王の存在

「おや、珍しい」
 人のよさそうな顔から穏やかな声を放って、利広は笑った。
 腰の辺りには可憐な少女の頭がある。うつむいていて顔立ちは見えないが、白い小さな手が、ひしと彼の衣服を握っていた。
「……が、あるのよ」
 消え入りそうにか細い声。これは珍しいと利広は思って「なんだい?」と腰を屈める。
 珊瑚色の唇に、同じ色の頬を持つ可憐な少女は、さらに顔をうつむかせながら、上目遣いでちらりと彼を見やった。
「困ったなあ。珠晶も小さい女の子だったんだね」
「そんなの、当たり前じゃない」
 頬を更に膨らませる気配。普段の珠晶ならば、美しい瞳で睨み上げてきそうなものだが、まだ――彼女は顔を上げようとしない。
 よほどの事があるのだろうかと利広は首を傾ぎ、少女の手に布地をつかまれたまま、膝を床につける。
「それで、一体どうしたんだい?」
「お願いがあるのよ」
「珠晶が私に?」
「そう」
 顔を上げない少女の頬に両手を伸ばし、包むようにして、顔を上げさせる。
 奏国からの慶賀の使者として利広がこの王宮に訪れたのが、およそ三ヶ月前。それ以降、お気に入りの小さな女王のもとに、放浪癖のある次男坊はちょくちょく通っている。
 利広が姿を見せれば、周囲を巻き込みながら最年少の王になってみせた少女は、勝気な笑みと、勝気な言葉を崩さないものだった。けれどだ。今、珠晶は窓から帰ろうとした利広の服の袖をしっかりと握ったまま、ひどくいい辛そうな顔で困っている。
 訪れたときは普段通り、勝気な言葉をぽんぽんと投げていたというのに。
「どうしたんだい?」
「――しばらく、ここに居て欲しいのよ」
「うん?」
「だからっ!」
 普段の調子を取り戻すように声を張り上げ、同時にきらきらとした瞳を利広に投げた。珊瑚色の頬は紅潮し、子供らしいふっくらとした頬の線は興奮に震えている。
「どうしたんだい?」
「――笑わないできいてくれる?」
「一生懸命な言葉を、笑うことはしないよ。だから話してごらん」
 王が欲しいと望むなら、すべての民が昇山すればいい。己がやるべきことをやらなければ、嘆くことさえ許されないと、真っ直ぐな憤りを胸に少女は行動した。正しいことを正しく行おうとする少女の気質は、利広にとっては心地よい。
「……教えて欲しいの」
「教える?」
 さらに不思議そうに利広が首を傾ぐと、さらに眦を吊り上げて、珠晶は掛けられた手を振り払ってきびすを返す。
「もうっ! いいわっ!」
「ちょっと待つんだ、珠晶」
「いいんだったら!」
「いいのだったら、なんで涙目になってるんだい?」
 やんわりと手を伸ばし、走り去ろうとした少女を抱きとめる。拍子に、心配そうな顔でこちらを見つめてた供麒の姿を見つけて、利広はなんとなく理解した。
 これは、簡単な話ではない。
「寂しいとか、そういうことじゃないんだね?」
「あ……当たり前よっ! あたし、そこまで子供じゃないわっ! それに……」
「やることが山積みで、寂しいと思う暇もない?」
「――違うわ」
 抵抗をとめて、珠晶は少女らしからぬ沈鬱な声をこぼした。
「違うの、利広。やることがないのよ」
「やることがない?」
 そんな馬鹿な、と言いかけて、利広は口をつぐんだ。真剣な色をたたえる珠晶の瞳に、うっすらと涙が浮かびかけている。
 立ち話で済ませるような話題ではなく、利広は小さな少女の体を腕に抱え上げて、そのまま部屋に戻った。見守っている供麒も呼び寄せ、座らせた珠晶の瞳をじっとみつめる。
「……一体なにがあったんだい?」
「恭国の民はね、王がいないことになれてしまっているの。――なにをしてもらえばいいのか、分からないのよ。いいえ違う。なにをさせればいいかと悩んでいるの」
「させる?」
