なんでなんだろう。
まず最初に、そう思った。
膝から下の感覚が急激に消える。気付けば崩れるように、床に座り込んでいた。
頭の中ではただ、なんで? どうして?と同じ言葉が繰り返される。
「北条!? どうしたっ」
委員会の会議で遅くなった為、クラスには二人しか残っていない。その片割れ、宇都宮の慌てた声が聞こえた。
しっかりしなくちゃ、と思うのだが身体は動かない。
おとした鞄が、くちをあけたまま転がっている。筆記用具が広がって、その一つ一つがやけにくっきりと見えた。
「あ、あのね」
懸命にしぼりだした声は、やたらと湿っている。こんな声を出すのは久しぶりだ、と思ったら、悲しさを自覚してしまってたまらなくなった。
涙がぼろぼろとこみあげてくる。大あわてで差し出されたハンカチを目に押し当てた。
あとはもう、大泣きだ。
涙はこぼれ続けて、いっこうにとまろうとしない。宇都宮(女の泣き顔は、同性か家族か恋人しかみちゃいけない!というポリシーを持つらしい)はそっぽを向いたまま、それでも心配そうに横に座っているのがわかるので、本当は泣き止みたいのだけれど。
とりあえず大丈夫だと鼻声で訴えようとしたところで「桜!?」と、耳にもっとも柔らかに響く声が届いた。
――あ、まずい。
そう思った。こんな顔、見せられたものじゃない。
どうしようと慌てだしたら「北条も女の子だなあ」と、変に感心した声を宇都宮があげた。さてはこいつ、こっそりメールで呼んだな!?と思ったが、やっぱり抗議は声にならない。
教室のドアが軽快に開いた。
最初に飛びこんできた色彩は紅茶色。続いたのは以前にプレゼントしたエプロンの、青と黒の格子柄だ。――ああ、夕飯の準備中だったんだ、なんて思ってみる。
「し、ずや、くん」
搾り出した声は、われながら情けくなるほどに湿っていた。
けれどそれに呆れることもなく、北条桜のクラスメイトであり、こっそり想い人でもあり、実は両思いだったりするんじゃないかな?なんて考えては赤面してしまう相手、大江静夜は心配そうに眉をよせる。
「桜、またなにかなくなったの?」
ぽんぽんっと、静夜が問い掛ける。
こういう静夜の歯切れよさが、桜は好きだ。彼は本当に頭がいいと思う。
宇都宮はハッとした顔をして「またか?」と低い声を出すと同時に、眉を寄せた。
北条桜の私物がなくなる。
そんな事態が頻発するようになったのは、ここ二ヶ月間のことだった。
クラスメイトに疑いがかかるのを嫌がった桜が、黙っていたせい発覚は遅れ、被害は拡大している。それを知った仲良しの秋山梓は「水臭いよ!」と言って、盛大に頬を膨らませたものだった。
当然ながら、それは仲良しのクラスメイト、二年A組の生徒たち全員の気持ちだったので、しっかりものの委員長がめずらしく全員に怒られる羽目になったのだが。
発覚後は、全員で桜の周囲に気を配っていた。
そのおかげで、新たな被害は出なくなっていたのだ。
さすがにあきらめたのかな?と梓が呟き、なくなったものを見つけるのも重要だろ、と静夜の隣で腕を組んでいた秦智帆が答えたのが今朝のこと。
なのにまた、今日、なくなってしまった。
「桜?」
やんわりと静夜がたずねてくる。どう答えればいいのかがわからなくて、ただ首を振った。きっと宇都宮は「北条が珍しいことしてる!」と驚くだろうが、静夜は違う。
きっと静夜なら、言わなくてもわかってもらえるとも思った。
静夜は泣き続ける桜の肩にごく自然な仕草で手をおくと、唇を彼女の耳にそっと寄せる。「鏡?」とささやいて離れると、首をかしげた。
そう。鏡だ。――祖母からもらった手鏡をなくした、と静夜に言ったとき。彼が「かわりにはならないだろうけどさ」と言って、買ってくれた大切な鏡。
静夜の気持ちが嬉しくて(好きな人から貰っただけでも嬉しいのに!)幸せで、桜はそれが宝物のように思えたのだ。だから私物がなくなる危険の高い学校には持ってこないようにしていたのに。それを。
「あの、ね。なくすの、嫌だから。家に、おいてたのに」
「間違って持ってきた?」
「うん」
