[最終話 閉鎖領域]

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閉鎖領域 No.02


 携帯電話がいきなり鳴って、斎藤爽子がはじけるように顔を上げた。
 幼馴染みである彼女の目に宿るのは怯えなので、織田久樹はすぐに携帯電話を取って耳に当てる。
 充電させたままで熱くなったせいか、聞こえてきたくぐもった息遣いのせいか、湿った空気を耳に吹きかけられた気がして眉を寄せた。
『……織田久樹、斎藤爽子、お前たちが学園に恐怖をもたらすんだ』
 湿った息遣いが声に変わり、少し聞いて久樹は電話を切った。
 一部始終を見守っていた爽子が息を落として首を振る。
 日常は噂という情報の劣悪なコピーによって汚染され、どこもまでも二人を縛って離さない。学園に毎日普通に通っていたことが夢の出来事に思える。
 携帯電話を膝に戻し「まるで呪いだよな」と久樹は呟いた。
 爽子が軽く首を傾げる。
「噂ってのは本当に呪いになるんだって改めて思ったんだ」
「……呪い、ね」
 爽子は手をきゅっと組み合わせた。
 久樹も同じように手を組み、それからぼんやりと窓の外を眺める。
 ──あのね、少しは用心して欲しいって思うんだよ?
 二人に忠告しては困り顔をした少年たちが側にいない。
「あいつらさ、俺たちは無防備すぎるって良く言ってたよな」
「……うん」
「言われたときは悪かったって思うんだ。責めることにもなって、事件が起きるたびに反省もした。……でもな、結局のとこ納得してなかったんだよな。無防備すぎる、気を付けろって言われるたびに、だったらどんなことが起きると思っているのか教えてくれって心の底で思い続けてた」
「わたしもだよ。教えてくれないのって、わたしたちを信じてくれていないからだよね、どうしてって──思ってた」
 膝に置いた携帯がまた着信を知らせてくる。
 爽子は震え、久樹はすぐ携帯に出る。湿った吐息と、呪詛の言葉。声だけが違う、同じ繰り返しに首を振った。
 非通知拒否で対応できれば良かったのだが、正義を貫いている気持ちから行っていることで気が大きくなるらしく、番号をさらして掛けてくるのが多すぎて、着信拒否が追いつかない。
 これが“冬の日”以降の、爽子の実家で過ごす二人の日常だった。
 ここが白鳳学園から電車で一時間半かかる距離でなければ、家まで押しかけられて居場所の確保も出来なかっただろう。
「俺たちが知りたがった答えがこの状況だ。これを子供の頃から受けて、逃げる場所すらなかったんだよな。守ってくれる家族からも拒絶されて」
 辛い経験を語ることは、当時の辛さを追経験するのと同じだ。
「強いなって思ってたんだ。……強くならないと、生きてもこれなかったってあいつらのこと、分かろうともしてなかった」
 自分自身への憤りに久樹は携帯電話を強く握りしめる。爽子は横目でそれを見やって、立てた己の両膝に額を付けた。
「久樹は巧くんたちに怪我をさせてないよ。わたしなんて、ずっと庇って貰ってきたのに……」
 ゆるゆると続いてきた久樹との関係が動くことで、隣に居られなくなるのが怖くなった爽子は、冬に全ての変化を拒絶してしまった。
 そうして真白の世界を作る雪と氷の邪気を生じてしまったのだ。
 爽子は無意識のままに邪気を支配し、少年たちの異能力を命の限界まで奪い取ることで、変化を排除する真白の世界に学園を取り込んでしまった。
「──酷すぎることをしたのに謝ってもいないの。謝ってなにかが変わるわけじゃないのは分かってる。それでも謝りたい。それに助けてくれてありがとうって伝えたい」
 膝を包む爽子の手が、ぎりぎりと肌に爪を
立て始めたので、久樹は手を伸ばして彼女の頭をぽんぽんとした。
「あれは爽子だけのせいじゃないんだ。関係を動かす勇気を持てなかったのは俺も同じだろ。俺たちは共犯なんだから、それを忘れるなよ。一人で抱え込むなって」
「ありがとう、久樹」
「いいって」
「でもね、それでもね、わたしが一番悪いって事実は忘れてはいけないと思うの」
「爽子が遠いなあ」
「え?」
「自分が一番悪いって抱え込むのはカッコイイかもな、言われたら拒絶された気になるよ。──あれ、そういうことだったのか」
 なにかを理解した様子の久樹にびっくりした爽子は顔を上げて、二人の視線がぶつかる。
「わたしが久樹を拒絶するわけないでしょ? ……あ、もしかして久樹が分かったことって」
「だろ?」
「うん、これって、静夜くんたちがよくやってたことだね。勝手に距離を作ってたのは自分たちの方だって謝ってくれたことがあったんでしょ? でもそれって、慰めじゃなくて本心だった……?」
「年上なのは俺らなのに、揃って経験しないと実感出来ないなあ。飲み込みが悪すぎたよ」
