番外編

目次
[きっかけの……]


 ごほごほと、苦しげに咳き込む音がした。
 丹羽は生徒の論文に落としていた目をあげ、ふっと周りを見渡す。
 彼の研究室は二部屋ある。一つは書斎と応接をかねた執務室で、もう一つがゼミの生徒たちが使用する部屋だった。
 丹羽が座っているのは応接のソファだった。パーティションで区切られた先には、ちょっとした給湯スペースがある。咳の主は、そこに立っていた本多里奈だった。
 時刻はすでに七時を回っている。学生課の仕事が終わると、都合のつく限りは毎日のように研究室に里奈がくるようになって、もう半年以上が経っている。
「本多くん?」
「あ、教授。……っ! す、すみませんっ」
 咳が止まらないらしい。
 銜えたままだった煙草をもみ消して、丹羽は立ち上がると里奈の側に行った。
「座っていなさい、お茶なら私が淹れよう」
「い、いいえっ! いいんです、私が。……っ!!」
「風邪でもひいたのだろう。ここのところ、気温が急激に下がっているからな」
「ちが、違うんです、本当、元気なんですっ」
 涙目で咳き込み続ける里奈の言葉に説得力はない。
 けれど風邪ではないと言い張る理由もわからずに、丹羽は眉をしかめた。それから執務室に視線をめぐらせて、ばつが悪そうな顔になる。
「悪かったな」
 静かに言って、丹羽は窓に寄った。ブラインドを完全に上げ、窓を全開にする。
 風が吹き込んできた。
 冬の訪れが近い晩秋の風は、清涼さを部屋にもたらし、もうもうとしていた煙草の煙を外に押し出していく。
「ごめんなさい、教授」
 しょんぼりと里奈は肩を落とす。うな垂れた姿がまるで小さな子供のようで、丹羽は少し笑うと手招きをした。
「本多くんは煙草を吸わないからな」
「はい。あ、でも、教授が吸ってるのは別にいいんです。ただ」
「煙くて咳が出ると」
「そうなんです。ごめんなさい」
 また、里奈がしゅんとなる。
 里奈は白鳳学園に在学中の頃、少しばかり丹羽のことが気になっていた。その原因は恋していたことにあったと気づいたのは、卒業してから巻き込まれた事件がきっかけだった。
 里奈は本気で丹羽のことが好きなのだが、あまり相手にされていない。
 二人の間には、十九歳もの年の差がある。
 好きだといえば気のせいだと否定され、本気ですといえば父親か兄がわりだろうとかわされる。
 年齢差があるなら、年下のほうが頑張らねば!と里奈は考えている。というわけで、里奈はめげずに丹羽の側に居場所を確保し続けているというわけだ。
 だから丹羽に嫌われるようなことを、里奈はしたくない。
 隣の人が煙草を吸っていて、うっかり咳き込んで睨まれたことが里奈は何度もある。煙草を好む人からみれば、咳をされるのはうっとうしい事なのだろうと思っていた。
 それを、丹羽の前でしてしまうとは!
「本多くんが謝る必要はないだろう」
「でも、好きな人が嫌がることはしたくないってものです」
 さりげなく、けれど”好きな人”の部分を里奈は強調する。
 丹羽は咳払いをひとつし、また背広から煙草を取り出そうとして、やめた。
「これはもう癖だな。意識せずとも手が煙草に伸びる」
「煙草って、体には悪いんですよね」
「間違いないな。よく、保健医の大江先生には”やめたほうがいいですよ”とたしなめられている」
「私、教授が体壊すのはいやだなぁ。煙草で体を壊すとかいう記事をみると、いつもドキッってしちゃうんですよ」
 ぽつりと呟くと、里奈は少し唇を尖らせた。
 丹羽はただ「そうか」と答える。
「教授、換気はもう大丈夫ですよ。今日は徹夜だっておっしゃっていたので、夕飯もってきたんです。一緒に食べましょう。お茶も淹れますから」
 話題を変えるために明るく言うと、里奈は黙って窓を閉めた。軽やかにきびすを返し、持ち込んできた惣菜とご飯の入ったタッパーをテーブルに広げる。
 いつの間にか、里奈は丹羽の好きなもの、嫌いなものを熟知してしまっている。最初の頃は手に絆創膏を貼っていることも多かったのだが、今はすっかりそれも見なくなった。
「まったく」
 丹羽はため息をつく。
 こんなにも年若い娘が、なぜいつまでも自分に好意を寄せ続けているのかが彼にはわからない。好きなことを続けて教授となり、研究に打ち込み続けて彼にとって、里奈の存在はどうにも不可解だった。
「そろそろ飽きると思っていたのだが」
 呟く声は、もちろん里奈には聞こえない。
 里奈は明るい声をあげて「お茶、入りましたよ」と笑うだけだった。


