[第二話 灼熱を逃れて]

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No.02 灼熱を逃れて

 燃える。
 爽子の中で肺腑が煮え、沸騰し、蒸発し、やがて炎を産み落として燃えていく。
「爽子っ!」 
 涼しさをもたらす声が爽子の耳朶を打った。全てが熱を含む中で、与えられた声だけが涼しさを抱いている。救いを求めて手を伸ばし、入らぬ力で差し出された腕に取りすがった。
「ひさ、き……」
「どうしたっ? 大丈夫か?」
「あ……つ、い……」
 目じりに涙をためて、切れ切れの声で訴える。唇から押し出す言葉と共に、肺腑を煮出す熱が吐き出されていくようで、爽子はさらに顔をゆがめた。
 熱い。――あまりに、熱い。
 苦痛を訴える幼馴染に、久樹がしてやれることは少なく、爽子の背をひたすらにさすってやる。その耳に、呆然とした「なんだ?」という声が届いて、顔を上げた。
 二人に背を向けて、大江雄夜が立っている。翼を広げて、朱花が主の背を守っていた。
 凛とした眼差しが睨むのは、ひたすらに前。つられて久樹も視線を流し、絶句する。
「なっ!」
 普通があった。
 背後と側面に広がっているのは、赤黒い塊。高く続く天を覆った煙にまかれた空を照らす、サーチライトの光。それらの異常全てが消え、朱花が炎を放った後に、冷たいほどの静けさを湛えた炎鳳館の廊下が続いていたのだ。
 前を見据える雄夜の拳が硬く握られた。長めの前髪を揺らし、彼は振り向く。
「走れるか?」
「――爽子は、無理だ」
 久樹の腕の中で熱さを訴える細い声は途切れていない。
 雄夜はひどく剣呑な眼差しで爽子と久樹とを見やってから、平穏さを取り戻した廊下へと足を進めた。
「ここなら、熱くない」
「……すまん」
 言葉に甘えて爽子を抱きあげ、久樹は異常から正常へと戻った廊下へと歩を進める。境界をまたぐと、空気が変わったことに久樹は気付いた。驚いて目を幾度かしばたかせる。
 早朝に訪れた神社に充ちる、清浄な空気と例えればよいのか。
「この清浄さ……」
「覚えているか?」
 静かな雄夜の問いかけに、久樹は厳しい表情でうなずく。
 忘れるわけがなかった。この清浄さは、春先に久樹自身が舞姫を浄化させた後に訪れた空気と同じだ。
「けど、なぜ?」
 浄化には、二つの形が或る。
 一つが水がもたらす、鎮め眠らせる浄化。
 もう一つが、炎がもたらす再生の浄化だ。
 大江雄夜は、この二つの浄化の術を持ってはいる。だがその能力が、生粋の炎と水の異能力を持つ者に及ぶことはない。周囲を支配していた凄まじい邪気の力を、完璧に浄化せしめるなど、不可能なはずだった。
 けれど事実、雄夜の朱花は現実に激しい浄化をしてみせた。一体これはどういう事かと悩む久樹の目の前で、雄夜はゆっくりと頭を振る。
「分からないことは考えない。走れないならここに残れ。俺は行く」
「――すまん」
 苦悩が伺える返事に、雄夜は顎を引く。そのまま走り出そうと足を一歩前にだして、ふと、思いついたように口を開いた。
「お前の力は、自分自身の命を守ろうとするときに発動する。お前にとって、爽子さんは命と等価値か?」
 命を守るために力が発動するならば、命と同じほどに大切な者の為にも力は発動するはず。
 少年の眼差しをまっすぐに受け止め、久樹は笑った。
「――ああ」
「分かった」
 久樹は頑張れよ、と激励しようとして、息を飲んだ。
 雄夜が片手をあげた後、笑ったのだ。年相応の素直さをあらわして。
 驚きに声も出せない内に、雄夜の背中は階段に消えていく。久樹は頭をかきまわしてから、廊下の壁に寄りかからせた爽子の隣に腰かけた。
「爽子、あいつ、無表情じゃないみたいだな」
