[第二話 灼熱を逃れて]

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No.04 屍のない死
 立花菊乃は、初等部炎鳳館の廊下を歩いていた。
 彼女の周囲を彩る景色の流れようが、異常なほどに早い。右側に並ぶ窓ガラスが、目を一つまたたかせる間に、すばやく後方に流れ去っていった。
 それでも、菊乃の足は、あくまでゆるやかに動く。
 瞳は熱病に犯されたような虚ろさで、前を見つめている。目をこらせば、彼女の前を走る白い影が見えた。彼女は今、それだけを見つめている。前を駆ける影は、ある目的に従って、菊乃の視界から消えない位置を保って移動し続けていた。
 菊乃の側を仄かな光が走った。はかない蝶のような光は、ふわりふわりと動きながら、少女の首筋のあたりを舞い始める。光は将斗の力の象徴だ。
「理科室の前っ!」
 鋭い声を上げて、将斗は興奮のままに目をあけた。視覚は周りの映像をすぐに捉えて、息が触れ合うほど側近くにあった、伏せられた眼差しを見つける。仰天して、少年は反り返った。
「わぁっ」
 唇からこぼれた声を塞ぐように、白い手が伸びてきて将斗の口を抑えた。伏せた眼差しの持ち主は立ち上がり、水色の燐光をたたえた手を胸元に添える。
「――理科室」
 ひそやかに呟き、瞳をあらわにした。将斗は一連の少年の動きを見つめていて、紅茶色の瞳に重なった、青い光の胎動を見つけて息を呑む。
 将斗は今まで、異能力を利用する際に、目の色が変わる現象は見たことがない。
「静夜兄ちゃん?」
 息を飲み、静夜の手を引いた。
 将斗が見た光景を、水を媒体にして、遠くの蒼花に伝達させる試みを行っていた静夜は驚いて顔を下ろした。
「なにかあった?」
「今、目、青かったー」
「誰の?」
「静夜兄ちゃんの」
「は?」
 細い首を静夜は横に傾ぐ。不思議そうな仕草に、目が青い色をたたえた自覚を静夜が持っていないことを、将斗は悟った。
「なんか、脈打つみたいにさー。青く、光ったよ」
「……変だね」
「うん」
 目の上に手を乗せて、しばらく静夜は考える。けれど答えは出ず、飽きたのか首を振った。
「いいや。こういうことは、後で考えよう。とにかく、今は雄夜たちを炎鳳館の中に導くのが先決だから」
「分かってる」
 力強く肯いた子供の肩に、再び両手を置いて静夜は笑む。
「将斗は、菊乃ちゃんの居場所を掴んだ。あとは僕らが助けるんだから、大丈夫だよ」
「うんっ!」
 再び精神集中をはかるべく将斗は目を閉じる。異能力を行使する少年の意識にあわせるために、静夜もまた目を閉じた。
 傍らで智帆は携帯電話がかき鳴らす保留音を数えている。全員が散会した直後、智帆は即座に本田里奈に連絡を取ったのだ。
 里奈は、すぐに切羽詰っている智帆の気持ちを察したらしい。
 春先の事件を当事者として体験したからこそ、焦りを理解出来たのかもしれない。里奈はメモを直ぐに探すと言い残し、携帯を保留にした。
 保留音が、幾度目かのループに入る。何度目かと智帆が考えた時、唐突にそれは途切れた。かわりに「ごめんねっ」という声が耳に届く。
「えっとね、陽炎が出た場所なんだけれど。一つずつ言っちゃっていい?」
「頼みます」
「一番多いのは炎鳳館。六年C組、体育館、保健室、職員室、視聴覚室、正面玄関寄りのサッカーのゴールポストの側。それから、白鳳館一階の食堂、白梅館十階のエレベーター側、白鳳と白梅をつなげてる桜並木の真ん中。これだけよ」
「……わかりました。ありがとうございます」
 用件を聞き終えると同時に切ろうとした智帆の耳に、待ってっ!と里奈の鋭い声がかかる。
「なんですか?」
「何か無理をしようとしてない?」
「全然」
「信用できない、その言葉。今どこにいるの。私も行く」
「つつしんで辞退申し上げます」
 飄々と答えて電話を切り、智帆は携帯を離して切りのボタンを押す。ついでに長押しをして、電源も落とした。智帆は眼鏡の下にある垂れ気味の目を剣呑に細める。
「共通性は炎鳳館と――こいつらだな」
 首をひねり、真剣な様子で静夜の助けを借りて異能力を行使する将斗を観察する。将斗と巧が菊乃に危害を与える邪気に関係しているとは思えないが、状況はそう言っているのだ。
「でもなぁ」
 邪気は人が抱く強い思念が集まって、そこら中で生まれている。実をいえば、邪気とはそれほど特殊な存在ではない。特殊なのは、周囲に影響を与え、危害をおよぼすまでに膨れ上がった邪気のみなのだ。
 邪気がそこまで脅威の存在に変じるのは、珍しいことだった。
「春先に一つ。この夏に一つ。いくら炎があるからって、これは多すぎるだろ」
 なにやら嫌な予感に囚われて、智帆は身震いをする。
 茜色に染められた空に誘われて顔を上げた。夏の太陽は中々のしぶとさを見せていて、まだ空に浮かんでいる。けれど所々に、群青の色合いが押し迫ってきていた。
「――月の光を邪気は好むよな」
 智帆が呟いた先で、静夜が立ち上がった。ふっくらとした唇が僅かに開き、いくつかの指示を飛ばしている。閉ざされた瞼は僅かに開いており、長い睫毛が影を作っていた。
 その、隙間から。
 将斗を驚かせた青い光が静夜の瞳に重なるのを――否。瞳が、完全な青に染められているのを見た。
「……静……夜?」
 あまりのことに智帆の声は震えていた。


