[第一話 サクラ咲く]

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No.02 桜花乱舞
 雄夜は服に炎が着火したのを見た。対処法がない今、覚悟を決める。けれど続く灼熱は感じず、代わりに体に叩きつけられた突風を感じる。
 それは冷たい水を含んでいた。雄夜の身体を取り巻き、すぐにしとどに濡れさせ、じゅっという音と共に邪気が放ってきた炎を消してみせる。
「……ん?」
 驚いて風の方を見やれば、片割れを含んだ面々が駆けてくるのを見つけた。
 無傷でいられると思っていなかったのが丸わかりな雄夜の表情に、まとう風に髪を揺らせた智帆が眉を寄せる。「──まあ、良かったな。雄夜は無事だ」とだけ隣に伝えると、静夜は「あの馬鹿」と声を震わせた。
 智帆は静夜を見やる。
 雄夜は静夜が無理をするのを嫌うくせに、自身が無理をすることはかまわないと思っているようだ。自分が嫌なことは、相手も嫌だと想像をしないのは何故だとつい思ってしまう。
「これは確かに、嫌なもんだな」
 率直な感想を述べると、静夜は切なそうに淡く笑った。
「今のって、なに!? どうやったんだよ静夜にぃ!」
 距離がある中で、雄夜の危機を救った荒業に、巧が興奮気味に尋ねる。
「僕の水と、智帆の風を掛け合わせて、冷却した水を大量に含む風にして放って貰ったんだ。でも──同じ手が通じる気はしない、とにかく急いで合流しないと。朱花、先に雄夜のところにむかえ!」
 雄夜を守れと続く言葉は飲み込む。翼を広げて舞い上がり、雄夜を求めて高く鳴き、雄夜もまた「朱花!」と己の式神の名を呼んだ。
 朱花は光の粒子になって霧散し、続けて雄夜の差し伸べた手の先に粒子が出現し、形を取り戻して出現する。
 炎が突然に発生したり、霧を内包した突風にさらされたり、元教え子が凄絶な酷薄さを宿しているのを目の当たりにし続けている丹羽教授は、あまりのことにぽかんとしている。
「この異常な自然現象は何だ? 予報では何も言っていなかったが」
 呟く丹羽を、雄夜は朱花を肩に止まらせたまま見やる。
「いいから、本田って奴から目を離すな」
「無論、離してはいないのだがな」
「声も掛け続けろ、止まってるぞ」
 理解が追いつかない丹羽の混乱に付け込んで、雄夜は声掛けの続行を強要する。
 完全に邪気と女を同化させるわけにはいかない。防ぐためにも、里奈が意思を強く持つことが必要なのだ。式神などの力よりも、里奈が信頼する人間が、名を呼んでいた方が効果がある。
 説明のない雄夜の指示に、丹羽教授は憮然とした表情になる。だが確かに声をかけていた時の方が、里奈は普通の様子を見せていた。考えあぐねて首を傾げ、「名を呼べばいいのか」と尋ねる。
 ワンッ!と、雄夜の代わりにシベリアンハスキーのスイが吠えた。答えたつもりなのかと丹羽が視線をやると、犬はもう一度吠える。「そうか」と呟き、丹羽は再び里奈の名前を呼んだ。
 目立った変化はないように見えるが、動きが少し鈍くなったのが雄夜には分かる。だからこそだろうが、邪気は執拗に丹羽に狙った。
 大蛇のようにして繰り出される炎に焼かれぬように、教授の肩を掴んで突き飛ばす。かわりに炎の前に腕を晒したが、朱花が炎を吸収することで負傷を防いだ。
「あれってマズんじゃ!? 静夜にぃは……なんでもない!」
 炎を防ぐのは静夜が動くの一番だが、きゅっと手を握り締めたまま張り詰めた表情をしていることに気づいて言葉を飲み込む。助けたい気持ちを必死に抑えているのだ、勝手なことを口にしてはいけない。
 どうしようと将斗と共に焦る巧の声を智帆が聞き止め、急に足を止めて巧の襟首をつかんだ。
「巧、今すぐ大地を呼べ」
「――え!? いいの?」
 制御できない能力を、軽い気持ちで使うなと重ねて釘を打たれたばかりだ。
「俺が制御の補佐をする。今の段階で、静夜を疲れさせて封印って手を失うのは上策じゃない」
 智帆の視線は静夜に固定されている。雄夜は大丈夫だと伝えられているのが分かるので、静夜は集めていた水の力を放つのをこらえた。
 巧の持つ大地の異能力も高い防御力を誇っている。智帆が制御に手を貸すのなら、利用しない手はない。
「──智帆、巧、ここは任せた」
 静夜は声をかけて、雄夜との最後の距離を一気に詰めた。凍りついている里奈がはっきりと見える。邪気によって中から心を支配された結果を目の当たりにして、静夜の心は痛んだ。
 あの場所に居合わせたというだけなのに、こんな目に合わせてしまったのだから。
 ――居合わせただけ?