「そうよ。みんなが忘れた頃に与えられた王は、あたしみたいな子供だったわ。仮朝を支えていた者達は怯えているの。王は、玉座にあるだけで天災を軽くさせるもの。ならば、いっそ今までと同じでよいのではないか。王は――」
「玉座に座っているだけでいいのではないか?」
「そう。――だって私自身が、王を知らない子供たちの代表のようなものだもの。困惑する気持ち、嫌なことに分からないでもないのよね。でも」
 ぎゅ、と小さな手を握り締める。利広の前で握り締められたソレは、ぎりぎりと柔肌に食い込んでいくほどの強さになっていく。傍らに駆け寄った供麒が、手を伸ばして大切な主の手を包み込んだ。
「――。おばかね。こんなの、別にどうってことないわ」
「主上……」
「あんたが悲しんでくれるのは今は嫌じゃないけど、今は泣いてる時じゃないわ」
 勝気な主の言葉を受けてもなお、供麒は心配そうに顔を振る。利広はそっと笑って、供麒のかわりに珠晶の手に触れた。
「泣いてるときではないかもしれないけどね。そんなに手を握り締めている場合でもないと思うよ。このままでは、肌が破れてしまうからね。それを見て、珠晶が大好きな供麒が心配しないわけないだろう。それで、珠晶。私にどうして欲しいんだい?」
「それはもう言ったわ」
「ここに居て欲しい、ってことかい?」
「そうよ」
「居るのは簡単だよ。でも、それだけなのかな?」
 食えない笑みを浮かべて、試すように利広が珠晶の瞳を覗き込む。小さな女王は勝気に笑んで、首を振った。
「あたしは、完璧にならなくちゃいけないわ。少なくとも、完璧だと思われるようにならないと。そのためには、知識が足りないの。――なにをどう判断するか、その基準がないのよ」
「だから?」
「教えて欲しいの。利広に。――奏国を見つめて続けて、その頭に溜め込んできたものを、少し教えて欲しいのよ」
 一息で言い切ると、ようやく楽になったと珠晶は体の力を抜いた。そうやって初めて、まだ己が手に麒麟の手が乗っていることに気づいて、珍しく優しく微笑んでやる。
「珠晶は流石に興味深い」
「何故よ」
「普通だったら、きっと側で代わりに何やってくれっていうだろう。狡猾だったら、私を近くにおいておくことで、王を無視して国を進めることなど許さないという恫喝につかったろうね。でも、珠晶は自分が変わるために私に残れという」
「そんなの」
 何を言い出すのか、という顔をしてから、ふんと少女は胸をそらせた。
「当たり前じゃない。利広がいつまでもここにいるわけないんだから。あたしが恭の王なのよ。あたしの存在を、あたし自身の力以外で、知らしめなくってどうするのよ」
「そうだね」
「それで……どうなのよ?」
 ちらりと横目で珠晶は利広をみやる。
 供麒も主をみならって、秦国の次男坊をじっと見詰めた。
「そりゃあ残るさ。せっかくの珠晶のお誘いを私が断るわけがない」
「お誘いって……」
「そういう事にしておくんだよ、珠晶。そうか、私が珠晶の先生か」
「楽しそうねぇ」
「そりゃあね。さて、じゃあ、まずは実地勉強といこうか」
 すっくと立ち上がり、供麒を促す。がっしりとした体格の麒麟はふんわりと笑ったまま首を傾げた。
「まずは麒麟と王は一緒だってことを教えてやろう。どちらか片方だけを望むなんて許されないことだからねぇ。欲しいものだけよこせっていうのは、都合が良すぎるよ。珠晶、供麒に命令を」
「供麒、あたしと一緒に行きましょ」
 利広の言葉には首を傾げていた供麒も、主の言葉に満面の笑みになる。
「珠晶、きっと君は良い女王になるよ。――いいや、なって欲しいな。秦国と同じ時間を過ごせるほどに」
 神獣である麒麟が、主の隣を走る中で、少女を腕に抱いて利広は柔らかい声をはなった。
「同じ時間?」
「そうだよ。――同じ時間だ」
「それが利広の授業料?」
「そうだね。――うん、そう思ってもらっていいよ」
 なにか企んでいそうな声に、珠晶はただ、明るい笑みを返していた。
「戻」