霜楓宮の主、供王珠晶は長楽殿の堂室から窓をみやって、軽く首を傾いだ。
「あら」
「あら、で済まされるのは寂しいねぇ」
路亭に人のよさそうな顔をした男が立っている。
「仕方ないじゃない。それ以外の感想が出てこないんだもの。それより、今日は一体どうしたのよ」
小さな体を窓に寄せる。人がよさそうに笑っていた青年――奏国太子利広も近寄ると、窓枠に肘を付いた。
「たまに、屋根のある堂室が恋しくなるんだよ」
「堂室が恋しい利広に、ぴったりの言付けがあったわ。利達殿からで、”帰ってたまには働け”」
「おやおや。困ったな、どうして珠晶に言付けを託すのか」
「あたしに頼むのが一番確実だそうよ。で、どうするの?」
「珠晶はどうして欲しい? このまま私に立ち去って欲しい?」
「つまらない質問をしないでくれる?」
珊瑚色の唇を、鮮やかに微笑ませる。
「もちろん」
二人、何故だか同時に同じ言葉を口にする。珠晶はさらに笑うと、目を細めた。
「折角来たなら色々と話を聞かせて欲しいに決まってるわ」
「そうこなくちゃね。ところで珠晶、少しはずせないかい?」
「今から? ちょっと無理ね」
「おや、珍しい。忙しいのかい?」
「そういうわけじゃないけど。――そうねぇ、政務じゃないの。ただ、そろそろかなと思ってね」
「それは、私に何がと聞けと言っているのかな?」
「聞いても聞かなくても答えるわよ。それに……答えが来るみたいだし」
言って、珠晶はかるく手を伸ばした。
利広が首を傾げると「気が利かないわねぇ」と小さな女王は言う。
「勝手に触れてよいものかと。――まあいいか」
手を伸ばすと、そのまま堂室の中の珠晶の脇の下を掬い取って、利広は供王を路亭に出した。
同時に風が走る気配がして、目の前にきらめく赤銅色がかった金の色を持つ獣が現れる。
――金は神獣の証。麒麟だ。
「おや、供麒」
「おかえり」
利広の腕に抱かれたまま、珠晶がにこりと笑う。
金色の獣は首を傾ぐようにした。珠晶がそっと手を伸ばして首筋をなでてやると、動物そのもののように目を細める。
「そろそろだと思っていたわ。服をそこに用意してあるから着替えていらっしゃいな」
小さな手を伸ばして、珠晶は自室の端を示す。そこには確かに供麒の着替えが一揃えになっていて、主に従順な僕はどことなく嬉しそうに目を細めた。
「今日の珠晶は優しいんだね」
「失礼ね。非のない相手にまで厳しくするわけないでしょ」
「供王といえば、唯一麒麟に人前で手を上げる王だって有名だからねぇ」
「――なによそれ」
「仕方ない。なにせ事実だから」
「それは供麒が悪いんでしょ! まったく」
頬を膨らませる仕草をすると、見かけが子供であることも手伝って、珠晶は本当にあどけない少女に見える。
恭国女王であるということを知らなければ、彼女が90年以上生きてきていると分かる者など皆無だった。
「なるほど。それで珠晶は堂室から出してといったんだね」
「麒麟の着替えを覗くほど、あたしは無作法じゃないの。ああ、終ったみたいね」
衣擦れの音がして振り向けば、人のよさそうな麒麟が嬉しそうに佇んでいる。
「主上。待っていてくださったのですか?」
「勿論よ。あなたがいなけりゃ、州侯の仕事に口を出したくなってしまうわ。せっかくあんたがやって上手くいっているものに、手出しはしたくないもの」
「主上が急ぎのものの採決をしてくださるので、私はこうやって時々出かけることが出来ます」
「お馬鹿ね。急ぎを放置する王がどこにいるのよ。それで、一体今回はどうしたの? 突然一日くれだなんて」
利広の腕の中で珠晶は首を傾げる。利広も興味深そうに恭国の麒麟を見やった。
「本当だよ。珍しいね、供麒が珠晶の側を離れることを望むだなんて」
「私は一度たりとも、主上のお側を離れたいと思ったことなどありませんよ」