 苦悶を続ける爽子の肩を抱きながら、一つ、久樹は呟く。


 声を励まし叫び終えた後、中島巧は邪気に向き直った。
 名前を叫んだものの、虚ろな立花菊乃の眼差しに理性の色は戻らない。ならば巧に出来るのは、菊乃を邪気から引き離し、浄化を出来る者たちの元へと戻るしかなかった。
『……邪魔をするなっ!』
 慕情をそのまま瞳に封じたような眼差しをする邪気の少年が、闖入者の存在に怒りを燃やす。
 轟、と邪気の怒りは熱となり、周囲の空気を膨張させた。
 すさまじい熱に促されて、陽炎が生まれる。
 ――その怒りが、いかほどなのか。
 ――その怒りが、いかに切実なのか。
 どれほど、悲しい存在であるのか。
 巧は邪気がなぜ少年の形を取っているかを知っていて、将斗は邪気が菊乃に執着する理由を知っている。
 泣き叫びたい気持ちを抑えるために、巧は奥歯を音がするほどに噛み締めた。続けて、勢いをつけて駆け出す。
 まさか形振りかまわず、巧が突進してくるとは想定していなかった邪気が、面食らった表情を浮かべて一歩下がる。その隙を突いて、呆然とした面持ちでたたずむ菊乃の手を巧は取った。
 伝わるぬくもりに、命の灯火を痛いほどに感じ取って、安堵したのは巧だったのか、将斗だったのか。
「ごめんっ」
 一つだけ叫び、巧は菊乃の手を引いてきびすを返す。操り人形のような菊乃は、抗いもせずに促されるまま動き出した。
 全開にしておいた教室の扉を越え、背後を振り向かずに飛び出す。困惑から立ち治った邪気もすぐさま飛び出てきた。
 背を、邪気の悪意が打つ。
 あたかも殴打されているかのような痛みを巧は堪えた。
 少年に従って走る菊乃の表情に変化はない。けれど、これだけの悪意を向けられて、少女が辛くないわけないと巧は思った。防御をと考えると同時に、彼の瞳が変化する。
 ――橙色。
 道を塞ぐ障害を破壊せしめた時に、起きた変化とまったく同じ瞳の色の変化だ。
 瞳から派生する光は、すぐさま茶色がかった透明の膜を生み出し、二人の身体を覆う。何時もならば、これ程のことをする為には、かなりの集中時間を要することだった。だが今の彼は、おそろしいほど容易に能力を行使してのける。
『巧、右だっ! 階段を下りろっ!!』
 大地の力が発動すると同時に、将斗の声が巧を打つ。迷わずに従兄弟の声に従って、巧は菊乃の手を掴んだまま、階段に踊り出た。
 階段を、何者かが駆け上がってくる音が響く。下の踊り場から漆黒の影が舞い込んで来て、巧が声を上げた。
「雄夜にぃ!」
「来いっ」
 鋭い声を放つと同時に、雄夜は両手を大きく左右に広げた。巧に従っていた大地の橙花がまとう光が力を増す。炎の朱花は空に舞い上がり、水の蒼花は水を招来した。
 式神は、主の側にある時にこそ、最大の力を発揮する。
 朱、橙、蒼の光をまとう式神が放った力が、巨大な隔壁を作り出して階段入り口を封鎖する。邪気の放った力も、そこで遮断された。
 三つの式神が能力を発揮する稀なる光景に、雄夜の背後に駆け込んだ巧が息を飲む。彼の知っている雄夜は、三つの式神を自在に操ることは出来なかったはずだった。
「雄夜にぃ……え!?」
 声をかけようとして、言葉を止める。振り向いた雄夜の瞳が、金色に変化していくのを目撃したのだ。巧は、自分自身の瞳も変化したことには気づいていない。
「金……?」
 ぞわり、と。巧の背筋を悪寒が走る。
 瞳の色が変化する現象は、酷く不吉なことの前触れのように巧には思えた。裏付けのない戦慄に足を止めた巧を、雄夜が睨む。
「巧、走れっ」
「え?」
 我に返り、巧は雄夜を見上げた。瞳の色が変化した以外は、普段と変わるところは一つもない。不機嫌そうな顔を見上げているうちに、先ほど抱いた不思議な怯えが消えていくのを巧は感じた。
