終結の意味と始まりの意味

 死は綺麗ではないことを何人が知っているだろうか?
(少なくとも俺は知っているな)
 心に浮かんだ疑問に、馬鹿げたことだが自分で返事をしてみてから、ビクトールは剣を握り直していた。
(俺は……現実逃避をしているのかもしれねぇな)
 滅多に他人には見せない皮肉な笑みを唇に浮かべて、目の前を舞い飛ぶ白刃を力強く払う。――しつこい程に向かってくる敵の攻撃。
(俺達は、奴等にしてみれば簒奪者だ)
 ここは敵地の真っ只中だ。
 解放軍、と民衆から希望の想いを込めて呼ばれる軍がある。それは偉大なる皇帝バルバロッサが君臨する赤月帝国に、叛旗を翻した者達の呼称だ。
 類希なカリスマで人を魅了し、強き意志と共に前をみつめていた女性と、誇り高かった親友の強さとを引き継いだ少年に率いられた解放軍は、多くの困難を乗り越え、新たな時代を作り出していた。
 ついに帝都グレックミンスターを攻略し、皇帝バルバロッサを廃すことに成功したばかりだ。
(多分……外に終結しつつある奴等は、今ごろ浮かれてんだろうな)
 また心で独白した。
 ビクトールと背を合わせて剣をふるう青年がいる。旧解放軍の副リーダーでだったフリックだ。
 確実な剣さばきは、普段とかわりないように見えるが、観察すれば動きに鈍さがあるのが分かる。
(当たり前だ。いったいどの程度、こいつの血は流れちまっているのか……)
 床を踏みしめるビクトールの足元は、ぬるりと、よどんでいた。
 その独特の濃度を持つ液体――血液が弧を描いて床に広がっているのだ。
(死は……だから……)
 綺麗じゃない、綺麗じゃないんだ。
 また最初と同じ事を考えてしまう。
 目の前にある危機はかなりのものだった。
 斜陽の赤月帝国に全てを捧げ、真摯な想いを抱いて戦う誇り高い者たちが、主君であるバルバロッサを廃した解放軍のメンバーを倒すべく、必死になって攻めてくる。戦意が盛んすぎて、ひどくタチが悪い。
 まだ年若い……人々の希望の象徴である少年を、死なせるわけにはいかなかった。
 だからビクトールにしてみれば、至極当然のように、少年と他の仲間を逃がすべく、盾となって敵を食い止める為に、一人、残ったのだ。
 犠牲になろうと思ったわけではない。自分にはそれが出来ると判断しただけだ。
 幾度となく剣を切り結びながら、じりじりと後退し、時間を稼ぐ。その後に撤退。それでいいと思っていた。
 ――にも関わらず。
 何度目かの後退をなした先で、同じように戦うフリックを通路の先で見つけてしまった。
 剣先が鈍いことにすぐに気付いた。さっと視線を投げかければ、腹部に刺さり込んだ矢を短く切り、刺さり込んだ状態のままで彼は戦っているのがわかる。
(あんの、馬っ鹿野郎が!)
 フリックは、バルバロッサを倒せば、生きる支えを失う懸念のある男だ。
 死の口実を最も与えてはならない相手。
 彼自身は死ぬつもりはないと断言しているが、深層心理下の願望まで消し去ることは出来はしない。
 ビクトールにははっきりと分かっていた。フリックが生を望む気持ちと同じだけ、完全な理由の元に訪れる死を願っていると。
(当たり前だ。なにもかも終わっちまったら、そうもなる)
 当たり前だ。
 大切なものを突然に失って、癒せない傷を負った人間は、亡くした人の意志を守る為にだの、仇を討つだのといった理由がなければ生きていけなくなる。
 理由を胸に抱いて生きる時間の長さがだけが、少しずつ傷を癒し、理由が無くても生きられる状況を作り出して行くものなのだ。
 悲しみが、消えることは決してないけれど。
(時間が短すぎた。オデッサの願いであった解放軍の成功、そして仇討ち。それらが終わるのが、早すぎた!!)
 背後にある温もりは、まだ消えていない。けれど。
(死は……綺麗ではないっていうんだよっ!!)
