[第三話 紅葉、舞う]

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No.04  距離の問題


 前触れがなかった。
 重く響く音が足元から伝わり、突然に亀裂が走る。一気に闇の顎が広がって、瞬く間に桜の体が投げ出された。
「北条っ!!」
 落ちていく少女の手を、途中まで伸ばしていた手で捕らえた。
 いかに華奢といえど、静夜は弓道部に属する男子生徒なのだ。がくんっ、と激しく右手にかかる重みに耐え、左手が支えを求めて柱から剥き出しになった鉄筋をつかむ。
 ぎりぎりと重圧が腕にかかった。
「静夜くんっ!!」
「あいてる方の手を伸ばして、僕の手をつかんでっ!」
「ダメだよ、それじゃあ静夜くんまで落ちちゃう!」
「あのね、北条が落ちるんだったら僕も落ちるよ。だから変な気は起こさないで、僕の手をつかむっ!」
「は、はいっ」
 クラス中の女生徒が、同性のように接する静夜の、叱咤の声に桜は気おされる。ぶらりと降ろされていた左手を伸ばし、細かく震えている静夜の手をつかんだ。
 ――桜って呼んでくれなかったな。
 そんな事を、何故だかこの状態で桜は思った。
 静夜は足元に広がった奈落の深さに唇を噛む。自分たちがいる高等部風鳳館は、邪気に支配された別の空間と考えて間違いない。落ちれば、どこに叩きつけらるか分からなかった。
 静かに、水の力を集める。
 いざとなったら、水を緩衝材に使うしかない。だがこの手で助かると、水を操ることを上手く説明せねばならなくなるので、出来れば避けたかった。
 風を感じている。
 桜を励ましながら、周囲に感じ始めた風の感覚に望みを託していた。


「見えたっ!」
 大江雄夜を外に誘導した後、川中将斗は静夜の場所を探していた。居場所が杳としてつかめず焦っていた時に、飛び込んできた危機の光景だった。
 将斗の能力は、親しい人間の危機に最も反応する。
 映像を宿すガラスを前に、爽子が悲鳴をあげた。飛来してきた炎の朱花を肩に乗せる久樹も、あまりの光景に息を飲む。
 亀裂の走った廊下の上で、静夜は落ちかけている北条桜を懸命に支えていた。
 切羽詰った状況に智帆がほぞを噛む。見つけ次第、安全な場所まで誘導するのはもはや不可能だった。敵を睨むかのごとき激しい視線を、智帆は爽子にぶつける。
「爽子さん、教えてくれ。本気で静夜を救いたいって思っているのか否かをっ!」
 伸ばした手で、ひしと細い肩を掴む。見たこともない智帆の形相に怯えて、爽子は震えた。
「な、なに!?」
「いいからっ。教えてくれ!」
 どちらかといえば優しげな造形の智帆の目の鋭さに圧倒されながら、爽子は震える顎を幾度も引く。
「助けたい。助けたいに決まってるっ! あのままじゃ、静夜くんが危ないわっ」
 最初の声こそ震えていたが、言葉をつのるうちに激情が湧き上がってきた。次第に声は大きくなり、最後は悲鳴に近い声で「助けたい」と叫ぶ。
「――あっ!」
 成り行きを見守っていた久樹が唐突に声をあげる。つられて振り向いた巧の目が見開かれ、智帆はひどく冷静な眼差しを投けた。
 炎が燃えていた。
 久樹の体から他を圧するに値する”炎”があふれ、波打つように取り巻いているのだ。彼の身に命の危機でも訪れない限り、成りを潜める炎の能力が現れている。
 爽子の瞳には焔が生まれていた。――深紅に光る焔の色だ。
「久樹……炎が……」
 爽子は久樹の炎に驚き、久樹は爽子の瞳に宿る焔の色に絶句する。
「久樹さんの力が解放された理由を、説明する暇はない」
 二人の間に割って入ると、智帆は久樹の耳に素早く口を寄せた。爽子の身に起きた変化については黙ってろと囁き、すぐに身体を離す。爽子は久樹の炎に驚いているが、彼女自身に起きたことには気付いていない様子だった。
「久樹さんの炎は、敵を浄化すると同時に、敵の力を強める能力も持っている。それは忘れてないな?」
