[第三話 紅葉、舞う]

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No.02  距離の問題


 北条桜がいない。
 こういう事態では、誰よりも先にクラスをまとめただろう気丈な少女の姿がないのだ。
「雄夜っ!」
 叫んだと同時に、再び激震が来た。
 ぐらりと足元がゆれ、生徒たちの体が翻弄される。壁に叩きつけられそうになったクラスメイトの手を掴む者がいる。伏せろ!と叫ぶ声も上がった。
 混乱の中、足元から不気味な音が響く。
 地響きに似た音と共に、床がぽっかりと口を開けていく。黄泉へと下る行先にも似た深淵の割れ目が、凄まじい勢いで走り始めていた。
「雄夜っ! 北条がいないっ。多分教室に戻ったんだっ!」
 方々であがる悲鳴と怒声に負けぬように、静夜は全身で叫ぶと身を返して走り出した。揺れが僅かに収まったので、全力疾走できたことが幸運だった。
「静夜!?」
 頭一つ分は他の生徒より背の高い雄夜の声が、床が分断されきる前にと駆ける静夜の背を打つ。それでも足を止めず、床を切り裂く低い音が静まり足元が安定して初めて振り向いた。
 クラスメイトを雄夜は掻き分けて進み、足元に走った深い溝を見下ろす。二人を分けた溝の幅は広く、飛び越えることは不可能だった。
 切れ長の眼差しで、じっと雄夜は静夜を見つめる。漆黒の眼差しを受け止めて、静夜は普段と変わりない笑みを浮かべた。
「怪我はしないように」
「お互いにな。外で会おう」
「他のみんなをよろしく。僕は北条を助けてくるよ。雄夜、この事態は間違いなく」
 ――邪気だ。
 共通の言葉を飲み込み、二人は眼差しに厳しさを増して頷きあう。
「雄夜、風の動きに気をつけて」
「風?」
「何者にも縛られぬのが風だからね。僕らに分からなくても、出口は風が教えてくれる。違うかな?」
 悪戯っぽく笑って肩をすくめる。抽象的な言葉は周囲にクラスメイトの目と耳があるからだが、風が智帆を差す事を雄夜は理解していた。
 気持ちがすれ違っていようが、智帆が自分達を助ける為に必死になるだろうことを、双子は少しも疑っていない。


