在るべき場所

 鳳は高らかに声を上げる。
「恭国に一声。――供王即位」



 頑丘は黒御影の廊下に佇んで、ぼんやりと霜楓宮を眺めていた。
 猟尸師と他者から蔑まれることの多い頑丘は、当然の如く王宮に縁を持っていない。王を持たぬ民であることを、自由の代償だと受け取る彼にとって、それは別段悲しいことではなかった。
 その彼が今、恭国の中心をなす霜楓宮に佇む。
 冴え冴えとした漆黒を宿す黒御影の廊下や、凝らされた見事な装飾は溜息をつくほどに美しい。けれど細部に視線を渡らせば、管理の手が少なくなったことを表して、荒れた箇所の多くを見ることが出来た。
 先王の崩御から二十七年。霜楓宮とここで働く者たちは、主を失い続けて今に至る。
 どのような美しさを誇っていたとしても、管理するものが疲弊すれば、そこもまた曇るのだ。
 美しいだけの廃墟を前にした時、頑丘と供にいた少女は立ち止まった。
 小さな頭をふわりと巡らせる。霜楓宮を見つめ、呆然の様子で幼王を見やる彼女の臣下なるべき者たちを見つめ、寄り添う己が半身を見つめ、最後に彼を見上げた。
 ――頑丘、あたし、どうしよう。
 誰かのせいにするだけで、誰も自分の果たすべき役割を行おうとしないのよと全てに憤った少女が、麒麟を前に見せた困惑の顔が思い出される。霜楓宮を前にして頑丘を一瞬見上げた瞳には、あの時と同じ困惑と動揺が確かによぎっていた。
 それでも少女は小さな足を踏み出した。唇の端を引き結び、歩きだす。
 頑丘は小さな背を追いかけて、傍らの麒麟の様子に気づいた。
 赤銅色がかった金の髪を持つ麒麟は、暖かで幸せな微笑みを浮かべている。
 麒麟は王の側にあることを至上の幸せだという。ゆえに供麒の表情は訝しむべきものではないが、頑丘には引っかかるものがあった。
 供麒の瞳には、邂逅によってもたらされる、ある種の感慨が含まれていると思われたのだ。
 珠晶がくるりと振り向くと、供麒と頑丘に堂室で待っていてくれと言った。
 麒麟に守られるのではなく、黄海を旅した心安い者を側において精神の安定をはかるでもなく、ただ一人で幼王を見定めようとする者たちと対峙しようというのだ。
 それは余りに頑丘の知る珠晶らしくて、苦笑する。
「なんとも、あいつらしい」
 頑丘の呟きに、取り残されて不安そうな顔をした麒麟がゆるりと頷いた。
「主上は、誰より己に厳しい方ですから」
「――供台輔、一つお尋ね申してもよろしいか?」
 敬語を操る頑丘に、供麒は人のよさそうな笑みを浮かべて首を振る。
「普通にお話し下さい。頑丘殿は、私の主上をお守りくださった方ですから」
「私の主上なぁ」
 出会い頭に横っ面をはたかれた割に、この気弱げな麒麟は珠晶を愛してやまない態度を取り続けている。それが麒麟と王というものかと頭をかく頑丘に、供麒は幸せそうに笑んだ。
「私は、ずっと主上をお待ち申し上げていたのです」
「王を選んでない麒麟の寿命は三十年程度だったか? 見つけられるか分からなかった王だ。待たされたものだな」
「いえ、そうではなく……」
「違う?」
「ええ。現れるかどうか分からない王をお待ちしていたのではないのです。私はただずっと、主上を……珠晶さまをお持ちしていました」
「俺には違いがよく分からん」
「私は、ただ王を待ってここに居たわけではありませんでした」
 気弱に響く声で囁きながら、供麒はするりと手を組んだ。遠く過去を、思い返す瞳をして。



 麒麟旗がひるがえってから幾年か。昇山する者たちの中に王がいると信じ、希望を繋いでいた者たちの期待の色が消える頃、供麒は一人黄海を渡った。
