[第二話 灼熱を逃れて]

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No.01 屍のない死
 濡れ鼠になった体を湯船に横たえて、菊乃は水面をじっと見つめていた。
 思い立って、小さな手を合わせてお椀の形にし、お湯をすくいとる。それを頬に叩きつけることを繰り返し、彼女は目をしばたかせた。
「なんか、ぼーっとする」
 姉の立花幸恵が入れてくれたお風呂は、菊乃の一番好きな温度だった。暑い夏にはぴったりの、ぬるめのお湯だ。長く入り続ければ湯あたりもするだろうが、そこまで浸かってはいない。
「なんなんだろう」
 言葉を口の中で転がしながら、また、小さな手でお湯をすくい取る。
 気分が落ち着いてみると、先ほど起きた出来事の奇妙さが、痛いほど菊乃の胸を締め付けていた。
 こんなはずはなかったと、菊乃は小さな胸で思う。
 もうすぐ夏休みが始まって、彼女は姉と二人で帰省する。一ヶ月以上も川中将斗と会えないのが悲しくて、せめて夏休みが始まるまでは側にくっついていようと思っていた。
 菊乃は将斗が大好きだ。
 優しくて、真っ直ぐで、本当に強い。
 少し舌ったらずな喋り方をするので誤解されているが、本当はとても大人っぽい所を持っていることに菊乃は気づいている。
 だが菊乃は自分の発見を、他人に漏らしたことはなかった。
 将斗の本当を、自分だけが知っていると思うと、胸がきゅっと締め付けられるような気持ちになる。苦しいような、甘いような、そんな気持ちになるのが少し楽しい。
 今日、図書館の整理を手伝ってくれと将斗にせがんだのも、単純に一緒にいたいからだった。――まさか、あんな不思議な出来事に遭遇するとは想像だにしていなかった。
 昼下がりの、明るさに満ちているはずだった教室内。
 菊乃が今まで見たこともなかった、鋭い目で声を張り上げていた将斗。蒼白な顔で、硬く目を閉じていた中島巧。そして、あの赤。
 ぞっとする。ぶるりと体を奮わせた拍子に、洗った髪についた雫が水面に弾けた。
 赤かった。あれは本当に、赤かった。
「菊乃を……見てた……よね」
 夏になると、心霊番組だとかを見ることがある。怖い半分、興味半分で、菊乃は幸恵と一緒に良く見ている。あれが本当かどうかは考えたことはない。だが。
「あれ、幽霊なのかなぁ」
 改めて考えてみると、それしか思い当たることがない。
 炎鳳館では、突然回りが奇妙なことになった。もうダメだと思ったときには、突然土砂降りに見舞われた。――あれは本当に奇妙だった。
「隣のクラスに、霊感強いって言ってる子がいたよね。ちゃんと話し聞いておけば良かった。菊乃、嘘っぽいって笑っちゃったよ」
 堂々巡りを続ける思考をもてあましながら、菊乃は考える。
「でも、将斗くんかっこよかったな」
 結局はそこに落ち着いて、菊乃はにこりと笑った。
『きくえちゃん』
 声。
 まどろみの時間のような他愛もない考えが吹き飛んで、菊乃は目を見開く。
『ねえ、きくえちゃん』
 水面が泡立つ。
 体を取り巻く蒸気の白が、凄まじい勢いで狭い浴室内を占領していく。
 ぽたり、と。上から赤。
『ここにいたんだね。きくえちゃん』
 声。
 息を吸う。
 赤い雫が水面を汚す。
 息を吸う。一つ、二つ。苦しくなる。
 息は吐き出さなければダメだ。そして――。
「きゃーーーっ!!」
 絶叫。


