[第二話 灼熱を逃れて]

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No.04 陽炎立つ
 凄まじい音を響かせて、川中将斗は踏み台から転げ落ちた。
「将斗くんっ!」
 突然の出来事に仰天し、咄嗟に一歩下がった立花菊乃が悲鳴を上げる。
 転落の拍子に、踏み台は書棚に衝突していた。おかげで整列させ終わっていなかった棚上部の本が、ばらばらと転落してくる。それが落ちた将斗の上に積もるので、細い悲鳴を再度あげて、菊乃は駆け寄り、本をかきわけた。
「将斗くん、将斗くん、将斗くんっ!」
 菊乃の目には、早くも涙が浮かんでいる。
 虚空を睨んで微動だにしない将斗の肩を、小さな手で揺さぶる。なんだよーと言いだしても良さそうなのに、反応は一つもない。菊乃はわっと泣き出して、立ち上がって保健室へとむかおうとした。
「菊乃っ!」
 突然、将斗が声を張りあげる。
 菊乃の前で殆どあげたことのない将斗の大声に、驚きながら菊乃は振り向いた。
 よろよろと立ち上がりながら、将斗の瞳はある光景を目撃していた。
 瞳が結ぶ映像ではない映像。遠くで起きている、それは現実だ。
 今にも膨れ上がり、はじけそうになった教室内があった。見慣れた机も、椅子も、ぐにゃりと揺れてうつろっている。ゆらりと佇む奇妙な影があった。傍らに、恐怖の色に目を染めている従兄弟の巧の姿がある。
 ――危険だ。
 なにが起きてるのかは分からない。だが、危険であることは痛いほどに分かる。
「お願いだ、菊乃、康太先生を六年C組に連れてきてくれっ!」
「こーた先生を、菊乃が、呼んでくるの?」
「頼んだっ」
 不思議がる菊乃の肩を強く握り締めて、将斗はずれた眼鏡を治した。息を大きく吸い込み、脱兎のごとく走り出す。菊乃はぽかんと見送って、誰もいない場所に「うん」と答えた。それから図書室を飛び出す。
 階段を飛び降りながら、将斗は走った。
 不可思議な能力を持つ一人である彼は、光を指す場所にいる知り合いの姿を見ることが出来る。能力を完全にコントールすることが出来ない為、何時でも出来るわけではなかった。知り合いが危機に落ちたとき、能力は発動されることが多い。
「巧、巧ーーっ!」
 背筋を、ぞっとするような寒気が走り抜けていく。
 巧が佇む場所で起きている異変は、ひどく冷たい願いを予感させた。
 邪気がおぞましい事のは事実だ。けれど死により近いものを核とする邪気の冷たさは、他を遥かに超えている。
 巧が死んでしまうと将斗は焦った。
 階段を二段飛ばしで降りて廊下に滑り出る。両側の壁が、ゆらり、ゆらりと奇妙な形で揺れていた。「巧っ!」と声を嗄らして叫び、目的地の扉に手を伸ばす。刹那、将斗の耳はソレを捉えた。
 巧の悲鳴。『知らない?』と響く邪気の声。
 なんと恐ろしい声だろうか。
 耳にしただけで、とてつもない寒さが、聴覚から全身に広がり支配していく感覚。戦慄に息を呑んだ。ここで負けるわけにはいかない。
「うるせーっ! 負けるかっ!」
 気合をこめて叫ぶと、勢いよく将斗は教室の扉に手をかける。巧の状況を見ていたので、熱いのではと考えていた。だが暑さは感じられず、扉は簡単に開いた。
 どっと、倒れこんでくる体。
 壁にもたれる形で意識を失った巧が、支えを失って後ろに倒れたのだ。将斗は慌てて受け止めて、教室内を確認する。
 ──日差しを受けながら、少年が佇んでいた。
 どこかしら、時代がかった様相の子供。
 栄養状態が悪い。髪はつやを失い、肌はかさついている。何度洗い、そして何度継ぎ接いだのか分からない、ぼろぼろのシャツとズボンを着て、足は素足だった。
 虚ろな眼差しで、少年は外を見ている。
 彼の周囲には赤がある。咲き狂う彼岸花のような赤が、少年の周囲を取り巻いて、散らばっているのだ。
「……お前?」
 意識のない巧を庇いながら、将斗がかすれた声をあげる。佇んでいる少年は初めて将斗に気づき、ゆっくりと振り向いた。
『知ってる?』
 冷たい、それは本当に冷たい声だった。
 再び背筋を駆け上がる戦慄に、将斗の体がびくりと震える。
 日差しを受けて佇む少年は、彼岸花の赤を従えながら、一歩、一歩、歩き始めた。
 将斗は巧の両脇に手を入れて、教室から引きずりだそうとする。けれど中々上手くいかず、進んでくる少年が接近する速度のほうが早かった。
「将斗くーんっ!! こーた先生に来て貰ったよっ」