 今、昇山してくる者たちの中に王はいない。強く思ったのは、麒麟ゆえの直感であったのだろう。とにかく供麒は王に巡り合いたい一心で、恭国を目指した。
 先王が崩御してから時が流れ、国の荒廃の進みぶりは凄まじかった。麒麟である供麒の目には、民があまりに哀れで、胸が痛まれて仕方ない。
 王気を求めて供麒はただひたすらに進んだ。ただ王に会いたかった。そうやって恭国の首都連檣に入って、供麒は眼を見張った。
 暖かく供麒を包み込むような、優しくも激しい”気”の力。
 違えるわけがない。それが意味することの慕わしさに喜びを感じつつ、彼はそこに降り立ったのだ。
 ふっくらとした頬を紅潮させて、供麒の王はそこにいた。
 珊瑚色の唇で笑い、小さな手で空を掴むようにして――母親の腕の中にいた。
「主上がまとっておられた王気は、輝かしいものでした。素晴らしい王にめぐり合えたと、天帝に感謝してもしきれないほどに。けれど主上は子供でいらした。まだ齢三歳にもならないほどの。冴え冴えとした眼差しで、不思議そうに私をお見上げになっていた」
「三歳ぃ!? 三歳の子供に王気があるのか……」
「天啓の下った王はただ一人。私は麒麟で、主上が王でした。恭国にとって、なくてはならぬ存在の方でした。けれど三歳の子供に誓約を行ってよいはずがない」
 首を振ると、供麒は目を細める。
「天啓は下っているのに、私は王をお選びすることが出来ませんでした」
 目の前に王がいるというのに、国に王をもたらすことが出来なかったのだ。
 王を心から愛しく思い、側にありたいと切に願う、そのささやかで唯一の願いをかなえることさえも、彼は許されなかったのだ。
 国が荒廃していく様に心を痛め、ゆるやかに寿命が尽きていくのを受け入れながら、幼い王を見つめるしか出来なかった供麒。
「――そりゃあ」
 辛かっただろうなと口にしようとして、頑丘は黙した。供麒が辛かったのは当然のことだ。それを今更口にするのも奇妙な気がする。
「一体私は、いつ主上をお迎えに参じればよかったのか。六歳なら良いのか、九歳なら良いのか。十を数えれば大丈夫なのか。主上が国を支えられる年齢を数えるまで、私の寿命は持つのか」
 王は目の前にいた。
 見つめるだけで誇らしく、そして愛しい、清々しいほどに凛とした王が。
 側に近寄り、そっと膝を折り、そして誓約したかった。
 ――側にあると、誓いたかった。誓わせて欲しかった。
「私は誓約を行いたい自分を抑えられずに、蓬山に籠もりました。私の寿命が持つか、持たないか、それは分かりませんが。今お選びするのは許されないのだと、自分に言い聞かせて」
 月日がたつのが恐ろしかった。
 王がいるというのに、自分は王を選ぶことが出来ないのだろうと思うと、寿命が訪れるのが怖くて仕方なかった。あの王を選ぶのは、自分の次の麒麟なのだと思うと、胸が張り裂けそうで叫びたかった。
 日に日に目減りする寿命のかわりに、主上は何歳におなりだろうかと考えて、供麒は暮らしてきた。そして朽ちていくのだと思っていた。
 けれどその日。蓬山から王気が見えたのだ。
「十二歳の主上が、私のもとへといらしてくるのが感じられて……」
 供麒が目を細める。
 頑丘は息をついた。
「王は麒麟が選びます。けれど私は、主上に選ばれた麒麟であるような気がしました。私の次の麒麟ではなく、私を選んで下さったのだと。私のために、幼い主上は黄海を越えて下さったのではないかと。――これほど嬉しいことが、他にあるでしょうか」
 そういって、供麒は顔を上げる。
 麒麟にしては珍しくがっしりとした体型を持つというのに、どこか気弱な印象のある麒麟が、今の頑丘には誰よりも満ち足りた強さを持つ存在に見えた。
 ――なぜ、あたしが生まれたときにこなかったの!
