気泡の中

私はいつだって前を見つめていた。
選んだ道。
私が、私の意志で選んだ現実。
振り向かずに前に進み続けることを、己にかして生きてきた。

本当は怯えていた。
声を殺してひっそりと泣いたこともある。
こわくて、どうしようもなくて、叫びたくて。

目指す先になにがあるの?
本当に人を導いていくことが出来るの?
分からなかった。
本当はなにも分からなかった。
それでも自信にみちた眼差しで、前を見つめる。
私が私にかした「役」。それを完璧にこなすために。
声を殺して泣くのは、強い私を作る為。

なのに。
突然貴方が現れて。
真っ直ぐすぎるほどの想いを、私にぶつけてきた。
否定されることに怯えもせず。
ただ真っ直ぐ、私を、見つめた。

だからその日から、前を見るのが恐くなくなったのだ。
足元も。後ろも。横も。全部。
私のかわりに見てくれる人がいる。
私が私に帰れる場所を、与えてくれる。
ねえ、知っていた?
私がこんなにも貴方に救われていたこと。
こんなにも愛していたこと。
知らなかったかもしれない。
言ったことなかったから。
それだけが、私の……後悔




「もう、出てきてもいいのよ。逃げなさい、早く」
 自分の声が、妙に冷静なのが、おかしいと思った。
 感覚がどこか鈍い。大変なことをしてしまったと分かっているのに、なにがどう大変なのか理解出来ない。
「オデッサさん!!!」
 悲鳴が聞こえた。
 これは少年の声?
 掛けられた声が何故震えているのか、分からなくて首を傾げようとする。
 途端に激痛。
 普段は空気を送り出す肺が機能を麻痺させ、液体がそこを徘徊しているのだと、先程まで認識さえ出来なかった脳が理解する。
(これは、血なの?)
 肺を渦巻いている存在の名前。
(私の……血?)
「しっかりしてください! すぐに手当てをしますから!」
 私に取り縋って涙を耐えている少年の声ではない。あの、人を惹きつけてやまない眼差しをした少年の側にいつもいる、グレミオの声だろう。
 瞼を開けてみる。
 なぜか暗い。まるで闇の中一人目が覚めた時のようだと思いながら、なんとか一人一人の顔を見やる。どの顔にも共通して浮かんでいるのは哀しみと、絶望の色。
(ああ、私はやっぱり)
 ――死ぬんだわ。
 理解した。
「自分で、もうダメだって分かっているから……」
(こんな冷静なことを言って。嘘吐きだわ、私。すごくすごく、焦っているのに。恐いのに。死にたくないのに。)
「頼みたいことが、二つ、あります。一つはこのイヤリングを、マッシュという男に渡して。そして、もう一つは。私の身体を、あの川に投げ込んでほしいの」
(本当に? 本当に、そんなこと、してほしい? 解放軍のリーダーとしてじゃない、私は?)
 苦笑が、唇に浮かぶ。
 真剣な顔で聞いているビクトール。もしかしたら貴方なら、私が今感じている矛盾を、理解できるのかしら?
 ねえ、本当は。私が一番言いたい言葉は、これじゃない。
 解放軍は大事。私の血、そしてそれ以上に流され続ける悲しみの血と、涙を救うもの。
 それを止めたい。そう思っている。心から、思っている。なのに。
(今。一番、伝えて欲しい、言葉……)
 ――これを、言っても、いいの?
 解放軍のリーダーとしての言葉ではなく、私の言葉。オデッサとしての、私の想い。
 見つめ返してくる、少年の瞳は悲しさに支配されながら、どこか優しい。
 だから最後の言葉を、伝えて欲しいと請うてみる。
「ねえ、もし。どこかで、フリックに出会えたら」
(貴方はきっと歩き出す。だから、絶対に。会えるわ……あの人に)
「伝えて、欲しいの」
(お願い。私が伝えられなかった思いを、伝えて)
「貴方の優しさが、いつも、いつでも、私を慰めてくれたと」
(……愛してるわ、出会った時も、側にいてくれた時間も、死に逝くこの刹那も。愛しているわ)


 ――本当は。
 私に取り縋っているのが、あの人であって欲しかった。
 そして泣いて欲しかった。
 彼は泣いてくれる。
 私はそれを知っている
 だって、世界中全てが敵になったとしても、貴方だけは私の味方でいてくれる人だから。そう信じさせてくれた貴方だから。
 誰もが大人になる途中で失っていく純粋さと素直さと優しさを、全く失わないでいる貴方の子供っぽさが、危なっかしくて、困ったような気分にさせられて、でも羨ましかった。
 ねえ、だからきっと。
 果たすべき役割を考える前に、感情に従ってきっと泣いてくれるのでしょうね。
 私の為に。私の為だけに。
 消えていく意識の中
 今更ながらに知る。
 自分がどれだけ、彼の優しさに救われてきたのか。
 虐げられた人々の全てが善でも優しくもない現実を見せ付けられる中で、誰よりも近しい場所にいたあの人が、一番純粋で優しかった。
 冷たい水の中で、希望を消さない為に消えていく選択を取るリーダーとしての私ではなくて。
 本当の私は。貴方に抱きしめていて欲しかった。
 死に逝く冷たさに支配されていく私を抱きしめて、泣いて、そしてそうしてくれる声を聞いていたかった。
 生きていて欲しいと思う。
 でもそう思いながらも。
 どこまでも一緒にいて欲しいと思う、冷酷な願望が、胸にある。
 死者は、生者を連れて行こうと思ってしまうから。
 だからこんなにも早くに、意識は混濁する。死は急速に、確実に、喋る時間を意識を奪おうとするのか。
 時間があれば。
 言ってしまうかもしれない。
「一緒に死んで。一緒に朽ちて。そして永遠に一緒にいて」
 禁断の言葉。

 死んでいった者の為に生きるという言葉。
 優しくて、強くて、哀しすぎる言葉。
 そうでも思わなければ、生きていくことさえ出来なくなるだろう。
 誰よりも優しくて、誰よりも強いけど。
 その分。
 なによりも脆い、彼だから。
 言ってはいけない言葉。
 そして、自分自身。一番言いたくない言葉。
 生きて欲しいと願う私。どこまでも一緒にいて欲しいと願う私。
 どちらも一緒だから。
 死に逝く瞬間に瞼を閉ざすのは。
 そこに。
 最後に。一番大事な人の姿を見ようとするからなのかもしれない。

 フリック。
 今、どこにいるの?
 ねえ、寂しい想いをしていない?
 純粋すぎて、真っ直ぐすぎる貴方だから。
 私、心配なの、よ……。
 ねえ。
 生きて、ね。
 わたし……ずっと、そばに……いる……から。
 死んでもずっと……愛しているって……しんじて、ね……


「……?」
 そして、彼は振り向く。
 少し驚いたような表情で、寒くもないのに、彼自身の腕を抱きしめるように……。