「菊乃!?」
 ミキサーにちぎったバナナを放りこみ、牛乳を追加していた幸恵の手が止まった。
 隣でサラダスパゲティを作成していた斎藤爽子の体も硬直する。
「今の……菊乃ちゃんの……」
 爽子が全てを言い終える前に、幸恵は中身が入ったままの牛乳パックを、乱暴にシンクに放って駆け出した。立つことが出来なかった牛乳は倒れ、白い液体をぶちまける。慌ててそれを持ち上げてから、爽子もキッチンを後にした。
 幸恵が長くもない廊下を走って浴室のドアをあけると、湯船の中に沈みこんでしまった妹がそこいた。蒼白になりながら幸恵は飛び込み、妹の体を抱き上げる。指先を口元にそえると呼吸が触れて、泣き出したいほどに幸恵は安堵した。
「幸恵っ!」
 遅れて飛び込んできた爽子の声に、幸恵は途方にくれた顔で振り返る。
「菊乃が、おぼれかけてたの。お医者さんに見せないと。元気そうだったのに。もしかして病気してたのかな」
「落ち着いて、幸恵。康太先生に来て貰おう。幸恵は、菊乃ちゃんに服を着せてあげて」
「うん」
 頼りない声を出して、のろのろと幸恵は菊乃を抱えて立ち上がる。水場から出るところまでは見守ろうと爽子が手を伸ばしたとき、ソレを見た。
 ぽちゃん、と。水の中に吸い込まれるようにして消えた。
 黒いもの。そして赤いもの。
 目をしばたたかせ、改めて水面を見やる。先ほど見たと思った何かは、もうそこになかった。だが、一瞬ではあるが爽子の目に焼きついていた。
 黒いものは、髪だった。水の中で広がった、誰かの髪だった。
「さ……幸恵、さっき菊乃ちゃんを助けた時、赤くなかった?」
 友人の腕を支える手の力を無意識に強め、爽子が問う。真剣な瞳に、幸恵は怪訝な表情を向ける。しばらく考える色を瞳にたたえてから、緊張を走らせた。
「赤かった!! 菊乃、怪我したの!?」
 幸恵が焦って腕の中の菊乃をみやる。外傷はどこにもなく、血が流れた様子は一つもない。それでも安心できず、幸恵は妹をかき抱いた。
「大丈夫よ、焦らせてごめんね。ごめんね、幸恵。ベッドに寝かせてあげよう。それにもうすぐ、久樹たちが戻ってくるわ」
「……うん」
 よろよろと立ち上がり、幸恵はバスタオルを取って濡れた妹の体を拭ってやる。動揺してはいるが、ベッドに運ぶまでは出来ると爽子は判断し、携帯電話を取りに走った。
 大江康太の携帯番号を呼び出して押す。響く呼び出し音、一つ一つがやたらと長く感じた。三つ、四つ、数えたところで別の音に切り替わる。
「爽子ちゃんだね。何かあったのかな?」
 のんびりとした声が響いてくる。
 配布されている携帯電話には、生活指導の教師や保健医などの電話番号が登録されており、緊急ならば24時間電話することが許されていた。
「康太先生。すみません、今すぐ白梅館一階にある立花幸恵の部屋に来てくれませんか?」
「んー? 別に構わないよ。でも、どうしたんだい?」
「初等部三年の、菊乃ちゃんが湯船で倒れたんです」
「倒れていた? それは大変だ。分かった、直ぐに行くよ。あ、そうだ。お土産に、町子さんのケーキを持っていくね」
「そういう場合じゃないんですって、康太先生っ」
「分かってる、分かってる。でも、爽子ちゃんが落ち着いてないと駄目だよ。えっと、幸恵ちゃんは冷静にしている?」
「なんとか」
 大江康太はのんびりとした性格で、頼りがいのあるようにはあまり見えない。だが、彼は白梅館に住む生徒達全ての名前と、或る程度の性格を把握している。――実はかなり優秀な男でもあるのだ。
 すぐに行くからという言葉を残して、康太との電話は終わった。


 熱があるわけではないのだが、菊乃の体が温まりすぎているような気がして、幸恵は氷枕を作って妹の頭の下に入れてやった。
 薄いタイルケットの下で、妹の胸が正確に上下しているのを、じっと幸恵は見つめる。
「……菊乃」
 やつれを伺わせるかすれた声で妹を呼ぶ。
「幸恵。すぐ、康太先生くるって。病院にいくかどうかは、康太先生に判断してもらおう」
「うん。ねぇ、さっちゃん。菊乃、大丈夫だよね」
「大丈夫よ」
 根拠など一つもないのだが、明るく爽子は明るく肯定する。
 きんこん、と家のチャイムがなった。立ち上がろうとする幸恵を抑えて、爽子が立ち上がってパネルに向かう。ブラックアウトしていた画面に光が入り、玄関外の様子が映し出された。
「久樹、将斗くん。今、あけたから入って来て」
 声をかけて、鍵の解除ボタンを押す。僅かな電子音にかぶさって、扉が開く音が続いた。
「よっ。――ん、爽子、どうした?」
 先に将斗を家の中に押し込みながら、久樹が幼馴染の顔色に気づいて尋ねる。爽子は眉を寄せた。
「あのね、久樹。さっき、菊乃ちゃんが浴室で倒れちゃったの」
「菊乃が!?」
 久樹よりも低い位置から、将斗が先に驚愕の声をあげる。爽子はうなずき、寝室を示した。
「幸恵が部屋に運んだわ。眠ってる」
「俺、行ってもいいか?」
 女姉妹の寝室に入るのは、初等部六年にもなるとためらいを覚える。走り出したいだろうに、わざわざ確認してきた将斗に目を見張り「ちょっと待ってて」と爽子は踵を返した。
「爽子、康太先生にはもう連絡したのか?」
「うん。すぐ来てくれるって」
 足は止めずに、返答だけを口にして歩いていく。
 爽子の後姿を見送りながら、両手の拳をぎゅっと握り締めた将斗の肩に久樹は手を置いた。
「落ち着け」
「でもっ、でもさーっ!! 邪気のせいかもしんないんだ、菊乃が倒れたのってっ!」
「多分、その可能性が高いんだと思うさ。でもさ、俺らが焦ったってなんの解決にもなんないだろ」
「そうだよ。だってさ、俺、側にいたって何も出来なかったんだっ。菊乃も危なくなったのに、俺には何も出来る力がなかった。なんでだよ、今回なんて、菊乃が危なくなってるのも見えなかったぞっ!」
「命の危機がありそうな奴しか見えないんだろ? そこまでは危なくなかったってことじゃないか」
「そうだけど、そうだけどっ!!」
「いいから。落ち着け」
 肩に置いた手を、軽く持ち上げ、そして下ろす。
 僅かな、けれど優しい衝撃に、将斗は目を見張った。今、これをやってきたのが智帆や静夜だったら、将斗は泣き出していただろう。頼って、助けてと縋っただろう。けれど今後ろにいるのは織田久樹だ。能力を持ちながら、能力を自在に行使できない――多分、将斗の仲間。
「――悔しい」
「そうだな」
 子供扱いするわけでもない、ひどく穏やかな声で久樹が同意する。
 部屋に入っていった爽子が戻ってきて、将斗に向かって手招きをした。


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