記憶のゆりかご

 闇の中で。
『グレミオ、ここを開けてくれ!! グレミオーー!』
 いつだって叫んでいる。
 叩く扉の無情な重さ。喉をからし叫ぶことの無意味さ。聞こえてくる声が小さくなっていく事実。肌を滑った空気の冷たさ、下がっていく血液の音。
 簡単に蘇ってくる、それらの感覚たち。
 手を伸ばしても意味はない。
 目の前の映像に形はなく、靄に溶け込んだり、砂のように崩れたりしてゆくだけなのだ。
 ――見ていないから。
 肉体が滅び行く様も、滅んだ後も、見ていないから。
 今でももしかしたら、信じていないのかもしれない。
 彼が死んだということ。グレミオがもう、側で笑わない事実を。
 だから、きっと。本当の死の光景を、脳裏で再現することは出来ない。
 蘇るのはいつも感覚だけ。


 汗をかいていた。
 緞帳がかけられているだけの窓から、夜気が忍び込んでいるのが分かる。
 それが気味の悪い温もりに支配された肌を静めて、初めて自分が目を覚ましたことを知った。
「……ゆめ、か……」
 声に出しても意味はないが、喋るという行為は、現実と夢を識別させる力があるようだった。
 先程まで確かに感覚を支配していた喪失感が、少しずつ薄れていく。
「これが……生きている、ということなんだろうな。どんな悲しみも、風化させてしまう時の流れに、逆らえやしない」
 聞く人もいないと分かっているのに、返事を求めてつい耳をすませた。
 もしかしたら、もしかしたら。
 今までは全部夢で『恐い夢でもみたんですか、坊ちゃん?』と、心配そうな眼差しでグレミオが側に来てくれるのではと思ってしまうのだ。
 帰ってくるのは沈黙だけ。もう親しみさえした孤独の感覚が、肌を刺す。
「グレミオはいない。僕を助けて、助けようとして、死んでしまった。消えたんじゃなくって、死んでしまった……」
 納得しなくてはと、分かっているから自分に言い聞かせる。残酷な言葉を幾度も幾度も繰り返して。
 でも。本当は納得したくない。だから、溢れ始めた涙が嫌だ。泣くのは悲しいからだ。悲しいのはグレミオがいないからだ。ならば泣いている自分は、グレミオが死んだことを本当は認めたことになってしまう。
「グレミオ……人はどうして、死ぬんだろう。死ななければ確かに辛い。でも、別れるのも辛いよ。グレミオも父さんも……もう、いないなんてさ……」
 言葉が音にならなかったから、唇を噛み締めた。
 思い出だけが、脳を完全に支配している。
 こんな日は、もう一度寝るのは諦めたことがいいと最近理解した。だからベッドから立ち上がる。そうして布団という温もりから離れてしまうと、さらに体温が奪われていくのが分かった。
「人は、自分がなにかに守られていることを、手放してみないと理解できなんだ。だからきっと、後悔することになる……」
 上着を取って肩にかけ、そのまま部屋の外に出た。
 仲間たちに心配をかけたくないから、普段は部屋以外で物思いにふけることはない。けれどこんな夜中なら。いつも活気に溢れる場所も眠りについていて、きっと誰もいないだろう。
「星が、見えればいいな」
 空を見上げていれば。涙は、ぎりぎりまで瞳の上に留まっているだろう。
 星が出ていれば、空を見上げる理由が出来る。
 今は理由がほしかった。
 生きている理由とか、解放軍のリーダーとなっている理由とか。今の自分を確実に現実に繋ぎ止めている理由が、存在を許してくれる。
 だから、星が、見たかった。


 空にもっとも近い場所。
 昼間ならば優雅にお茶でも飲む人々がみられる場所も、今は夜の帳の中で静かに佇んでいると、思っていた。
