[第三話 紅葉、舞う]

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No.05  秋の足音


「菊乃と将斗くんだわ。ほーら、二人とも、情けない格好をやめる! 小学生に笑われちゃうわよ」
「――うん」
 答えると、二人は同時にごそごそと散乱させたレポートをまとめ始める。あまりの覇気のなさに幸恵は困った顔をし、そうだと手を打った。
「さっちゃん、久君。夕飯はうちで食べるとして、それまでの間、学生課の本田さんのところに行ってみたら? 本田さんって、丹羽教授がどんなことに駄目だしするか良く知ってるよね」
「……。――っ! ああっ!」
 がばりと爽子が顔を上げる。ようやく目が普段のきらめきを取り戻したのを見て取って、幸恵はにこりと笑った。
「行ってらっしゃい〜」
 そう言ってひらひらと手を振る。丁度部屋の中に入ってきていた将斗と菊乃は、血相をかえて外に飛びだしていこうとする二人の大学生に目を白黒させた。
「ひ、久樹兄ちゃんに爽子姉ちゃん!?」
 驚いた声を向ける。久樹はやつれた顔に、精一杯の笑みを浮かべて見せた。
「これで絶対に最後の書きなおしにしてみせる! そしたら将斗、うちに泊まりに来いな」
「う、うん」
 迫力に気圧されて、将斗がただ肯く。
 久樹は先に部屋を出た爽子の声に呼ばれて、急いで靴をはくと外に飛びだした。そろそろ学生課の窓口が閉まる時間なので、急ぐ必要がある。
「本田さんのこと、早くに思いだせば良かった!」
 走りだしながら、爽子がくやしそうな声を出す。久樹は不思議そうな目で、幼馴染みを見やった。
「本田さんってあれだろ? 丹羽教授が好きなんだろ?」
「久樹、気付いてたの!?」
「気付くよ、あんな露骨だったら普通気付くって」
「そうよね。気付いてないのって、丹羽教授だけよね」
 しみじみとした声を爽子が上げる。久樹は素直に肯いた。
「丹羽教授のことが好きだったら、丹羽教授が却下する癖も良く知ってるよな」
「違うわ久樹」
「へ? 違う?」
「うん。そっか、久樹は知らないことなんだよね。あのね、本田さんって、卒論を二十回以上付き返された歴代の生徒の中で、唯一、三十回目にして受け取ってもらえた人なの。だからね、悪いけど本田さんが良いと思った文章って、丹羽教授にとっては最悪ってことになるらしいわ」
「へ?」
「本当なのよ! 本田さんに誉められたところを治してから提出したら、レポート受け取ってもらえたって人、沢山いるんだから!!」
「な……なんだかなぁ」
「私もそう思う。相手を好きってことと、相手の好む文章を書けるかっていうのは、別問題みたいね」
「なるほど」
 納得できたような、できないような気持ちで久樹が生返事をする。爽子はそれを気にする様子もなく、丁度帰ろうと外に出てきた本田里奈を見つけて声を上げた。
「本田さんっ!」
 軽やかな爽子の声に、最近髪をショートヘアにした里奈が振り向いて足をとめる。足元は学生課員がはく運動靴であったので、帰宅途中ではなかったことが見て取れた。
「あら、斎藤さんに織田さん」
 夏のあたりまでは、まだまだ学生気分が抜けていなかった里奈も、最近では随分と落ち着いている。その上随分綺麗になったと評判だが、これは社会人になったからではなく、恋を自覚したからだろうともっぱらの噂だった。――本当は、彼女が抱えて来たしこりが、春先に一つ消化したからでもあったのだが。
「まだ仕事中ですか?」
 爽子が息を整えながら尋ねると、里奈は「そうなの」と少し困ったような笑みを見せる。
「高等部の二年A組で、喧嘩があったみたいだって駆けこんできた生徒がいてね。みんな放っておけば良いっていうんだけど、気になって」
「気になる?」
「だって、二年A組なんだもの。斎藤さんたちだって気になるんじゃない?」
 含みのある言葉に爽子は久樹と顔を見合わせる。それから「あっ」と同時に声を上げた。
「二年A組って、智帆くんたちのクラスね」
「そう。だから気になるの。ただの喧嘩ならいいけど、二年A組って仲が良いことでも有名なのよ。クラス全員が仲が良いから、おしゃべり防止に席替えしても効果がないって先生達こぼしてたから」
「そうなんです?」
「うん。そんなクラスで喧嘩がおこった。何かあるって思ってしまわない?」
 伺うような声と瞳を向けられて、二人は言葉に詰まる。
 舞姫を生みだした張本人である里奈は、当然不可思議な現象を目撃している。夏場の事件の際には、情報を智帆に与えたことによって、炎鳳館の門が閉じる現象が解決したのを知っていた。
 里奈は確実に、久樹たちのグループを疑っている。
 高等部へと向かうべく歩き出して、里奈はあっと声を上げた。
「そういえば、私になにか用事があったの?」
 不思議そうに尋ねられて、爽子は慌てて用件を口にする。里奈はなにか不審そうな表情で首を傾げながらも「高等部に行ってからで良いなら」と言った。
「だったら後で待ち合わせするのも面倒ですから、高等部に行くの、ご一緒しても良いですか?」
 気を取りなおした爽子が尋ねると、里奈はさらに何かしらの確信を瞳に浮かべて二人を見つめる。