 あー!と吠えて、久樹は首を振った。
「俺らはあいつらと違って、抱え込みながらも全てを解決!なんて芸当は出来ないよ。だからこそ、爽子、俺にも背負わせてくれよ。一緒にあいつらに謝って、ありがとうって伝えるためにもさ」
「うん、ありがとう」
 ようやくちゃんと納得した爽子にほっとして、久樹は改めて連絡のとれない少年たちに思いを馳せた。
 久樹が最後に見たのは、鮮血に染められた惨劇の光景だった。
 血の匂いでむせ返るようだったのが忘れられない。倒れた少年たちはぴくりとも動かず、赤に染まっていない場所もない。
 あれを爽子に見せたくないとつい思ったのだ。
 その願いは氷の迷宮を解除させていく力に作用し、気づけば二人は惨劇の場所から離れてしまっていた。だから爽子は惨劇を見ていない代わりに、少年たちに駆け寄る機会もなくしている。
 久樹の高校時代の友人である松永弘毅や、丹羽教授と学生課員の本田里奈に保護され、自分たちが異変をもたらす加害者であると学園中に認識されて危険だと知らされて。
 あの日から二人は学園に行けなくなった。
 少年たちの携帯に電話を掛けたりメールをしたり、保険医である大江康太に確認もしたが、ずっと連絡不通が続いている。
「わたしね、巧くんが連絡なんていらない!って、言ってるわけじゃないって思ってるの」
「そりゃそうだろ。あの巧が、爽子からの連絡を拒否するわけがない」
 子供の気の迷いだと流され続けても、爽子を好きな気持ちを貫いてきた巧は、苦痛に晒されながらもただ爽子を案じていた。
「だからこそ心配なの。誰とも喋れない状態が続いているのならどうしよう。後遺症が残っていたらどうしよう、そもそも意識が戻っていなかったらどうしようって」
 震える声が湿り気をおびて、けれど慰める言葉は久樹にも見つからず「爽子」と呼んで幼馴染みの肩をただ抱く。
 また久樹の携帯電話が鳴りだした。
 顔を上げた爽子の瞳に脅えがないのは、特徴的なメロディのせいだ。
「これって幸恵のだよね?」
「いまって講義中だろ?」
 慌てながら電話に出ると『久くん?』と焦った声が飛び込んでくる。
 立花幸恵は学園から排除された久樹と爽子を、それでも肯定してくれる数少ない大切な友人だった。
「サチ、どうした?」
『久くん、さっちゃんもそこにいるの?』
「隣に居る。でもどうした? なんか随分と焦ってないか?」
『学園が変なの! 私たちみんな変になっちゃったみたいなの!!』
 幸恵の唐突な訴えをすぐには理解できず、久樹は眉を寄せる。
「落ち着けってサチ! なにが起きたのか教えてくれ」
『……凄い光が走ったの。それから変な風がまとわりついてきて、動けなくなったりもしたわ』
 語られる内容に血の気が下がるのを感じながら、久樹は必死に冷静を保とうと呼吸を一定に保って続きを待つ。
『説明できないことばっかりなの。まるで今まで起きたことが、また始まったみたいで……』
「被害は?」
『パニックが起きて、ぶつかったりで転んだ人はいるみたい。でも大きな被害は出てないかな。私が知っている範囲ではだけど』
「そうか。よかった」
『──ねえ、久くん』
 幸恵の声のトーンが一つ下がった。重いなにかが続くと感じて久樹は眉を寄せ、耳を寄せる爽子も固唾を呑む。
『これが久くんたちが見ている世界なの?』
「……え?」
『巧くんが教えてくれたの。世の中には私たちが置き忘れた感情があって、それが集まって、存在を持つことがあるって。それを巧くんたちは見ることが出来るんだって。ねえ、そうなんでしょう? 久くんも見えるんでしょう?』
「……ああ、見えるよ。俺にも、爽子にも、見えてた」
『だから、いま! この学園で起きていることが、見えているものが、きっとその邪気っていうものが起こしている現象なんだわ!』
 幸恵の声が恐怖に支配されて上擦る。声しか届かない距離のもどかしさに、久樹は携帯電話を握りしめる手に力を込めた。
「落ち着け、サチ。頼むから。菊乃ちゃんは一緒にいるのか?」
『……菊乃! まだ会えてない、炎鳳館に向かっているところなの。電話も繋がらなくなって。久くんに繋がったのが不思議なくらいよ。泣いてるかもしれない。将斗くんもいないのに、私が行かないと。学園の中にいることは間違いないのに!』
「待てよサチ。先生たちに誘導されて、外に出てる可能性もあるだろ?」
『──それは無理なの』
 強い拒絶を宿した幸恵の声が残酷に響く。
「なんでだよ?」
『だって、なくなってしまったんだもの。出口がどこにもないの。閃光が起きる前まで学園に居た人はみんな、ここから出られないの!』
 感情が飽和した叫びに、幸恵の限界が近いとわかる。落ち着かせたいが、出来るのは「大丈夫」と言う事だけだった。