 心で叫び続ける。
 にもかかわらず。ビクトールは一度も振り向いていなかった。剣をかかげ、二人向かってくる相手に見栄を切って以来、口もきいていない。そんな暇はないから、という理由もあったが。
 恐いのかもしれなかった。声をかけて、返事のないあの虚ろさを再び経験しなくてはならないことが。
 奇妙な静寂の中、ただ、剣と矢と、魔法の飛び交う音が響いている。
 その中で。
 背中合わせの温もりが、唐突に消えた。
 恐れていた現実の到来に、みっともない程に背筋が凍る。
 ――振り向かなくては駄目だ。
 彼が意識を失っただけなのか、それとも永遠に目覚めぬ眠りに落ちたのか、判断できない。意識を失っているだけなのならば、脱出する方法を探さなくてはならないのだ。
 行動を起こさなくてはならない。なのに。
(今、振り向いちまえば……)
 記憶の中で決して風化しない映像と、同じものがソコにある。だから振り向くな、見るなと、己の中の弱い心が叫んだ。
「フリック!!」
 弱さを振り払うために叫んで、体を半歩ずらし、振り向いた。同時に星辰剣に力を貸せと叫ぶ。
 27の真の紋章の一つ、夜の紋章の化身である剣は自力で戦い得る。悪態を吐きながらも、落雷をよびよせた星辰剣にすまねぇと言って、ビクトールは手を伸ばした。
 ずっしりと重い感触がした。それは、バランスを崩して倒れたフリックの体重を受け止めたから、だけではない。掴み取った布という布の全てが、あらざる色に染められて、重く濡れていたからだった。
(鮮血の……重み……)
 ビクトールの中で、なにかが、首をもたげてくる。
 過去の夢。
 仇を討つ為に必死になった現実が終わったことで、より一層の悲しみを持って蘇ってきてしまう、あの光景だ。



 買い出しの荷物を両手一杯にかかえたまま、それを見たのだ。
 誰が朝目が覚めて、夜目を閉ざす時とで、こうまで現実が激変すると思える人間はいるだろうか?
 一面に広がる狂気の光景。
 人が、人に、喰らいついている。――いや、人とはすでに呼べない屍人が。父が母の、母が娘の、子供が友人の、首筋に歯を立てて。
 両手の力が抜けて、持っていた全てを取り落とした。
 急激にせりあがってくる嘔吐感。
 屍人たちは音に気付いて、いっせいに振り向いた。
 どんよりと曇った、腐った眼差し。感情と心の消えた、飾り物の!
 大きく開かれた口元からは、赤い色が滴っている。それだけが、全てが土気色に変わった中で、命の残骸をとどめていた。
「楽しい。実に楽しい光景ですね」
 粘着質な、墓場の臭いを背負った声に、振り向く。
 そこに惨劇の光景を演出した相手は立っていた。
 青白い肌。怪異な容姿。唇だけが楽しそうに持ち上がって笑っている。
 生涯忘れることなど出来ないだろう禍禍しさで。
 ――ネクロード。
 その時勝てなかった相手。憎悪すべき対象。
 突如奪われた日常に、絶望し死を選ばずにすんだのは、復讐する相手がいたからだ。
 叶わずに放浪する日々が、出会う人々が、心を大人にしていっただけで、最初から大人だったわけではない。
(死は。だから綺麗なものじゃなかったんだ)
 哄笑を残してネクロードが去った後、村は、正真正銘の屍の山にかわった。
 一体、一体。綺麗な顔をしているモノなどありはしない。
 誰もが虚無を浮かべて、満足に揃わぬ五体を大地に投げ出し、転がっていた。
 おそらく生涯の中で。あれが、最も最悪の作業になるだろう。
 たった一人で、村人全員分の墓穴を掘った。
 屍しか転がらぬ中で、野犬を追い払い、狙ってくる烏と格闘し、そしてなにより屍自体が放つ臭気と戦わねばならなかった。
 愛しかった者達の遺体であったから。
 せめて安らかに眠らせてやりたかった。体中に、死臭が染み付いたとしても。闇よりも濃い血の臭いに、耐えながら夜を過さねばならなくても。
 惨めに墓穴を掘りながら、痛感した。
 生きていること、それがどれほど美しいことであるのかを。
 生きて、生き抜いて、自然のまま死に逝くことの優しさを、知った。
 突然与えられた死は。