「やっぱり気になるのね」
「まぁ、智帆くんたちは大事な友人ですし」
「本当にそれだけ?」
 子供のように里奈は唇を尖らせ、
「私、またなにか不思議なことが起きるような気がして仕方ないのよ。……何か、ね」
 と言って、今度こそ歩き出した。
 高等部のある風鳳館までは、学生課のある白鳳館からそう遠くもない。すぐに校門を通って校舎に入り、三人は二年A組のクラスを目指した。
 職員用の昇降口から入ると、放課後特有の雰囲気がゆっくりと彼等を包み始める。廊下にびっしりと並ぶ窓からは、西に傾いた朱色の光が差し込んで、独特の影を生みだしていた。
 遠くから聞こえてくるのは、部活動にいそしむ生徒達の、規則正しい掛け声だ。
「なんだか懐かしい気がしちゃうな」
 先に進む里奈を追いながら、爽子が目を細める。昨年までの学舎を前にして、高校時代の想い出が実感として蘇ってきているのだ。唇には柔らかな笑みが浮かんでいる。
 楽しそうな幼馴染みの隣で、久樹は困惑していた。爽子が懐かしむ高等部での三年間は、久樹が知らない爽子の時間だ。戻ってきて以来、感じていなかった”離れていた実感”が突然に蘇ってきて、久樹はどうも座りの悪い気持ちになっていた。
 三年離れていたのだから、久樹の知らない爽子がいるのはごく自然なことだ。逆をいえば、爽子が知らない久樹も確かに存在する。
 そういえば離れていた三年間の話をあまりしないなと思って、久樹は隣を歩く幼馴染みの横顔を盗み見た。
「どうしたの?」
 隠れて見たつもりだが、気配に爽子は瞳を上げる。懐かしさを呼ぶ高等部の校舎を媒体にして浮かび上がった、久樹の知らない爽子がかき消えて、いつもの彼女がそこにいた。
「うん、いや、なんでもない」
「え? 久樹?」
「なんでもないって。足元、気をつけろよ」
 久樹を見つめていた爽子の足が、ない階段を上ろうとしてバランスを崩す。彼女を抱きとめて支えると、前を歩く本田里奈が目を細めた。
「なんだかいいわね、幼馴染みって」
「え?」
 自然と久樹の腕にすがる爽子が目を丸くする。里奈は悪戯っぽい表情になった。
「まとう空気まで同じみたいに見えるのに、家族じゃないのよ。兄弟にも見えて、恋人同士にも見える。すごく不思議」
「本田さん?」
「うらやましいな。私、丹羽教授のことを何にも知らないのよね。私が生まれたときには、丹羽教授はもう私の知らない時間を沢山すごしていたんだもの。貴方達は私と逆ね。知らない時間のほうが少ない」
 溜息と共に里奈は物憂げに、髪をかきあげる。さらりと指先をこぼれていく髪を見ながら、爽子はなんとなく気付いてしまった。
「本田さん、もしかして丹羽教授に言ったんですか? その……」
 口篭って、爽子は意味もなく久樹を見た。久樹は口を開かずに、里奈を見やる。
「言った。なのに、勘違いしてるにすぎないって言うのよ。ひどいわ」
 里奈は、丹羽に思いを告げていた。
 心に育んでいた感情の名前を見つけ出して、何時の間に相手に告げるまでに育て上げていたのだろうかと、二人は目を見張る。
 舞姫を前に泣きじゃくった、少女だった里奈はもういないのだ。
「諦めないけどね。勘違いだなんて言わせないんだから。髪が元の長さに戻るまでには、冗談で言っているんじゃないって、認めてもらうの。あ、このことはまだ他の人には内緒にしていてね。なんで私ったら、斎藤さんたちには話したくなったんだろう」 
 照れ隠しに早口で告げて、里奈は足を早める。階段から遠くない位置にある二年A組の扉に手を伸ばし、からりと音を立てさせて教室を開いた。
 差し込む西日の中で、生徒達はめいめいの場所に陣取って、何かしらの片付けにいそしんでいる。
「――あれ? どうかしたんですか?」
 はきはきとした声と共に、クラス中央に座っていた女生徒が立ちあがった。ウェーブのかかった長い髪を二つにわけて編み下げた北条桜だ。
「学生課の本田です。ここで喧嘩があったって聞いて確認に来たの」
 自然な物腰で告げながら、里奈の瞳がゆっくりとクラスを見渡す。生徒の殆どは少女たちで、男子生徒の姿は少なかった。袴姿の二人を除いて。
 作っていたものが壊れて騒ぎになりましたと説明する桜を助けようと隣に寄った大江静夜が、入り口付近で立ち止まった二人に気付いて声を上げる。
「あれ? 久樹さんに爽子さん?」
 不思議そうな静夜の声が、女の名を呼んだことに気付いて、床についたペンの汚れをふき取るべく意地になっていた秋山梓が顔を上げた。
 学生課員が尋ねてくるのは分かるが、大学部の生徒らしい男女がそろって高等部に姿を現すのは珍しい。しかも静夜の呼びかけは親しげで、梓は思いきり首を傾げた。
「誰、あれ?」
「友人だ」
 頭上から唐突に答えが降ってくる。
 ひゃあ、と奇声をあげて梓は上を見上げた。踏み台に乗った雄夜が、高窓に紐を結び付けている体勢で彼女を見下ろしている。濡れた衣装用の布を乾かすためだ。
 目を見開く彼女を、言葉を理解していないと判断して、雄夜は再び口を開いた。


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