[第四話 凍土]

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No.03  異邦人


 ざくざくと雪を踏む音も高く、爽子は白鳳学園内の道路を歩いていた。
 今の爽子は、実は腹を立てている。
 久樹の昔の友人が、尋ねてくるのは素敵なことだと爽子は思う。
 だからといって、外出先にわざわざ押しかけて来るのは非常識ではないかと思うのだ。その上、二人で話したいからと、体よく追い払われてしまったので怒りはなおさらだ。
「私が聞いたらマズイことでもあるってわけ!?」
 考えるほどに、冷静になるどころか腹はたっていくばかりだ。
 学園内の長い通路を抜け、寮である白梅館にたどりつく頃には、雪道を歩くなりの慎重さはなくなっていた。
 何も考えず、エントランス前の石畳を高くける。
 細いヒールが先ほどまでは雪にめりこんで支えになっていたのだが、人の往来のある石畳の上には雪はなかった。代わりに、夕刻になって解けた水が氷になり始めている。
「え!?」
 ヒールが路面を滑った。
 体のバランスが崩れる。踏みとどまれずに、後ろに倒れていく自分自身を、なぜかひどく冷静に爽子は実感していた。視界がめまぐるしく変わり、最後に雪を降らせる厚い雲に占められる。
「わあ! 爽子さんっ!?」
 衝撃を覚悟した爽子の耳に、聞きなれた声が響いてきた。
 空中に投げ出した手に温もりが触れ、続けてぐいと引かれる。だが、既にかなりバランスを崩している人間を立て直すには力が足りず、爽子は両足を投げ出して、すとんと地面に座る形になった。
「ご、ごめん!!」
「巧……くん?」
 赤茶の髪に、釣り気味のやんちゃな瞳が、焦った色をたたえて爽子を見つめている。
 ――男の子、なんだ。
 突然に爽子は実感していた。
 まるで弟のように思っていた巧も、よく考えればもうすぐ中等部にあがるのだ。子供でしかなかった彼も、誰かを支えられるほどに成長し始めている。
 こうやって、現実は変化していってしまうのだ。
 また、胸がひどく痛んだ。
 変わってしまう、それが今の爽子には辛い。
 立ってと引き上げようとしてくる手の力強さも、今の爽子には切なかった。
「爽子さん、なにかあった? 泣きそうだよ。それに久樹にぃはどうしたんだよ?」
「久樹とは途中で別れたの。高校時代の友人が尋ねて来て」
「ええ!? あいつ、本当にそっち押しかけたの!?」
 巧がぎょっとのけぞった。
 目を丸くして「知ってるの?」と爽子は尋ねる。
「知ってる。でもとりあえずは気替えた方がいいよ。洋服染みになっちゃうし、濡れたままじゃ風邪ひくし。なにより」
 ふっと言葉を切る。
 巧が見上げる空を迫った爽子の目には、更に厚くなっていく雲と、雪が見えた。
「雪、まだまだ降りそうだから」
 巧の声に、爽子は寒さを思い出してくしゃみをした。
「明日はきっと沢山積もってるわね」
「菊乃ちゃんが、明日雪だるまを作ろう!って将斗に電話して来たよ」
「雪だるま! 懐かしいな、雪が積もるとね、良く久樹と一諸に作ったのよ。帽子かぶせて、手袋つけて。昼過ぎに見たら溶け始めてて悲しかった……」
 今起きたことのように嘆く爽子を前に、巧はエレベーターのボタンを押しながら笑う。
「正月休みにばあちゃん家に行ってさ、近所の人も動員してかまくら作ったんだ。作ったちっさい雪うさぎが、火鉢でぬくまって溶けてさ。俺の妹、すっごく泣いたよ」
 あれって本当に悲しいよなと巧が心底同意するので、爽子は少し嬉しくなった。乗り込んだエレベーターの表示を眺めながら、ポンッと手を打つ。
「明日、将斗くんたちが二人で作るなら、私達も作ろうか? 智帆くんたちも巻き込んで」
「俺は嬉しいけど、爽子さんは久樹さんと作るんだろ?」
「――え? ううん、そんな約束してないわ」
 目的の十階に辿り付いて、巧は外に出る。
「爽子さん?」
 続いて出てこないので、怪訝そうに巧は振り向いた。
 狭いエレベーターの中で、爽子は漆黒の瞳から涙をこぼしていた。
「……巧くん」
 ぽつりと、声を落とす。
 再びエレベーターの扉が閉まりそうになっている。慌てて巧は体をいれ、閉まる扉を食い止めた。
「約束なんてしなくても、大丈夫な関係っていつまで続くの?」
 涙をこぼす自覚はないのだろう。
 白磁のような頬を、とめどなく涙が弧を描いて落ちていった。



