[第二話 灼熱を逃れて]

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No.01 灼熱を逃れて

 前に前にと押し出す足が、何度も絡まって転びそうになる。それをぐっと堪えて、巧は懸命に走り続けていた。
 左右を流れる景色は、歪な形をした赤黒い塊ばかりだ。けれど廊下を走る彼の眼差しは、真っ直ぐに伸びる炎鳳館の廊下を正確に捉えている。
 光射す場所にある真実を見抜く川中将斗の能力が、巧に現実の姿を見せているのだ。
 塊によって塞がれた行き止まりに、巧は迷わずに突っ込んでいく。
 彼の周りにある塊は、真実ではないが存在はしている。突っ込めば、はじき返されるのが関の山だった。
 けれど封鎖された塊の直前で、闇夜を照らす月明かりに似た光が、巧の体を覆う。同時に瞳の色が変化した。
 目撃者がいれば、息を呑んだはず。
 赤みがかった茶色をしていた巧の瞳の中央に、金色に似た光の点が生まれていた。それは瞬時に拡大し、黒目全体が橙色に染めあがる。
 ぴたりと子供に従って走る、式神の橙花の瞳と同じ色だ。
 ――夕日に照らし出された大地の色。
 瞳から派生した光は次第に少年の身体を包み込み、さらに外へと広がっていく。目前に差し迫った赤黒い塊をおもむろに飲み込むと、封鎖を瞬時に消し去って見せた。
『真っ直ぐっ!』
 凛とした子供の声が、巧を導いて響く。
 巧は今、自分自身の目が現実を見ているのか、それとも将斗の瞳が見ているのかの区別がつかなかった。異常な状態なのだが、違和感はない。不思議なほどに素直に、己の瞳がなくなり、他人の瞳が己を支配する現実を彼は受け入れている。
 障害を全て打ちこわし、巧の瞳は見慣れた教室を捉えていた。
 六年C組。――中島巧と、従兄弟の将斗が通う教室の扉。
 ほんの数時間前、この教室の中で味わった恐怖を、巧は忘れていない。けれど、恐怖に怖気づく暇は一秒とてなかった。この中に立花菊乃が居るのだ。
 想像が正しければ、巧と将斗の二人が原因となって、彼女は今危険な目にあっている。
 少年は手を伸ばし、扉に触れた。迷いなく、扉を右に引く。
 どくん、と心臓が跳ね上がった。
 簡単に開いた扉の先に青白い影が佇んでいた。生気のない青黒い顔色をした灰色の少年と、うつろな眼差しの少女だ。
 教室の外をしめる赤黒い炎の形の塊は室内にはなく、がらんとした荒れ野を思わせる風景が生まれていた。黒っぽい粉塵が巻き起こり、佇む二人を囲んでいる。
 地面に突き立つ黒く炭化したものは、柱の名残のよう。
『きくえちゃん』
 少年が愛しそうに呼びかける。
 少女は虚ろな眼差しのまま顔をあげた。
 手を伸ばす少年と、伸ばされた手を掴もうとする少女。
 巧の全身の毛という毛が総毛立ち、彼は思い切り息を吸い込んだ。
「菊乃ちゃんっ!」
 伸ばされた手を掴んではいけないことを、巧は知っている。
 まさか、と思っていた。
 そんなことは、有り得ないとも巧は思っていたのだ。
 けれど、現実にソレは存在し、目の前で悲劇を作り上げている。
 端を発したのは、幾日前のことだったのか。
 少年は手を伸ばす。
 菊乃は手を差し伸べる。
 巧はもう一度、将斗の想いも声にこめて、叫んだ。


 身体の力が抜けた子供の身体を抱えて、秦智帆は渋面を作っていた。
 腕の中の子供は、意識を失っているだけではなく、異質な能力までも身体から手放そうとしている。
 肉体は意識を満たす為に存在する器なのだと、智帆は考えていた。
 体だけあっても、それが個になることはない。中に意識が満たされて初めて、個となるのだ。逆に言えば、器の中に満たされる意識が変われば、個も変わってしまうことになる。
 智帆たちの周囲には、常に人々が忘れて置き去りにしている意識が山ほどある。人の危害を加えるほどまで成長していない邪気であればごろごろしているのだ。
 意識を失い、異能力までも失っている子供の身体は、器を欲しがる邪気たちを呼び寄せる格好の好餌だ。気を張り詰めて警戒しておかねば、とんでもないことになりかねなかった。
「一体何事だよ……」
 突然の出来事に、智帆の苛立ちは募る。
 友人の舌打ちに、体力が落ちて荒い息をつき始めていた静夜が振り向いた。先ほど智帆を驚かせた青い瞳は今はなく、紅茶色がそこにある。
「智帆、変だと思わないか?」
「――何がだよ」
「将斗と、巧の異能力。……突然に、開放されすぎだと思うんだよね」
「……そうだよな」
 二人、静めた声を口にする。
 妹である菊乃の身を心配する立花幸恵は、彼らからは離れた場所で、炎鳳館の方角を見つめていた。眼差しは祈りを捧げる者のような真摯さに満ち溢れて、少年達の不思議な行動には気づいていない。
「将斗も巧も、こんなに簡単に異能力を使えてしまうなんて変だ。それに――」
「なんだよ?」
 口ごもった静夜に、智帆が続きを促す視線を向ける。
「……僕らの力も、なんだか不気味なくらい上がってきているって、思わない?」
「やっぱ、そう思ってたのか」
「そりゃあ、思うさ。確かに僕らはこの変な力をコントロールすることは出来てたよ。でもさ、そうそう沢山使えてたわけじゃなかった。身体に負担がかかることは分かってるから、無意識にセーブしようとしてきたんだよ。なのにさ、最近……いざって時に使える力の大きさが、やたらと大きい気がする」
「反動で消費する体力も天井知らずってところだろ?」
「うん。………使える力が大きくなったっていうよりも、単に簡単に無理が出来るようになってきたっていうか」
 考え込むように目を伏せた、静夜の長い睫毛を見つめながら、智帆は隠れて息を落とした。
 異能力そのものが増しているのもあると智帆は思う。遠方にいる双子の雄夜との同調を保ちつつ、隣の人間と会話するなどといった芸当は春には出来なかったことだ。それを、今の静夜はさらりとこなしている。
 しかも本人の言葉とは裏腹に、無理をしてやっているとは思えない。
 良いことのはずなのだが、ひどく不吉な気がして、智帆は思案にふける。先程目撃した蒼い色に染められた静夜の眼差しも思い出して、智帆は首を振った。
「雄夜たち、あとどれくらいで、巧に追いつきそうなんだ?」
「あと、少し」
 呟いて、静夜は視線を将斗に落とす。
 倒れ付した少年の身体はぴくりとも動かない。けれどごく僅かに、将斗の身体から伝わってくる空気に緊張が含まれ始めている気がする。
 巧が邪気の下に辿り着いた可能性は高い。
「……雄夜……」
 呟き、静夜はさらに意識を集中するべく目を細めた。


