[第四話 凍土]

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No.03  心の羅針盤


「私、今の話しを爽子に伝えるわ。松永くんはどうするの? まだ、調べたいの? 夏のことをもっと知りたいなら、菊乃に聞けば良いわ。でもね、将斗くんには聞かないで。将斗くんはね、菊乃を助けてくれたの。だからあんな恐い目にあってもね、菊乃は将斗くんが好きなんだもの」
「幸恵さん……」
「私は爽子を信じてる。事件が起きているのかは分かった。どうして起きるのかは分からないけれど。それでも私は信じているわ」
「俺だって、久樹を信じているよ」
 渡された資料を、半ば無意識にぎゅっと握りしめる。
「だからこそ、助けたいんだ。なんでこんなことが起きているのか、どうしてなのか、それを知って。その上でサ、久樹を助けてやりたいんだよ」
「でも、調べて分かることはもうないでしょう? 松永くん、これ以上を知りたいなら、久くん自身に聞くしかないんじゃないかな。ううん、本当に信じているなら最初から。噂を調べる前に、久くんに聞くべきだったんじゃないのかな?」
「幸恵、さん?」
 清らかに感じさせるほどの優しい表情で、じっと弘毅を見つめている。
 彼は小さい頃から、人の周囲を穏やかに包んでいる”気”の色を見ることが出来た。――その色が。弘毅の目を最初に奪った、美しい幸恵の気の色が漣のように揺れている。
「松永くんは、久くんが話してくれなかったらどうしようって、怯えているんじゃないの。……勝手な想像で、悪いのだけれど」
「俺が怯えて?」
「オーラが綺麗とか、言っていたでしょう? そういうのが見えるのも、不思議なことの一つだと思うの。久くんの周りでは、不思議なことが起きている。だからね、松永くんは久くんを仲間だと思っていたんじゃない?」
 意表を付かれて、弘毅はただただ首を傾げる。
 幸恵は穏やかに微笑んだまま、「久くんに聞いてみなよ」と言葉を重ね、すっと横を通りすぎていった。
「俺は――久樹に拒絶されンのを、恐がっていたのか?」
 唖然と立ち尽くす弘毅を、喫茶店の店員が不思議そうに見つめていた。
 
 
 斎藤爽子を待つ面々の上に、重くるしい静寂が横たわって沈み込む。
 秦智帆はベッド近くの丸椅子に座り、中島巧は彼にくっついていた。大江雄夜は扉の隣の壁に背を預け、織田久樹と川中将斗は空きベッドに腰かけて無言を通している。
 こつ、こつ、と時を刻む秒針の音が異常なほどに大きく耳を打つ中、智帆はふっとある気配を察知していた。
 ――水の気配?
 怪訝そうに智帆は眠る友人を見やるが、特に彼が動いた気配はない。けれど静夜が宿す柔らかな水の気配が近づいてくる感覚は消えず、ふと立ちあがった。
 巧もつられて席を立つ。
 保健室の扉に全員の視先が集まった。がらりと軽快な音を響かせて扉が開く。
「久樹っ!」
 斎藤爽子の伸びのよい高音と共に、どっと入り込んでくる何かがある。
 ――息を呑んだ。
 幼い頃に急流の川でおぼれかけた記憶を寄び覚ます、圧倒的な力の弄流が押し寄せてくる。
 凄まじい力の塊と共にやって来た爽子だけが、少年達を翻弄する力に気付いていなかった。
「どうしたの、みんな?」
 ぐるりと部屋を見回し、爽子は「あっ!」と声を上げる。
「静夜くんっ!」
 パタパタと走り出した爽子の動きを追った智帆は、静夜がぽっかりと目を開けているのを見付けて息を呑んだ。
 慌てて抱き起こすと、力の入っていなかった身体がぐにゃりと揺れ、がくんっと首をのけぞらせてしまう。
 だらりと投げ出された腕が、シーツの上に転がった。
「静夜くん?」
 智帆の隣で腰を屈め、顔を見やった爽子の声が曇る。
 ――静夜の顔に感情がない。
