[第四話 凍土]

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No.05  心の羅針盤


 ソレは、無邪気な笑顔ではなかった。
 もっと深い、闇の中でのみ笑う存在が持つ禍々しさがそこにはある。
 本能が危険を覚えて、身体の震えが増す。階段から足を下ろし、退路を探った弘毅の足を、ついっと掴む何かがあった。
 ――な、ん、だ?
 目の前にいたはずの女童がいない。
 まさかと驚愕する前に、つかまれた足に凄まじい冷気が走った。冷たいよりも痛い。うめき声のような絶叫を上げながら、弘毅は階段にすがるような形で倒れこんだ。
『つかまえた』
 弘毅の影から、伸びた手が彼の足を掴んでいる。
 ずる、ずる、と影から手が這い出てくる。手から肩。肩から頭の丸い形。ぶわりと広がる黒い髪から、白い鼻筋が見え、唇がにぃと笑う。最後に女童の上半身が、影からぽっかりと浮かび上がった。
「……な、ん……な、んだ、よっ!」
『つかまえただけ』
 冷気を放つ手が、彼の首筋を捕らえようと更に伸びあがってくる。我に返った弘毅はめちゃくちゃに暴れ、バランスを崩して階段を転がり落ちた。
 上がどこで、下がどこで、どこをぶつけて、痛いのはどこなのかも分からないまま、弘毅は思う。
 ――終りのない階段を転がり落ちていけば、自分は死ぬのだろうか?
 ――終りがないのだから、死ぬこともなく永遠に落ち続けるのだろうか?
 二つのことを考えた直後、呼吸を阻害するほどの衝撃が背に走った。
 
 
 弘毅が高等部へと足を向ける前から、桜と亮の正副コンビは放課後の教室で顔をつき合わせていた。保健室に行ったまま戻らない智帆と雄夜が気がかりで、なんとなく待っていたのだ。
「鞄を取りに戻らない気かな」
 机にかかったままの鞄を見やって、亮はけだるげに机に頬杖を付く。同じように椅子に座ったまま、窓から外を眺めていた桜は生返事をした。
 普段はきっちりと編まれている髪が、波打つように背を流れている。好んで開け放っている窓から北風が入り込み、ふわりふわりと揺らせていた。
「なあ、北条。最近、放課後になると三つ編ほどくんだな」
「気になる?」
「そりゃ勿論。昔は誰がせがもうとさ、三つ編をとこうとしなかったろ? 演劇してるときは別として。――どういう心境の変化なんだ?」
「宇都宮、原因なんて聞かなくっても、分かってるでしょ?」
 窓から視線をはがして、桜は眼鏡の下の目を細めて亮を見やる。我が相棒殿は手きびしいと苦笑し、亮は両手を頭の上で組んだ。
「分かってるんだけどさ、なんか直接答えてほしいって思うことがあるんだよ」
 口では桜のことを言っているようで、実のところ秋に起きた事件のことを亮は考えていた。
 二年A組であって、二年A組ではない場所に迷い込んでいた。とんでもない目にあって、死ぬかもなんて思ったりもしながら、なんとか乗り越えた、あの出来事。
「智帆も雄夜も静夜も。なにを抱えてるんだろうな」
「大変なこと」
「そ。で、その”大変なこと”がなんなのか、俺らにはわからない」
 わざとらしく溜息をついて、亮はくるりと天井を睨む。
「織田さんっていただろ。ほら、大学生の」
「静夜くんたちの友達ね。そういえば、雪かきの時に見慣れない顔がいたね」
「松永弘毅。織田さんの高校時代の友達だってさ。楽しい人で、気はあったんだけどさ。竜巻に襲われたときにさ、夏の事件を知ってる人がいたんだよ。その人と話をしていたら、いきなり真剣な顔で聞いてきた。『幽霊騒ぎってなんだ?』ってね。……あれから、なんか随分と聞きまわってるらしい」