 織田久樹と松永弘毅は、雪の為に人が減っているカフェの一角に座っていた。
 生クリームが大量に乗ったホットココアを両手に持って、弘毅はようやく一息ついた風情だ。
「で、なんだよ話って」
 奢ってやったというよりも、ココアを奢らされた久樹は剣呑な眼差しを高校時代の友人に向けた。
 ガードレールに腰掛けて久樹を待っていたこの友人は、なんと殆ど一文無しだった。交通費だけで所持金全部無くなってさと言われて、久樹はかなり嫌な予感を抱いている。
 一文無しの遠方からの友人と、旅行鞄がセットになって現れたのでは、警戒心を抱いて当然だった。
「ヤだなぁ、久樹。いつから雪より冷たい男になったんだよ。頼まれたら嫌といえない男として有名だった久樹はドコいったんだ?」
「そんなんで有名になりたくないっての」
「でも有名だったし。それよりなに怒ってんだよ、あ、彼女と離されたからか?」
 ニカッと笑うと、弘毅は久樹の背を強く叩く。
「可愛かったな、あれが噂の幼馴染みだろ? 久樹がこそこそ昼休みにメールしてた」
「うーるさい」
「遠距離恋愛って大変なのに、良く実らせてるよな。偉い偉い」
「俺と爽子は恋人同士じゃないの!」
「ええ!?」
 わざとらしくのけぞってから、弘毅はふっと真面目な顔をした。
「久樹、ちゃんと言ってないのか? それ、マズくないか?」
「なにがだよ」
「何も言わなくても伝わってるハズ!っていう思い込みは、熟年離婚の原因の一つだ」
「なんで話が熟年離婚まで行くんだよ!」
 問答無用で弘毅が手にしていたホットココアを奪い取り、久樹は友人を睨みつける。弘毅は「やめて〜返して〜」と嘘泣きをした。
「まったく変わらないな、弘毅は」
 カップを返す。また子供のように嬉しげに笑うと、弘毅は「久樹も変わってないよ」と切り返した。
「でさあ、いつ話し出すのかって俺は考えてるんだけど」
 自分の分のカフェオレを口に運びながら、久樹は弘毅の旅行鞄を睨んだ。
「大学やめて、家飛び出してきたわけだよ、俺」
「はあ?」
「やりたいことがあってさ。どうしてもそっちの道に進みたかったわけ」
「えええ!?」
「俺はどうしても絵の勉強がしたいんだよっ。親は跡ついで歯医者になれって言うけど、どうしても肌に合わなくってな。でもこれは俺の我侭だよなあと思って、家出たわけだ」
「ちょ、ちょっと待った!! 学費とかどうするんだよっ!」
 両手を挙げて、久樹は弘毅の語りを必死に食い止める。
「ヤだな久樹。流石の俺でも、そのあたりはちゃんと考えてるよ。相談相手になってくれてた伯父がいてな、学費は貸してくれることになってるんだ。仕事手伝うって条件で、居候もさせてくれるっていうし」
「ああ、なんだ、そう」
 それでその荷物かと納得した久樹の両肩を、弘毅は唐突に強く握り締めた。
「一週間泊めてくれ!」
「……。……。……。は?」
「そ、そんなに絶句するなよ! 今生の頼みだ、お願いっ」
 パンッと手を打ち鳴らして拝まれる。久樹はのけぞって逃げた。
「なんでそういう話になるんだっ!」
「出てくるの一週間も間違えちゃったんだよ。伯父さんさ、海外出張中なんだ。戻ってくんの来週でさあ」
 いやぁ困ったよと弘毅は笑う。
「途方にくれててさ。で、思い出したんだ。久樹がこっちに居るって!」
「お前なぁ! 俺の家はホテル代わりか!? そんな目的で思い出すな!」
「いやいや、久樹くんそれは違うって。こっち来たら遊べるなって楽しみにしてたってば」
 誤解はなし!と、弘毅は笑う。無駄に長い髪を睨みながら、久樹は口を引き結んだ。
「ガイドはしないぞ?」
「ヤだな本当に。久樹は俺を図々しい奴認定したろ。でもさあ、想像してみてくれよ。財布には五百円だけ。頼みの伯父は海外で戻りは一週間先。家出したのに半日で帰れるワケないし、交通費もない」
「伯父さんの家族は」
「あ、独身」
 ニカッと笑って、久樹の頼みの綱を断ち切る。
「そんな時にさ、こっちに友達がいるって思い出したらどうするよ。すがるだろ、ヤッパ。しかも優しい久樹くんだ!」
「おだてても何も出ないぞ。第一それは優しいじゃなくて、利用しやすいの間違いだ」
「うがるなよ、優しいだって。だって久樹は、俺がこの寒空の下で、新聞紙とダンボールを友に一週間すごすのは心配だろ?」
「……うっ」
「ホラな! 寮だから許可がいるんだろ? 早く行こうぜ」
 最後のココアを飲みきると、笑顔で弘毅は久樹の手を引く。
 確かに友人を見捨てることが出来ない久樹は、丸め込まれることに敗北感を抱きながらも、最後の抵抗を試みた。
「弘殻。学生課にお泊まり交渉はするよ。でもその前に答えてくれ。なんで俺があそこのカフェにいるって知ってたんだよ」
「え?」
「ご・ま・か・す・な! 最後の金をつかって、お前白鳳に突撃かけたろっ!」
「うーん、そうだったかな?」
「住所は年賀状に書いてたから、知ってるしな。白梅館にも行って、管理人さんに俺の友達だって言って、入ったろ」
 段々と久樹の目が座っていく。あははと空笑いをしてから、引毅は肯いた。
「ごめん、行きました」
「それで?」
「チャイム押しても誰も出ないから、玄関前に座り込んでたんだよ。そしたら近くの住人が出て来てさ。それが小学生で驚いたよ、普通寮で暮らす年齢じゃないし」
「それは……まあ変だよな」
 弘毅が出会った小学生が、巧か将斗であろうことはすぐに想像出来る。
 ――普通は寮で暮らす歳ではない。
 最初の頃、ひどく不思議に思っていた気持ちを思い出して、久樹は改めて初等部から高等部に通う友人達の不自然さを思った。
 児童が寮で暮らし、長期休暇でも滅多に実家に帰らず、同時期に編入して来たと思われる友人達。
「……変、だよな」
 弘毅が語るのを聞きながら、久樹は忘れていた疑問に心を向けていた。
 
