[第二話 灼熱を逃れて]

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No.02 陽炎立つ
 区立図書館は、水先湾の海辺近くにそそり立つ崖の上に立っている。
 潮風は蔵書に良いものではない。湿度と潮風から蔵書を守るために、図書館の気密性はかなり高かった。空調も強めに入っている。
 書籍が並ぶ棚の近くには椅子があり、広まった箇所にはテーブルもおいてある。この辺りは読書以外の使用は禁じられていた。談笑程度のことは気軽に出来るようにと、配慮されているのだ。
 勉強の為には、別に部屋がある。
 児童たち専用のスペースには児童書や絵本が低い棚に並べられている。ぺたりと座ったり、寝転ぶことも出来るようにされていた。
 窓から日差しがさんさんと差し込んでくる穏やかな昼下がり、多くの子供たちが目当ての絵本に集中している。その中で、唇の端をむっと下げた幼稚園児の女の子がいた。
「ねー、おにーちゃんたち、どいてー」
 たどたどしい抗議に返事はない。ムッとした顔になり、手を伸ばしてむんずと髪をつかんだ。
「おにーちゃん、おにーちゃん、おにーちゃんてばー!」
 思い切りよく手を引く。そうされて初めて、スペースの一角を奪っていた二人組の内の一人が顔を上げた。彼らは壁側で体育座りをし、膝の上に額を乗せて今まで眠っていたのだ。
 幼稚園児がつかんだ髪は、ひどく色素が薄い。珍しいことでもないが、見つめ返してきた瞳の色も、透き通ってしまいそうなほどに薄かったので、驚いてきょとりと目を見開く。
「え、っと」
 形の良い唇からこぼれた声は、高くはないが低くもなかった。寝ぼけているのか、声に力がない。肌の色はひどく白く、可憐でもあって性別を掴み損ねて童女は首をかしぐ。
「……お姉ちゃん?」
「はずれ」
 返事が間延びしている。気勢を削がれて、童女は年上の少年を弟でも見るような眼差しで見つめた。
「具合が悪いの?」
「いや、眠いだけ」
「なんでお家で寝ないの?」
「暑くて寝れないんだよね」
 悲しげに言って、ようやく少年が上体を起こす。それで初めて廻りに視線をやって、来た時には無人だった場所に、子供たちが沢山集まっていたことに彼は気づいた。
「ああ、ごめん」
 けだるそうに謝ると、傍らの少年の方を揺さぶる。ううん、と心から切なそうな声を漏らして、ココアブラウンの癖毛の持ち主が顔を上げた。
「眼鏡……、どこだっけか」
「さっき手に握り締めてたよ」
「ああ、そうだったっけ」
 二人ともあまりに元気がない。
「ねー、冬眠中のクマが目をさましたときって、こんな感じかなぁ?」
 二人の前で考え込んでいる童女の後ろで、別の子供が声をあげた。
「冬眠中のクマは、お腹がすいて目を覚ますの。だから、もっと、きっと焦ってるわ」
「じゃあ、んーー、ご飯の前で「待てlって言われて困ってるわんこー?」
「うん。それはいい感じねっ!」
 ご満悦な様子で、童女が頷く。
 二人は子供たちに馬鹿にされていることは理解しているが、反論する気力がない。めいめいだるそうに立ち上がり、怠惰な動きで首を回した。
 あまりに疲れた様子に、日曜早朝に共働きの両親を無理やり起こした時を思い出したのか、子供の一人が「寝ててもいいよ」と言い出す。
 二人は顔を見合わせ、ついで肩を竦めた。
「いいや、向こう行くよ。邪魔したな」
 ぽん、と童女の頭を軽くなでる。
 少年たちは、白鳳学園高等部に所属する大江静夜と秦智帆だ。住まいである白鳳館十階の空調が壊れた上に、記録的な猛暑が襲ってきて、壊滅的な打撃を受けている被害者でもある。
 靴をはいて、立ち上がり、座っていられる場所はないかとぐるりと図書館内を見渡した。
 明日まではテスト期間中なのだが、二人はテスト前に特別に勉学に励んだことはない。同級生からみれば羨ましい限りの話だ。
「智帆にぃー、静夜にぃーっ!」
 図書館内で大きな声を出す者は稀なのに、あろうことか自分たちの名前を呼ばれてしまって二人は振り返る。
「なんだよ、巧。大声出すなよ」
 息を弾ませ、走ってきた余韻のままに足踏みをする巧に、智帆が冷たい声を投げた。「だってさ」と唇を尖らせつつ、巧は二人の手を両手で片方ずつ取る。
「なんか近頃、変なことがまた起きてるみたいなんだぜ」
 得意満面な表情で訴えるが、二人からの反応はない。あまりの無反応に一分は硬直して、巧は取った手を強く振った。
「ねえ、聞いてんのかよ、智帆にぃ、静夜にぃ」
 ゆさゆさと手を振るのだが、やはり反応がない。智帆は垂れ気味の目を細めてあくびをかみ殺し、静夜は完全に上の空だった。
「まったく! 今日の智帆にぃと静夜にぃ使えないぞっ! じゃあ、何があったのか話すから。昼寝しながらでいいから、考えといてくれよなっ!」
 怒りの表情で指をつきつける。普段は巧の言葉に素直に頷くことなどしない二人が、珍しくこっくりと頷いた。
 とりあえず頷いておこうと思ったろ、と巧は内心思う。
 だが話を伝えておきたいのは事実だ。手早く奇妙な陽炎が目撃されていること、目撃された場所で電気系統の故障が起きていることを話す。
