兵たちが一掃されて、遠くからこちらを見守っていた邑の人々が悲鳴をあげた。
 珠晶は小さな手で自らの僕を制したまま、獲物をもって飛び掛ってくる男たちを見据えている。
 さらり、と。また、彼女の髪が風にゆれる。
 流石の供麒が制される手を振り切ろうとした瞬間、低い声が響いた。
「そこまで」
 珠晶と、供麒の背後からの声だ。
 襲撃者たちは、号令を待っていたかのように手を止めると、唐突に膝をついて次々と叩頭していった。瞬く間に、頭を上げている者が一人もいなくなる。
 供麒は目を丸くしながら、振り向いた。
「あっ……」
 知った顔がそこにあった。
 供王珠晶の登極に立ち会った一人、頑丘だ。
「久しぶりね、頑丘」
「ちったあ驚け、珠晶」
 怒っているような声を返されて、珠晶はくつくつと笑った。
「驚けといわれても困るわ。だって、すぐに分かってしまったから」
「なぜだ?」
「頑丘の姿は隠せるけれど、利広の姿は隠せてなかったわよ。そこ、いるでしょ?」
 悪戯のような眼差しで、珠晶は頭をたれる一人の男を見やる。びくりと背が震えたのち、喉を鳴らすような笑い声が響いてきた。
 すっと顔を上げてくる。頭巾をするりと解くと、肩で一つにまとめた黒い髪を流した。
「流石だね、珠晶。そんなに簡単に見破ってしまうなんて」
「隠れようったって無理よ。分かってないでしょうけど、浮いてたわよ」
「珠晶の目は確かだねぇ」
 立ち上がって、利広は珠晶の傍らに立つ。
 散っていた官吏たちがようやく戻ってきて、彼らはぽかんとした顔になった。
 暴徒に襲われたはずの女王が、いつのまにか暴徒を従えてしまっている。しかも傍らには隣国の太子と、無骨そうな男が居るのだ。
「しゅ、主上?」
「あんたたちの能力、しかと見させてもらったわ。毎日のように範では、柳ではって言ってくれてたけどね、あたしも言っていいかしら? 範と柳に及ばぬのは、あたしだけじゃなくて、あんたたちもでしょう」
 冷たい眼差しで官吏たちを睨むと、珠晶はくるりと背を向けた。
「しばらく帰ってこなくていいわ。邑に残って、自分たちが守るべきものがどこにあるのか、学んでいらっしゃい。何故官吏になったのか、その最初の気持ちを思い出すことね」
「おや、随分と優しい採決だね」
 利広がのんびりと口を挟んでくる。珠晶は軽く首をかしげた。
「そうかしら? ちゃんと学ばないかぎり、戻しはしないのよ」
「けれど機会を与えてやるんだろう? それは優しいと私は思うね。頑丘はどうだい」
「そうだな。昔の珠晶なら、違う答えになっていただろうな」
 頭上で二人の男に納得されて、珠晶は頬を膨らませる。
「あのねぇ、頑丘の言う昔のあたしって、昇山したときのあたしでしょ。あれから何年たってると思うのよ」
 王になってからも、つい癖のように数えたいた年は、もう壮年に近いものになっている。
 王でなく、人であれば。
 珠晶はすでに少女ではなくなっていたはずだった。
「あたしを心配してくれたわけでしょう? 感謝するわ。ところで、集められた彼らのことを、あたしは雇っていいのかしら」
「ああ、俺を杖身として雇うのが条件だ」
「――え?」
 驚いて顔を上げる。
 傍らの麒麟までもが驚いたので、頑丘はばつが悪そうにした。
「そんな顔をするな。そろそろ俺の出番だろうと思ったんだ」
「どうして今なの」
 頑丘は仙になったものの、恭に居つくことをはしなかった。
 三十年もの間、さまざまな国を流れ歩いていたという。連絡さえろくに取れなかったこの男が、なぜそんなことを言い出すのかが分からない。
「どうしても理由がいるか」
「いるわ。理由のない行動は信用しないことにしてるの」
 背の大きな頑丘をにらむために、小さな女王は精一杯のけぞった。利広はくすくすと笑い出し、かがむと珠晶を抱き上げる。
「あら、ありがとう」
「どう致しまして」
 にこにこ笑っている利広に礼を言う。問い詰める珠晶の視線と目の位置が同じ高さになってしまって、頑丘がぎろりと利広を睨んだ。
 ――理由はある。
 あるのだが、あまり言葉という形にしたいものでもなかったからだ。