驚いたように供麒は目を見張る。当たり前でしょ、と珠晶が言った。
「利広、王の側から離れたい麒麟がいてどうするのよ。あたしは王で、供麒は麒麟なのよ」
「いや、そうなんだけどね。供麒といえば、一瞬とて側から離れたくないって考えるほうだろう?」
「まあ、それはそうね」
不思議そうな奏国太子に、供麒は穏やかに微笑む。
「主上はお忙しいですから。いつも何かを我慢されているのです。ですから、私でなにか変わりに出来ることはないだろうかと思いまして」
「ふむ」
「今日はこれを買ってまいりました」
誇らしげに小さな包みを持ち上げる。利広が屈んでそれを見つめたので、包みは丁度珠晶の目の前に来た。
「雁で今、人気のある菓子だね。珠晶がこれを食べに行きたいっていったの?」
「そういえば。そんなことも言ったかしら。供麒、これをわざわざ買いに行ったの? あら、まだ温かいじゃない!」
受け取って、珠晶が驚きの声を上げる。
「はい。温かいうちにと思いまして。主上、どうぞお召し上がりになってください」
「お召し上がりにって。これは、あんた食べれないでしょう? 買ってきたのはこれだけ?」
「はい。なにか他のものがよろしかったですか?」
大きな体が途端に小さくなってしまったかのように見えて、珠晶は溜息をつく。
「お馬鹿ね。わざわざあたしの為にかってきたんでしょ。他のがよかった、なんていうわけないじゃない。そうじゃなくって、あんたが食べれるなにかはないの?って聞いているの」
「――私ですか?」
供麒はきょとんと首を傾げる。おかしそうに利広が笑い出した。
「菓子があればお茶と来る。供麒だけなにも食べるものがないなんて、変だと珠晶は言ってるんだよ」
「ああ。主上、私のことは気になさらずに」
「もうっ! あんたが気にしなくっても、あたしが気になるのっ。いい、こういうのはね、一人で食べたって味気ないのよ」
「私がいるんだけれどなぁ」
「おだまりなさい! 利広は偶然きただけ。普通だったら、にこにこ笑う麒麟の側で、あたしが一人で食べるってことになってたわよっ」
「主上、まがりなりにも奏国太子にそのような口のききかたは……」
おろおろと供麒がなだめようとすると、彼の小さな主は美しい眦をきっとつりあげる。
「あたしが今話してるのは、奏国太子じゃないの。たんなる利広よ」
「――あの……?」
「わかんないかしら。あたしは、奏国太子としての利広と知り合いになったわけじゃないの。長楽殿に入っていいって許可したのは単なる利広であって、奏国太子としての利広じゃない。だから、これでいいの」
「そういうものでしょうか?」
困惑を深める麒麟に、当の利広がおかしそうに笑い出す。
「いいんだよ。私も、珠晶から対外儀礼を持ち出されて対応されたら悲しいからねぇ。それに、こうは考えられないかい? 珠晶がきついことを遠慮なく言う相手ほど、安心している相手なのだとね」
「都合のいいこと考えるわね」
「間違ってるかい?」
「間違ってないから、ちょっと悔しいわ。利広、堂室におろして」
「はいはい。どうぞ」
うやうやしく、利広は珠晶を下してやる。途端に小さな足を忙しそうに動かして、奥に入っていった。
「あの、主上? 冷めてしまわれますよ」
「いいから。あんたはお茶を用意してもらってきて」
「……? はい」
首を傾げながらも、主上に従順な下僕は女御を探して堂室を後にする。
「ねえ利広。これって、麒麟でも食べられるかしら?」
「珠晶。一体どこに隠してたんだい?」
「連檣で今はやってるのよ。王としては味くらいみておきたいでしょ。女御に頼んで買ってきてもらったの。たしか油は使ってないはずだけど」
「そうだね。それは使ってないよ」
「随分自信満々ね」
「作り手に聞いたんだから確かだよ」
「そう」