 少し興味が湧いたのか、冷静な色を瞳にたたえて、静夜がふぅんと言った。智帆は眼鏡を外し、レンズを拭ってから再びかける。
「奇妙だな」
「だろだろ? もしかしたら、なんかまた邪気が生まれて、それが悪さしてんのかなとか思うんだよな」
 神妙な顔で頷く巧の背を、軽く智帆が押した。
「とにかく、その陽炎が出たって場所が何処なのかを調べる必要があるな」
「じゃあ、一緒に行ってくれんの?」
「まぁな。そのせいで空調が壊れたんだとしたら……」
 巧の目には、そこで智帆の眼差しがきらりと光ったように思えた。底知れぬ迫力に息を呑むと、背後から「絶対に潰す」などという剣呑な声が降ってくる。
 普段あまり強引なことを口にしない静夜のものなので、巧は背筋に冷たいものを感じた。振り向くのも怖くて、とりあえず前に歩き出す。
 背後の智帆と静夜は何かを話し合っているようだったが、巧の動きに合わせて歩き出した。
 図書館の自動ドアがある。その奥には、外のアスファルトの灰色が見えた。地面から三十センチ程度の高さでゆらめいているのは、暑さのために生まれた蜃気楼だ。
 巧に反応して、自動ドアが開く。
 途端に二人は謎の声を発して立ちすくんだ。額を抑えたのが静夜で、三歩後退したのが智帆だ。
「なんだよぉ?」
 開いたままの自動ドアの先で、巧が口を尖らせる。二人は動きを止めたまま、「暑い」とぼやいた。
「……わかったよっ! とりあえず、先に陽炎が発生している場所を確認してくればいいんだろっ! もーう、本当に夏になると智帆にぃと静夜にぃって役立たずだよなっ!」
 腹が立って乱暴な言葉を投げつけてから、走り出す。途中で少し期待して振り向いてみたのだが、やはり二人が追ってくる様子はなかった。
 秦智帆と大江静夜の夏嫌いは、やはり徹底している。仕方ないなあとぼやいて、巧は後ろに回していた帽子のつばを前に戻した。言い残してきたとおり、陽炎についての情報を手に入れておきたい。
 図書館から伸びる道を走り、海岸沿いを走る道路に出る。そこから道なりに進んで、学園のある方向を目指した。
 すぐに店の建ち並ぶ通りに出る。足をとめずに走り抜けようとして、巧はハッと目を見開いた。
 前方から、歩いてくる三人の男女の姿がある。
 一人は中島巧が思いを寄せる相手、白鳳学園大学部一年生の斎藤爽子だ。隣にいるのは視界にあまり入れたくない男で、織田久樹。その隣にもう一人女性が歩いている。
 光沢のあるストレートの黒髪を風にゆらせて、優しげに笑っている。その顔には見覚えがあって、あれ、と巧は首をかしげた。
「誰だっけ? どっかで見たぞ。えーっと」
 しかも、つい最近見た記憶が確かにある。
 思い出せずに、巧は軽く自分のおでこを指ではじいてみた。それでも思い出せないので首を振っていると、歩いてきている三人の方が巧に気づく。
「巧くん?」
 肩までのブラウスに、タイトスカートの爽子が明るい声を投げる。傍らの久樹は肩を竦めて「なに一人漫才やってんだ」と笑った。巧が名前を思い出せずに悩んでいた女性が、あ、と声をあげる。
「貴方、将斗君のお友達でしょう?」
 どこかのんびりとした印象を他人に与える、優しい声。それで記憶が揺り動かされて、巧はポンッと手を叩いた。
「思い出したっ! 菊乃ちゃんのお姉さんだ」
「幸恵よ。名前、覚えてくれると嬉しいな」
「分かった。覚える。でも何で爽子さんと一緒に?」
 小走りで三人に近づき、巧は首をかしげる。俺もいるんだから外すなよ、と声を挟んでくる久樹のことは徹底的に無視した。
「私、さっちゃんと久君とは仲がいいの。あのね、高校の時に一緒のクラスだったのよ」
「へぇ、爽子さんってさっちゃんって呼ばれてるんだ。斎藤のサで、さっちゃん?」
「うん。でもね、私だけ。私がそう呼ぶの。ソウコって呼びにくいって思うの、私だけらしいからね」
「俺を久君って呼ぶのも、サチだけだよな」
 無理やり久樹が会話に割り込んでくる。それでも無視を決め込む巧の頑なさには気づいていないのか、幸恵は「それそれ」といって頬を膨らませた。
「サチじゃなくって、幸恵って呼んでよね。別に呼びにくくないでしょ、ねぇ、さっちゃんもそう思うでしょ?」
「そうね。幸恵って呼びやすいよね。でも、久樹には呼びにくいのかもよ」
 悪戯っぽく爽子が笑う。あ、やられたっと明るく言って、幸恵はひとしきり笑った。
「なぁ、爽子さんたちは今からどこに?」 
 仲の良さげな三人の様子に、今から遊びに行くのかと思って巧が尋ねる。そうされて、あっと立花幸恵が声をあげた。
「巧くんがいるってことは、もう初等部終わったのね」
「うん。終わったよ。菊乃ちゃんだったら、将斗と一緒に図書委員のオシゴトに行ったさ」
「そうなのね。じゃあ間に合うかも。さっちゃん、久君、巧君。私、ちょっと走って帰るね。菊乃のお昼ご飯、作らなくちゃダメなのよ」
「幸恵、気をつけて帰ってね」
「うん。大丈夫よ」
 ほがらかに笑うと、幸恵が走り出す。
 のんびりしてるのか、気ぜわしいのか分からない姉ちゃんだな、と呟いてから、巧は思い出したように真面目な顔をした。


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