[第二話 灼熱を逃れて]

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No.03 現か真か
「菊乃?」
 水滴を落としながらの帰宅に、菊乃の姉の立花幸恵は呆気に取られた声を出した。恥ずかしそうに将斗の後ろに隠れて、大好きな姉を上目使いで見上げる。
「大変っ! 風邪ひいちゃうわ。将斗くんもびしょぬれね。きっと凄い雨がふったのね」
 細い首を傾げながら、幸恵はタオルを持ってくる。将斗に一つ渡し、もう一つのタオルで、妹を手元に抱き寄せると顔を拭いた。
 くすぐったそうに、菊乃が少し逃げる。姉は穏やかに笑った。
「はい。じゃあ、すぐにシャワー浴びておいで。将斗くんも、次に浴びたほうがいいわ。んー、でも服の変えがないね。どうしようか」
「……一度、家に帰るから、いいよ」
 気恥ずかしそうに、将斗が答えると、菊乃が不安そうに振り向く。「すぐにまた来るって」と素早く言うと、菊乃に笑顔が戻った。
 二人の子供達が行動する様子をみながら、幸恵が手を頬に当てる。
「天気予報もあてにならないね。やっぱり、傘は毎日持って歩くべきかしら」
「サチ。雨なんて降ってないぞ。無実の罪を気象庁にきせるなよ」
 横から久樹が口をはさむ。え?と幸恵は驚いた顔になった。
「じゃあ、水道管が破裂したの? 物騒ね」
「サチ。その想像力って、どこから沸いて出るんだよ」
 次から次へと、妹がびしょぬれになった予想をあげて行く幸恵に、久樹がこらえかねた笑いをこぼす。珍しくむっとした表情を浮かべて「だって、あんなに濡れるのって相当のことでしょう?」と、幸恵は口答えをした。
 奥から、エプロンをした斎藤爽子が顔をのぞかせる。
「幸恵、お鍋沸騰しているから火を緩めちゃったけど、良かった? あれ、誰か来ていたの?」
「うん。妹が帰ってきたの。将斗くんと一緒だったんだけど、びしょ濡れでね。菊乃は今シャワーを浴びてる。将斗くんも、一回戻って着替えてから来るって」
「そう。でも、なんでびしょ濡れになんて」
「でしょう。さっちゃんも不思議でしょ? なのに、久君ったら、いろいろ考えるなってからかうのよ。私のこと」
「久樹、幸恵のことからかうの好きだから。気にしないでやってよ」
 くすくすと笑いながら、お鍋見てきなよと幸恵の背を押す。それから同じようにキッチンに戻ろうとして、ふと、爽子は久樹を見やった。
「どうしたの?」
「ん? 俺、なんか変か?」
「そうね。珍しいくらい真面目な顔してるわ」
「俺だって真面目な顔くらい結構するぞ」
「まぁ、一年に五回くらいはね。で、どうしたの、本当に?」
 久樹の表情は真面目なだけではなかった。幼馴染みだから分かるが、なにかしらの緊張も見て取れる。
「いやさ、将斗と菊乃ちゃんの様子、なんか変だったなって思ったんだよ」
「ああ、将斗くんきてたの。それで、変って?」
「全身ずぶ濡れでさ。それに将斗の奴、なんか切羽詰った顔してたんだよ。まるで何かを警戒してるみたいなさ。巧だったら、まぁ時々そういう顔するけど。将斗があんな顔してるのは、はじめて見た」
「切羽詰った。……ねぇ、久樹」
 ふっと、形の良い眉を爽子が寄せた。
 邪気が出たかもしれないと言った巧の言葉を思いだす。それが現実だったのかもしれない。
「……久樹、将斗くんに話を聞いた方がいいんじゃない? あと、智帆くんたちが今何どこにいるのかも」
 邪気が出たのならば、将斗以外の面々がすでに動いているだろうと見当を付ける。
「だな。とりあえずは将斗に話を聞いてみるか。っと、爽子、サチが呼んでるぞ」
「うん」
 頷いて、爽子は部屋の中へと消えていく。久樹は後姿を見送りながら、腕組みをした。
 不可思議な能力がある。そして不可思議な現象があった。
 まるで物語の中の出来事のようなこと。
 水が迸り、風が大気を裂き、大地が割れる。主の声に従う式神たち、遠くの出来事を見破る眼差し。そして炎。
 ほんの半年前まで、久樹も爽子も知らなかった現実だった。そしてその超常現象を起こす異能力を――自分が持っているなどということも。
 邪気という存在がある。それらは人が残した感情の塊が集結し、力を得た存在で、生きている者達に悪影響を与えた。邪気を活性化させて力を向上させる能力を持つのが、炎だ。