 王が斃れやすい時期というものが、存在するという。
 頑丘はそれを、天勅を待っている間に、利広から聞いた。
『たとえば、王の知り合いが死に絶える頃だな。ふっと我に返って考えるわけだ。自分は一人取り残されたのか?とね』
 利広はその時、少しばかり寂しげな目をしてみせたのを、頑丘は強く覚えていた。
 ――珠晶の知り合いがいなくなる頃まで、もし続いているとしたら。
「俺は最初から、三十年経ったらくると決めていた」
「だから、何故?」
 分からなくて、じれたように珠晶は首をかしげる。彼女を腕に抱いている利広は、そっと唇を女王の耳元に寄せた。
「珠晶の身内が、居なくなってしまう時期だからだよ」
「え?」
 きらきらと輝く、美しい瞳が見開かれる。
 その瞳は忙しそうに利広を見、頑丘を見て、しばたかれた。
「あきれたわ!」
「……呆れたとはなんだ」
「頑丘ったら、あたしがそれを寂しがってると思ったのね? このあたしが、父さまたちが死んでいく現実に心を痛めているって!! これが呆れたって言わないでなんなのよっ」
 甲高い声を張り上げて、珠晶は眉を寄せる。
「そんなの、あたしが悲しんでいるわけないでしょっ。だって、だって……そんなこと、最初から、覚悟していたんだからっ! だから……だからっ」
 珠晶の声が、ふと、詰まった。
 高い声が小さくなって行ってしまう。小さな手をぎゅっと握り締めると、逃げるように珠晶はうつむいた。
 利広は目を細めると、女王の身体を腕で隠すように包み込む。
「我慢しなくていいんだよ、珠晶。それはね、誰だって悲しいことなんだから」
 私だってそうなんだよと利広はささやいて、珠晶の髪をすいた。
 登極後の三十年などあっという間に過ぎ去ってしまう。
 そうして国を軌道に乗せ、ふっと我に返ったとき。
 ――王でなく人であった頃の自分自身を知るものが居なくなった事をしり、誰もが愕然とするのだ。
「俺は、お前が誰もいないと嘆くのは辛いと思った」
 頑丘は不器用な男で、気持ちを言葉にするのが苦手でもある。
「三十年後にお前がいるなら、俺は側に行くと決めていた。だから来たんだが、利広がどうせなら手土産つきにしようと言うもんだから、こんなことをした」
 ――実績をあげてもなお、女王を批判することで日々を生きるものたちの排除を。傷つける者たちから、珠晶を遠ざけることが出来るように。
「……頑丘だったら、手土産なしだって歓迎してあげたのに」
「俺と利広が何かしたかったんだ。珠晶のためにな」
「……そう」
「ああ」
 無骨な手を頑丘が伸ばす。
 珠晶は顔を上げた。
 頑丘が少女の額にかかった前髪をよけてやると、くすぐったそうに珠晶は目を細める。
「雇ってあげる。でも、私と供麒だけの杖身としてよ。こき使ってやるから」
「騎獣を狩りにいく余暇は欲しいところだな」
「いいわよ、好きなようにしていてくれれば。四六時中、霜楓宮に居るだなんて、絶対に頑丘は出来ないわよ。利広が出来ないのと一緒」
「いやあ、それを言われると辛いね」
「ほらね。太子なのに、奏に居つけないのがいるんだから、無理ないわよ。頑丘が辛くないように、居てくれたらいいわ。だから、あたしが自費で雇うわ。それにね」
 勢いよく涙をぬぐうと、珠晶は顔を上げる。「供麒」と優しく呼ぶと、彼女の下僕は静かに手を伸ばした。
 利広の手から、供麒の腕に珠晶は移る。
「やれやれ、私の腕がおきに召さなかったようだよ。残念だねぇ」
「そんなの仕方ないわ。だって、あたしが三十年ずっと一緒だったのは供麒なんだから」
 一旦、言葉を切る。
「あたしの側に居るって役目だったら、供麒がいるから大丈夫。頑丘は、あたしの配下になんてならないで」
 

 王は孤独なもの。
 率いるべき者はいれども、友は少ない。
 ――民ではない、者も少ない。


「あたしは幸せだわ。供王でなく、あたしを心配する人がいるんだから。王は自ら斃れるけれど、あたしはそう簡単に斃れやしないって思えるわ」
 大丈夫。
 寂しくなんてならない。王である今も、王でない”珠晶”を知る者たちが側に居てくれるのだから。
 大丈夫、だと。
「戻」