[第四話 凍土]

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最終話  迷宮への誘い


「違う」
「――違う?」
 ぽかんとしてしまう。
 呼吸の苦しげな静夜を抱えて、智帆は薄く笑った。
「爽子さんは俺らの能力を上げているわけじゃない。瞳の色が変わるのは、”制限”がはずれたことを示しているんだ」
「制限って、その……」
 意味をつかみ損ねて、眉を寄せる。智帆の腕の中で身じろいで、説明を嫌う友人の為に静夜は目を開けた。
「炎を、使うと、疲れない?」
「へ? ああ、うん、疲れるなすごく」
「……身体にね、負担がかかるんだ。際限なく使ったらさ、きっと、死んじゃうよね。だから、いつだって、無意識に制限をかけてるよ」
 その無意識の制限がなかったら、と呟いたところで静夜はせきこむ。慌てて手を伸ばしかけたが、その前に智帆が背をさすった。
「もしも、痛みがなかったら。俺らは今、なにをすると思う?」
「そりゃ、痛いのが分からないなら、そのまま動くよな。こんな状態だし……って、そういうことなのか? 制限が外れるってのは」
 身体の底から震えがわき上がる。智帆と静夜は無言を通し、巧が久樹の肩を叩いた。
「爽子さんさ、どうやったら全てを留めておけるんだろうって言ってた」
「留めて?」
「変化を拒絶して、今が続くことを望んでいたんだよ。なんでそうなったのか分かるだろ?」
「……ああ」
「俺らの全てを縛って、魂を操るつもりなんだ。静夜にぃが、眠っていたときみたいに、全てを支配して……」
 力いっぱい、床を叩く。
「そんなのが爽子さんの本気なわけないよ! 俺らを傷つけたいなんて、思ってるわけないっ! 早く止めないと、爽子さんはどんどん辛くなっていくんだっ!」
 嫌だと叫んで、巧は泣き出した。
「爽子さんを救えるのは俺じゃない。助けるのも、追い詰めるのも、久樹さんだけが出来るんだよっ!」
「……だから、俺が切り札?」
「たった一つの解決方法だよ」
 たれた目を細め、いいか?と智帆は言う。
「爽子さんは制限を外すリミッター解除者であり、施錠者でもある。その上、他人の能力を略奪することも出来るんだ。気ままな支配者ってとこだな」
 それにと呟いて、智帆は珍しく言いよどむ。久樹はまっすぐな目を向けた。
「言ってくれ、智帆。俺は逃げないから」
「強くなったって?」
「いや、痛みを覚悟しただけ」
「……。俺らにもまだ、分かってないことがある。あの邪気を生んだのが爽子さんなのか、あの邪気が爽子さんの能力を奪ったのか、爽子さんが邪気を支配して利用しているのか」
「ちょっと待て。支配って……?」
「言葉通りの意味」
 邪気が、異能力を奪い得るなど、本来“ありえない“ことなのだ。
「偶然生まれていた邪気を支配し利用して、心に抱えた暗い望いを叶えようとしていると?」
 違うと言ってくれ、と強く願う久樹の目を、そらさず全て智帆は受け止める。
「最初の異変は“水の力“によって引き起こされている。奪われたのだから、静夜はすぐに気付いたさ。そして、あらがって、倒れた」
 一つと智帆は指を立てる。
「式神が消えた理由は簡単だな。無意識に松永さんの排除を願って邪気を仕向けたけれど、ためらったんだ。救いに来た式神のリミッターを外し、消失してしまう程の力をつかわせた」
 二つ、とまた指を立てた。
「爽子さんは怪我をしない。久樹さんは危険な目にあわず、炎は封じられたままだ。……可能性が高いのがどれなのか、その判断は任せるよ」
「任せる?」