 学生課で、里奈が丹羽についての話を聞いたのは、それから一ヵ月後のことだった。
 抱えた仕事量が半端ではなく、終日残業続きで、家に帰るのは寝るためだけという生活を続けていた時のことだ。
「さっきね、丹羽ゼミの子たちが来て相談してきたんだけど、里奈さんは何か知らない?」
「え? 何をですか?」
 書類をさばきながら、里奈は顔を上げる。
 先輩の学生課員は顔をよせてきて、内緒話のように耳元でささやいた。
「丹羽教授が怖いそうなのよ」
「……教授って、昔っからゼミ生には厳しいですよ?」
「違うのよ。厳しいんじゃなくって、怖いらししのよ。挙動不審もあるらしいし」
「挙動不審??」
 あの落ち着いた丹羽教授が?と里奈は目を丸くする。
「その様子だと、里奈さんも知らないのね。あ、そうか。最近残業続きだったみたいだし。ね、里奈さん。後輩の丹羽ゼミの子たちを助けると思って、今日は教授のところに訪問しに行ってくれない? 仕事は私がしておくから」
「でも、先輩だって仕事が沢山。悪いですよ」
「いいって。私の仕事より、丹羽ゼミの子たちのほうがかわいそうよ。泣いちゃって、ゼミに出てこれなくなった子もいるらしくって」
「ええ? そ、それは確かに大変ですね」
「でしょう? 丹羽教授って、なんだかんだで里奈さんを気に入ってるから。なにかあるなら、話してくれるかもしれないし」
 だから早く行ったと肩を叩かれて、里奈は立ち上がった。
「じゃあ、先輩。これと、これだけは、課長に通しておいてください」
「了解。また明日ね」
「はいっ。お疲れ様です」
 靴を履き替えて、里奈は学生課を飛び出す。途中、白鳳館内の店で紅茶葉と緑茶葉を買って、里奈は大学部水鳳館へと走った。
 息をきらしながら階段を走り、廊下を過ぎて教授室の前につく。コンコンッと軽く二度ほどノックして、入れという言葉を聞くと同時に中に入った。
「教授っ」
「本多くんか。久しぶりだな」
 心なしか声のトーンが低い。
 研究室の方を見やれば、ズーーンという形容詞がよく似合いそうなゼミ生たちが、固まって何かを話していた。
「ずっと会えなくって、寂しかったです。教授、お茶飲みませんか?」
 確かに変だと思いながらも、里奈はすぐに尋ねることはせずに、買ってきた紅茶を持ち上げてみせる。丹羽は少し驚いた顔をしてから、わずかに笑った。
「そうだな。ああ、そこの冷蔵庫に、もらい物のゼリーがあるから食べていいぞ。本多君の好きなアメリカンチェリーのゼリーが残っている」
 給湯スペースに立った里奈は「え?」と振り向く。
「教授、わざわざ残しておいてくれたんですか?」
「別にわざわざというわけでもない」
「でも、冷蔵庫に入ってるの一個だけです」
 追求して振り向くと、丹羽は黙ってそっぽを向いてしまう。
 不思議に思っていると、別方向からの視線に気付いて顔をあげた。研究室で、小さなホワイトボードを手にしたゼミ生たちの姿がある。
 生徒たちはペンを持ち、さらさらと文字を書いた。
”本多くんはそれが好きだから、残しておけって言ってましたよ”
 ホワイトボードに踊った文字に、うれしくなって里奈は笑う。ゼミ生はボードの文字をけして、続けてまた何かを書き出した。
”来てくれてありがとうございます。教授が久しぶりに人間っぽいです”
 最後は泣くフリをしてみせて、ゼミ生は手を振る。
 一体全体何があったのかと首をかしげながら、里奈はカップにお茶を注いだ。
「教授、どうぞ」
 お茶を運びかけて、彼女はかたまった。
 普段はいつも言われるまで別の仕事をしている丹羽が、すでにソファに座っている。しかも小さなクッキーを口にしていた。
 里奈の知る丹羽教授は、あまり間食をするほうではない。
 改めて回りをみると、すぐに口に入れられそうな菓子が到る場所に置いてあることに気づく。
「……丹羽教授、なにかあったんですか?」
「なにが”なにか”なのかが分からんな」
「えっと、私がこない間に甘党になったとか。ほかに彼女が出来たとか」
「なんだそれは」
 丹羽は不機嫌そうに眉をしかめる。
「教授、なにを怒ってるんです?」
「怒ってなどはいない」
 必要以上に強くきっぱりと言い切るのが、逆に怒っている印象を深めている。里奈はやぶへびにならぬように首を傾げるに留めて、教授の前にカップを置いた。
「なんなら、ロイヤルミルクティーにしましょうか」
「いや、これでいい」
 怒っているようなのだが、丹羽は紅茶は嬉しそうに口にしている。不機嫌の理由には、自分が訪問しなかったからというのも含まれているのではと考えて、里奈は嬉しくなった。
「本多くん」
「はい?」
「私は別に、君がいないからといって、何も思いはしないぞ」
「……教授、夢ぐらい見させてくださいよ」
「そう言われてもな」
 やれやれと首を振る。丹羽は再びカップに口をつけたが、あいている方の指は落ち着きなくテーブルの端を叩いていた。
 ――おかしい。本気でおかしい。
 里奈は鋭い眼差しで室内を観察し、丹羽を見やり、テーブルを見て、最後に手を打った。
「あっ!!」
 突然の大声に、丹羽がとがめる顔になる。けれど負けずに、里奈は真剣な顔で教授を見つめた。
「教授。もしかして……」
 あれだけ大量に煙草を吸う丹羽のテーブルに、灰皿がない。
 室内をくすぶっていた煙はなく、かわりに転がるのは飴やチョコやクッキー。
 丹羽自身は、どうみても苛々と落ち着かない様子に見える。
 ここまで条件が揃えば答えは一つ。
「禁煙ですね? でも、どうして禁煙を? ヘビースモーカーの人が禁煙するのって、すっごく辛いことだって聞くんですけれど」
「煙草の副流煙は、主流煙よりも性質が悪いとされている」
「そう聞きますね」
「……ゼミ生たちを肺がんにするわけにはいかないだろう」
 立派な理由なのだが、何かが怪しい。
 丹羽の下にゼミ生が集まるのは昔からの話で、なぜ今禁煙しようと考えたのかの理由がわからない。第一、学生課の課員の話によれば、丹羽は今まで禁煙したことはないらしい。
「あっ」
 里奈は手を打った。
 一ヶ月前、丹羽の前で咳き込んだことを思い出す。
 あの時に初めて、丹羽は里奈が煙草を苦手としていることを知ったのだ。
「……教授、それって、私の為に禁煙を決めたって考えてもいいですか?」
「好きにしろ」
 呆れたような言葉だが、否定はしていない。
 里奈はもう心から嬉しくて、胸の前で手を組んだ。
「教授、私がずっと側に居ることになるって思ってくださったんですよね!」
「本多くん、なにゆえそこまで話が飛躍するんだ」
「いいんです。だって私、嬉しいんですから! 私も協力しますね、えっと急激にニコチンを断つのは危険だって聞きますから、まずはお医者さんに行きましょう。口が寂しいときは飴もいいですけれど、ガム噛むのもいいって聞きますよ」
「随分と嬉しそうだな、本多君」
「だって、本当に嬉しいですから仕方ないです。私の中にある好きっていう気持ちが、教授のせいでもっともっと大きくなってしまったんですよ。教授のこと、私は本当に大好きなんです」
 まっすぐな言葉をまっすぐに述べて、ふわりと里奈は笑った。
 それは普段の彼女が見せる笑みよりも、随分と柔らかく砂糖菓子のように甘くて、丹羽は意表をつかれて少し固まる。
「気のせいなんかじゃないです。保護者代わりだとも思っていません。私は、ただただ丹羽教授が好きなんです」
「……本多くん、頼むからゼミ生たちの目の前でそこまで言うのはやめてくれ」
「じゃあ、信じてくださいます?」
「なにを」
「私が本気で、教授を好きだと思っていること」
「――まあ、少しはな」
 苦笑交じりに、丹羽は答える。
 里奈は顔を輝かせ、ゼミ生たちはわっと歓声をあげた。