 同じ項、秦智帆は高等部風鳳館の二年A組の自分のクラスの扉を開けて、愕然としていた。
 電気の光の下で、組み立てれば茶屋になる大道具と、小道具が静かに並んでいる。作業に使われていた道具が置かれ、誰かが膝にかけていたらしいブランケットが椅子の上に横たわっていた。
 つい先ほどまで、人が居た気配が残っている。
 教室を出ると、智帆は声に出して友人達の名を呼ばわった。高い天井が彼の声を反響させ、長い廊下を充満させていく。無人の教室を覗き、階段を覗いて、誰も見つからない現実に胸が焦げるようだった。
 ――何が一体あったのか。
 昇降口の前を通り過ぎようとして、智帆はふと足をとめる。視線の先には自分達二年A組の下駄箱が並んでいた。
「静夜たちが、作業をそのままにして帰ったなら」
 几帳面な面子が揃っているのだから、後片付けをしないで立ち去るわけがないと智帆は思っていた。それでも風鳳館から忽然と姿を消してしまったと考えるよりはましな考えで、下駄箱の扉を開けてみる。
 双子の靴は、当たり前のようにそこにあった。
「……何があったんだよ。邪気の気配は全く感じられないってのに」
 奥歯を音がなるほどに噛み締めて、智帆は暗い校内を睨んだ。目を半目にして腕を持ち上げ、意識を風に集中させる。
 闇雲に探して回るより、風に気配を探らせたほうが早い。
 智帆のココアブラウンの髪がふわりと持ち上がり、着ていたシャツの裾を揺らし、風は一斉に風鳳館内に勢いを向けた。
「智帆兄ちゃん!」
 突然に背後から声が掛かる。
「――将斗?」
「普通に探しても、静夜兄ちゃんたちの居場所は見えないんだよー!」
 息を弾ませ訴えると、川中将斗は智帆の服の裾を掴んだ。続いて中島巧が隣に立ち、織田久樹と斎藤爽子もそれに習う。
「どういうことなんだ?」
 将斗の”視る”能力が高いことを智帆は知っている。将斗は頷くと、上の階を見上げるようにした。灰青色の虹彩の焦点がすうっとぼやけ、何か別のものを捕らえ始める。
「二人とも、この風鳳館にはいるんだよ。でもさー、居る場所が違う。俺らが居る、この”風鳳館”じゃないんだ」
「この風鳳館じゃない?」
 怪訝そうな智帆の口調に、久樹が口を挟む。
「別の世界みたいなもんだっていうんだ。俺たちがいるのとは違う場所があって、そこに静夜たちは居るっていえばいいかな。爽子は別の世界だって言い方をした」
「別の世界。……神隠し?」
 難しい表情で目を伏せた智帆の袖を、巧は引いた。
「将斗が視てるものを、ガラスに映すよ。多分視たほうが早いからさ。ちょっと待って」
 集中している従兄弟の肩に手を置くと、巧は目を閉じる。
 この仲の良い従兄弟同士は、先日智帆の補助を得て、”視た”光景を外に映写することに成功した。それ故に、久樹と爽子は子供達の行動を普通と受け取ったようだが、智帆は緊張を走らせる。――子供たちが今してのけることは、補助なしに出来るものではないはずだった。
 智帆の考えを他所に、光はガラスをきらきらと反射しながら、不思議な映像を映りこませる。
「……なんだ? この霧みたいなのは、最初から見えていたのか?」
 智帆が問う。将斗は片目を開けた。
「将斗が見始めた時から、霧はずっとあったよ」
「霧じゃない」
 硬質な声で断じ、智帆は腕を組んだ。「どういうことだ?」と、久樹が尋ねる。
「霧に見えているのは邪気だよ。いや、邪気って呼ぶには仰々しいかな。力を持つほどには育っていない、邪気になる前のマイナスの感情ってところだよ」
「えっと……それはどういう?」
 口にする言葉が全て質問になるのを恥じるように、ためらいがちに爽子が首を傾げる。智帆は彼女にただ柔らかな表情を向けた。
「邪気ってのはさ、元々はそんなに特別なもんじゃないんだよ。俺らなんて、普通に怒ったり泣いたり叫んだりするだろ? そういう時に抱える行き場のない感情が、ぽいっと外に放出されて残ってしまったりする。そんなのは時間が立つと共に浄化されていくものだけど、中には風化されないものもいる。恐れるべきなのは、風化されずに残った邪気同士が集合した時だけなのさ」
「普通にあるもの。特別ではないものが邪気の元。でもね、智帆くん。どうして将斗くんが見ている風鳳館の邪気は、”霧”の形を取っているの? 普通は見えないんでしょう?」
「そうなんだよな。あれはマイナスの感情だけってわけじゃない。けれど集合して恐るべき力を蓄える邪気でもない。力を貯え始めた、微妙な邪気ってことになるけどな」
 しかしこんなのが大量発生してるのは奇妙だろ、と智帆は一人ごちる。
 出ぬ答えを探す間に、将斗が目的の一人を見つけて声を上げた。
「雄夜兄ちゃんだっ!」
 緊張が走る。ここではない”風鳳館”を映すガラスに全員の視線が集まり、とんでもない光景が見て取れて一同は叫んだ。
「走れっ!」
 と。