「当然だろ。当事者は久樹さんで、俺らは解決方法を持たない。爽子さんと対峙するための時間を稼ぐ、たんなる駒さ」
 ソレだけだろと呟いて、智帆は首を振る。その彼の腕の中で、血液を流出させすぎて蒼白になった顔を静夜が上げた。
 光を放つ一点を、すっと指さす。
「あそこに……」
 それを言うだけで、静夜は疲労していく。
「爽子さんは、あの通路の奥から、こちらを見ているよ……。力が流れ込んで来ているのを確認したから」
 細い指で、きゅっと服をつかむ。
「正直、僕にはなんでそこまで不安を抱えてしまったのか、よく分からない。……ただ、一つだけ」
 切ないように、静夜は雄夜を見やる。血に濡れ、将斗をかばい、必死に邪気をとどめている、彼の双子の片割れ。
「まだ、二人の距離を埋められるなら。待つんじゃなくて、行動した方がいいと思う」
 凄絶な血塗れの状態で、静夜は立ち上がろうともがいた。彼を腕に抱えた智帆も、動こうとする巧も、止めずに手を貸している。
 背後での動きを正確に把握し、雄夜はつと顔をあげた。
「これで、全員だ」
 何度も血を吐きだした唇を歪め、笑みを浮かべる。割れた眼鏡の破片にまぶたを切った将斗は、大きく振り向いて笑ってみせた。
 力を奪われ、傷ついていくしかないというのに、少年たちの表情に暗さはない。
 邪気が不愉快そうに唇を歪めた。
 異能力を残す巧が、大地の力を再び呼び寄せる。将斗は残り少ない光をかき集め、雷を招来した。
 土煙があがり、閃光が走る。
 ――まるで、命そのもの。
 この光景を見つめている人々は、傷付けられていく少年たちを“被害者“であると認識し、傷付かぬ久樹と爽子を“加害者“と認識するだろう。
 少年たちの無事を願う、顔見知りの声が耳に響いてくる気がした。全てを見届け、目の前で傷付く者達を信じると决めた、強い心の持ち主たちだ。
 ふっと、笑う。
 異能力を持ちながらも、久樹と爽子はそれと向きあって生きてこなかった。
 松永弘毅や、立花幸恵が、今なにを思っているのだろうか? 信じて貰える自信などはない。
 拒絶され、異端だと排除される可能性を、初めて実感した。
 ――それでも。
「爽子」
 人に、世界に、たとえ存在を拒否されようとも。
「俺は、取り戻したい」
 一人で泣いているだろう爽子を救って、形にしていなかった想いに決着をつけて。
 上げた顔を、暴風がなでていく。
 久樹には危害を与えぬソレが、かまいたちとなり、水は氷刀となって少年たちを傷付けて行く。
 振り向かずに、走り出した。
 雄夜の異能力の全てがついに奪われ、敵となった式神が容赦のない攻撃を加えている。ほとばしった悲鳴と、叫びと、呻きも無視して、久樹は静夜が指し示した通路をただ進んだ。
「爽子っ!!」
 たった一人。
 何を失っても、それだけは失いたくないと願う、大切な人の名を叫ぶ。
 それほど長くもない通路を抜けると、ぶわりと熱波に襲われた。反射的に腕を上げ、目を守る。
 じわりと生理的な涙が瞳を潤し、ぱちぱちとまばたきをしながら、彼は薄暗い空間を凝視した。
 ぽつんと、ぶらんこが揺れている。
 キィキィと音をたてて、爽子がソレに乗っていた。髪はまっすぐにおり、口元だけしか伺えない。
 ――邪気と同じように。
 そうか、と久樹は思った。
 昔、お気に入りだった神社がある。
 おままごとの延長で、広大な社の掃除をしていた二人を、神主夫婦は可愛がっていた。着物をきせてくれ、手造りのぶらんこをくれ、赤いでんでん太鼓をくれた。
『はぐれたら、このおとが、あいずね!』
 そう言って、笑っていた幼い頃の爽子は、あまりに邪気と良く似ている!