「変なことは起きてても、具体的に危害を加えてくる奴はいないんだって言ったろ。だから大丈夫だ。菊乃ちゃんは元気でサチを待ってるし、ちゃんと出れるから安心してくれ」
 確証など一つもないが、久樹は大丈夫と繰り返す。
 そうしなければ幸恵が泣き出してしまう、心が壊れてしまう、だから安心して欲しくて「大丈夫」を繰り返す。
 久樹は頭脳役を務めていた二人の少年の、余裕に満ちた声が思い出された。
 彼らはいつだって冷静で、いつだって泰然として、問題なんて騒ぎになる前に解決すれば大丈夫だと不敵な態度を崩さなかった。
 繰り返された言葉は、久樹が幸恵に今、掛けているもの。
 それでまた、心からの理解が一つ増えた。
 彼らだって確証の持ち合わせはなかったのだ、ただ平気な顔をして『大丈夫』と告げておかないと、他が動揺するから告げてくれていただけのこと。
 幸恵に大丈夫だと繰り返しながら、久樹は泣きたくなった。
『久くん』
 幸恵の声質が変わった。
 誰かに大丈夫だと言われることで、人は強さをとり戻すことができる。
 いつも、いつだって、少年たちが大丈夫だと言って笑ってくれた、あの日の自分たちがそうだったように。
『──学園で変化したことがもう一つあるの』
「もう一つ?」
『変なことはすべて久くんたちのせいだってことにされて、そのせいで中傷されて、大変な目にあってるよね』
「行けるわけないだろ。俺らのせいって電話、今も鳴りやまないんだ」
『……うん、だからね』
「だから?」
『久くんとさっちゃんが異変を起こすと思っていたのに、異常事態がまた起きたから……』
「ちょっと待て、それって。まさか──」
 あまりのことに、久樹はぽかんとした。一緒に聞いている爽子も同じ表情をしている。
 二人の表情が見えない幸恵だけが、間をおかずに言葉を続けた。
『久くんたちが不可思議な現象を起こしていたんじゃなくて、起きた異変を鎮めてたんじゃないかって言い出してる。助けて欲しいって言いだした人も居るよ』
「──なっ!!」
 あまりに都合のよい話に、久樹と爽子は絶句して顔を見合わせた。
 異変に対処していたのは事実だ。けれど噂という呪詛をぶつけて、虐げてきた自分たちに助けてくれと訴えられる人々の節操のなさが耐えられない。
 久樹の心の中で、怒りがぞろりと鎌首を持ち上げた。
「そんなの、今更、だろ」
 しぼりだすように、それだけを言った。
『うん、今更だし、勝手だよね』
 声しか聞こえないのに、幸恵が悲しそうな顔をしたのが分かる。
『分かるよ。だって私も、なんで今更そんな勝手なことを言うの!って思ったから。怒るのが当然だと思うの。でも──きゃ!!』
 幸恵の声が途切れた。
 かわりに幸恵の周囲であがったどよめきを拾ったので、久樹と爽子は真っ青になる。
「サチ!?」
 名前を呼ぶが返事がない。なにかあったのか、怪我をしたのか、不安が心を塗りつぶして「サチ、サチ!!」とただ繰り返し名前を叫ぶ。
 心に持ち上がっていた怒りなど、どうでもよくなっていた。
『……っ。だ、大丈夫。ごめんね、心配かけちゃった。今、すごく変な風がすぎていったから』
「とにかく、まずは安全を確保して、それから」
『ねえ久くん、さっちゃん。私はずっと二人を信じてるからね。こんなことが起きる前から、本当に……信じ……』
 幸恵はまだ何かを続けていた。
 けれどそれは久樹には届かず、プツ、という音を最後に電話が遮断される。
「サチ、サチ!!」
 何度も繰り返し名を叫び、掛け直したが繋がらない。
「久樹……。幸恵、どうなっちゃうの?」
「行こう」
「行く?」
「白鳳に」
「え?」
 大きな瞳を、爽子がこれ以上ないほどに見開かせた。
 瞳に浮かんでいるのは迷いと恐れだ。けれど久樹はそれに気づかないフリをして、強引に幼馴染の手を取る。
「迷ってる場合じゃない。だってそうだろ、智帆たちはいつだってリスクを承知で俺たちを助けてくれた。サチは俺たちを信じてくれた。あそこには、智帆や巧たちを信じたやつもいるんだ。あいつらと連絡が取れない以上、あいつらが身動きが取れない可能性がある以上、俺たちがやるしかない」
「やるしか、ない……」
「そうだと思う。俺たちは、やるべきことをやらないで来た。責任を押し付けたくないって恰好つけたこともあるのに、実際は押し付けてた。だからあいつらばかり辛い目にあい続けたんだ。もう繰り返すわけにはいかないだろ」
「そうだよね。私たちに何が出来るのかは分からないけど。少なくとも」
「サチたちよりは出来ることがある。それに」
「それに?」
「俺たちが動けば。また、会える気がするんだ。智帆たちに」


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