「――あ、ああ。だから俺は、邪気に炎の力を与えないように気をつける必要があるわけだろ?」
 何事もないように話を進める智帆に、面食らいながらも久樹は頷く。
「いつもだったらそうだよ。でも今は事情が少し違う」
「事情が違う?」
「いいから、炎の力を風鳳館の邪気に注いでくれ。今すぐにだ」
 智帆の凄まじい剣幕に気おされて、久樹は問えずに肯いた。肩に乗る炎の朱花が赤々と燃える翼を広げる。炎に意識を集中し、目を閉じた。
 能力が解放された時、自分の一部である炎が何故封じられているのかと、久樹はいつも考えてる。今はそれだけでなく、もう一つ考えることがあった。
 智帆が爽子に”静夜を助けたいのか”と問い詰めた直後、炎の力が突然に解放された理由は何故なのか。――焔を宿した爽子の瞳は、なんであったのかと。
 答えのない疑問をめぐらせながら、久樹は炎の力を風鳳館の中に向けていく。力を向けるべき道筋が分かるのは、将斗が光の道しるべをしるしているからだった。
 智帆は久樹の力の動きを見守りながら、視線を風鳳館にめぐらす。そうして初めて疑問を抱く面々の視線に晒されて、説明が必要なことに気付いた。いつもならば、いかに突拍子のないことを言っても、静夜が素早くフォローをいれていた。だから説明が必要であることを、すこんと忘れていたのだ。
 情けなさそうな表情を一瞬して、智帆は頭を振った。
「静夜が閉じ込められている風鳳館には、実体化にまでは至っていないけれどかなりの力を持つ邪気と、邪気になる前のマイナスの感情が山ほど存在しているんだよ」
「実体化には到っていない邪気と、マイナスの感情の山って?」
 巧が質問を投げる。
「風鳳館に存在していた、光の玉みたいな邪気は全部浄化したろ? あれはまだ弱い力しか持っていない邪気だったさ。マイナスの感情から邪気へと変じ始めたばかりの頃ってとこだな。逆に実体化寸前の邪気ってのは、能力はかなり高い。だが実体化はしていないからな、俺たちを害するための能力を放っていなければ、存在に気付くことは出来ないんだよ」
 智帆は忌々しげに吐き捨てる。
「俺らが見るのは、常に突然現れる力の弱い邪気だった。俺と静夜は、姿を現すことも消すことも可能な邪気が存在すると考えたのさ。――でもこれが間違いだった」
「間違い? だったらさ、何で突然現れるんだよ。わかんないよ、智帆にぃ」
 巧だけではなく、爽子も納得しかねる表情だった。瞳には先ほどまでの燃える真紅はなく、いつもの漆黒が宿っている。
「姿を消してたわけじゃなかったんだよ。最初からそこにいたんだ。ただし、力を少しもった邪気ではなく、単なるマイナスの感情としてな。問題だったのは、そいつらを瞬時に弱いながらも力を持つ邪気に変える奴が潜んでたってことだ」
「……そんなことが出来るのに、舞姫たちより力がない相手なの?」
 ひどく困惑した爽子の言葉に、智帆は強く頷く。
「舞姫も、夏の時に現れた少年も、能力が高いからこそ他のヤツの助けなんて欲していなかった。でも今回のは力がまだ弱いからな、不足を補う為に他の力を利用することを思いついたわけだ。姿が見えない相手が敵だなんて、厄介だよ」
 癖のあるココアブラウンの髪を風に揺らしながら、智帆の瞳は将斗の映す風鳳館の光景に注がれていた。
 静夜は唇を噛み締めて、必死に桜を支えている。桜は切羽詰まった表情で何かを叫んでいるが、その度に静夜が首を振っていた。
 共倒れになるからと、叫んでいるのだろう。もう少しでいい。頑張ってくれと祈るように呟き、智帆は自らに従う風の力を強めた。
 口を開けた穴の下から吹く風が友人を助けるように、久樹が向ける炎によって活性化する邪気から彼らを守るように、十重二十重と風は二人を包み込んでいく。
 今の智帆には、一秒の経過が、一分にも十分にも感じられた。
 居場所が掴めぬ邪気は排除できない。能力を向上させて、実体化させるしかなかった。