 ――本当は、きっと分かっていた。
「爽子。迎えに来た」
 ――彼女が、ここにある危険の全てを引き起こしていること。
 努めて柔らかく告げながら、手を伸ばす。肩に触れたと思った瞬間、凄まじい力で手を払われて息を呑んだ。
「爽子っ!!」
「嫌!! 聞きたくないっ!」
 黒翼のように髪が揺れて広がる。ぶらんこから飛びすさった爽子は、そのまま久樹を見ようともしなかった。
「どうして久樹はわたしに構うの」
「爽子、それはっ!」
「聞かない、嫌よ、そんな答えは嫌よ!!」
 久樹の答えを、爽子は勝手に决めている。
 それにカッとなって、久樹は大股で二人の距離をつめた。
「俺の気持ちを、勝手に決めるなよっ。爽子、まだ决まっていない未来を拒絶するなよ!!」
 叫ぶと同時に、久樹は有無をいわさずに爽子を腕に抱きしめた。
 ハッと見開かれた爽子の瞳は、涙で濡れていた。
 白磁の頬を、ただただとめどなく、滴がこぼれ落ちていく。
「なんで勝手に泣いてるんだよ、爽子」
 ぎゅっと強く抱きしめても、震えの止まらない爽子が悲しい。
「聞いてくれ。俺は」
「イヤ」
 唐突に久樹の背に、爪が突きたった。それが爽子の力とは思えぬ激しさで、肌を破り肉に食い込む。
「――ぐっ!!」
「離して」
「誰が、離すかっ!」
「離してよぉっ!!」
 腕の中で叫んだ、爽子の瞳に焔が宿った。
 ごうと燃えさかる、真紅の色。炎を操り、炎を統べる者の瞳に宿る、赤い証明。
 ――能力の支配者。
 他者が持つ能力を奪い、リミッターを自在に操り、久樹の異能力である”炎”の守役。
「爽子。炎を、奪うな」
 背に立てられる爪の痛みと、能力を奪い取られていく表現しにくい苦しみに、息を上げながらも訴える。
 彼女を抱いた腕は、いかに暴れられても、苦しくとも、解かなかった。
 耳に響くのは、命を削られていく少年たちの悲鳴。よみがえるのは、こんなことを爽子さんが望んでいるわけがないと泣いた、巧の絶叫。
「爽子、俺らを切り捨てるなよ。お前が切り捨ててどうするんだ!」
「わたしに話しかけないで! わたしはこのままでいる方がいいのよ。ずっと久樹の能力に干渉をしてきて。静夜くんの力を奪っていたのだって、わたしなんでしょう!? ううん、違うっ。静夜くんのだけじゃない!」
 恐慌に爽子の顔が歪む。
「わたしが、わたしがっ!」
 少年たちが傷付き倒れる悲鳴が、誰のために起きているのか。
「わたしがやった……」
 呆然としていながらも、彼女の瞳は真紅の色のまま、久樹の”炎”を奪い続けている。
「それが、一体何なんだよっ!」
 怒りが胸を突いて、久樹は叫んだ。
「俺がそれについて爽子を責めたのか!? 爽子が力を奪ったって嘆く静夜は、お前を連れて帰ってこいって言ったぞ。巧はな、爽子が辛い思いをしているって泣いたんだっ!」
 抱きしめた身体を、ぐるりと反転させる。
「お前を助けるために、今もあそこで戦っているんだっ!」
 死闘からそれほど距離はない。
 そのまま強く背を押せば、二人は自然と歩く形になる。音は近づき、悲鳴はリアルに耳に響いて、最後に赤い光景が映った。
「……イ……嫌ぁ!」
 ニィと笑う童女の白かった着物は、今、鮮やかな真紅だった。
 唇の色さえ白くさせて、静夜が全身から血を流して倒れている。傍らに膝を付く智帆がいるが、彼の服と皮膚は無残にも細かく切り刻まれ、もう動けないようだった。
 それでも、二人の目はあいていた。
 低くかすれきった声で、二人は時に声を飛ばす。
「力の動きをよんでいる?」
 己々の力はもう感じることさえ出来ずとも、他者の力は受け取れる。智帆は水を、静夜は風を、それぞれに警戒し、まだ立っていられる三人に警告を発していた。
「あんな……あんなにボロボロになって? 嫌よ、こんなのっ!」
 もうやめてと泣き出した爽子を、ふうっと見付めて邪気が笑った。
 ふっくらとしていた輪郭が、今はどこか細い。顔のほとんどを隠していたはずの前髪は、何故か目元を隠す程度の長さになっていた。
 ――ズ、と。
 邪気が歩むたびに、姿が歪む。
 すらりと四肢が伸びる。
 肩で揃っていた髪が腰をおおい、平らだった胸は丸みをおび、そして邪気は髪をうち振った。
 ――爽子に似ていたはずの邪気が、今は全く別の姿をかたどる。
「支配が、はずれ、た」
 呆然と呟いたのは、智帆だったのか、静夜だったのか。
 あでやかな姿で、白い手を伸ばす。
 爽子の異能力が与えられなくとも、すでに少年たちの力を手に入れた氷の邪気は、おそろしいまでの力を得ていた。
『にくい』
 ずいっと出ようとする邪気の前に、雄夜が飛び出す。背後に庇うのは、久樹と爽子だった。
「早くしろっ」
 短く叫ぶのと、邪気が氷刃を放つのと、久樹が爽子を更に抱き込むのと同時に。
 ――絶叫をあげた爽子の瞳から虹彩がきえ、ただひたすらに暗い闇色が広がった。
 一瞬の静寂。
 なんだ?と久樹が思った直後、邪気が硬直し、少年たちが頭を抱えて悲鳴を上げた。
「な、んだ!?」
 邪気が手にする赤いでんでん太鼓が、空中に舞い上がる。くるくると回るたびに、奪われた異能力が、主の元へと舞い戻る。
「爽子……?」
 少年たちは、激しく苦悶している。
 異能力が戻るならば、楽になっても良さそうだというのに!
