番外編

目次
[春待ち日]

 彼が彼女に出会ったとき、彼女は片足にだけミュールを履いて、しゃがんだ体勢で頬杖を付いていた。




 エレベーターホールから廊下に出たところで、出くわした光景だった。
 昨日まで空室だったはずの部屋の扉が大きく開け放たれている。
 開いた扉を支えているのは、片足だけミュールを履いた彼女の身体だった。――少し奇妙に思えて、なにをしているのだろうといぶかしむ。
 中島巧が住まう白梅館の自室は、彼女が扉と身体で封鎖している奥の部屋にあった。後ろを通り過ぎるのではなく、声を掛けてみようかと考えたのは、少し興味を覚えたからだった。
「なにかあったの?」
 初等部五年生の三学期が終り、六年生になろうとする子供の声はまだどこかあどけない。片足にミュールを履いたまま真剣な顔をしていた彼女は、思いがけない声に驚いたのか、びくりと一瞬震えてから振り向いた。
 ――お雛様みたいだ。
 突然、思った。
 振り向いた彼女の瞳の色が、夜を満たす闇にも似た漆黒であった為なのか、全く色をいれていない黒絹の髪の色のせいだったのか。
 巧には、小さい妹が一人いる。
 その小さな妹が、お雛様が欲しいと泣いたことを唐突に思い出した。
『どうして家のじゃダメなんだ?』
『あれじゃないの。あれじゃなくって、これがいいの』
 人形作りを趣味にしていた、品のいい老婦人が作った雛人形だった事を覚えている。どこか優しく、親しみやすい、今にも笑い出すんじゃないかと思えるような表情をしたお雛様だった。
 母が頼んで譲り受けたのか、それとも妹に諦めさせたのか、それは覚えていないのに、雛人形の姿だけははっきりと思い出される。
「収拾、付かなくなっちゃって」
 凛、とした声。
 冷たく凍えるような冬の中で、一人舞う巫女が手にする鈴の音色に似た声だ。
 はっと目をしばたいた後、巧は現実に立ち戻って首を傾いだ。
「引越ししてきたの?」
「うん。私、斎藤爽子っていうの。貴方は?」
 ひょい、と。片足だけのミュールを支えに、爽子と名乗った彼女は立ち上がる。巧は慌てて駆け寄って、バランスの悪い彼女のために手を伸ばした。
 まだ初等部の生徒と思われる子供が見せた、紳士めいた仕草に驚いて軽く目をしばたかせる。「ありがとう」と、差し出された手を取った。
「俺は中島巧。もうちょっと先の部屋に住んでるよ」
「初等部の生徒さんでしょう? 寮住まいなの?」
「うん。従兄弟と一緒に。保護者代わりじゃないよ、俺と同い年だから」
 次の言葉を先回りしての言葉に、爽子は驚いて目をしばたく。それでも「うちの学園ならありなのかも」と思いなおしたらしく、彼女は頷くと再び部屋に視線を戻した。
 部屋は雑然と、山と詰まれた荷物に支配されていた。
 ダンボールは山積みになり、いくつかの家具がばらばらにされて並んでいる。バランスがいいとは言いがたい。
「据え付きの家具の場所が落ち着かなかったの。引越し屋さんは荷物おいただけで帰っちゃったし。値段が安いのを頼んだから仕方ないんだけど、考えていたよりも重労働で」
「その上、動かせるのを動かしてみたら、収集がつかなくなっちゃったってこと?」
「そうなの。どうしようかなぁって考えていたら、靴まで見つからなくなっちゃって」
「それで片足なんだ」
「うん。困っちゃった」
 一つ、そこで溜息をつく。
 靴がなくなったことに困っているのか、部屋の中が収拾付かないことに困っているのか、今ひとつ分からない態度だ。
「姉ちゃんは、知らないヤツが部屋の中に入っても平気なほう?」
「どうだろう。嫌といえば嫌だけど、それは片付け終わった部屋のことだよね。でもどうして?」
「人手がいるんでしょ? 男手だったらツテがあるよ。あ、初等部の友達じゃないから大丈夫」
「そんなの、悪いわ。だって、折角の春休み中でしょう?」
「いいよ。みんなどうせ暇なんだからさ」
 日に焼けた顔に笑顔を浮かべて、巧は同意を求めるように爽子を見上げる。しばし考えてから、「お願いします」と爽子は頭を下げた。
「じゃあ、ちょっと待ってて!」
 扉をすり抜けて駆け出そうとする。
 その手を、ふっと、爽子が掴んだ。
「中島くんっ」
「巧でいいよ。せっかく、同じ階の住人になるんだし」
「じゃあ、巧くん。ありがとう」
「――へ?」
「だって、何人か通りかかったけど、声かけてくれたの巧くんだけだったから。なんだか嬉しくって」
「そ、そんなの、困ってるみたいだったから……お礼なんて、いいよっ!」
「言いたいの。ありがとう」
 ふわりと、首を傾げて爽子は微笑む。
 春を待つ、冬の終わりの冷たさが残る風に髪を揺らせて。