「それ、嫌だね」
 桜は苛々したように唇を噛んだ。北風にさらされたせいで赤くなった頬が、まるで怒りで紅潮したかのように輝いて見える。
「噂が変なことになってきてるのって、そのせいでもあるのかも。今になって、秋のことを教えてって言ってくるのもいるし。ああ、嫌」
 ふるっと首を振る。背を流れていた髪が頬に張り付き、桜は拗ねた顔をしてみせてから、おもむろにゴムを取り出して髪を三つ編にし始めた。
「なにも教えてもらえなくって、なんか寂しい俺のために、三つ編をおろすようになった理由を教えてくれよ」
「甘えてない、宇都宮?」
「甘えてる。いいじゃん、相棒だろ」
「聞いて後悔しても知らないから。決まってるよ、静夜くんが」
 気軽に理由を口にしようとして、ふと桜は言いよどんだ。
 偶然、休日に出くわした日のことを思い返す。
「やめろ、そんな卑怯なこと」
 桜が電車の中で、その凄みのある声を聞いたとき、それを静夜のものだと納得出来なかった。
 慌てて振り返って、おとなしそうな少女の前にまっすぐに立ち、三人の男を睨んでいる静夜を見付ける。
「痴漢なんて、最低だろ?」
 秀麗な少女のような顔に、他者を圧倒する鋭さを浮かべている。圧倒されておもわず下がってしまった三人は、バツが悪そうに顔を見合わせ、そのまま車両を移っていった。
 少女は礼を言って電車を降りていく。それを見届けて、声をかけた。
「優しいね、静夜くんは」
「え? あ、桜」
 驚いた静夜が見せた、はにかんだ笑顔が好きだった。そのまま別れがたく、行先を尋ねてみる。
「区立美術館に行こうかなって」
「一諸だよ! ……一人?」
「うん。ああいうの、興味ない奴を連れていくと悪いし、こっちもゆっくりできないし。桜は?」
「私も一人。理由も一諸」
 くすくすと笑い出した桜に、静夜は目を細めて笑い返す。
「一諸にいく?」
「いいの?」
「うん。そういえば、桜ってさ。自分の髪が嫌いなわけ?」
 休みの日にまで三つ編をしていると思っていなかったのか、静夜に不意に問われて桜は答えに困った。
「……んと」
「ん?」
「癖があるのが嫌なの。ストレートパーマかけてみたいなって思うこともあるんだけど、高いでしょ」
 少し桜は口を尖らせる。静夜はいたずらっ子のような表情になった。
「桜は嫌みたいだけど、僕は好きだな。きっと漣みたいだよ」
「――え?」
「誰かが嫌いなものは、他の誰かの好きなものになるのかな」
 猫のように笑った静夜の顔は、桜の瞳に焼きついていた。
 それをまざまざと思い出して、桜は顔をあげる。亮の目の前で、気丈な委員長はひどく照れたように唇を尖らせた。
「やっぱり内緒。もったいなくて、宇都宮には教えられない」
「ひでぇ。あーあ、いいよなぁ、なんか幸せそうで」
「からかわないでよ。第一、まだちゃんとそうだってわけじゃないし。……あ、智帆くん戻ってきた!」
 窓枠に手を掛けて立ち上がると、桜は名前を呼んで大きく手を振る。
 保健室で全員に解散を命じた智帆は、雄夜は直接帰ったことにしたほうが良いだろうと一人で戻ってきたのだ。
 ほどなくして教室にたどり着いた智帆に、桜と亮は「様子は?」と尋ねる。
「雄夜は寝てれば治る程度だから心配ない。面倒だっていうから、俺がまとめて荷物を取りに来たんだ」
「ねえ、静夜くんは?」
 何よりもそれが聞きたかったのだろう桜の前で、智帆は首を振る。
「まだ起きてない」
「……ね、お見舞い行っても良いかな」
「いいんじゃないか? 北条と亮で行きにくいんなら、俺も一緒に」
 誰かが転げ落ちた音が、外から響いて来た。智帆は口をつぐみ、亮もきょとんと目を見張る。