喋ることがスイッチであるかのように、涙がさらにあふれて来る。
珍しすぎる自分の様子に、呆れた宇都宮どんな顔をしているだろう。そんなことが気にかかって、かけている眼鏡以上にぶあついレンズになっている涙の幕の奥に、相棒の姿を探す。
泣いている桜の横にいたときよりも、宇都宮はバツが悪そうに遠くを見ていた。
静夜は軽く桜の肩を抱いて、ぽんぽん、となぐさめるように背をたたく。
そのリズムが。なんだかひどく、安心した。
「大丈夫だよ、桜。ぜったいに見つけるからさ」
ね、と言って静夜は笑う。
クラスメイトや、他のクラスの生徒たちは、静夜のことをいつも、可憐で可愛くって女友達みたい!と言っている。けれど桜は一度も、静夜を同性と思ったことはなかった。
「うん」
静夜が見つかるというのなら、見つける手段はあるのだろう。
よし、と思った。だったら絶対に見つけて、ついでに今までとられたものも見つけ出してやろう!とも思った。
桜の気持ちの変化に気づいたのか、静夜は目を細めると肩においた手を離して立ち上がる。「亮」と呼ぶと同時に、靴音も高く教室の真ん中へと歩いた。
傾いた西日が、窓から差し込んできて、静夜の姿をうかびあがらせる。
エプロン姿で迫力などあったものではないはずだが、まるで今の彼は探偵だ。
宇都宮亮は「ん?」と首をかしげ、急いで静夜の隣に進む。
静夜は携帯電話を取り出して、にやっと笑った。
「今回は、副委員長の許可を頂きたいところ」
「はあ?」亮が盛大に首をかしげると、静夜は亮の肩に手をおいた。
「委員長を狙うってことは、二年A組を狙うことと同義。僕らを敵にするなんて、いい覚悟してると思わない?」
「そりゃあ、思う。腹立たしいよな。よりによって、北条のものを盗むなんて」
「だよね。で、僕らがさ、桜が”私物が盗まれてる”って言ってくれた時から、なにもしてなかったと思う?」
やたらと不穏に静夜が笑う。
あ、と亮は思って、同じような表情を浮かべた。
「犯人のあたり、つけてんのか?」
「それなりには。とはいっても、まだ検討をつけただけだけどね。このまま黙ってるなら、穏便にすませようと思ったんだ」
ついに桜を泣かせたし、と言って静夜は肩をすくめる。
「し、静夜君? それに宇都宮?」
感情の切り替えに成功をして、涙をとめることに成功した桜はあせって声を上げた。
二年A組をまとめてきた桜にはわかる。
コレは絶対に。
――激怒している。
「あ、あのね、そんなに過激なことはしなくていいよ? この時間に、この場所にあったものを持っていけるってことは、間違いなく学園の生徒だろうし」
「北条、これはもうお前だけの問題じゃないんだ」
「宇都宮? あのね、どんなに声を低くしても、シリアスには聞こえないよ」
「うーん、さすが我が相棒。……さっきとは別人だよなぁ」
「なにか言った?」
「なーんにも。それに、とめるんだったら俺より」
「え?」
長くあまれた三つ編をゆらせて、桜は首をかしげる。同時に二人がだまったので「あのさ、智帆。例の件なんだけど」と喋る静夜の声がクリアに響いた。
「……智帆、って言ったね」
「言ってたな」
「わがA組最強の策士……。し、しず、静夜君!?」
裏返りそうになるのを必死に抑えて、桜は声を張り上げる。「なに?」と答えると同時に、通話終了ボタンを静夜は押して、戦闘態勢をとるようにエプロンを外した。
「なに? じゃなくってね。静夜くん、今、智帆くんと何を話してたの?」
「今までなくなったものと、戻ってきたものから、色々と考えてたんだよね。二人で」
「う、うん」
「桜が最初に考えたとおり、好んで桜のものを持っていっているのは、学園の生徒に間違いないんだよね。でね、桜に関係するうわさも拾ってみたわけ」
「う、噂……」
おもわず桜はげんなりとしてしまう。
両想いのような気がするけれど、片思いの相手に、自分の噂を集めましたと言われて喜ぶ少女は……多分、あまりいないだろう。いくら自分のため、といわれても。鋭いくせに、時々妙に鈍感なところのある静夜は、まったく気づいていないようだった。
