[第二話 灼熱を逃れて]

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No.01 現か真か
「今年は暑いから、熱中症患者が凄く多いのよ」
 内藤医院の医院長の一人娘である内藤町子は言いながら、診察の時だけかけている眼鏡を、静かに外した。
「もう大丈夫かな」
「ええ。大丈夫だと思う」
 投げられた心配そうな声に、町子は頷く。良かったねぇ、たっ君と続けた声の持ち主は、彼女の恋人の大江康太だった。
「炎天下に、水分も取らずに運動でもしていたんでしょう。今年の暑さは危険なの。俺は大丈夫、なんて思ってはいけないのよ」
 振り向き、町子は恋人にむかって静かにささやく。「保健医として、肝に銘じておくよ」と康太は答えて、ベッドにへばりついている将斗の肩を叩いた。
「さあ、もう行こう。たっ君のことは、今晩預かるって町子さんが言ってくれたよ」
「……でもさー」
 振り向かずに、将斗はこんこんと眠っている巧を見つめる。
 内藤町子も、大江康太も、中島巧は熱さにやられて熱中症になったと思っている。けれど将斗は、従兄弟が倒れた原因が違うことを知っていた。
 突然に飛び込んできた、危機の光景。
 今更だが、今まで将斗と巧は一人きりの状態で邪気と対峙したことが殆どなかった。基本的に、側に戦闘能力にたけた年嵩の少年達が側にいてくれて、守ってくれてきたのだ。
 こうして目を覚まさない従兄弟を見つめていることで、邪気が恐ろしい存在だという現実が、痛いほど将斗の胸を締め付ける。
 頑なに巧の側から離れない将斗に、康太は困惑した。将斗に相手にして貰えずに困っている菊乃も、将斗を見つめている。
 そんな二人の間を静かにすりぬけて、大江静夜が将斗の前で膝を折って小さく囁いた。
「将斗。巧には僕が結界をはっておく。あとで雄夜に言って、式神をつけさせるから、心配しなくていい。それより、菊乃ちゃんを家に送っていってあげないと駄目だ」
「……静夜兄ちゃん……」
 泣き出しそうな顔のまま将斗は静夜を見上げる。静夜は少女にしか見えない顔立ちに、少女ではありえない強さをたたえて笑うと、軽く将斗の肩を叩いた。
「大丈夫。将斗にも結界を張っといてやる。元気になれるだろ?」
「うん」
「よし。じゃあ、男の子として、女の子を送っていってあげな」
「うん」
 素直に二度頷いて立ち上がると、将斗は町子に向かって頭を下げ、菊乃に手を伸ばす。
 将斗が声を掛けてくれるのを待っていた菊乃は、ぱっと笑顔になって、駆け足で側に寄り添った。それから嬉しそうに、差し出された手を取る。二人仲良く医院から出て行くのを見送ってから、息を一つはいて、静夜は巧の眠るベッドサイドに腰掛けた。
「静夜君も、経口補水液を飲んでおいて。これからはこまめにね。ところで智帆君は? 康太さんが連れてきたでしょう?」
「え? ああ、智帆なら、開いているベッドを見つけ出してそこで寝てるんじゃないかな」
「智帆君ったら。あのね、静夜君。智帆君に言ってくれない? 病院は仮眠所じゃないのよ、って」
「うーん、そうだとは思うんだけど。でも、智帆もかなり病人だから、許してやってくれないかな」
「……それはそうなんだけど。もう、仕方ないわね。でも急病の患者さんがきたら、どいてもらうからね」
 童顔で睨まれても怖くはないのだが、一応怖い素振りをしてみせて、静夜は頷く。二人のやり取りを見つながら、気付いたというように、ポンッと康太が手を叩いた。
「しーちゃんはどうするんだい? もしかして、ここで巧くんに付いているつもりかな」
「そのつもりだけど。駄目かな」
「ええ!? 静夜君、うちの医院は完全看護よ」
「知ってる。だから特例ということで」
「だめ。だーめ。智帆くんは仕方ないから患者として預かるけど、貴方は駄目よ。ちゃんと帰りなさい」
 本人はさらに眼光を鋭くしているつもりで、睨みを強くする。
 静夜は息をもらし、そっと叔父である康太を見上げた。
「ねぇ、町子さん」
「なに? なんで康太さんを見ながら、私に話し掛けるの」
「どうせいつか、身内同士になるんだし。ちょっと位、身内の僕がここに泊まっても、問題ないって思わない?」
「身内……?」
 きょとんと首を傾げて、町子は静夜と、静夜が見上げている康太を見やる。
 大江康太と、大江静夜は仲の良い叔父甥の関係で、町子と康太は恋人同士。そして町子と康太が結婚することになると――。
「……。…………。し、しず、静夜君っ!!」