 ――やっぱりお雛様みたいだ。
 思ったところで、今度は何故か顔に血が上った。
『おだいりさまは、おにーちゃんに似てるよ』
 お雛様の対のお内裏様のことを、そういった妹の言葉も思い出す。すると顔にのぼった血の量が倍増した気がして、ぶるぶると勢いよく首を振った。
 勢いよく廊下を走り、巧は自宅とは別に、二つの家のチャイムを勢い良く押す。
 最初に読みかけの本を手にしたまま出てきた紅茶色の髪と瞳をした美少女――ならぬ少年の腕をひっつかんだ。そのまま外に引っ張りながら、家の中に向かって「雄夜にぃ、出番だよっ!」と声を上げる。別のチャイムを押した家からは、癖のあるココアブラウンの髪をした少年が出てきて首を傾げた。わけがわからないという顔で、顔を見合わせる一同をそのままにして、最後に自宅から出てきた子供を呼ぶ。
 爽子は思わず目を丸くした。
「たしかに、初等部のお友達じゃあないみたい」
 高等部の生徒達だろうか?
 本読んでるんだけどと呟く紅茶色の髪の少年はどことなく華奢だが、続けて出てきた背の高い少年のほうはかなり力がありそうだった。眼鏡をかけた方は「腹が減るから動きたくない」と首を振っている。初等部の生徒だと思われる生徒は、巧が言っていた従兄弟なのだろうか。
「まあ、困ってるならほっとけないよな。このあたり、残ってるっていやあ俺らぐらいだし。でもなあ、動くと腹減るしな」
 文句らしきものを口にしながらも、眼鏡の少年は軍手を取りに部屋に一度戻った。口に出る言葉より、行動に優しさが出るタイプらしい。
 ちなみに腹が減ると口にしたとき、全員が僅かに頷いていた。実は彼らは揃って自炊が苦手で、大型休暇に突入して寮の食堂が使えなくなると、途端に財政難に陥ってしまうのだ。一日一食になることも多い。もやしは安いし、とりあえずラーメンに入れれば具にもなるから素晴らしいだとかなんだかとか。
 眼鏡の少年は家具の位置を爽子に相談している。
 双子だと言った二人組みのほうは、開けていい箱と、開けてはいけない箱を聞きながら、既に動き出している。初等部の片割れである巧の従兄弟は、雑巾を片手に走り回っていた。
「これできっと終わるよ」
 聞かれることに答えるので精一杯になっていた爽子の隣に戻ってきて、巧が笑顔になる。爽子はうん、と頷いた。
「でも、どうしてこんなに良くしてくれるの?」
「なんか、途方にくれてるように見えたし。それにさ、新しい寮生を見るとやっぱり嬉しくなるよっ」
「あのね、巧くんお願いがあるの」
「なに?」
「一段落したら、みんなに言ってくれない? とりあえず自己紹介はさせて欲しいなってことと、夕飯食べていきませんかって」
「へ?」
 つり気味の瞳を大きく開いて、巧はぱちくりとする。爽子はマズイことでも言ったかしらと困惑しながら、「嫌?」と尋ねた。
「ううん。嫌じゃない。手料理?」
「そのほうが、楽しいかなって。材料買いに行かないと足りないけどね。でも外食でお礼するより、作ったのがいいかなって。あ、頼みついでで悪いんだけど、買い物もつきあってくれる? 私だけじゃ持てなさそう」
「う、うん。いいよ、俺でよかったら」
「巧くんがいいな。だって、巧くんしか知らないから」
 爽子がそういって微笑むと、巧の頬はまた赤くなった。
 なんなんだろうと不思議がりながら、恥ずかしくなって俯く。


 一目惚れなのかと言われれば、そうかもしれないと巧は答える。
 けれど、本当に爽子が好きだと自覚したのは、もう少し後のこと。
 料理を作ってくれたときの表情だとか、出されたものの美味しさだとか、爽子がみせた案外子供っぽい表情だとか、困っているところだとか。
 そんなものを見ているうちに、自覚したのだ。
 ――春を待つ日のような、少しだけまだ冷たさの残る冬に似た、初恋を。

[完]

人気投票の巧のコメントで、どうして爽子に対する恋心をいだいたきっかけを番外編で読みたいというものがありました。
というわけで、書いて見ました。いや、リクってあるとやっぱり嬉しくて(>_<)
これもやっぱり一目ぼれっていうんでしょうか? 徐々に自覚していく感じかな、と思っています。
本編ではさらっと触れているだけですが、巧は妹がいるので、案外お兄ちゃんっぽいところがあったりするんです。なので、結構誰かが困ってるとほっとけないところがあります。
ちなみに智帆、将斗、久樹、爽子は一人っ子。一人っ子率高すぎだったかも、と今更思ってみるのでした。

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