 爽子は必死に祈る。巧は将斗の補助をし続けた。
「――邪気がいる……」
 めぐらせる炎を操る久樹の瞳が、焦げ茶から深紅へと変じた。
 炎が燃えて風鳳館を走り、力を与えられた邪気が、そろりと姿を現す。
 凄まじい咆哮が、開かれた口腔からほとばしった。
「実体化したっ! 今だ!」
 智帆の指示が飛ぶ。将斗は実体化した邪気の居場所を見据えて場所を示す。獣の足がのそりと蹴爪をたてて床に立ち、咆哮を放つ口腔は血の滴りのような赤を見せつけていた。
 久樹は燃える炎の真紅を瞳に宿したまま、動揺を見せずに手を伸ばした。邪気の力を増幅させていた力を治め、全ての力を浄化に一斉に転換する。
 式神の朱花が翼を広げた。
 弓弦を放れた矢のごとく、久樹の炎をまとって飛び立つ。
 狂おしく、激しく、全てを呪うかのように響き渡っていた力強い咆哮。――それがふと、消えた。
 重い静寂が風鳳館全体に一瞬横たわる。次の瞬間、けたたましい断末魔の悲鳴が響き渡った。
 そして。
 静夜の足元に、突然足場が戻った。
 必死に支えていた桜の体が、下から吹き上げていた風の影響もあって、勢いよく腕の中に飛び込んでくる。支えきれずに、静夜は抱きとめたまま後ろに倒れた。
 風鳳館に舞い戻っていた雄夜は、先程までは無人だった場所に双子の片割れを見つけて目を見張る。梓は桜の名を呼んで抱きつき、亮はパニックを起こしておろおろと動き回った。
 智帆は光景を見届けると、すぐに顔を風鳳館に向けた。
 自らの手で邪気を初めて消滅させた感触に、呆然とする久樹を見ようともしない。やったと喜ぶ子供達の輪に入ることもしない。
「智帆くん?」
「……良かった」
 殆ど囁いているだけの小さな呟きが、爽子の耳を打つ。本当だねと返してもいいのか迷った一瞬に、智帆は校舎に駆け出していった。



 元気いっぱいの初等部コンビ、中島巧と川中将斗は、斎藤爽子宅の玄関先で「早くっ」と声を上げていた。
 冬を間近に感じる冷たい風が紅葉した木々の葉を揺らしながら、子供たちの首筋を駆け抜けている。空は晴れわたり、薄くはいたような青が広がっていた。
 二人の隣で玄関の扉を押さえながら、織田久樹が笑っている。
「爽子は準備に時間がかかるからなぁ」
「女の子って、なんで準備に時間かかるんだー?」
 なにしてるんだろと首を傾げる将斗の頭を、ぽんぽんと久樹はなでた。
「菊乃ちゃんのことだ、将斗の為に頑張ってるんだよ」
「ちょっと待って! なんでそこで菊乃が出て来るんだよー!」
 将斗が頬を膨らませる。そりゃ出てきて当然だろと巧は思いながら、さり気なく久樹を睨んだ。菊乃の事を言っているようで、その実爽子のことも語っているような雰囲気が気に入らない。
「久樹にぃって、女心に詳しかったんだ。ふーん、高校生の時に、彼女の三人や四人や十人いたわけだ」
「な、何故いきなり四人から十人に跳ね上がるんだ……」
「ふんっ」
 八つ当たり全開でそっぽを向いたところで、ようやく爽子が顔を見せた。
「待たせてごめんっ。髪がどうにもならなくって、結局まとめちゃった」
 爽子は夏から髪を伸ばし、外に跳ねさせていた髪を真っ直ぐに降ろしている。サイドをきっちりと編みこんで後ろで一つにまとめていると、ひどく新鮮な雰囲気になっていた。
 巧はぽかんと見とれて、将斗が素直な感想を口にする。
「爽子姉ちゃん、別人みたい」
「そうかな? 変?」
「変じゃないよー」
 将斗の答えに頷きながらも、爽子はちらりと久樹を見た。久樹は声には出さずに、いいんじゃないかと軽く笑う。
「久樹兄ちゃんと爽子姉ちゃん、なに見つめあってんのー? 巧は怒ってるし。それにしてもさ、いい天気だよなー」
 うなり声を上げそうな従兄弟の隣で、わざとらしく将斗は廊下から空を見上げた。久樹がつられて顔を上げ、目を細める。