「今のって、階段からか? ちょっと待ってろよ、俺見てくる」
 扉に一番近かった亮が、運動部で鍛えた持ち前のバネを生かして飛び出した。
「少々嫌な予感がするな」
 智帆が吐き捨てた言葉に、桜は緊張する。
 ――流れる噂は嫌な変化を遂げつつある。
「智帆くん、なにかあったら、遠慮なく私たちを使ってよ」
「突然なんだ、北条?」
「変な噂が流れてる」
「知ってる。で、北条はどうしたい? 今まで起きた奇妙な事件、噂になっている奴等が起こしたらしいじゃないか」
 皮肉げに肩をすくめる智帆に、桜は「そうだね」と考え込むポーズを取る。
「一言で表すなら、ムカツク、かな」
「それはまたどうして」
「そんな噂に、智帆くんたちが巻き込まれて困るのが嫌だからよ」
 分かる?と覗き込まれて、智帆は少々返答に困る。
「恐いよ、私」
 きっぱりと桜は言い切る。
「あの変な現象はね。でもね、私は智帆くんたちを恐いとは思わない」
「……北条が恐いと感じることに、俺らが関わっていてもか?」
「恐れて警戒すべきはあの現象だけ。智帆くんたちはね、私のクラスメイトで、私の大切な友達だよ」
「静夜も友達か?」
「こんな時にからかわないでよ」
「いや、単なる情報収集」 
「黙秘します」
 瞳を悪戯っぽく輝かせて、桜は笑う。迷いのない彼女の強い瞳に、智帆は少し笑っていた。何か気の利いた台詞の一つでもと口を開けかけたところで「智帆、北条っ!」と叫ぶ声が響く。
「なんだよ、これっ。倒れてんの、松永さんだっ!」
 切羽詰まった亮の叫び。
 よどみのない動きで智帆は飛び出し「なんでそんな奴がここにいるんだよ」と吐き捨てる。僅かに遅れて桜も教室を後にした。
 弘毅は呻きながら踊り場を転がっている。助け起こそうとしている亮の背後に、影が集まり始めていた。
 階段を飛び降りて、智帆は風を呼び寄せて壁を作った。水の結界ほどの力はないが、邪気を阻む力を風壁は持っている。遅れてきた桜が、「あっ!」と目を見開いた。
 風に阻まれて吹き飛んだ影が、濃さを増し、ざわざわと音を立てて密度を濃くしていく。
 ふ、と。影は、白い着物の童女の姿を唐突にかたどった。
 手にするのは、赤いでんでん太鼓。
『邪魔』
 聞く者の背筋を凍らせる、冷酷な声。
 倒れている弘毅を介抱する亮を、見守っている桜を、そして立ちふさがる智帆を童女はゆっくりと眺めていく。軽く首を傾げ、童女はすっとでんでん太鼓を持つ手を頭上に掲げた。
『嫌い』 
 赤い唇が、呪文のようにソレを呟く。白い着物の童女は再び黒い影となり、階段に落ちている陰影と同化して消えた。
「なにをするつもりだ?」
 邪気の気配は消えていない。
 鳥肌が全身を這い上がる感覚に、智帆は一瞬よろめいた。その腕を亮が強く取り、軽く揺さぶる。
「部活やってる奴らの声が聞こえない。変だろ、さっきまで聞こえてたんだ」
 身をひるがえして智帆は駆け出した。亮は弘毅の頬をぺちりと叩いて、保健室が一階にあるから行っとけと言い捨てる。桜を促し、正副コンビも走り出した。
 智帆の異能力によって、身体を縛る冷気から解放された弘毅は、情けなさそうな声を上げる。
「お、俺を置いて行くなよっ! 恐いだろうがーーっ」
 よろよろと立ち上がると、彼も三人を追いかけた。
 昇降口から校庭に飛び出した智帆は、あまりの光景に立ちすくむ。
 ――握り拳ほどもある雹にさらされて、揺れる木がある。
 ――池の一部が凍り付いて、動かなくなった鯉がいた。
 ――氷のつぶてに追われ、体育館の軒先に逃げ込んで震える生徒達。