 目は開けたのにとほぞを噛む智帆の視界の端で、静夜の白く細い手がそろりと動いた。
「……静夜?」
 誘われているように感じて、支えていない方の手を伸ばす。触れるか触れないかの所で、突然に獲物を狙う白蛇のような動きを静夜の手が見せた。
 智帆の二の腕をつかみ、ぎりぎりと締め付けてくる。血のめぐりを留めてしまう程の力に、思わず呻いた。
「いやっ! 久樹、静夜くんがっ」
 助けを呼びながら、爽子は静夜の手を剥がそうする。智帆は何故か眉を寄せ「このままでいい」と彼女を制した。
 剥がす代わりに軽く揺さぶろうとして、智帆はある気配に目を見開く。
 ハッと天を仰いだ。
「……力の弄流……?」
 視界を理め尽くす、渦巻く力の塊。ソレは息も付かせぬ速度で二人に牙を剥き、滝の瀑布に巻き込まれたような衝撃が身体を貫いた。
「静、夜っ!!」
 懸命に呼ぶ声にも、静夜は答えない。
 ただぎりぎりと智帆の腕をつかむ力だけが、彼が現実に在ることを証明しているようだった。
 ――青。
 ぽっかりとただ開いていた両の瞳が。青く燃え上がる炎のような輝きを見せて、きらめく。
 智帆の腕を締め付ける手はそのままに。逆の手が優雅な仕草で空を舞った。
 織り成されるのは光の軌跡を描く水の結界で、固唾を飲んで状况を見守っていた一同が、ほう、と息を付く。
 雄夜が弾かれたように駆け出した。
 水の流れる音が響き出し、やがて青く光る力の核が姿を現し始める。
「蒼……花?」
 かすれた雄夜の声が呟いた、式神の名がきっかけとなったのか。
 揺らめく光の塊が一度大きく脈打ち、姿を型取り始めた。青い鱗が、空流れるたてがみが、竜の形を取って静夜の腕の中に姿を現そうとしている。
 静夜は、ソレを抱きしめた。
 二つの水の力が同調してきらめき、水の式神が力を取り戻して眼差しを開く。
 雄夜との繋がりも同時に甦り、式神の破壊衝動が彼の中に流れ込む。蒼花は高く一声吼え、姿を消してしまったもう一つの存在を呼ぶかのようだった。
 業火が走る。
 揺りかごのように優しく佇む、水の結界の中に。
 出現する熱と光と激しさに向かって、雄夜は手を伸ばした。炎の羽根が舞い飛び、激しい閃光を放ったと同時に、朱花は現れて主の元へと飛び込んでいった。
 感動的ともいえる光景を目前にしながら、一人だけ智帆はそれを見ていなかった。
 腕に庇う静夜の瞳は、末だ青く燃えて輝き続けている。だが彼の意思は感じられず、まるで操り人形のようだった。
 智帆の腕をぎりぎりと締める力だけが、彼の存在を示しているようだった。
 静夜の瞳が、ふと空をさまよう。それを見落とさず、名を呼んだ。持ち上がった眼差しが、智帆のそれと僅かに絡む。
 けれど何も告げぬままに静夜のまぶたは落ち、智帆の腕の中に崩れ落ちていった。
「静夜にぃは?」
「また、眠ったよ」
 表面上は冷静に、智帆は答える。再び友人の体を寝かせてやりながら、頭を働かせて静夜が眠り続ける原因を考えていた。
 ――邪気の干渉か、それとも……。
 あまり考えたくないある可能性に、智帆は不機嫌な顔付きになる。それでも必ず助け出すと、ますます青ざめた静夜の白い顔を見下ろして誓っていた。
「とにかくだ、式神が戻ってきたのは幸いだったな。雄夜、一つ確認するけどな。戻ってきた様子をみて思ったんだが、朱花と蒼花は力を失って消滅していたんじゃないか?」
 ベッドの端に軽く腰掛けて、両肩に朱花と蒼花を従えたままの状態の雄夜を見上げる。ぶっそうな質問に眉を寄せつつも、雄夜は律儀に式神に問うた。
『我らを構成する力の全てが消え果て、姿をとることが出来なくなっておりました』
 炎をまとう優美な鳥は主に頬を寄せ、体験した恐怖を振り払おうとしている。蒼花はゆるやかに主の元を離れ、眠る静夜の首筋に滑り込んだ。