「晴れなのも嬉しいけどな、なにより智帆たちのクラス、今日全員集まってよかったよ。なんでも昨日の一日目は、欠席者が多かったらしいからな」
 白鳳学園高等部の学園祭は二日間で、土曜日に生徒会の選出と演劇部の公演が、日曜日に各クラスの催し物が行われている。
 そしてあの事件がおきたのが、僅か三日前の金曜日のことだ。
 巧は溜息を落とす。
「そりゃ休みたくもなるってもんだよな。教室に閉じ込められて、散々な目にあって、しかも気付いたらそんな形跡もなかったんだからさ。ショックなのも当然だよ」
 夏におきた事件の際には、巻き添えを食った一般生徒の数は少ないとはいえ、炎鳳館が閉じていく様を見た巧のクラスメイト達がいた。彼らに説明できるはずもなく、巧と将斗はただ気を揉んでいる。
「目撃者が増えるのって大変よね。大丈夫よって言えないんだもの」
「説明なんてしたら、俺らが事情を知ってるって白状するようなもんだ」
 しみじみと呟く二人を見上げて、子供たちは顔を見合わせた。「なんだよ?」と久樹が尋ねると「考えるようになったんだなぁと思って」と正直に言われて苦笑する。
「そりゃあ、噂されるのが大変だって事を自覚すれば、考えるようにもなるさ。だから今回は良かったよ。あいつらの友達が、大丈夫だって説得に回ってくれてさ」
 北条桜、宇都宮亮、秋山梓の三人が、土曜日に欠席した生徒の家を説得して回ったということを高校生達から聞いている。彼らはまるで三人を守るかのように、強く説得して回ったのだそうだ。
「俺たちが関わりを持っているって感じたのかもしれないよな。だから逆に俺らを前面に押し出すのを嫌がったのかも」
 ――全ての異変が、三人のせいにならないように。
「重々気をつけていかないとな。ところで今何時だ?」
「一時五十分ね」
「静夜が指定してきた時間には間に合うか。巧たちは午前中の、部活のほうは見たか?」
 午前中は各部活が中心となり、午後はクラス中心になるのだ。
「科学部見に行ったよ。でも、ビーカーでコーヒー出されただけだった。しかもさあ、分厚いタオルと軍手みたいなの貸されてさ。熱くて落としたら弁償!とか言うんだぜ。それが嫌な奴は、適当にブレンドされたミックスジュースだったよ。美味しかったけど、これで科学部?って思ったよなあ。そういえば、一緒に行った菊乃ちゃんはやたらと喜んでたっけ」
「あれなー。菊乃ってさ、白衣に眼鏡が好きだから」
「……。そ、それで喜んでたんだ」
 ぽかんとした巧の前で、うんうんと将斗は頷く。
「だってさ、俺に目をとめたのも、眼鏡のせいだったって最近教えられたしなー」
「将斗、菊乃ちゃんに、智帆にぃに浮気されないように気をつけろよ」
「頑張る」
 深刻な表情の従兄弟同士に、久樹と爽子は顔を見合わせて笑う。
「笑うなよっ。それでさ、爽子さんたちはどこ見てきたんだー?」
「剣道部と、弓道部。雄夜くんと静夜くん、かっこよかったわよ」
「そっち見に行けばよかったかなぁ」
「そうね。見にきてたら、面白いもの見れたわよ。剣道部を見に来てた梓さん、デジカメ片手に大はしゃぎだったもの。そうそう、弓道部のほうには桜さんが見に来てたのよね」
「静夜目当てだろ?」
 のんびりと久樹が口を挟む。
「やっぱりそうだったのかな。金曜日に、一体なにがあったのかしらね」
 弓道場にて弓を引く静夜をじっと見つめていた北条桜の瞳は、昼休みに全員でお弁当を囲んでいた時の瞳とはあきらかに違っていた。なんらかの心境の変化があったとしか思えない。
「なんかこう、微笑ましい気分になっちゃうわよね」
「爽子姉ちゃんたちは、他の人たちの事を考えてる場合じゃないと思うけどなぁ」
「将斗くん?」
「なーんでもない。それより急ごうよ」
 追及を逃れるように将斗が走り出し、巧が怒った表情で追いかける。久樹と爽子は取り残されて顔を見合わせた。


 
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