 雄夜は肯き、巧の肩を軽く叩く。
「二人を途中で拾って、今すぐ静夜の元に戻れ。その子の意識を取り戻させるまでの時間稼ぎは、俺がしてやる」
「――う、うん。でもさ」
「大丈夫だ」
 爛々と輝く、金の瞳。
 殆ど黒一色でまとめられている雄夜の中にあって、金に燃える瞳はひどく異質だ。
 ――それぞれが持つ力を象徴する色に、染められた瞳。
 何ゆえこのような事が起きるのか、理由は巧にも雄夜にも分かりはしない。分かるのは一つ、今の状態ならば一人でも邪気と対峙出来るという確信だけだった。
「分かった。雄夜にぃ、行って来る!!」
 巧は凛と答えると、菊乃の手を引いて走り出す。
 雄夜は子供らの後ろ姿を見送ろうとして、動きを止めた。ついで耳朶を打つ、破壊音。
 邪気の足止めをしていた光の隔壁が、突破されていた。破壊された壁の破片が光の雪となり、空中を舞う。
 足を、進めてくる。
 ぞわり、ぞわり、と。悪意を衣のように引きずる音を立てて、近づいてくる。
 黒くたゆたう湯気をまとい、邪気である少年が、黒い蒸気の合間から顔を覗かせた。艶のない黒い髪、怒り以外の感情を宿さぬ瞳。
 雄夜は対峙する相手を初めてしかと見つめて、軽く、右手をあげる。ぴくりと蒼花が反応し、主に寄り添った。
「水」
 低い言葉が、皮膚にぬめりを与える湿度を切り裂いた。蒼花は心得て光を放つ。相反する能力を持つ炎の朱花は翼を収め、主の肩に舞い降りた。
『許さない』
 邪気が言う。
 蒸気をまとい、怒りを燃やしながら。
 蒼花が顎を開いた。空気が動き、一箇所に集中する。中心地で光が一瞬弾けた後、水の塊が現れた。
 球体をした水の核は、周囲の水を吸収し、凄まじい速さで巨大化していく。雄夜を押しつぶすほどに膨れ上がった刹那、蒼花は咆哮と共に水を放った。
 うねりをあげて、水が邪気に襲いかかる。
 邪気は両手を持ち上げ、強烈な熱気を放った。蒼花の放つ水を利用し、さらなる蒸気を生み出そうというのだ。
 蒸発する水と、蒸発せずに邪気を押し流そうとする水。
 本来ならば視界は白濁するところだが、邪気が作る蒸気は黒くよどんでいる。まるで灰塵の中に佇んでいるかのようだった。
 水と蒸気とが激突し、争いあう光景を雄夜は睨む。見極めるような眼差しが一瞬細められ「朱花、橙花っ!」と雄夜は声を上げた。
 橙花が床を蹴る。
 翼を広げ、朱花も舞い上がった。
 咆哮と、大気を切る翼の音が走る。
 邪気の周囲で激震が生まれ、炎の雨が降り注いだ。
『燃える?』
 襲いくる炎と、足場を揺るがす振動に、邪気が掠れた声を上げた。その声に含まれる怯えの色を感じとって、雄夜が目を見開く。
 人が置き忘れた激情から産まれる邪気は、豊かな感情を持つことはない。邪気が持つ感情の多くは、怒りや憎しみ、嫉妬、そして破壊への衝動などに偏っているのだ。
 だが、今、邪気の顔には怯えがあった。
 空から降り注ぐ炎の雨を見つめて、魂を奮わせるような苦しげな声を上げた。
 なにか異質なものを感じて、雄夜は改めて邪気を見直す。両手で頭をおさえて震える表情に、はっと息を飲んだ。
 ――似ていた。
 その顔は、雄夜の知る人間の顔に良く似ているのだ。
「何故だ?」
 疑問に頭を支配されかけて、雄夜は首を左右に振った。
 怯えに打ち勝った邪気が、再び熱をまとい始めている。先程とは桁違いの怒りが、雄夜の周囲の空気を震わせていた。
 体勢を立て直し、雄夜はじりじりと移動を始める。邪気を巧から離す為にも、少しでも遠くに移動しておきたかった。

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