 声が響いて来た。共同施設である白鳳館から初等部炎鳳館まで、こんなにも早く往復できたとは思えない。途中で戻ってきたのかと考えた将斗の耳に、もう一つの足音が重なって響く。
 確かに康太も来ている。だが、今ここに菊乃を寄せてしまえば――。
「菊乃、こっち、来るなっ!」
『……きく?』
 少年がふわりと顔を上げた。
 将斗と巧にむかって伸ばしていた足を止め、将斗が見つめる先を見ようとする。
 嫌な予感がした。宿題を忘れた日に限って、当てられてしまう気がするあの瞬間に良く似ている。
「菊乃、ダメだ、こっちに来たらっ」
「どうして?」
 将斗の突然の拒絶に、心底傷ついた声で菊乃が足を止める。
 ケーキを買いに炎鳳館の前を横切った時に声をかけられて、共に駆けつけてきた康太は、いけないなぁと間延びした声を出した。
「まぁ君、ダメだよー、そんな女の子に冷たいことを言っちゃ。まったく男の子は子供だね。大丈夫だよ、菊乃ちゃん」
 大江康太は白鳳学園の統括保健医で、大江雄夜・静夜の叔父であり、世界で一番マイペースな男でもある。
「それにしても、なにがあったんだい? おや?」
 将斗が腕に倒れた巧を抱きこんでいるのに、康太が気づいた。
「たっ君、どうしたんだい!?」
 それなりに焦った声を康太が出す。巧のことは心配なのだが、菊乃を遠ざけねばという思いが募って将斗は返事が出来なかった。更に来るなと叫ぼうとした瞬間、少年に将斗は首を掴まれた。
 血脈から侵入してくる、あまりに激しすぎる熱量。人を焼く実際の炎ではないが、喉の器官は一瞬にて干上がり、将斗は一時的に声を失った。
 康太と、菊乃が、将斗の目の前に辿り着いてしまう。
 教室の中に佇んだまま、彼岸花の赤を従える少年は菊乃を見た。
 虚ろだった眼差しに、目的を見つけた意思がきらめき、続けて歓喜の色が宿る。それはあまりに劇的な変化だった。
 将斗や巧が持つ不可思議な異能力を、康太や菊乃が見ることはない。だが邪気の姿は違う。
 かなりの力を持つ邪気は、普通の人間の目にも自らの存在を映らしめるのだ。
「え?」
 菊乃が一瞬にして怯えた顔になった。
 佇む邪気は笑顔になったが、存在はあきらかに異常だ。菊乃は頼る人を求めて、声を出せずに苦しむ将斗の腕にすがる。
「将斗くんっ!」
『――見つけた』
 邪気の少年が手を伸ばし、菊乃の栗色の髪に触れる。
 流石の康太も緊急事態を悟り、普段は見せない敏捷さで少年と子供達の間に割って入る。どうしてか、少年の姿をした邪気が一歩後ずさった。変わりに、凄まじい眼差しで康太を睨む。
 康太は少年の眼光を意に介する様子もなく、急いで巧を抱えあげた。将斗と菊乃を促し、教室の外に押し出す。
 邪気の少年の瞳には、更なる怒りが燃え上がった。
 つ、と。彼の足が扉の下にある桟を踏む。──教室から出れないことはないのだ。
「まぁ君、菊乃ちゃん、もっと下がるんだ」
 康太の緊張した声が響くと同時に、少年が教室から飛び出す。あたかも翼を広げた怪鳥のようなシルエットが、廊下を支配した。
 将斗は激しい危機感を覚えて、隣の菊乃を抱き寄せた。
 切羽詰った状況なのだが、邪気の恐ろしさが分からない菊乃は、好きな男の子に抱き寄せられて、きゃっと可愛い声を出す。
『――きくえちゃん』
 声。
 影が広がり、闇の濃度が増し、そしてまさに全てが食い尽くされる、ほんの僅か手前で。
「将斗、巧っ!!」
 駆け上がってくる足音と、耳に心地よく響く柔らかな声が響いた。
 ざぁ、という波音が、覆い被さってくるシルエットを駆逐する。広がる水色の世界は何処までも美しく、まるで水族館の中に迷い込んだような気持ちにさせた。
 もう大丈夫だと安堵すると、将斗の目には涙が込み上げてきた。ぐっと奥歯を噛み締める。
 邪気である存在は後退した。
 熱に関連する能力を持つ邪気は水に弱い。だから逃げていったのだ。──けれど、どうしてか。水が舞い降りてくる光景に、邪気はほっとしたような恋しがるような色を目に浮かべていた。
 どうして?と思った疑問を発展させる前に、階段から紅茶色の髪と瞳の持ち主が姿を現す。
 将斗は抱きしめた菊乃を離すのを忘れたまま、涙の浮かんだ目で、ぎっと睨んだ。
 喉の渇きは失せていて、失った声は戻っていた。
「静夜兄ちゃんっ! 遅いよっ! 巧、倒れちゃったんだからなー。巧、なんかマズイこと起きてるって思ったんだったら、絶対、静夜兄ちゃん達に言ったろ? なんで、巧、一人で危ないことしてたんだよーっ!」
 堰を切ったように飛び出す声が、次第に鼻声になっていく。
