誓約と覚悟

「珍しい」
 恭国女王珠晶は一言呟くと、長楽殿の扉に手をかけたまま立ち止まった。
 堂室の中には二人の男があり、めいめい女官に運ばせたらしい茶を喫している。
「中に入ってきてはどうだい?」
 いかにも好青年といった様子で微笑む男に、小さな女王はきっとした眼差しを向けた。それを、青年はいかにも楽しげに受け止める。
「この堂室の主は私よ?って言いたいところだけど、利広に言ってもね。ところで、二人とも何時きたの? 連絡は受けてなかったけど」
 細い首を傾げながら、珠晶は堂室の中に歩を進める。
「俺は今ついたばかりだ。こいつは昨日から居たらしい」
 もう一人の男――頑丘は顎をしゃくる。
「呆れた。霜楓宮の何処に隠れてたっていうのよ。利広のほうが、あたしより霜楓宮に詳しいんじゃない?」
「そうかもしれないねぇ。珠晶が抜け出したいときには、是非とも案内役を勤めさせてもらうとするよ」
 笑みを崩さず、奏国の太子でもある放蕩息子は減らず口を叩く。珠晶のほうはなれたもので、戯言には付き合わずに、あいている己が場所に座った。
「利広はいつものように遊びに来たのでしょ。頑丘はどうしたの? 良い騎獣でも手に入った?」
 在位百年にもなる女王の瞳が、途端に輝いてくる。本当にこいつは騎獣が好きだよと頑丘は思いつつ、表面は渋面のまま頷いた。
「一つな。だがまだ慣らしてない。連れてくるのは無理だな」
「あら、そうなの。だったら……」
 子供のように唇を尖らせて珠晶は頑丘を見やる。これが名君と知られ始めた恭国女王の顔かよと頑丘が呆れ、利広が笑い出す中、当の本人は肩をすくめた。
「残念だわ。でも、まあいいとするわ。頑丘がお話しするためだけに来るなんて、珍しいから。あたし、結構頑丘のことも気に入ってるのよ」
「そりゃ、そうなんだろうな」
「普通はねぇ、もうちょっと喜んでくれてもいいと思うんだけど。頑丘ったら、最初は仙になるのも納得してくれなかったしね。約束なんてしてなかったって言ったのよ。往生際が悪いと思わない?」
 ぽんと卓におかれた菓子を口に放りこみながら、珠晶は尋ねる。利広が「聞き分けの良い頑丘なんで不気味だよ」と切り替えしたので、小さな女王はうっと言葉に詰まった。
「……確かにそうね。なんでも私の言葉をきく相手には事欠いてもいないし。前言撤回するわ、頑丘。もっと色々言っていいわよ」
「変なお墨付きをくれんでいい。それに今日は用事もあったんだ」
「あら、なあに?」
「捕まえたやつを慣らすときにな、呼ぶ名前が欲しいと思ったんだよ。どうせお前にくれてやるんだ、先に命名を頼んどこうかと思ってな」
「頑丘らしからぬ細やかな気遣いね。騎獣に名前をつけるのって、とっても大切なことだものね」
 優しげな笑みを浮かべると、珠晶は小さな手を卓の上で組んで、顎を乗せる。
「どういう名前にしようかしら。頑丘、その子の色は? 種類は? 性格は?」
 よく回る口で、珠晶は頑丘を質問攻めにする。風圧に押されたわけでもないのに、頑丘はのけぞった。
「珠晶、そんな一気に話しても頑丘には通じないよ」
「そう? だったら質問を紙に並べておきましょうか?」
「そうだねぇ。その方がいいかもしれないね。なにせ、頑丘は一斉に要望を突きつけられることに慣れてないからね」
 和気藹々と会話を進める二人を、頑丘は睨みつける。
「お前ら、俺を馬鹿にしてないか?」
「嫌だ、頑丘ったら何時から被害妄想の特技を身に付けたの? あたしがそんなことするわけないじゃない。ねえ利広」
「そうだよ。頑丘、想像だけでそんなことを言われると切なくなってしまうよ」
「傷つくわよねえ、あたしたち」
 二人、仲良く頷きながら手を握り合う。
 まるで仲の良い兄妹にも、悪友にも見える二人を前に、頑丘は頭を抱えた。
「もう好きにしてくれ。付き合いきれん」
「そういいながら、結局は仙になって、珠晶の側に今も居る。頑丘が口ほどに性格が悪ければ、ここにはいなかっただろうに。それとも」
「――なにがいいたい、利広」
 頑丘の視線に鋭さが増す。
 利広は飄々と受け流すと、立ち上がって小さな女王を背後から抱きしめた。