「……え?」
 目を丸くする。
 意表を突かれるとはこういう事だと、なぜか冷静に考える。それからくるりと踵を返そうとして、失敗した。
「よ、リーダー。こんな時間にどーした?」
 踵を返しきる間もなく、自分の背に向かって声をかけられる。風来坊のような容姿で、一見それほど鋭くもなさそうなのに、実はかなり周囲の感情などに気を配っている人物、ビクトールの声だ。
 今更、部屋に戻るわけにもいかない。トイレに行こうと思った、などという言い訳が通用する相手でもなし。
 そう思って、少しだけ息を付いて、表情を整えて、振り向く。
 案の定、グラスを手に持ったビクトールが椅子に座って、笑っていた。
 その笑顔が椅子に座ることを薦めているような気がして、つられるように足を進めた。頬に冷たい風がふいて、身体がまた、少し寒さを覚える。
「……?」
 つと、視界の端に。もう一つ気配を感じた。
 つられるように目をむければ、青い色が見える。自分の立っていた位置からは見えにくい場所に、フリックがいたのだ。彼は手すりに肘をついて、まるで子供のような仕種で頬杖をしたまま遠くを見つめている。
 戦闘中や作戦中には決してみせない、恐いほどの静かな表情だった。
 彼が見ている視界に、映るものなど殆どないはずだ。
 夜の帳に落ちた湖は暗く、闇を宿すのみ。対岸の村で灯る僅かな光が、蛍のように揺れている。
 静かな……聞こえるものさえない沈黙の夜だ。
 そうやって映らないなにかを見つめている後ろ姿が、哀しかった。
「まあ、こんな夜も、あるってもんだよ」
 ビクトールが言って、高価そうなワインをグラスにつぐ。
「って、そーだよなあ。酒ってわけにはいかないもんなあ。なんか持ってくるか? 手持ち無沙汰だろ?」
 この男の陽気な声を聞いていると、少し安心できる。きっとこの男は色々な経験をしてきたのだと思う。だからこそ、なぜか全てを見透かされるような気持ちにもなって少しいやだったり、逆に安心したり、するのだ。
 そういえば。最初フリックは、ビクトールを信用しないといっていたのだ。
 なのにいつのまにか、ビクトールを信用している。そんな不思議な安堵感を他人に持たせるところが、このクマのような男にはある。
「……お前さ、今、人のこと、クマとか思ったろ?」
 唐突に言われて、驚いて顔を上げると、ビクトールが苦笑していた。
「なんだ、ほんとに思ってたのか。冗談だったんだけどなぁ」
「時々思っているんじゃなくって、普段から思われてるんじゃないのか」
 まるでこちらの様子など気にしていない、という感じだったフリックが口を挟んでくる。つられて視線を彼に戻したが、彼はまだ、見えないなにかを見つけているだけだった。
「失礼なことばかりいいやがって! ま、いいか。そんな事はたいしたことじゃねえからな」
「……お前にしてみたら、なにがたいしたことに当たるんだよ?」
「お? 色々あるんだぜ? こう見えても。結構繊細だったりするんだなあ、これがまた」
 呆れたのか、付き合うのに疲れたのか、またフリックは黙り込んだ。
 そんな様子も、子供っぽいほどに純粋で一本気な彼らしくなくて、不思議に思う。少し首をかしげると、ビクトールが肩を竦めた。今はそっとしておけと、言うように。
 そう。そっとしておいて貰いたい時が、人にはある。
 哀しくて、苦しくてどうしようもない時に。自分だけが優しい人に囲まれて、笑えるようになっていく未来の現実がどうしようもなく恐くて。
 願うなら。この悲しみを忘れたくはない。薄れていく記憶が恐い。
(わたしは、坊ちゃんに幸せに笑っていてもらいたいんですよ?)