彼は手にした携帯をもてあそんでいる。噂の内容を語りださないのは、そんなことを言いふらすような性格をしていないからだろう。
「それと同時に、失せ物が発生した二ヶ月前の状況と、なくなった日の状況」
宇都宮亮は感心した声を上げた。
「よくもまあ、短時間でそれだけ調べるよな」
「桜のことを知ったらね、久樹さんたちや、巧たちもいたく怒ってね」
「静夜。久樹さん”たち”に、あの麗しの爽子さんも入ってるのか?」
「うん。セットだし」
「……静夜、すこしは俺に夢をみさせろよ」
「かなう可能性がコンマ1もないんだ、諦めなよ」
「可愛い顔してキツイ奴」
「亮に可愛いっていわれても嬉しくないなあ」
さらりと受け流したところで、そろそろかな、と静夜が視線を入り口に向ける。
同時に廊下を歩いてくる音が響いて、モバイルパソコンを小脇に少年が姿を現した。
ココアブラウンの癖っ毛と、眼鏡の下にあるたれ目が印象的な、二年A組きっての頭脳派の一人、秦智帆だ。
智帆はひらりと亮と桜に手をふってみせてから、「静夜、今日なくなったのなんだ?」と単刀直入にたずねてくる。ちなみに登場がやけに早いのは、智帆が化学実験室にいた為だった。
「鏡。この位のサイズのね」
手で形を示す。続けてたずねられてもいないのに、紛失した時間も静夜は告げる。
桜はぽかんとしながら、ひじで相棒である副委員長の亮をこづいた。
「時々思うんだけど、宇都宮」
「なんだよ、北条」
「静夜君たちが味方の私たちって、かなりの幸運だと思わない?」
「かなり同感」
こくこくと亮がうなずくと、眼鏡の下のまなざしを智帆が投げてくる。「なんだ?」と亮が身構える前に、くすりと彼は笑った。
「味方にするに値しなけりゃ、俺たちはしないな」
「うーわー。智帆くん、それ、すごい殺し文句!!」
わざと亮がやられたフリをする。くすくすと桜が笑ったところで、今度は二つの足音が重なって響いてきた。同時に人とは違うなにかも、軽やかに走ってくる音もする。
「桜!」
声と同時に、扉が開く。肩のあたりでぶっつりと切りそろえた髪が印象的な、同じく二年A組に属する秋山梓だ。
「梓!? 帰ってたんじゃなかったの!?」
「そうなの、でね、すごいのよ、聞いて。帰ろうとしたらね、丁度雄夜くんにあってね。スイくんの散歩にいくっていうから、じゃあ小太郎の散歩も一緒にいっていい?ってきいたらね。って、そういう話じゃなくてー!」
大江静夜の双子の片割れ、雄夜に恋する少女秋山梓は、なにやらパニックを起こして頭を抑える。「ワンッ!」と大きな声が響いて「あっ! 小太郎をつれて入っちゃった!」と、再び梓はあせりだした。
「落ち着け、秋山」
あせりまくっている梓と同じような紐を手に、切れ長のまなざしが印象的な雄夜が低い声を一つ落とす。
「雄夜はちょっとあせったほうがいいよ。二人とも、スイと小太郎を入り口に繋いでくる」
スイはシベリアンハスキー犬で、小太郎は秋田犬だ。
教室内につれてくるにはふさわしくない。きっぱりと言い切られて、雄夜はちらりと視線を双子の片割れに投げる。静夜は「ドサクサにまぎれても、ダメ」と冷たく答えて、首を振った。
どうやら梓は慌てたせいで忘れただけだが、雄夜はわかっていて犬をつれて入ったらしい。
「どうせ、これが俺の席なんだ、とか語りたかったんだよ」
「そんなわけないだろ、といえないのが辛いな」
静夜と智帆が、わざとらしいほどに大きな声で会話する。
耐えられずに亮は笑い出し、桜は梓の手をそっととった。
「心配してきてくれたの?」
「うん。ちょっと待ってて、すぐに小太郎を繋いできたら戻るから。行こう、雄夜くん」
さりげなさを装っているが、梓は「雄夜くん」と口にするたびに、やたらと幸せそうな顔をしている。二人がそのまま教室を出て行くのを見送ってから、智帆は「さて」と呟いて自分の席に座った。
持参したモバイルパソコンを開いて、静夜を呼ぶ。
「で、これを見てどう思う?」
[次]
竹原湊 湖底廃園
Copyright
Minato Takehara All Rights Reserved.