「珠晶をお気に入り同士、仲良くしようといっているだけだよ」
「……本気で疲れる奴らだな」
「奴”ら”にしないでよ、勝手に」
「一まとめにされたくないなら、利広のやり方を驚けよ。普通驚くだろ、いきなり後ろから抱きすくめられたら」
「そう?」
「そうだよ」
「困ったわね。慣れちゃったのよ」
 珊瑚色の唇に溜息を落として、珠晶が首を振る。
「それよりも頑丘、遠目からでもいいから、珠晶にあたらしい騎獣を見せるといいよ。そしたら名前はすぐに決まるさ。私も興味があるね」
「そうだな。それが早いか、なら明日にでも連れてくる」
 言って、そのまますぐに立ち上がって堂室を出て行こうとする。その足を、利広が発した言葉が止めた。
「珠晶、君はどうして供麒に名前を与えないんだい?」
 一瞬頑丘は息を飲む。それから振り向いて、彼は見た。
 冴え冴えとした色を持ち、際限のない闇そのものでもある、珠晶の瞳を。
 かつて頑丘は、利広と共に珠晶の昇山の旅に付き合ったことがある。旅の中で、珠晶が騎獣に名前をつけることを重い意味をもつと捕えていることも知った。
 その珠晶が。
 王のみが名を与えることが出来る己が麒麟に、名を与えない。
 息を飲むような緊張が堂室に満ちた。
 口元に浮かべた笑みは消さず、けれど張り詰めた緊張を宿して恭国女王を見つめる利広も、立ち止まった頑丘も、声を発そうとしない。
「そんなの、当たり前じゃない」
 緊縛を破ったのは、甲高く響く子供の声。
「あたしは王で、供麒は麒麟だわ。あたしは、だから名を与えない」
「珠晶、麒麟に名を与えて良いのは王のみだよ」
「そうね。だから、多くの国の王が麒麟に名を与えているのは知っているわ。奏は”昭彰”ね」
「昭彰は名を与えられたとき、それは喜んでいたよ」
「王に気にかけてもらえて、喜ばない麒麟なんていないわ。――利広は何故あたしが供麒に名をつけぬのか、それをなんとなく理解してるみたいね。だから今まで聞かなかったの?」
「そうだね。……こんな機会がなかったら、聞かなかったかもしれない」
「珍しい。利広が聞くことを怖がるだなんてね。ああ、でも利広だけじゃないみたい。頑丘も分かっているのね。随分と察しがいいことだわね」
 頭がいい人は好きよと言って、珠晶は立ち上がる。利広の側にたつと、彼の袖を引いた。
「利広、悪いけどあたしを抱き上げて頂戴。こんな話、見下ろされてするものじゃないわ」
「かまわないよ、珠晶」
 屈むと、なれた様子で利広は珠晶を抱きかかえる。――その慣れこそが、何も変わらぬ一同の頭上にも、月日が流れていった証拠のようなものだった。
「麒麟は民と王のために存在するのであって、あたしのために存在しているのではないの。そこのところの、けじめをきっちりとつけたいのよ」
「珠晶?」
 声に険しいものを含んで、頑丘は堂室に取って返す。利広と頑丘が並ぶ形になり、間に挟まれた珠晶は、子供には決して浮かべることの出来ぬ凄みを唇に浮かべた。
「王と麒麟は誓約は、王と麒麟の間に結ばれたもの。あたしと供麒で結ばれたわけじゃないわ」
「私には同じことのように思えるけれどね?」
 やんわりと利広が口を挟む。その言葉を、「嘘おっしゃい」とでも言いたげな眼差しで一蹴し、珠晶は吐息をついた。
「あたしは、斃れる時に麒麟を道連れにはしない」
 はっと二人は息を飲む。
「縁起でもないことを言うなと、あたしを叱る? 王は自ら斃れるもの。あたしが道を誤るときは、この首一つで贖ってみせる。だからね、あたしが供麒に名を与えるわけにはいかないよ。供麒はおいて行ってくれるなと望むでしょうから」
 震える少女の声に、頑丘は思い知る。
 王となった少女が抱く覚悟の、あまりの深さを。
 二の句が継げない頑丘にかわって、利広がやんわりとした声を投げた。
「……それが、王というものなのかい。珠晶」
「そうよ、利広。少なくとも、あたしにとっての王はそういうものだわ」
「たった一人で滅んでいくものだと言うんだね」
「――ええ。最後の責任を背負うために、王はいるんだもの。そのために、あたしは民に養われているんだもの」