 肩を震わせ、珠晶が憤りに叫んだとき、供麒の苦しみは消えたのだ。
 子供であろうと、選んでも良いのだと叫んで。幼い王は無意識に麒麟を救っていたのだ。
「たしかにあいつは王に向いている」
「どんな国の王にも、お負けになどなりません」
 供麒の強い言葉に、頑丘はぽかんとする。それから喉で笑って揶揄しようとして、顔を上げた。
 家臣たちと一通り顔をあわせた珠晶が出てきたのだ。途端に供麒が落ち着きを失って、すぐにでも駆け寄っていきたそうな様子を見せる。まるで子犬のような様子が、頑丘はおかしくて仕方がない。
「なにを笑っているのよ、頑丘」
 むくれた子供の声に、頑丘は傍らの供麒をみやった。いそいそと珠晶の隣に寄り添おうとする麒麟の姿に、彼の幼い王は呆れた顔をする。
「なにをそんなに嬉しそうな顔をしているの。これから、嫌になるほど一緒にいることになるのよ」
「嫌になどなるわけありません」
「供麒?」
「主上のお側に居られることが、私の幸せなのですから」
 あっさりと告げられて、供麒の半分の大きさもない珠晶が目を丸くする。口をぱくぱくさせた後、馬鹿ね、と小さく言った。
「あたしのことなんて、あんた全然知らないじゃない。そんなこと、知る前からいったら後悔するわよ」
「致しません」
 強い言葉。珠晶はもう本当に呆れた顔をして供麒を見つめて、笑いを必死に堪える頑丘を見やる。少し頬を染めて、珠晶は小さな身体で胸をはった。
「麒麟って、みんなこんななのかしら。ちょっと想像していたのと違うわ」
「お前には丁度いいだろ」
「なによそれ」
 しかめっ面をして、珠晶はそうだと声を上げた。
「こんなことを伝えに来たわけじゃないのよ。あのね、供麒。あなた、奏国に知り合いでもあるの?」
「いえ、ございませんが」
 柔らかに返す供麒の声を聞きながら、真剣に珠晶は悩む様子になる。頑丘は不思議に思って尋ねた。
「奏国がどうした」
「慶賀の使節がくるというの。恭のために。変でしょう? 隣の国ってわけじゃないのよ。なんで奏国がわざわざうちにくるの?」
「たしかに、そりゃあ変だな」
「知らないうちに、奏国に知り合いでも出来たのかしら?」
 小さな首をかしいだ珠晶と、とりあえず考え込んだ頑丘とが、同時にはっと顔を上げる。
「まさか」
「そう思うか?」
 ぴたりと息の合った二人の会話に、ただ穏やかに供麒は耳を傾ける。
 供に黄海を越えてきた者がもう一人居る。人の良さそうな笑みを浮かべながら、その実ひどく食わせ者で、高価は騎獣をごく普通に保持していた青年。
「そうよ、絶対そうだわ。どういう立場なのかはわからないけど、結構な地位にあるんじゃないかしら。どうりで急いで出て行ったと思ったのよ。きっと、あたしを驚かせるつもりだったんだわ!」
「まあ、その辺りだと考えて妥当だろ」
「絶対に驚いてなんてやらないんだから。供麒、いいわね?」
「何がでございますか?」
「だから、利広がどんな立場で来ても驚かないようにって言ってるの。いい? 堂堂としてるのよ、堂堂と。その体躯らしくねっ!」
「はい」
 穏やかに微笑んで、王と麒麟は歩き出す。
 なんとなく見送る形になった頑丘を、二人は同時に振り向いて、促すようにした。こちらもまた、既に見事に息がぴたりと合っている。
 あるべくして、あるべく場所に何もかもがはまっている。
 珠晶と供麒を追いながら、頑丘はふと考えた。
 これは一体いつ抜け出す段取りを決めるべきだろうかと。
 今すぐなのか、騎獣を狩ってやってからなのか、それとも。
 ――珠晶の側に飽きるまで居てからであるのか。
「戻」