「なんなんだよ、これは……」
『遊ぼ』
 耳元で唐突に囁かれた声に、智帆がぎょっと固まる。勢いをつけて振り向くと、でんでん太鼓の赤い残像が視界を走った。
 姿を現しては消える童女の手が、からからからとでんでん太鼓の音を響かせて、大気に反響させていく。
 雹が降り、氷が張り、悲鳴が上がる。
「なんなんだよ」
 イライラと吐き捨てた智帆の携帯が鳴った。ディスプレイに、巧の名前が浮かぶ。
「巧、なにかあったのか?」
『大変だよ、初等部で吹雪が起きてるっ! 今、将斗の携帯に久樹にぃから電話が入って、大学部では水が至る所で吹き出して、凍り付いてるって! 落ちあおうって言ったんだけど途中で切れて、連絡取れなくなったんだ』
「風鳳館でも異変が起きてる。おかしいだろ。邪気は人のマイナスの感情から生まれてくる。人に影響を与え、不思議な力を持つ。だがな、こうも広範囲にわたって自然を操る力を持つなどあり得ない」
『でもさ、実際、目の前で……うわぁ!!』
「巧!?」
『だ、だだ、大丈夫。吹雪で目の前が見えなくなった。とにかく、俺は将斗と菊乃ちゃんと一緒に初等部を出るよっ』
「分かった」
 通話を切って、智帆は風鳳館の惨状を見渡して唇を噛んだ。
「まるで、水の力が暴走したような有様だな」
 呟いた自分自身の言葉に、ハッと目を見開いた。
「待て、水だと?」
 眠り続ける、友人のことが浮かんだ。
 血の気が引いて蒼白になったのではなく、生気を失っていくように見えた静夜の顔。
 立っていられずに智帆はうずくまり、両手で頭を抱え込んだ。目まぐるしく回転を始めた頭脳が、静夜の倒れる直前の様子や、式神を呼び寄せた際に押し寄せた力の奔流、そして「力が奪われる」と呟いて倒れた、夏の事件を考える。
 がたがたと震える身体を、おさえることが出来なかった。
「智帆っ! うわぁ、危ないって!」
 昇降口に逃げ込んできた生徒の波に巻き込まれて、なかなか外に出てこれないでいた亮が悲鳴を上げた。
 ハッと身を翻し、先程まで智帆が居た場所を打ち抜いた雹を睨む。
「上等だ」
 唇の端をつり上げ、奥歯を噛みしめた。走りだそうと力をためた瞬間、「待てっ!」と呼び止めてくる友人の声に、智帆は振り向く。
 心配そうな二人を前に、智帆は皮肉っぽく笑った。
「俺らが呼んでるわけじゃない。それでも、俺らがある場所でこういう事は起きている。――これでも恐くないのか?」
 静かな、智帆の問い。
 亮と桜は顔を見合わせ、それからゆっくりと智帆の方に顔を向けた。亮は活発的な笑顔を浮かべ、桜はりりしい眼差しを細めて微笑んでいる。
「恐いよ」
 同時に二人は言う。
 それから、屋根のある場所から一気に飛び出した。
「でも、智帆は恐くない」
「友達でしょう!」
 二人が両脇に辿り着いたのを見計らって、智帆も駆け出した。
「物好きだよ、お前らっ!」
 今の智帆は笑い出したかった。この状況を、早いところ静夜と雄夜にも知らせてやりたいと思う。
 ――拒絶されるだけではないのだと。
「二年A組らしいでしょっ。智帆くんはね、今は一人で行動しない方がいいの。智帆くんだけだったら、やっぱり不思議な現象に関与してるって思う馬鹿が出てくるから」
「馬鹿っていうなよ、北条。顔に似合わないぞ」
「ごめんね、言葉を選んでられないの。……わ、あの階段を落ちてた人まで着いてきてる!」
 信じられない、と桜は呟く。弘毅と意気投合したことのある亮は「大丈夫なんかな、あれ」と一応は心配してみせる。


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