 
 立花幸恵はキッチンとダイニンググテーブルを、楽しそうに往復していた。
「お姉ちゃん! はいっ」
 ミトンをした手に両手鍋を持つ姉を追いかけて、立花菊乃がテーブルに台を置く。その上に鍋を置き、幸恵はありがとうと笑った。
 同じ寮に往む友人同士で集まって、今日は食事会をする約束になっている。
「楽しみだね、お姉ちゃん。ねえねえ、菊乃が作ったプリン、将斗くん喜んでくれると思う?」
「もちろん喜んでくれるわよ。だって菊乃が頑張って作ったんだもの。成功したしね」
 甘えん坊の妹の頭を幸恵は撫でる。猫のように目を細めた所で、軽やかなチャイムの音が響いた。
「あっ! 来たっ」
 華やかな声を上げて、菊乃がインターフォンに走る。幸恵は直接玄関に向かった。
「……あれぇ? お姉ちゃん、久兄ちゃんがいないよ?」
「え? 久くんがいないの?」
 驚きながらドアを開ける。
 幸恵と同じように髪をまとめている爽子が「来たよ」と笑った。その背後で、初等部の二人が持っているバスケットを持ちあげる。
「わぁ! おいしそうなパン! さっちゃん、腕あげたねっ」
 今日の食事会は、爽子が手作りのパンを、幸恵がシチューを担当することになっていた。焼きたてのパンは香ばしく、なんとなく懐かしい気持ちにさせてくれる。
 並べておいたスリッパを勧めながら、幸恵は爽子の前で首をかしげた。
「ねえ、さっちゃん。久くんは? 一緒だったんでしょう?」
「途中までね。帰りに高校時代の友達が現れて、別行動になったの」
「じゃあ一人で帰ってきたんだ。さっちゃん、寂しかったね」
 眉を寄せた幸恵に、そんな子供じゃないんだから大丈夫よと爽子は笑う。
 二人が仲良く中に進んでいくのを見送りながら、中島巧は一人心配そうな顔をしていた。
 帰ってきた爽子が、涙を流していたことを知っている。
 自分が泣いていると気づかなかった爽子は、巧に指摘されてひどく驚いていた。
 ――なんで私泣いているんだろう?
 泣きたいことなど起きていないと彼女は言う。いつもと変わらないし、最近はむしろ楽しいことがいっぱいだったと不思議がる。
 けれど、巧はなんとなく気付いていた。
 ――爽子は揺らいでいる。
「なんだよ、いつも近くにいるくせにさっ。爽子さんがなんでああなってるのか、分かんねぇのかよ。俺はヤだかんなっ」
 誰にも聞こえぬ程に小さく、巧は呟いた。玄関から進んで来ない巧をいぶかって、爽子が振り向く。慌ててスリッパをはくと、巧はダイニングに進んだ。
 テーブルの上は、いつでも食事が出来るようになっている。自参したバスケットの中のパンを置き、巧は幸恵を見やった。


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