 白鳳学園一のヘビースモーカーだった丹羽教授の禁煙は、白鳳学園の関係者すべての者に衝撃を与え、一大禁煙ブームが来たとか、来なかったとか。
 
[完]

丹羽&里奈が書きたくなって、書いてみました。でもこれじゃあ、丹羽&里奈というよりも、押せ押せ里奈の物語でしょうか。この二人は、本編以外のところでこっそりゆっくり進展しています。
  煙草といえば、実は私が勤めているのは、路上喫煙禁止の千代田区です。
  道路に落ちている煙草の吸殻が減って、効果があるんだな!って吃驚していたのでした。
  私自身は煙草を全く吸わないので、煙草を吸う心理は分からないんですけれど、あれってやめるのが凄く大変なものらしいですね。
  丹羽教授は成功したのかどうか。
  里奈の頑張り次第ってところでしょうか(笑)
  閉鎖領域で一番人気があるカップルは多分久樹と爽子なんでしょうけれど、さりげなく応援してくださる方が多いのがこの丹羽&里奈だったりします。
  第三話から、静夜と桜を気にしてくださる方も出てきて嬉しかったり。
  気になるカップルORコンビって誰だろう?って、こっそり考える私でした。
 
竹原湊 湖底廃園
Copyright Minato Takehara All Rights Reserved.