 グレミオがここにいれば。
 きっとそう言って、困ったように笑うのだろう。諭す色を瞳に称えて。
「……グレミオ……」
 もうこの名をよんでも、答える者は誰もいないのだ。
 それを思い知らされて、一人でいたくなる。そっとしておいて欲しくなる。
 そのくせ、完全に放っておかれると恐くなった。
「なあ、リーダー。こういう夜は、色んな事を思って、少しだけ未来から目を逸らしてもいいんだと思うよ」
 ビクトールは目を曇らせた年若い解放軍の指導者に言って、立ち上がる。どうやら本当に、なにか飲み物を持って来てくれるつもりらしい。
「……ありがとう……」
 小さく言うと、彼は、軽く手を振った。
 ビクトールがいなくなると、途端に空間内が寂しくなったような気がする。それだけ彼の存在感が大きいということなのだろう。
(グレミオがいてくれると、優しい空気がながれたな)
 哀しい。哀しくて、苦しくて、辛い。
 自分がやっているのは殺し合いだ。それを解放軍という理想につつんでいるだけ。こんな現実を、理想にかける民衆は知らない。
(僕たちは知っていなくちゃいけない。これもまた、単なる人殺しであるということを。人を殺すことの苦しさを、重さを、あの血の感触を追憶を。当事者が忘れてしまってはいけないんだ。理想によって、人殺しを正当化するのは……ただ僕たちを信じている民衆がしてればいいこと)
 戦い続けているのは自分の意志だ。
 解放軍の人々が、子供に指導者の役割を押し付けて、悲しい目に合わせていると苦しんでいることを知っているけれど。
(違うんだ。違うんだよ、みんな)
 グレミオが死んだことがこんなにも苦しいのは。
 大好きだった彼を死なせた原因を作ったのが自分だからだ。グレミオは理想で戦っていたわけではない。ただ自分を心配してくれて、側にいてくれただけだった。
(身近な人を戦いに巻き込んでいるのに、僕は戦おうと思ったんだ。あの時、あの人の眼差しを見て。死を迎えつつあってなお、美しく激しく澄んでいた眼差しに。そこに僕は自分の未来をみてしまった)
 だからこんなにも苦しい。
 泣き叫ぶことも出来ないのは、自分が死に追いやったからだ。
 そういえばフリックも泣いていないのだ。オデッサの死を告げられ、激怒した彼は、それでも泣いてはいなかった。
 なぜだったのだろう? そう思ってしまって、立ち上がって静かな視線を前方に向けるフリックの横に立つ。
 なにが見えるのだろう。この、闇の中に全てが包まれた世界の中に。彼の眼差しはなにを見ているんだろう?
 分からない。
「……分からなくなるんだ」
「え?」
 いきなり呟かれた声に、驚いて顔を上げる。
 自分に向けられた言葉なのか独り言かの判断をつきかねていると、彼が視線をゆっくりとこちらに向けてくる。
「俺は、時々。オデッサが死んだことが分からなくなるんだ」
「……分からない?」
「そんなものなのかもしれない。俺は、心のどこかで信じることが出来ない。オデッサが死んだなんて。大切な人間を失ったというのに、温もりが失われていく様を見ることが出来なかった人間の、病気なのかもしれないな……」
「……オデッサさんは」
「知ってる。死んでる。お前が看取ってくれたんだ。知ってるんだよ、理性は。なのに感覚が理解しない。彼女の為に戦いつづけていると、理解できない感覚がどんどん大きくなっていく。だから俺は戦うんだ」
「……?」
「なんで、って顔だな」
「うん」
 ふう、とフリックは息を吐いて。天を見上げた。
 その眼差しが透明すぎて、悲しすぎる。――見つめることが出来ない誰かを探す瞳は。
「戦って、生きて、そして新しい世界を見ることは。彼女が尤も望んでいたことだったんだ。だからそれを目指すことは、彼女と俺をつなげてくれているような気がする。どこかで俺を見ていてくれる気がするんだ。だから戦おう、生きようと思う。お前も……
 透明な視線を、彼は少年にむけた。
「大切な人の死を認められず、その死を己のせいにして生きていく。似てるのかもしれないな、今の俺とお前は」
「え?」