「爽子っ!!」
「――嫌っーー!!」
 悲鳴と同時に、少年達の瞳の色が一気に変化した。
 雄夜の金。静夜の青。智帆の翠。巧の橙。将斗の茜。
 能力と命の安全限界を越えた、証の魂のきらめき。
 爽子を抱きしめる久樹を中心に、光が円を描き、柱となって氷の天井を突き上げる。
 柱で隔てられて、轟音が響く。
 激しい異能力を彼ら自身に使わせて、邪気に襲いかかったのだ。
 心臓をおさえこんで、将斗が苦悶に涙をこぼす。雄夜は頭をおさえて床をころがった。見開かれた静夜の瞳は青く輝くが、身体は痙攣している。智帆は口をおさえ、こぼれかける悲鳴を押し殺していた。
 ――まるで、地獄絵図だ。
 少年たちは少年たちの異能力によって、滅びようとしている。とてつもない攻撃を受けて、邪気はとどろくような声を上げた。
「爽子! やめろ、やめるんだっ!」
 強く爽子を揺さぶる。されるままの幼馴染みの目の虚ろさに、唇を噛んだ。
「俺はやられてないっ! あの邪気に、攻撃されてないんだ! 俺を守ろうとするな」
 叫ぶ声をふと止めた。
 かすかな声に、ぎこちなく下を見て、久樹は痛々しさに息を呑む。
 ――全てを遮断する光の柱に、血の流れを与えて、子供が座っていた。目がかすんでいるのか、検討はずれの方向に、真紅に染められた手を伸ばしている。
「泣かないで、爽子さん」
 息もたえだえに、巧が訴える。
「……みんな、ちゃんと……大、丈夫、だ……から」
 瞳は橙色に燃え輝いて、彼の生気は加速度的に燃え尽きていく。伸ばされた手がけいれんし、ぱたりと華奢な腕が床におちた。
 ――何かが。
 ソレを見届けて、何かが久樹の中で動いた。心が、意思が、揺さぶられて震えている。
 炎を囲う檻が流される。怒りであり、嘆きでもある、激情の弄流によって!