『我が主に居場所を訴えることも出来ず、このまま完全に消えていくものと覚悟しておりました。――ふと我を呼ぶ、水音が響いてくるまでは』
 静夜の異能力が激しさを増す際に宿す色とよく似た瞳を細めて、蒼花は眠る少年を守るように身をすり寄せる。同じ属性を持つ者同士の、やわらかな光景を見守っていた雄夜は目を細めた。
「爽子さん、朱花と蒼花が消えた瞬間は確認している?」
 突然に質問を振られて、爽子は驚いて肩を震わせる。「ごめん、えっとね」と慌てて言葉を繋げた。
「消えたところは見ていないの。私と幸恵は大丈夫だったんだけど、邪気は松永さんを氷に閉じこめようとして。助けなくちゃと思ったのに、私にはなんにも出来なくて」
 切なげに柔らかな手をきゅっと握りしめた爽子の肩を、久樹が気にするなと軽く支える。素直に体重を預けて、爽子はそっと雄夜を見やった。
「このままだと、松永くんは死んでしまうって思った時だったかな、朱花と蒼花が来てくれたの。邪気の女の子がこっちを見ていて、なにか言って。でもその後はなにも見てないの、邪気が持っていたでんでん太鼓を打ち振って、錫杖の音が響きだして。頭の中を直接かき回されるような音だったの。それで、目を閉じてしまって」
「気付いたときには、もう何もなかったと?」
「なんにも。氷に閉じこめられてたはずの松永さんの身体にも、そんなことがあったって証拠は一つも残ってなかったわ」
「なるほどね」
 ふむ、と頷いてから智帆は巧に視線を向ける。
「昨日の竜巻の方は、襲ってきた形跡はしっかり残っていたんだよな?」
「残ってたよ。雪がごっそりとなくなってた場所も沢山あったし。まあ、俺のせいで惨状が激しくなってる部分もあったけど」
「あ、あれは仕方なかったんだよ。静夜兄ちゃんに治してもらえないなんて、思ってもいなかったしさー」
 慌てて従兄弟を庇うように身体を前に出した将斗に、智帆は珍しくきょとんとする。ぐるりと保健室内を見渡して、初めて自分以外の面々が緊張した重い面もちをしていることに気付いた。
「悪い。もしかして責められているように感じたか?」
「え、あ、ええっとそんなことないよ。大丈夫だよ。焦ってるだけ」
 巧が同意を求めると、顔をこわばらせながら将斗も肯く。
 智帆はばつが悪そうに頭をかいた。
 状況は悪くなる一方だが、対処する方法はまだ浮かんでいない。苛立つのは滕手だが、無意識に他人に当たる自分など智帆のプライドが許さなかった。
 ――静夜が眠っている状況は、智帆が考えている以上に彼を追いつめている。
 久樹は突然、そう理解した。
 大股で彼との距離を詰めると、おもむろに少年の肩をガシッとつかむ。
「謝るな、智帆」
 頭を下げようとした智帆を押しとどめ、久樹は他の顔ぶれを手で招く。
「俺らはさ、どんな状況に追いつめられたとしても、いつだって智帆と静夜が対処方法を思いつくのを待ってるだけだよな。――待ってるだけで解決できるんだから、冷静でいられるよ。でもな」
 智帆の隣で腰をかがめ、久樹は壊れ物に触れるように、静夜の紅茶色の髪を手ですくう。はらはらと指の隙間からこぼれるソレを見つめながら、きゅっと唇を噛みしめた。
「智帆と静夜は、ずっと考えてきたんだよな。ずっと二人で考えてきた。二人だったから、平気な顔が出来ていたんだろ?」
 ――今になって、分かったことがある。
 秋の事件の時、智帆が緑子さんについて調べることを優先した為に、一人で考えることが増えていた静夜が、精神的に不安定なってしまった理由と。
 今の智帆が余裕を失っている理由は、同じなのだということが。
 秋に爽子は責任を分け合いたいから、二人だけで話を進めないで、ちゃんと話してくれと訴えていた。


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