 静夜の指示を伝える蒼花の声に耳を傾けながら、一同の先頭を大江雄夜は走っていた。
 炎鳳館の入り口は完全に閉ざされており、入る隙間などは一つもない。けれど将斗は確かに、本来ならば入り口が存在する場所から、菊乃が入っていくのを見たと言ってきている。
「一旦、蒼花を下げる」
 言葉少なに告げると同時に、雄夜は手の平で空を包み込むような仕草をしてみせた。彼の目前で、空を泳いでいた小型の竜の姿をした式神・蒼花の姿がかき消え、朱色の炎が湧き上がる。
 高い攻撃的な能力を保持する存在であり、最も雄夜との相性が高い式神、炎の朱花だ。
「朱花っ!」
 雄夜は式神に一声かけて巧の肩を前に押した。主人の声に、心得た朱花が翼をはためかせる。
「へ?」
 いきなり前に押し出された巧は、何をすれば良いのか分からずに、間抜けな声を上げた。
 僅かに遅れて炎鳳館の前に辿り着いた久樹と爽子は、立ち尽くした子供と、前を睨む雄夜と、炎をまとう朱花とを交互に見やる。
 既に召喚されていた式神・大地の橙花が、巧を促して、首を少年のふくらはぎに寄せた。
「巧くん、橙花と一緒に、大地を呼んでくれってことなんじゃない?」
 言葉の少なすぎる雄夜の考えを補おうと、爽子が声をかける。あっ!と声をあげると、巧は足元で大人しく待っている橙花を見やった。
 夜の闇を煌々と照らす、オイルランプの光にも似た橙花の眼差しが少年を見守る。式神は人の言葉を操るが、今、なぜか橙花は意思を言葉という形にしようとしなかった。
「よしっ!」
 元気の良い声をあげると、巧はしゃがみ込んで地面の上に手をついた。アスファルトに覆われた下で、息づいている大地の波動が伝わってくる。普段よりも伝わってくる感覚が強いのは、側に橙花が居るからだ。
「来いっ
 鋭い声で命じのに合わせて、高い咆哮を橙花があげた。天高く舞い上がり待機した朱花が、邪気が作り上げる力を浄化するべく、炎を放つ。
 物理的に閉ざされた入り口を破壊するのは、巧と橙花が鳴動させた大地だ。引き起こされた振動が、下腹部のあたりにズンと重い衝撃を走らせる。
 爽子が小さいが、悲鳴のような声を上げて座り込む。
「爽子さんっ?」
 巧が心配そうに振り向くが、雄夜は少年に初恋の相手に駆け寄る暇をあたえない。そのまま、巧の腕を取って駆け出してしまう。
 座り込んだ爽子の腕を久樹が取った。
「爽子、どうした?」
「今……何か……」
「何か――なんだ?」
「ひどく、熱い何かが、私の中に入ってきたような気がした」
 巧の異能力が発動した瞬間だった。
「そりゃ、陽は落ちてきたけど、夏は暑いからな」
「そうじゃない。そうじゃなくって、何か、別の……」
 眉根を寄せて、爽子は必死に考える。久樹は幼馴染の目の前で手を振って見せた。
「とりあえず、考えるの、後にしないか?」
 やたらと低く、抑揚の欠いた声を久樹が突然に絞り出りだす。驚いた爽子が顔を上げると、今度は悪戯な笑みを浮かべてみせた。
「久樹?」
「こういう時、智帆だとか静夜とかなら、こんなことを言いそうだろ?」
 おどけた口調で肩を竦める。爽子はじっと久樹を見つめ、それから顎を引いた。
「そうね。それが正しい。追いていかれて見失う前に、行きましょう、久樹」
「ああ」
 勝気な表情を取り戻した爽子に、久樹は笑みを向ける。続けて、異様な暗さの中に埋没する炎鳳館を見やった。邪気に巣食われた空間。自然、桜の花びらに閉じ込められた春先の恐ろしい出来事を思い出す。
 中では、何が起きるか分からないのだ。
 久樹は手を爽子に伸ばした。まるで小さな子供のようで恥ずかしいと思う気持ちはあるが、一度でもはぐれるような事態に陥るよりはよいと思う気持ちも、彼の中にある。
 不思議そうに伸ばされた手を見つめた後、爽子はこくりと頷き、手をそこに重ねた。



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