 ようやく意味を理解して、町子は真っ赤になって声を荒げる。さらに叫ぼうとした気勢を制し、静夜はにっこりと笑った。
「いいでしょ、町子姉さん」
「―――っ!! も、もう、勝手になさいっ!」
 今にも沸騰するのではないかと思えるほど、顔を鳳仙花のように赤く染めて、町子はくるりと背を向けた。それから大急ぎで部屋を出て行ってしまう。
「しーちゃん、町子さんは何を怒っていたんだろうね?」
「さあ。気になるんなら、慰めてみたら」
「そうだね。うん、そうするよ。じゃあ、しーちゃん。たっ君のことは頼んだよ」
 にこにこと笑うと、そのまま康太は外へと出て行った。
 静けさの戻った室内で、こんこんと眠っている巧を見やり、それから静夜は目を伏せる。
「静夜」
 殆ど音を立てずに、扉が開いた。目をあげると、黒ずくめの青年――いやまだ少年の年齢の男が立っているのが見える。静夜の双子の片割れだ。
「雄夜。来たんだ」
「式神が騒いだ」
「だろうね。ちょっと、巧が危ない目にあった」
「なにがあった?」
「良く分からない。でも、巧の周囲に残っていた気配は――ひどく嫌な感じがする」
 眠っている巧に視線を流しながら、静夜は息を落とす。
 ――陽炎が立った場所で、必ず電気系統の故障が起きる。
 噂を聞きつけてきたのは巧だ。いくら暑さで思考能力が低下していたとはいえ、きちんと聞いてやっていれば良かったと静夜は思う。そんな双子の片割れを見て、雄夜は突然手を伸ばして静夜の髪をかき回した。
「……なに?」
「いや、別に」
「まさか……人の頭を撫でたつもり?」
「――その……」
「そうなんだ。あのねぇ、雄夜。人を弟扱いするのも、いい加減にしろよ。子供じゃあるまいし」
「静夜が後悔してるように見えた」
「……。だからって、慰めてくれなくっていいよ。それより」
 立ち上がり、静夜は歩き出して、窓辺に寄る。
 内藤医院の窓からは、白鳳学園が良く見える。将斗を連れて白鳳学園から出ようとした瞬間、あたかも全ての水分を瞬時に蒸発させられるような感覚に襲われたのを、静夜は覚えていた。
 なんだと思った瞬間、将斗が振り返って硬直したので、何もなかったフリをしたのだ。――あの巨大な思念は、一体なんだったのか?
「何が起きるっていうんだろう。久樹さんの炎の能力は、春先の事件以来完全になりを潜めて、邪気に影響を与えなくなったと思っていたんだけどな」
 首を傾げる。
 返事を求めない独白を続ける静夜の声を聞きながら、雄夜は無言で首を振り、鮮やかなま白い色で飾られた札を取り出し目の高さまで持ち上げた。
「白花」
 低くささやくと、手の中にある札に純白の光が集まった。外を彩り始めた夕焼けの色とは異なる、どこか秘密めいた印象のある光。それが心臓の鼓動を打つように脈打った後に一気にはじけ、金色の目をした猫が現れる。
『お呼びで?』
 言葉ではなく思念を飛ばしてきて、猫が雄夜に語りかける。
「白花、巧を守れ」
『かしこまりました』
 賢そうな金色の瞳を細めると、白花は軽々と跳躍し、眠る巧の顔の隣で丸くなった。そうしていると、まるで普通の猫が主人にじゃれているようにしか見えない。だが、その猫は決して普通ではないのだ。
 大江雄夜が操る、四つの式神の一つ。風の白花。
 元は邪気であったのだが、邪気が持つ破壊衝動を雄夜が肩代わりすることによって、彼等は理性ある行動を取り、主に従う存在になった。
「静夜。あれ、雄夜も来てたのか」
 再び扉が開くと、垂れ目を眠そうに細めた秦智帆が現れる。「ベッドを追い出された?」と静夜が聞くと、まぁなと智帆は苦笑した。
「ここは空調もばっちりだし。おかげで頭もさえてきたし。ちょっと、起きたことを整理するかな」
「そうだね」
「その前に。雄夜は帰る」
 冷たい声で、智帆が雄夜にむかって命令する。
「……。何故だ?」
「明日、まだテストだし。それとも明日のテストを、徹夜しないでもクリアできる自信が有るのかな? 雄夜くんは」
 意地の悪い笑みに、うっと雄夜が言葉に詰まった。
 冷房のきいている病院に、暑さから逃げてきたのが智帆と静夜だ。そして雄夜は、邪気の気配にテスト勉強を捨てる口実を手に入れて、大喜びで出かけてきたというわけだ。
「なんか、情けなくない? 今回の僕等って」
 溜息を静夜がつくと、偉そうに智帆は腕を組む。
「全ては暑いのがいけない」
「夏は暑いと相場が決まっている。お前等が暑さに弱すぎるだけだ」
 不遜な表情で割り込んできた雄夜を、智帆は「寒さに弱いくせに」と冷たくいなした。