「爽子っ!」
 ひときわ大きな叫びに合わせ、炎が走った。
 全てを舐め、全てを破壊し、全てを再生へと導びく炎の輪が巡り来る。
 光の柱が消えた。
 少年たちの瞳に静けさが戻る。
 爽子によって行われた支配が、炎によって破壊され、解放されていくのだ。
『いや……』
 ぽつんと残された、白い着物の女は、炎に包囲されて小さく震えていた。
 爽子によって支配され、力を得たと同時に奪われ、炎に晒される姿が、なぜか久樹には哀れに見えた。
 足を向け、まるで幼子にするように、邪気の頭に手をおく。触れた場所からきらきらと輝いて、邪気はスウッと消えていった。
「……久樹?」
 ――炎は、破壊者だ。
 支配者の檻を打ち砕き、守りを拒絶する激しい異能力を持つ者。
「爽子」
 ずい、と。久樹が爽子との距離をつめた。あわせて下がろうとした腕をつかむ。
「逃げるな、俺たちの罪から」
「私、たちの……?」
「ずっと逃げてたんだ。ずっと……前を向けばいいだけだったのに、向き合いもしないで」
 ぎりっと握りしめた拳を開き、こうこうと赤くきらめき燃えあがる美しい炎に目を伏せる。
 ――彼の炎。
 美しくも気高い破壊者。
 後退しようとする爽子の動きを封じ、ぎゅっと抱きしめ束縛する。
「なあ」
 低い声。
「爽子、お前は俺のなんなんだ?」
 耳元でかすれる囁きに、爽子は虚を突かれた表情になる。
「俺は、ガキだったさ。炎を封じてやらなくちゃって爽子が思うほど、弱い子供だったよ」
 原因不明の症状を起こし、何度も倒れていた。側にいた爽子が不安を覚え、無意識に感じ取った炎を封じようと思うのも無理はない。――無力な子供時代であれば。
「なあ、俺は爽子にとって、子供なのか?」
「違う。子供だなんて思ってない!」
「だったらっ!」
 がしっと、久樹は爽子の肩をつかんだ。目を合わせ、じっと見付める。
「なんで俺を一方的に守ろうとする!? お前は俺の母親か? それとも姉貴なのかよっ!?」
「違うわっ! そんなんじゃない!」
「庇護しておきたい相手か? 大事に腕に抱えていたいだけの!」
「な……なんで、そんなことを言うのっ!?」
 漆黒の瞳に涙を浮かべ、空中に滴を舞わせて叫ぶ。ひどく冷静に、久樹は目を細めた。
「爽子が、俺の好きな人だから」
「――え?」
「なあ、好きな相手、弟だって思われて、喜べると思うか?」
「……そんなのっ!」
 激しく頭を振る爽子の頬を、久樹は包み込んだ。
「俺は、爽子が好きだ」
「私だって……」
「家族でも、たんなる幼馴染みとしてでもないぞ。たった一人の大切な人として、好きなんだ」
 凛とした眼差しに見つめられて、爽子は目覚めたばかりの子供のような顔になる。
 ――こうやって、時は過ぎる。
 春に、夏に、秋に。共に生きてきた時間を重ねて、“未来“を作っていく。
「それでもお前は、俺を一方的に守り続けたいのか?」
「ひさ、きっ!」
「俺にも守らせろよ。好きな者同士ってのはさ、支え合うもんだろ? 逃げるんじゃなくて、一諸に頑張るんだろ?」
 優しく笑って、久樹はそっと爽子の頬を流れ落ちる涙をぬぐう。そのまま額を額にくっつけて、二人、ただ互いを感じていた。
「久樹」
 夢見るように、爽子が囁く。
「――ん?」
「ありがとう」
 白い手を持ち上げて、久樹の背に手を回す。ぎゅうっと抱きしめて、穏やかに微笑んだ。
「解放する、すべてを。私の迷いが生んだ、この迷宮も」
「ああ」
 優しく肯く久樹は、内心焦っていた。
 爽子は気付いていないが、二人は血臭に取り巻かれ、じっとりとした血液に囲まれようとしている。
 守るように、久樹はまだ全てを理解していない爽子を抱きしめる。うっとりと身体をあずけながら、彼女はふわりと光を生みだした。
 支配を解く光が、雨となって降り注ぐ。氷の迷宮が音もなく崩れ、いつしか空にて輝いた月光がゆるりと差し込んでくる。
 冷たい冬の風が、頬を撫でた。
 光の雨が、最後に二人を押し包む。
 ――なんだ?
