月夜
微妙に揺れる楽俊のひげを見つめて、陽子は目を伏せた。
楽俊は困っている。当然だろう。なにせ楽俊が寝泊まりしている部屋に戻ってきたら、扉の前で座り込んでいる女がいたのだから。
「陽子ぉ」
半獣である陽子の友人は、困った気持ちを隠さずに、声に表す。
楽俊を困らせているのは百も承知していたが、動く気にも弁明する気になれず、ただ黙って陽子は楽俊を見つめた。かすかに流れる風に、ふかふかの毛並みをそよがせた後、楽俊は目を細めて笑う。
「そこじゃ冷えるだろ? 陽子、とりえあず中に入れ」
「……うん」
「で、どうした? 慶国でなにか問題があったって噂は聞かないぞ?」
「何もない。何もないけどな、楽俊」
「ん?」
部屋に入ったところで、低い位置にある楽俊の肩に陽子は手を置いた。不思議そうに彼女を見上げてから、楽俊は肩に置かれた手をぽんぽんとあやすように叩く。落ちつけと言うかわりに「茶を入れてくるから待ってろな?」と、楽俊は言った。
渡された陶器を陽子は両手に包み込む。ふわりと温もりに包まれて、目を細めた。
何も分からない世界に一人放り出されて、裏切られる事と裏切る事を繰り返して心は荒んでいった。他人を猜疑し、簡単に裏切ることを覚えた自分は、決して良い人間ではない。それでも良いのだと言ってくれたのは楽俊だ。
温もりを取り戻させてくれた、大切な友達。
頑なになりかけていた心が少しほどけて、陽子は笑った。
「ようやく笑ったな、陽子。陽子は思いつめるとすぐ顔にでるからなぁ」
陽子の心情の変化を見破って、楽俊はひょこひょこと歩くと、彼女の隣に腰かける。
「それで、どうしたぁ? いきなりここまできちまった理由があるんだろう?」
「……楽俊。楽俊は、私の友達だよな?」
「どうしたんだよ、陽子。改まって?」
「答えて欲しい。楽俊は、私が愚かな王であっても…友達だよな?」
陽子の瞳には、思いつめた人間らしく余裕がない。大きな瞳を何度となくまばたきしてから、楽俊は「当たり前だろ?」と答えた。
答えを聞いて、うん、と陽子は肯く。
彼女が訴えたいのは余程覚悟が必要なことなのかもしれない。楽俊は少し居住まいを正す。
「楽俊、私はどうしたらいいか分からないんだ。その――景麒の瞳が何を求めているのかが分からなくなってしまう」
「陽子?」
「分かってる。麒麟は王の半身だ。麒麟である景麒が私を悪く思うはずない。でも、怖くなるんだ。何も言わないくせに、あの瞳は雄弁に私に意見をしている。不満を覚えている。なのに言いたいことを口にしないんだ。最初から、言っても無駄だと思っている。だから私は、つい景麒の眼を気にしてしまう。私はちゃんとした行動を取っているのか、動けているのか不安になってしまう。機嫌を取っているようで、それが嫌だ」
ぎゅっ、と膝の上に揃えた拳を陽子は強く握る。楽俊は沈黙を守り、続きを促すように少女の背を軽く叩いた。
―― 麒麟。
民意を具現化する高貴な獣。王を選び、王の半身となり、国を支えていく者。
王が道を外れた時、麒麟は失道する。運命を共有する者なのだ。
だからこそ、お互いを特別意識するのは当然の成り行きだろう。
けれど、陽子と景麒は中々本心を顕かにすることが出来ないでいる。
胎果であるがゆえに、己の力不足に嘆く王。
王から男女の間に育む愛情を向けられ、それに応えることが出来るはずもなく、結局最初の王を失ってしまった悲しい麒麟。
二人、お互いが大切であることには変わりないだろうに。臆病になって歩み寄れないでいる。きっと失うことが怖いのだ。
「私は、麒麟の言葉にも耳を傾けないと思われているのだろうか」
「……なあ、陽子」
ひょっこりと腰かけていた椅子から折りて、楽俊は陽子の前に立つ。きつく拳を握る少女の手に、己が手を重ねた。
「それ、直接景台輔に言ったこと、あるか?」
「……ない。だって楽俊。言ったって」
「無駄か? 陽子ぉ、それはちょっとずるくないか? 景台輔には、言いたいことがあるなら言って欲しいって思っているのに。陽子は言わないんじゃあ平等じゃないだろ?」