「お前のせいじゃないっていわれても、納得しないんだろ、どうせ。俺もそうだからな。オデッサの死が俺のせいじゃないっていわれても、納得できない。俺が偽の情報に躍らされなければ、ちゃんとアジトを守っていれば。オデッサを守れたのは本当のことなんだ」
 違うよ、と第三者だけが言えるのだ。あの死は誰のせいでもないと。
 自分だって思ってきた。オデッサの死の責任を、なぜフリックが背負い込んで、自分で自分を憎むのかが分からなくて不思議だった。
 グレミオを失って初めて。
 狂おしいまでの悲しさと追憶に、グレミオが死なねばならない現実を作り出したのは自分なのだと、激しく呪わずにはいられない感情を知った。
 大切な人を失った人間は。誰しも悲しみを背負って、自分自身を呪って、生きていくのか。
「僕は生きるよ、フリック」
「ああ。そうだな」
「グレミオは、僕が生きることを望んでいたんだ。ただそれだけを、いつだって純粋に願ってくれていた。誰が忘れてもそれを僕が覚えている。だから僕は目指したものを忘れないで、生きる。ただ生きるっていうのじゃなくて、ちゃんと意味がある生き方を、するよ」
「……俺も生きるさ。あいつに笑われちまうから。泣かせちまうから」
「泣かせる?」
「そうさ。己惚れてるかもしれないけど、俺はオデッサにちゃんと大切に思われているって知ってたさ。一緒に生きている時は、どっちかが辛ければ、どっちかが支えることが出来た。悔しい時には一緒に怒って、悲しいときには一緒に泣いて、乗り越えることも出来た。でももう、オデッサにそれは出来ない」
 青雷とおそれられる由来にもなったろう、青いマントをフリックは風に揺らせた。
「俺たちをおいて逝った奴らは、きっと俺たちを見てる」
「うん、そうだろうね」
「俺だったら悔しいよ、俺がいないところでオデッサが泣いていたら。ただ見てるしか出来なかったら。声も届かない、抱きしめる腕もない、大丈夫だと笑うことも、肩を叩くこともなにもできない。そんな状態、辛くて仕方ないだろうさ」
 だからな、と言って。彼は目を細めた。
「あいつに心配をかけずに、生きてかなくちゃいけないんだよ。見てるあいつが安心できるように。笑っていられるように」
 まるで誓いのように告げると、彼はまた、湖面に視線を戻した。 
 この言葉はきっと、彼なりの慰めなのだろう。
 同じ痛みを知っている者として、苦しむ自分へのわずかな慰め。
「グレミオも泣くのかな。僕がこうやって、立ち上がれないでいるのを」
「泣いているっていうより、おろおろしてるんじゃねえ?」
「あはは。そうだね、きっとグレミオならそうだ」
 見える気がする。
 困ったように笑いながら「ほらほら元気を出してくださいよ」というグレミオが。
「グレミオ……」
 素直な、悲しみに涙が零れた。誰を憎んでいるのでもない、怒っているのでもない。ただ彼が、ここにいない事が悲しかった。
「こんな夜くらいは。泣くことくらい、許されるって思うぜ」
 小さく言った彼は、湖面を見つめたまま。
 自分は泣けないくせに、と思う。ならばこれは、泣けない彼の泣く変わりに取る行動なのだろうか?
「……グレミオ。僕は、僕はね」
 幸せだったんだよ。
 グレミオがいつだって見守って笑っていた。テッドがいてくれて、楽しくていつだって心強かった。怒ってくれるクレオに感謝して、一緒に悪戯までしてくれるパーンが楽しくて大好きだった。優しかった父を、今だって一番尊敬している。
 幸せだったから。だから喪失が本当に悲しい。
 涙が止まらなくて、その場に座り込んで膝の上に額を置いた。
 泣き顔を見られたくないのは、もしかしたら。見守ってくれているのかもしれない、グレミオになのかもしれない。
「おお、どーした。お前ら」
 陽気な声が戻ってくる。
 多分、彼もまた大きな悲しみを背負ったまま生きて来ているのだろう。
 こんな夜は。
 感傷的になる。
「ビクトール。フリック。僕はね」
 膝に顔は隠したまま。この言葉を言えれば、少し元気になれる気がした。
 二人の気配がわずかに動いて、耳を、傾けてくれるのが分かった。
「グレミオが大好きだったんだ」
 聞いてる? グレミオ。
 そしてね。本当にね。
「僕は幸せだったんだよ」
 ありがとう。
 側にいてくれた時間を、思いを、優しさを。
 絶対に忘れないと、思った