 こうやって、腐って、消えていくだけの醜さが待っていることが多くて。あまりに哀しい。


「馬鹿ものが!! クマ風情が、戦場で物思いなんぞにふけるな! 似合わぬぞ!」
 唐突に響いた警告を促す声に、はっとビクトールは目を見開く。
 一斉に色彩がかわって、過去から現実にと意識が戻った。
 そして咄嗟に体が動く。元いた場所に残っていた髪の先が、はらはらと切られ落ちて、声をかけられていなかったら、振り下ろされた剣の露になりかねなかった事実を知った。
「すまねぇな、相棒」
「お前に相棒などと呼ばれるのは、御免被る!」
 星辰剣の憎まれ口を聞き流し、ビクトールはなんとか腕で支えた青年を確かめる。
 フリックが心から愛した女性を看取ったように、自分はこいつまで看取らなければならないのか、と僅かに思った。だから少し、緊張してしまう。
(いただけねぇなぁ。そんなのは)
 ビクトールはオデッサとフリックの二人が気に入っていたのだ。
 二人とも、悲愴な目をして、真剣に夢をみようとしていた。解放軍といいながらも「武力」での解決方法しか持たぬ矛盾に苦しみながら、リーダーとして細い腕に武器を持っていたオデッサ。その思想を誰よりも理解し、必要だと認識していたにも関わらず、一人の女性としてオデッサを愛し続けたフリック。
 妙に不器用な二人に、少し興味を覚えて。
 ネクロードを追う旅を一時中断して、解放軍に付き合ってみることにした。
 子供のような夢を、大人の理屈を理解した上で追う人々は思った以上に優しく。そして居心地がよかった。
 結果として、オデッサをはじめとした人々の死を、看取る事になってしまったけれど。
(ったく、皮肉なこったな)
 守ってやりたいと思っていた。村で静かに暮らす人々や、解放軍に身を投じる人々や。そして……優しい心で必死に戦っている、仲間達を。
「なにせ、死ってのは綺麗じゃなさすぎるからなぁ」
「いきなり呑気なことを言っておる場合か!! さっさと確認するなり、逃げるなり、行動を始めんか! 敵兵はともかく、城が崩れ始めておるのだぞ!」
 一喝してくるくせに、星辰剣は先程から、自力での戦闘能力を顕示し、ビクトールとフリックに敵兵が近づかないようにしてくれている。実は結構お節介な星辰剣が少し笑えた。
「笑っている場合か!!!」
 また星辰剣が叫んでいる。どうにもこうにも、口うるさい……剣だ。
「うるせぇなあ。もう少し役に立っててくれよ」
 わざと乱暴にいってから、血の気が失い意識を手放したフリックを支え直した。
 ――暖かい。
 生きていた。僅かだが、鼓動も打っている。呼吸もしている。
「なんだ。結構しぶてぇじゃねぇか」
 ほっと呟いてから、ビクトールはフリックを抱えた。右手は星辰剣を握らねばならないから、左手だけで支えなくてはならない。しかも腹部に刺さったままの矢が、これ以上食い込むのを防ぐために、肩に担ぎ上げることは出来なかった。
「途中で目が覚めたら、怒るだろうなぁ、こいつ」
 呟きながらも、片手で抱き上げて、走り出す。
 勿論敵兵は追ってくる。が、これ以上かまっていられない。戦う暇はない。これだけ時間稼ぎが出来たのだ、リーダーも逃げ切ってくれているだろう。
「ちー、紋章がもっと使えればな!!」
 まだ追ってくる敵兵に、ある期待をこめてビクトールはぼやいてみる。
「これ以上は手伝わんぞ!」
「けちくさいぞ、星辰剣!!!」
「うるさい!!」
 まるで緊張感がない会話漫。焦っていないわけがない。
 倒壊は背中から迫り、敵兵も追ってくる。腕で支えた相手の鼓動は弱くなっていくばかり、となれば焦りは募るばかりだ。
 それでも余裕なフリをする。
「上!!」
 突然星辰剣が叫んだ。
 なに!?と思う暇もなく、影が落ちてきた。天井を支える梁の一つが完全に倒壊したのだ。
「やばい!」
 伏せるにも場所がない。星辰剣が独自に対応するにも遅すぎた。
 圧死なんて一番嫌な死にかたじゃねえか、と心中激しく叫んだ瞬間、まばゆいほどの閃光が周囲に満ちて、梁が一瞬に砕け散った。――雷鳴の紋章最大級の詠唱だ。