『きくえちゃん』
 耳元でささやくような、声。
 川中将斗に手を引かれ、夕焼けの始まる空の下を歩いていた立花菊乃は、え?と声をあげた。
「菊乃? どうした?」
 突然立ち止まった菊乃の様子に驚いて、将斗が声を掛ける。
「今、将斗くん、菊乃のこと呼んだ?」
「いいや。別に、特別に呼んじゃいないけど」
「そう、だよね。それに……」
 細い首を、そっと傾げる。
 今、耳元でささやかれたと思った名前は「きくえ」だった。けれど、自分自身の名前は菊乃であって、きくえではない。
 将斗は不思議そうな顔をしながらも、菊乃が再び歩き出すのを待って、せかそうとはしなかった。そんな心遣いが嬉しくて、とりあえず、聞こえた奇妙な声を菊乃は忘れることにする。
「なんか、さっき変なことが沢山あったね」
「だなー」
「あれ、なんだったんだろう。お化けだったら、菊乃、怖いなぁ」
 ふるふると首をふり、手を取ってくれている将斗の顔を見上げる。少年はどこか難しそうな表情で、わかんない、と首を振った。
「でも、変なのがいたのは事実だったよな」
「うん。居たよ。菊乃には、男の子に見えたの。将斗君には?」
「俺にも、男の子に見えたよ」
 まるで炎をまとうようにして、少年は佇んでいた。すりきれた衣服をまとって。あの少年の形をした邪気は、たしかに居たのだ。
 ――きくえちゃん。
 邪気は言った。しかし、きくえ、というのは誰なのか。それに、なぜあの邪気が現れたとき、自分は菊乃を少年に見せてはいけないと思ったんだろうかと将斗は考える。
「将斗君」
 考え込んでしまった将斗の気を引こうと、つないだ手を、大きく菊乃が振った。瞬きを一つして、将斗は横を見やる。
「なに?」
「あそこ。将斗君の友達だよ」
 菊乃は真っ直ぐ、炎鳳館の方角を指差す。校庭の端で、確かに同じクラスの男子生徒たちが五人ほど、固まっていた。
「……。なにやってんだ、あいつら」
「行ってみる?」
「え? いや、別に……」
「なぁに?」
 流石に菊乃の手を引いたまま、クラスメイトの側に寄るのは気恥ずかしい。けれどそれを菊乃に言うわけにいかず、将斗は口篭もる。そうしている内に、校庭に集まる子供達の方が、将斗と菊乃に気付いた。
「将斗っ! ちょっと、こっち来いよっ!」
「えっとー」
 菊乃をみやり、クラスメイトの顔を見やる。それを交互に繰り返す将斗に、苛立たしげな声を、クラスメイト達が重ねてぶつけてきた。
「なんか変だぜ、学校がっ!」
「え?」
 ――学校が、変。
 内藤医院に行く前、炎鳳館全体が陽炎に包まれた光景を目撃したことを、将斗は思い出す。さっと顔色を変えて、今度は迷わず、菊乃の手を握ったまま将斗は駆け足になった。
「なにが、どう変なんだよーっ」
「ないんだっ!」
「え?」
 ぎょっとした声を出して、クラスメイト達が唖然とした顔で見つめる先を将斗も睨む。
 一見、ごく普通に佇んでいるように見える、炎鳳館。
 だが。奇妙だ。

 決定的に奇妙なのだ。

 あるべきはずのものが、ソコから消失してしまっている。
 炎鳳館の校舎に入るために、必要不可欠なもの。――正面玄関入り口がない。
「なんだよ、それ」
『きくえちゃん』
 ――声。
 突如冷たく吹いた一陣の狂風が、佇む少年少女たちの皮膚を遡った。まるで、首筋を突然舐め上げられたかのような不快さが、子供達を襲う。
「きゃあっ!」
 菊乃が切羽詰った悲鳴をあげた。咄嗟に手を引いて、将斗は菊乃を炎鳳館の敷地外に押し出す。続けて、「外に出ろっ!」とクラスメイト達にむかって叫んだ。


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