 ぐにゃりと視界が歪んだ。
 上下が分からなくなり、全ての色が混じりあう。見えていたはずの月が消え、あっと息を呑んだ。
 肌が感じる、温度が変わった。
「え?」 
 きょとんとした声が、久樹の腕の中から上がる。ぱちぱちとまばたきをして、爽子はくるりと周囲を見渡した。
「ここ……白梅館の保健室?」
 氷の迷宮は、白鳳学園のあらゆる場所を繋いで作られていた。二人が対峙したのが、保健室であっても奇妙ではない。
「どうしたの、久樹? 巧くんたちを探しに行こうよ」
「あ、ああ」
 ――変だ。
 先ほど肌が感じた冷たさと、瞳でとらえた月光は、”外”のものであったはず。
 移動したのだろうかと考えて、久樹は背筋を氷が滑ったような感覚に震えた。
 あの惨劇の場所を、出来るなら爽子に見せたくないと思ったのは、久樹だ。
「久樹?」
 ――爽子は、人の望みを見破るのかもしれない。
「俺なのか? 逃げたかったのは?」
 呆然と目を見張り、爽子の手を慌ててつかむ。びっくりしている彼女に説明もせず、そのまま走り出した。
 長い廊下を抜け、階段を降り、そのまま外へ向かう。途中で足を取られかけた爽子を、抱えるようにして。
「久樹」
 ぽんっと、声が耳を打った。
 エントランスの壁に背を預け、松永弘毅が立っていた。軽く手を上げ「よお」と笑う。
 まるで、二次会の会場前で再会したときのように。
「弘毅?」
「行かないほうがいい」
 ことさらに軽い口調で述べて、弘毅は二人の前まで進む。
「斎藤さん、ごめんな。俺のせいで、色々とひっかき回しちまったみたいで。俺、高校ン時から興味あったんだ。久樹がやたらと懐かしそうに、楽しそうに語るからさ。白鳳のこと、斎藤さんのこと」
 見てみたかったんだ、と弘毅は言う。
「久樹って、しっかりしてんだけど、ナンカ心配になるトコあるよな? おせっかいしたくなんの。違う?」
「弘毅、いきなりなんだよ」
「久樹は黙ってる。俺は、斎藤さんに聞いてんだ」
「……そういうところ、あるかもね」
「うんうん。だろ? だから気になってさ。でもまあ、俺が口を挟むことじゃなかったな」
 ごめん、と弘毅は頭を下げる。
「俺がなにか出来ることでもなかった。あんなにも奇妙なこと、どうにか出来るワケがない」
 ギッと拳を握る。
 弘毅はうつむき、それから暗い目を上げた。
「俺は、久樹がいい奴だって知ってる。久樹の大事な斎藤さんだって優しいんだろうな。でも……全員がそれを知っているワケじゃない」
 弘毅の脳裏に光景が蘇る。
 残酷で、凄惨な、惨劇の光景。
 血の匂いが、ああまで濃いことを、初めて知った。
 立ち尽くした弘毅の横を、人影が走り抜ける。赤黒く汚れることなど気にせずに、それらは赤い塊を抱き寄せて叫んだ。
「目を開けてよ、雄夜くん!!」
 秋山梓はぼろぼろと泣く。
「静夜くん……静夜くん! 嫌だ、イヤッ!」
 死なないでと繰り返して、北条桜は白い手で血濡れた静夜の頭を胸に抱く。
「死なねえよな、こんなんで。ちゃんと脈、打っとけよ!」
 智帆がおった一番深い傷を押さえて、宇都宮亮は鋭い眼差しを背後に向ける。
 携帯電話で妻である医師の指示を仰ぐ大江康太と、生徒の混乱の状況を調べようと丹羽教授と本田里奈も電話をしていた。
 少し離れた位置では、立花菊乃が狂ったように泣き叫んでいる。傍らで姉の幸恵は妹の背に手をおき、倒れている子供たちを見守っていた。
 ――全てが異常だった。
 地面に流れる赤黒い血の染みが、まるで人々の心にかかる、暗雲のようで。
「今は行くな。行ったらパニックになる。あの光景を見ていたら……まるで、まるでさ」
 歯を食いしばった友人が、なにを告げられないでいるのかが、久樹には分かる。
 ――久樹と爽子に、怪我はなく。
「……俺たちが、やったみたいに見えたんだろ?」
 ――少年たちは、力なく翻弄されて。
「弘毅やサチは、俺らを信じようとしてくれているだろうけど」
 ――全てが始まる。
 ――異端である者の排除を。
 久樹は爽子を腕に抱いて、天を仰ぐ。
「始まるんだな……」
 ――世界からの拒絶が。

[完]


後日談


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