 巧と将斗は二人で組めば超強気のお子様たちだが、単体だと意外に繊細になる。
 意識を失ってしまった巧と、菊乃に危害が及びそうだったことで、今の将斗は完全に混乱していた。
「ごめんっ。頭がどうにも働かなくって、巧が言ってること、十のうち二つくらいしか理解してなくてっさ! 巧の言ってたことが、イコール危険がくる可能性になるっていうのが分からなかった」
「なんでー? なんで分からないんだよー! 静夜兄ちゃん、頭いいじゃんかっ」
「ごめん! 本当にごめんっ」
 両手を顔の前で拝むようにして、膝を折って視線を合わせながら静夜は謝った。
 なんだか分からないけれど、変なのは見えなくなったねと康太が言って、将斗の腕の中から巧を引きずりだす。
「ああ、大変だ熱中症だよ。私はたっ君をつれて、内藤医院に行っているから、落ち着いたらくるんだよ」
「分かった。ああ、昇降口に、熱中症患者第二号が転がってると思うから、それも連れて行ってよ。康太兄さん」
「第二号?」
「智帆。あいつね、ここまで持たなかったんだ。という僕もちょっと……」
 肩をすくめてから、静夜は泣き出した将斗の頭を撫でる。将斗と巧は、弟のようなものだという認識が静夜の中にはある。甘やかしても良い時なら、とことん甘やかしたくなるのだ。
 康太は目を細め「しーちゃんも、水を沢山取るんだよ」と言って、巧を背負って廊下を後にした。
「ねえ将斗、頼むから落ち着いて。それに、彼女そろそろ苦しいんじゃない?」
「……だって。だってさ、静夜兄ちゃんが。……彼女?」
 涙でぬれてしまった将斗の眼鏡をハンカチで拭い、返してやりながら静夜は頷く。
「うん。彼女」
 ふっと、将斗は視線をさげた。見慣れた栗色の髪が、ふわふわと腕の中で飛び跳ねている。
「――うわっ! ごめん、菊乃っ!」
 ばっと離して、将斗は大げさに一メートルほど後退した。
 菊乃は俯いたまま「大丈夫」とか細い声を出す。あまりに声が細いので、問題があったのかと心配になった静夜が顔を寄せた。
「なにかあった? あ、僕は高等部二年の大江静夜。将斗の友達」
「私、立花菊乃です。三年C組です」
 俯いたまま、声も小さいままだが、はっきりと菊乃は答える。
 将斗は菊乃を抱きしめていた動揺から抜け出せずに、壁に張り付いて、口をぱくぱくさせていた。
「それで、大丈夫?」
「うん。大丈夫です。菊乃、別に何もないです」
「本当?」
「あの、ただちょっと吃驚したの。それでね、あのね、お兄ちゃん」
「ん?」
 初めて顔を上げた菊乃に、静夜は柔らかく笑みを向ける。少女のようにしか見えない彼の容姿は、異性に対する警戒心を忘れさせてしまう効果がある。菊乃は顔を赤くしたままにっこりと笑った。
「将斗君に、抱きしめられてね。菊乃、とってもドキドキしたの」
「そうなんだ」
「うん。あとね、お兄ちゃん。ナイショだけどね」
 手招きする。耳を寄せろといわれているのが分かったので、静夜は素直にかがみこんだ。
「泣いてる将斗くんって、可愛いなぁって思っちゃったの」
「……。……そ、そうなんだぁ」
「うんっ!」
 真っ赤に頬を染めたまま幸せそうに笑う菊乃を見て、女の子はませてると静夜は心の中だけで呟いた。とりあえず、そろそろ移動出来るだろうと判断して、立ち上がる。左手を菊乃に差し出し、動揺したままの将斗に右手を向けて手招いた。
「ほら、行こう」
「う、う、うん」
 壁からようやく将斗が離れた。手を伸ばしてきて、静夜の半袖のシャツをぎゅっと握り締める。
「将斗」
「な、なんだよー、静夜兄ちゃん」
「可愛い彼女でよかったな」
 なんでもないことのように、さらりと言う。からかっているつもりは静夜にはないのだが、将斗を絶句させるには充分だった。しかも菊乃が静夜に話し掛けたので、反論するタイミングがない。
 焦るやら恥ずかしいやらで無口になった将斗を連れて、三人は校舎を出る。
 内藤医院までの距離は遠くはない。ゆっくりと歩きながら、落ち着こうと将斗は考える。
「それにしても、さっきのって……」
 静夜とはしゃいで喋る菊乃を見つめながら、将斗はふと、振り向いた。
 昼を過ぎているが、太陽の威力は全く衰えていない。激しい光に照らし出されながら、初等部炎鳳館は佇んでいる。
「きくえ、って」
 言ってたと呟こうとした瞬間、将斗は驚愕に目を見開く。
 視界に入る全てが、今、まさに陽炎の中に取り込まれていこうとしていた。


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