 雄夜は雷に打たれたように体を震わせた。切れ長の眼差しが周囲を見やれば、邪気の影響から一同を守るために蒼い燐光を放ち続けている水の蒼花も辺りを警戒する。
『我が君、横手から亀裂がきます』
 式神は主である雄夜に対しては”言葉”で受け答えることが多い。
 距離は?と心の中だけで尋ねる。全員が走れば回避できるとの応えに、雄夜は声を上げた。
「亮っ!」
 雄夜は逃げる生徒達の先陣を務め、副委員長の宇都宮亮が殿を務めている。亮のことを信頼しての配置だった。
「どうした、雄夜っ」
「少し走る」
「……分かった。遅れるヤツは、俺が腕でも掴んで走らせるから大丈夫だ。今から走るから、転びそうなヤツの腕をみんなとっとけよっ!」
 やけに陽気に指示を下す亮の声に、雄夜は少し笑んだ。これなら大丈夫だろうと信じる思いがある。
 雄夜は隣で息をあげているクラスメイトの秋山梓の腕をしっかりと取ると、走り出した。
「雄夜くんっ!」
「どうした?」
「なにかあるの? さっきまで、転ぶから走るなって言ってたのに!」
「走ったほうが都合がいい時もある」
「都合って……きゃあ!」
 コンクリートの破片に足を取られて、梓は前につんのめる。倒れると思われた少女の身体を、易々と雄夜が支えた。
「あ、ありがとう」
「もう少し頑張れ。まだ休めない」
 引きずられるように再び走り出す。数えて二十歩程走ったかと思った直後、足元から不気味な音が響いてきた。ずしりと重い、はらわたを押さえつけるような衝撃を伴う音だ。
「また、亀裂がっ!」
 最後尾を走っていた亮が、振り向きざまに声をあげる。ぽっかりと開いた奈落への暗闇。あまりのことに悲鳴をあげる者と、前を行く雄夜をおそるおそる見やる生徒達の恐怖の顔とで、一瞬場が凍てついた。
 なんで分かったんだと、誰かが声をあげる。
 梓は自分の腕を取っている雄夜の手が震えた事を感じ取って、顔をあげた。黒曜石を思わせる彼の瞳が、しんしんと霜の降りる冬の朝を思わせる冷たさでクラスメイトを見つめている。見返してくる生徒達の瞳も、負けず劣らすひどく冷たい。この状態はまずいと感じて、梓はとっさに挙手をした。
「だって、お、音が聞こえたよ。だから、もしかしたらまた地震がくるかもって。私は思ったよ」
「秋山?」
 思いもかけぬ援護に、雄夜はきょとんとした顔をしてみせる。どこかあどけなく見えるこの表情は、梓の好きな部類に入った。思わず真っ赤になりながら、訴える声を繋げる。
「腕をとられて走ってたとき、廊下になんか線みたいなのが入ってるのも見えたの。だから、地震がきたらマズイんじゃないなかって思ったのよ。雄夜くんもそう思ったんでしょう?」
「――ああ」
「ほらね。みんな嫌だな、結構大きな音だったのに! 本当は聞こえていたんでしょ?」
 懸命に笑いながら、梓はクラスメイトの同意を引き出そうとする。「そういえばそんな気もするな」という声が一つあがったのをきっかけに、同意が次々と広がっていった。
「雄夜が走るって決めなかったら危なかったんだ。良かったことなんだから、変に気にするのはやめとこう」
 後方からの亮の声が、最後まとめた。
 ほっと雄夜は息をつくと、梓の耳元を掠めるようにして「ありがとう」と言う。
 誰の目にも映ることのない、頭上きらめく式神の蒼花も爛々と青く輝く瞳を細める。同時に何かに気付いたようにおとがいをあげた。
『風に意思が感じられます』
 蒼花はそっと声を落とす。雄夜はちらりと視線をあげて、周囲の気配に神経を尖らせた。ざわざわとした生徒達から意識を切り離せば、たしかに不思議な意思を宿す”風”を感じる。



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