と答えてから、珠晶ははたと顔を上げる。
「呆れた! 利広ったら、店にまで入り込んだの!?」
「人聞きの悪い。毎日通ったら教えてくれたんだよ。昭彰の土産になるかと思ってね」
「まったく本当に呆れた行動力だわ。供麒、こっち。路亭で食べましょ。ちゃんとあんたの分もお茶を貰ってきたでしょうね?」
「はい」
「よろしい」
にこりと笑うと、今度は三人で外に出る。
買ってきた菓子を珠晶が口に入れるのを、供麒は誰にも真似できそうにないほど、幸せそうに見守る。
「あ、美味しいわ!」
「揚げ具合がね、いいんだよねぇ」
「そうね。供麒、あんたも呆けてないで、それを食べなさいな」
「主上?」
「いい? お茶にお菓子はみんなで食べるのが美味しいの。あたし一人に食べさせようなんて思わないで。次の機会があったら、あんたも自分の口に合うものを買ってらっしゃい」
「――主上。先ほどは、それで私を怒ってらしたんですか?」
「当たり前でしょう。あんたが買ってきたものなら、二人で一緒に食べたいに決まってるでしょ! 分かったら、さっさと食べなさい」
「はいっ」
嬉しそうに、供麒はしっかりと両手で小さな菓子を手に取る。
「ちょっと、利広! それはあたしの!」
ぺし、と音をさせて珠晶が利広の手を叩く。
供麒が買ってきた菓子は三つ。一つずつ食べれば、当然ながら端数が出る。
「珠晶は小さいんだから、沢山はいらないだろう」
「なに言ってるのよ。あたしの為に供麒がわざわざ買ってきたのよ。利広が多く食べてどうするのよ」
「おや、珠晶は供麒が自分のためになにかをしてくれるのが嬉しいんだね?」
悪戯のように、利広があえて尋ねる。
珠晶は一瞬鼻白んだが、すぐにふんっと胸をそらせた。
「当たり前でしょ。そんなの、嬉しいに決まってるじゃない。――こら、調子に乗って私に抱きつかないのっ!」
感極まった供麒が、珠晶に抱きつく。あわてて小さな足をばたつかせる女王を見下ろして、くつくつと利広は笑った。
「いや、いいものが見れた」
「落ち着いてないで、供麒を引き剥がして! つぶれるわよっ!」
「大丈夫だよ、麒麟が人を害するわけがない」
「息苦しいのっ! こら、供麒っ!」
叱咤するも、どこか珠晶の声は笑っている。
「そういえば」と、利広が供麒の肩を軽く叩いた。ようやく王から離れて、供麒は幸せそうなまま利広を見やる。
「よくあの混雑する雁国の市で買い物が出来たね、供麒」
「とても素敵な半獣に助けていただいたんです」
「素敵な半獣?」
「はい」
「それは毛並みも素敵だった?」
「ええ、それはもう」
にっこりと供麒が笑うと、珠晶が真面目な顔で腕を組んだ。
「ねえ、利広。常々思っていることがあるんだけれどね。半獣って、なんだかんだいっても、結構いい目にあってないでしょ」
「そういう国が多いのは事実だね」
「ということはね。能力があるのに、相応の地位についてない、半獣が世の中沢山いるかもってことなのよ」
「そうだねぇ。それに素敵な毛皮もいるだろうしねぇ」
「そうそう。素敵な……。何言わせるのよ、利広!」
「でも、珠晶的には、できれば虎とかの半獣がいいんだろう?」
「能力が高ければなんでもいいわよ」
「出来れば獣形のままでっていいたいくせに」
「それはそうね。――。じゅ、獣形が自然だと思っている者に、人形のままでいろっていうのは変だと思うから、あたしはそういうだけで」
「断じて毛並みの良い毛皮がみたいからではないと」
「当たり前でしょ! もうっ。でも本当、いい案かもしれないわね」
真剣に考え始めた供王に、利広はますます笑い出す。
「あ。その前に。供麒」
もう一度視線を麒麟に戻す。「はい」と供麒は返事をした。
「ありがとう。美味しかったわ」
言って、珠晶は供麒のためだけに、笑顔を向けた。
「戻」