 雄夜はこれ以上はないほどの不機嫌な表情を作って、道なき道を進んでいた。
 時間の流れを感じさせるものを持たない炎鳳館の中では、巧とはぐれてからどれだけの時が経過したのかは分からない。焦りだけが先行し、雄夜の苛立ちは最高潮に達している。
 大江雄夜と最高の相性を持つ式神、炎の朱花を出せば道を阻む赤黒い塊の排除など簡単だ。けれどすでに大地の燈花と水の蒼花を出している状態で、静夜の結界の補助もないまま朱花を呼ぶのはためらわれる。
 雄夜が使役する式神は、元は強大な力を保持する邪気であった存在たちだ。
 人に影響を及ぼすほどに巨大になった邪気でも、長く形を保つことは出来ない。けれど何事にも例外は存在し、時には長い時を経ても浄化されずに残る邪気も或る。
 その例外から生まれたのが雄夜の操る四つの式神なのだ。
 使役者である雄夜は、式神を手足のように扱うことが出来る代わりに、邪気が保持していた恐ろしいまでに激しい破壊衝動を引き受けることになる。二つの式神の衝動を受け入れることは可能だが、三つの衝動を長い時間受け止める自信は雄夜にはなかった。
「ちっ」 
 するどく雄夜は舌打ちをする。
 静夜が示す場所を目指すには、前方を防ぐ塊のバリケードが邪魔だ。迂回してこれ以上のロスを作りたくない。
 鋭い視線を背後に投げて、久樹と爽子を確認する。危機を迎えていない久樹に、炎の異能力の発現は望めない。一時的に水の蒼花を下げることも雄夜は考えたが、彼らの周囲は高熱に取り囲まれている。遠く離れてしまった巧の身体も、水の蒼花が守っているのだ。下げるわけにはいかなかった。
 雄夜は迂回路と、手の平に握りこんだ式神召喚の札を交互に睨んだ。どちらを選択しても、危険は高い。ぎりっと拳を握り締め覚悟を決めると、雄夜は久樹をにらみ付けた。
「おわっ!」
 最も眼光鋭い雄夜に睨まれて、久樹が声を上げる。傍らの爽子も驚いて目を見張った。
「今から炎の朱花を出す。もし俺が破壊衝動にとらわれて全てを破壊しようとしたら、お前はどうする?」
「どうするって……いや、いきなりそんな事を言われても」
 返答に困って久樹は頭を掻く。ごまかされた事を怒ってか、雄夜の眼差しはさらに剣呑な色を深めていった。
「――。まぁ、俺の力ってのは危機になったら発動するらしいから、破壊衝動に雄夜が取り付かれても、俺と爽子はどうにか助かるんじゃないかな。うん」
「助かる自信はあるんだな?」
「ああ、まあ、な」
 久樹は雄夜が何を悩むのかに気づいて、少し笑んだ。
「――なんとかしてみる。だから、やってくれよ」
 親指を突き出して大丈夫だとアピールし、久樹は爽子を抱き寄せる。二人の様子に納得して雄夜は頷き、握りこんだ札を眼差しの高さに持ち上げた。
「――朱花っ!」
 低い声が炎鳳館の重い空気を切り裂く。札は地面に落ちる前に炎をまとい、清廉な光を走らせながら、翼広げる鳥をかたどった。
『ご命令を』
 朱花の音ならざる声が脳裏に響く。
 雄夜を安心させる為に抱き込まれた久樹の腕の中で、斎藤爽子は目を見開いた。雄夜の全てを圧する声と和して、爽子の心臓が激しく鼓動を打つ。それは次第に熱をもち、彼女の内側から全てを燃やし尽くすほどの激しさに変じていく。
「いや……」
 爽子がかすれた声と共に久樹の腕を振り払ったのと、雄夜が朱花に静夜が示す目的地までに存在する障害物を消し去るように命じたのとは、同時だった。
 目の前で発生した熱量と、雄夜の周囲にたわむ空気とが、瞬時に膨れ上がってはじける。久樹が打たれたように顔を上げた。
 闇の中に光る猫の眼差しのように、金に光ったのは雄夜の眼差し。
 同時に、久樹は一瞬見た。
 朱花を操る雄夜の宿した金の光と、まったく同じ色に染まった爽子の瞳とを――。


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