「なんだ!?」
 誰か助けに戻ってきたのか、とビクトールは思った。が、すぐにそれを否定する。先程まで確かにぴくりとも動かなかったフリックが、息も絶え絶えの様子で顔を上げ、紋章を放ってみせたと分かったからだ。
「なーにやってんだ、この半死人が!!」
「な、……んだ……とっ!! となえ……なかったら、梁に潰されて……し……んでたじゃ、ねーか!」
 息も絶え絶えなくせに反論するのは、フリックの生真面目さがさせるものなのかどうか。
「うるせ。死にそうな奴に反論する権利はねえ。とにかく意識が戻ったんなら、手放すんじゃねえぞ! とにかく脱出するからな!」
 倒壊した梁の残骸のおかげで、敵兵が追ってこれなくなっている。チャンスだ。
「脱出するから……って……!? うわ!……おろせ!……自分……で、走れる……!」
「どこがだ! 安心しろ、他の奴等にはちゃんと、俺がお前をお姫様抱きして逃げたって言っておいてやるからな!」
「――!? ば、馬鹿にするなぁぁ! 誰がっ!!」
「おお、元気元気。そんなら大丈夫だな。死んだら俺がなんと言おうと文句がいえねぇぞ。ちゃんと生きてろよっ」
「死ぬもんか!……俺が死んだら……」
「なんだよ。またお得意の、俺はまだオデッサに似合う男になってない、か?」
 フリックのこの言葉は嫌いだ。
 オデッサに相応しかったのは、妙に純粋なこいつしかいないと思っていたから。
「それ、もあるけど。俺がここで死んだら、オデッサが、泣く」
「泣く?」
「……あ、ああ……」
 声が小さくなってきた。本当に限界がきているのかもしれない。最後まで自分で走れると呟いている辺り、プライドの高い奴だと溜息を吐く。
 ビクトールは焦りながら、走りつづけた。必死に、倒壊するグレッグミンスターの中から。



 遠く遠く、まだ倒壊を続けるグレッグミンスターをよそに。
 解放軍の歓声が響いた。
 中に、まだ。取り残された仲間がいたにも関わらず。ひっそりと、息を引き取った軍師の存在にも気付かずに。人々は悲劇を忘れて、大きな時代の流れに歓声をあげる。
「こんなもんなのかねぇ」
 妙に艶麗な美女が呟いて、キセルをポンッ、と弾いた。
 グレッグミンスターの近くを通る、街道を進む馬車の中で、である。
「時代の大きな変化は、ときとして悲劇を覆い尽くしてしまうものでしょう」
 やんわりとした声によく似合う、優しげな顔に笑みを浮かべて、医師らしき男が言う。
 その二人の側に。ビクトールがいた。
 なんとか脱出できたのはいいが、このまま多くの想い出がしみつきすぎている場所であり、中に残された人々を忘れて、歓声をあげる興奮の中に戻るのはよくないと思ったのだ。
 なんとか町医者を探さねばと焦っていた時、この二人にであったのだ。
 彼らは、グレッグミンスターを去って都市同盟に行くという。
「……ああ、連れの方ならもう大丈夫だと思いますよ。しばらくは、動かせないと思いますけれどね」
 医師の男は微笑みながらいった。
「すまねぇ。無理いって」
「いいですよ。どうやら、いろいろ事情があるようですから」
「本当ならねぇ。このまま一緒に、都市同盟に行くのが一番ってトコなんだろうけれど。それじゃあねえ、今動かしたら、本当に命取りだ。生きてるほうが不思議なくらいなんだろう?」
 艶麗な女が口を挟むと、医師の男がゆっくり視線を向ける。
「ええ、そうですね。では近くの村までご一緒しましょう。もし、ミューズにお出でになることがあれば、わたしの所にいらしてください。そこにいつも居ますから。色々、手助けは出来ると思いますから」
「そうだよ。遠慮することはないしねぇ」
 魅力的に女は笑った。
 去っていく決意をした時に、こうやって出会う人々がいるのが不思議で。
 ビクトールは、笑った。
「生きていくってのは、こういうもんなのかもしれねぇなぁ」
 昏々と眠りつづける、やつれた寝顔をみやりながら、ビクトールは息を吐く。
 こいつが何といっても、しばらくは、この国には戻らないようにしよう。そう思った。