「……そう、かもしれない」
「おいらは、陽子と景台輔を傍から見てるから、もしかしたら陽子達よりも陽子達の気持ちが見えてるかもしれない。おいらの目には、陽子と景台輔はちゃんと信頼しあっているように見えるぞ?」
「――信頼しているなら、どうして景麒は私に何もいってくれない?」
他の誰にも見せない、子供のような我侭さをぶつけて、陽子は楽俊に反論する。半獣は愛嬌たっぷりに笑った。
「そうだなぁ。じゃあ、陽子はどうして景台輔に信用されていないって思う?」
「それは――私を見る時、景麒がいつもしかめっ面ばかりしているからかな。命令すれば動くけど、命令しなかったら何も動いてきてはくれない」
「うん。じゃあ、陽子はどんな顔をしてる?」
「私?――私は、今とあまり変わらない」
「おいらと喋ってる時みたく、笑わないのか?」
「景麒が仏頂面をしてるのに、どうして私だけが笑っていられる? 馬鹿にされる」
「陽子。そこが間違いだ」
重ねていただけの手を一度持ち上げて、ぽん、と降ろす。驚いて陽子は楽俊の顔を覗きこんだ。
「間違い?」
「言ったろう? おいらの目からみれば、充分陽子と景台輔はお互いを大事に思ってる。なのに二人とも良く似た者同士で、感情を表に出すのが苦手で、その上怖がりだ」
「楽俊。私は別に怖がりじゃないと思う」
「そうかぁ? でも、陽子が言えないのは景台輔に嫌われるのが怖いからだろう? 景台輔も陽子に嫌われているって思って、きっと何も言えてないんだ」
「――景麒が、私に嫌われていると思っている?」
考えもつかなかったと陽子が驚く。
本当に不器用な主従だとしみじみと思って、楽俊は心の中だけで溜息をついた。
「陽子、今日はここでゆっくりして行くといい。明日は、頑張って景台輔に話しかけてみろな? 麒麟にしてみたら、王に声をかけてもらえるってのは凄く嬉しいことらしいぞ? どっちかが歩み寄らなくちゃ駄目なんだ。大丈夫。景台輔が陽子のことを悪くなんて思ってないって、おいらが保証する」
「楽俊が?」
「まだ納得できないなら、おいら、明日一緒に行ってもいいぞ?」
「……来て欲しい」
ぼそり、と陽子が呟いた。
慶国女王として、日に日に立派になっていくというのに、そういう所はまだ少女特有の子供っぽさが残っている。
楽俊はなんなく楽しくなりながら、今日は早く寝とけ?と陽子に言った。
外に出れば、すぐに月の光りが降りてくる。
誰にも言えないでいた気持ちを打ち明けたことで、安心したらしい少女は既に安らかな寝息を立てていた。
月の光りが地面を照らしている。少しだけ冷たく見えないこともない、夜の光りだ。
ほたほたと、楽俊は迷わずに歩く。
あでやかな金色が、丘の上にあった。
――稀なる存在。高貴なる麒麟。
「心配なら、ちゃんと心配だって言っておくべきだとおいらは思うなぁ」
困ったように楽俊が言うと、金色の影が揺れた。風よりも軽やかに、景麒は主の友人の側へと歩み寄る。
「わたしはあまりご無理はなさらないようにと、申し上げている」
「だから、そこで溜息をつかない。心配なのは分かる。でも、あれが陽子の性分なわけだしなぁ」
「そのようなことは、分かっている」
「分かっているから、止めないように必死に勤めている。陽子の好きにはさせてやりたいから、危ないことをあまりしてくれるなと言えない。景台輔は、陽子に似て不器用だ」
「――無愛想といわれるなら、否定はしない」
いかにも怒っているように応える景麒に、楽俊は深く溜息をつく。これは結構根が深いかもしれない、と思う。
けれど、結局は陽子が心配で様子を見に来てしまうような景麒なのだから。いつか不器用な者同士、歩み寄る機会を見つけるだろうと、楽俊は思う。
「しかたねぇな。それまでは、おいらが陽子の慰め役だ」
呟きに、目に見えて景麒が不機嫌になる。
どうやら友人役を勤める自分に嫉妬しているらしいと気付いて、楽俊は眼を丸くした。
――きっといつか、この二人は最高の主従になる。
そんなことを、強く思った。
「戻」