「参ったね。名をつけぬことに意味があるとは思っていたけれど、いざという時は麒麟を置いていく覚悟であったとは思わなかったよ」
「そう? 利広らしくないじゃない、甘い想像をするなんてね」
「それは、やはり私が太子であって王ではないからなのかもしれないね。やはり、分からないことはある」
 ふいっと首を振る。
「奏をおいて斃れて行った王たちにも、それぞれの思いがあったのだろうね」
「多分ね。でもあたしは同情なんてしないわ。――あたしだって、いつかは辿るだろう道だもの。ちょっと、そんなに湿っぽい顔しないでくれる? お涙頂戴は供麒だけで充分よ。それにね、そう簡単に道を誤る気なんてないんだから。これはあたしの覚悟の問題」
「でも、君はおいていくんだ」
 低い利広の声。
 幾度もおいていかれる者だけが知る、深い孤独を感じ取って、珠晶は目を細めた。
「おいていくわ」
「世の中は難しい。置いていく者は、置いていかれる者の心を知らない。置いていかれる者は、置いていく者の覚悟を知らない。双方の理解など、無理だろうしね」
「利広はあたしに供麒を連れて行けっていうの? あたしは恭の王を知らぬ国で育った子供だったのよ。荒廃に憤り、嘆くしかしない大人を唾棄し、叫んでいた子供だったの。そのあたしに、恭の民から王だけじゃなく、麒麟まで奪えと利広はいうの!? 麒麟は恭のものであって、あたしのものじゃないの! あたしが奪っていってよいものじゃないのっ!」
 憤ろしさに、珠晶は小さな肩を震わせた。
 あの時と同じだ、と。――見つめていた、頑丘は思った。
 犬狼真君の前で、”あたしに出来るわけないじゃない!”と泣いて叫んだ、あの時と。
 思わず頑丘は無骨な手を伸ばし、眉を寄せている子供の頭に手を載せる。
「なによ」
「いや……」
「泣いてなんてないわよ」
 感情を激させたことが気恥ずかしいのか、ぷいと顔をそらせると、珠晶は利広の胸に顔をうずめてしまう。それでも、頑丘が載せた手を払うことはなかった。
「でも、珠晶は怖いんだね。もしもの時、供麒を連れて行こうかと考えてしまいそうで。だから、名をつけないんだね」
「――そうかもしれないわね。だって、供麒ったらお馬鹿なんだもの。あたしがいなくなっても、きっと泣いてばかりで、新しい王が来てくれるのを待つだけなんだわ」
「その時は、珠晶、私が供麒を叱咤してあげるよ」
「奏は自信満々ね。でも、まあ、そうかもね。――利広たちが一人も欠けなければ、永遠に挑戦し続けることもできるかも。せいぜい命を大事にしなさいよ」
「命を安売りなんてしないさ」
「頑丘はどうしてるかしらね」
「お前な、自分が斃れたあとのことを、目を輝かせて想像するなよ」
「想像って大事よ。斃れた後を想像している間は、絶対に斃れるもんか!って思えるもの。でも頑丘は想像つかないわね。第一、飽きたらすぐに仙籍を返してしまいそうだもの」
 ちらりと顔を上げて、珠晶は頑丘を睨む。
 苦笑すると、頑丘は首を振った。
「俺は、お前の次の王が立つまでの間、妖魔との戦い方を教えるっていう役目があるかな」
「――頑丘?」
「お前が斃れることがあったら。俺が新しい王に新しい恭を届けてやる。俺は恭の民じゃないからな。お前が俺に責任を持つことはない。王と仙ではなくて、俺らは単なる珠晶と頑丘だろ」
 ぱちりと目を大きく見開いて、珠晶は頑丘を食い入るように見つめた。
「――頑丘って、時々凄いことを言うわね」
「無口な人間の言葉は重いからねぇ。対抗する言葉を捜せないよ」
 ぽかんとしたのは珠晶だけではなく、利広も同じだったらしい。
 二人の眼差しに晒されて、頑丘はそっぽを向く。
 多くの滅びを見てきた者ではなく、民に責任を担う王でもない。――ただ一人の”人間”として”友人”としての言葉に、二人の貴人は心から笑む。
「出来れば、奏のことも見守っておいてほしいなぁ」
「誰がそこまで面倒見るか」
 不機嫌な返答に、利広と珠晶は更に笑みを深くし、
「ねえ利広。あたしたち、頑張らないといけないわね」
 うって変わった明るい声で、珠晶は言った。
 
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