「しっかしなぁ、あれ以来、俺の炎はまたどっかに隠れちまったみたいだし」
 終わりを迎えない舞台から飛び出してきた悲しい邪気を浄化した時は、息をすることと同じほど自然に、炎を操れたのだ。けれど今は、炎を感じることも出来ないでいる。
「邪気が再び現れたとしてもだ。俺が原因じゃないよなぁ。また邪気に力を与えてたなんて事になったら、洒落にならないぞ。今度こそ雄夜に殺される」
 大げさに身を震わせて、久樹は「将斗迎えに行ってくる」と、声を室内に投げて部屋を後にした。


 夕焼けに染められる廊下を、一人将斗は走る。
 白梅館の十階には、彼の従兄弟と兄にも似た友人達が多く住んでいる。けれど今は、そのどれもが無人であろうことを、将斗は知っていた。
 十階は、電気系統の故障が発生している階でもある。
「なんにも、起きないよな。っていうか、起きるなよー」
 何か起きても対処する術が自分にはない。怖いわけではないが、それを再認識させられるのは正直嫌だ。
「俺、なんか出来ないのかな」
 川中将斗が秘めている力は光だ。攻撃能力は保持していないが、本当ならば、巧よりも攻撃的な能力であるらしい。智帆と、静夜の二人が前に教えてくれたのだ。――多分、雷を操れるはずだ、とも。
「雷。どうやんのかなー」
 ううん、と首をひねる。そうしている間に部屋に辿り着いて、将斗は生徒証明カードを差し込んだ。ピッと音がして、鍵は解除される。扉を開けると、締め切られて滞留した室内の空気の、わずかな匂いが鼻を突いた。窓を開けるのはいつも巧だったから、空気が滞留したと思うと胸が痛くなる。
 巧と将斗は従兄弟同士だが、両親が同族会社を作っていたので、生まれた頃から一緒に暮らしている。双子ではないが、双子のようなものだと、将斗は思って生きてきた。
 二人の周囲で不思議な現象をおき始めたのは、小学校にあがった頃のことだった。
 気づくと、地面に亀裂が走っている。そこに足を取られて、巧の妹の諏訪がよく転んでは泣いた。埋めても、埋めても、亀裂は走る。それが繰り返された時、将斗は見たのだ。ぎゅっと唇を引き結んで、強情そうな表情を浮かべていた巧の足元から、亀裂が走り始めたのを。
 驚いた。心から仰天した。従兄弟の肩を掴み、巧の足元から地面が割れていくと叫んいた。
 巧は妹をとても可愛がっていた。諏訪も兄が大好きで、たどたどしい足取りでよく二人に付いてきていた。妹が亀裂に足を取られて転ぶたびに、巧は誰がやったんだと悔しがっていた。
 不用意だったと今は分かっている。
 亀裂を作るのが巧自身だと知れば、どれだけの衝撃を受けるか。──小学校一年生だった自分は分かっていなかった。
 巧は家を飛び出して、その日は帰ってこなかった。次の日も、次の日も、帰ってこなかった。
 小さい諏訪は火がついたように泣いた。兄を呼び戻そうというように、体力がなくなるんじゃないかと心配になるほどに、泣いて。
 将斗の異能力が目覚めたのだ。
 途方にくれた目をした巧が、公園で座り込んでいるのが見えた。映像はかなりクリアで、将斗は看板に記された名前を読むことも出来たのだ。
 親に見えた公園の名前を叫んで、車で迎えに行った。
 あれが、両親と自分達の間に、溝が生まれた最初の日だったとも気づかずに。
「……なんか、落ち込んできたぞー」
 家に巧がいない。それだけで、なにやら不安な気持ちが競りあがってくるのが情けない。とにかく、急ぐことにした。もともと風呂は烏の行水なので、急ぐのに苦労はない。手早く着替えて、乱暴に髪を拭き、外に飛び出る。
「よっ」
「久樹兄ちゃん!?」
 玄関を出たところで、壁に寄りかかって腕を組んでいた久樹が声をかけてきた。まさか人がいるとは思っていなかったので、将斗は目を丸くする。
「いや、なんか様子が変だったからな。迎えにきた」
「俺をー、わざわざぁ?」
「まぁな。こうみえても、俺は最年長者だ」
「いばるなよー。久樹兄ちゃんより、智帆兄ちゃんとか静夜兄ちゃんのほうが頼りがいあるぞ。貫禄だったら雄夜兄ちゃんが上だ」
「それを言われると、胸が痛い」
 大仰に胸を抑えて前屈状態になる。その態度がおかしくて、将斗は吹き出した。
「変な久樹兄ちゃんー」
「そういうお前は、普段どおりに戻ったな。で、さっきから気になったんだけどな、巧は?」
「……病院」
「病院? なにがあったんだよ」
「あのさー、久樹兄ちゃん。その前に聞いていいかー?」
「いいぞ」
 質問くらいで、了解なんぞ取らんでもいいだろと続けて、久樹は将斗を見下ろす。将斗は最も年嵩でありながら、能力の面では最も頼れない久樹の目をじっと見つめた。
「久樹兄ちゃんさぁ。春ん時、自分のせいで邪気が活性化してさ。でも解決する手段がなかったとき、どう思った?」
「どうって?」
 質問の趣旨がわからんと、久樹は首をかしげる。将斗は苛立たしげに、拳を握った。
「だからー、そんなの俺のせいじゃないーとか。何にも出来ないなんて、悔しいとか。どうでもいいやー、とかさっ!!」
「ああ、そういう意味か。そりゃ、やるせなかったな」
「やるせない?」
「助けてやりたいって思うんだよな。本田さんのことも、あの邪気のことも。で、助けたいって思うのはいいんだが、俺には助ける手段がない。だからやってくれんのを待つわけだが。待ってると、あいつらは勝手にどんどん怪我をしていく。かといって、本田さんを見捨てるわけにもいかない。だからやるせなかった」
「平気じゃなかったんだー?」
「そりゃあないさ。あの可愛げのない高校生どもはどうでもいいが、お前らまで怪我してたからなぁ」
「可愛げないって言ってたって、伝えていいー?」
「やめてくれ。俺は一生苛められてしまう」
「情けないよ、久樹兄ちゃん」
「俺も今、そう思った。でも、いきなりどうした? なんか、気にしてるのか?」
 やんわりと、久樹は智帆に尋ねる。
 邪気に力を与えることが出来、邪気を完全に浄化することも出来る両極端な炎を久樹は持っている。けれど彼は能力をコントロールできず、自由に使う事も出来ないでいるのだ。
 やるせない、と。久樹は言う。
 その気持ちは、今の将斗とまったく同じだった。
「あのさー、また邪気が出てきてんの」
「なんだって?」
 久樹に緊張が走った。真剣な反応に、邪気を他人事のように思ってないと理解して、将斗は少し安心する。
「陽炎がね、出るんだ。陽炎が出た場所では、あとで電気系統の故障が起きてる。この階だけ空調が壊れたのも、その為じゃないかなーって思うよ。それだけで済めばよかったんだけどさー。邪気は今日、姿を見せた。巧はそのせいで、倒れちゃって。何故か菊乃が狙われてる」
「菊乃ちゃんが?」
「うん。なんかさー、呼ぶらしい。あの邪気が。菊乃のことをさ」
「だったら早く戻ったほうがいいな。それで、そのことを高校生どもは知ってるのか?」
「知ってるよー。俺と菊乃が襲われた時、静夜兄ちゃんが助けてくれたし。おかげでずぶ濡れになったけど」
「静夜が将斗に結界をかけたってことは。攻撃があるかもしれないと、判断したってわけだ」
「うん。でもなー、智帆兄ちゃんも静夜兄ちゃんも、あんまり頼れないんだよ。あの二人、凄い暑さに弱くってさ。かなりへろへろなんだ。あれで強がりだがら学校休んじゃいないけど。保健室で寝てるとき多いって聞いたー」
「……まぁ、確かに今年の猛暑は異常だ」
「異常すぎー! 雄夜兄ちゃんも、テスト前で人外になりかけてるし」
「なんだそれ?」
「あのねー、雄夜兄ちゃん頭は悪くないけど、勉強嫌いなんだよ。しかも暗記が大嫌い。でもさ、テストでよい順位取っとかないと、大学部はいるときに試験うけないとダメになるじゃん。だから、智帆兄ちゃんと静夜兄ちゃんが、徹底的に教え込むんだよ。そのせいで、雄夜兄ちゃん人格破壊寸前まで毎回いっちゃうんだ」
「……それはまた、恐ろしげな」
「恐ろしいらしいよー。だからさ、なんか……」
 普段ならば、頼れる相手を、頼ることが出来ない。
 しかも一緒に動いていた従兄弟は病院で眠ったままで、すぐ傍にいる菊乃には危険が及びそうになっている。
「俺、邪気がきても、防げるようになりたいなー」
「……そうだな。俺も、そうなりたいな」
「久樹兄ちゃんも?」
「ああ。そりゃそうだ」
 にこりと笑う。久樹は将斗の背を押して、立花家へと急いだ。


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