 何かが静夜の中で引っかかった。
 それが何であるかを考える暇もなく邪気が動く。再び炎の塊が丹羽を狙うのを、庇おうとした雄夜を静夜が制する。
 地鳴りのような音と共に、アスファルトを食い破った地面が隆起する。
 三名に襲いかかる炎に立ちふさがる盾を巧が作り出したのだ。丹羽教授は突然の地殻変動に激しく混乱し、顔の筋肉をひくつかせる。
「混乱して当然だよな」
 少し離れた位置で、巧の補助をする智帆がしみじみと呟いた。
 とりあえず対処の目途がつきそうだと息をついたところで「おい、大丈夫なのか!?」と声が響いてきて智帆がぎょっとする。
「なんで来た!?」
 珍しく焦りを隠さない智帆の声に、静夜も振り返って絶句した。
 よりによって、邪気に力を与える炎を持つ久樹が爽子と共に現れたのだ。
「ちょっと、これって……」
 まずいと静夜が呟く中、大地による盾の妨害に苛立っていた邪気もまた久樹を見やる。
 ──にぃ、と。里奈の唇がつり上がった。
「智帆、そっちに行く!!」
 静夜が警戒を込めて叫ぶ。
 邪気の目的が丹羽から久樹に切り替わったのだ。智帆もそれを理解し、巧の肩を叩いて久樹と爽子がやって来る方向に駆ける。
 邪気が辿りつく前に、智帆は大学生二人の前に滑りこんだ。
「おわ!?」
 目的の方から駆けよって来られて久樹は驚く。智帆はあからさまな怒気を瞳に浮かべて、叱責を口にした。
「俺は言ったよな、あんたの能力は邪気に力を与えるって!! わざわざ邪気を補強してやって、助けられる相手を、助けさせないつもりか!?」
 胸倉に掴みかかって来そうな剣幕に、驚いた爽子が二人の間に割って入った拍子に、接近してくる里奈を見つける。
「本田……さん、なの?」
 驚きすぎて、声が震える。
 考えにしなかった光景がある。
 気が強そうに見せかけて、気弱な心を守っている里奈。そんな彼女が、心底冷たい空気をまとって存在しているのだ!
「この感覚。これって、久樹!! あの桜が開いたときに感じたっ!!」
『あ・り・が・と・う』
 邪気が一言ずつ、言葉を切って囁いた。
 囁かれるたびに、生理的な嫌悪が久樹の中に侵入する。美しい声なのに、心に響くと不快に変わるのだ。ぐるぐると思い出される不快な記憶。学生課で感じた寒気、桜の中で背後から伸ばされた手の恐ろしい白さ、首を絞められ酸素をもとめあえいだ苦しみ。
 恐怖が急激にせり上がって久樹を苛み、ぽっ、と。蛍のように光をまとう火が現れた。
 眠っている炎の能力が急激に浮上する。
 智帆がさっと青ざめた。
 異能力と邪気が同属性であれば、能力の高い方が有利なのだが、それは能力を保持する当人がソレを操れる事が前提だ。
 久樹は炎を自覚していない、だからもちろん、使う事などは出来ない。それを邪気に見破られ、強引に引き出されて揺らめく炎が、里奈の身体を支配する邪気にことごとく吸収されていく。
 艶やかに、おぞましく、邪気が笑った。急激になにかが膨れ上がっていく。
「――静夜っ!!」
 智帆が静夜を呼んだ。当然ながら目があって、智帆は珍しく続けようとした言葉を言いよどむ。
 静夜の封印能力だけが、久樹の炎が邪気に力を与える現状を食い止められる。けれど体力が回復しきっていない静夜がそれをやったら、邪気を封じる術をなくすことになる。
 逡巡する間に、久樹が頭を抱えて苦悶に呻きだした。爽子は悲痛な声を上げ、将斗が久樹を叱咤する。巧は何かが起きたら全員を守ろうと、異能力を行使し続ける為の精神集中を続けていた。
 雄夜は状況を静観したままだ。静夜の瞳がひどく冷静で、彼自身はなすべきことを選択済みで、ただ智帆がどう決断するのかを知りたがっているように見えた。
 ――炎が奪われるの防ぐか、否か。
 冷や汗が智帆の額に伝う。
 久樹から奪い取った炎をによって存在を増し、里奈の心が完全支配されるのを是とするのなら、放置してもいいのだ。邪気そのものとなった里奈を静夜の異能力でもって封じ、風で威力を増幅させた朱花の炎をぶつければ良いのだから。
 他人の心を重視するか。――それとも。
「本田くんっ!!」
 元教え子を心配する丹羽の声が悲痛に響いた。
 ――決めた。
「炎を封印しろ、静夜」
 低く、短く言葉を発する。
 微笑んだ静夜が細い手を持ち上げ、掌中に光を集めた。空気中の水分が震え、光を受けてきらめく。万華鏡のようにきらきらと輝く水の粒子を見つめながら、静夜は水を呼んだ。 
 オーロラのような光を宿す帯が出現し、直後、それが一つの光となって久樹を直撃する。「っ!!」声にならない悲鳴を残し、操り糸の切れた人形のように久樹は道路に倒れた。
 邪気は炎の補給を絶たれて、ゆらりと瞳に怒りをたたえた。即座に静夜に狙いを切り替えるのを、察知していた雄夜が前に出て片割れを庇う。
「ひどい、久樹になにをしたの、静夜くん!」
 拳を握りしめて立ち上がり、爽子が抗議の声をあげる。
「そう来たか」智帆がこぼし、危害を加えたわけじゃないと説明しようとした足を、少し大きめな男の手に掴まれて阻止された。
 倒れたはずの久樹の手だ。「悪い」と智帆に告げ、ゆっくりと立ち上がって幼馴染の名前を呼ぶ。
「大丈夫だ、なんともないから」
「――本当なの?」
 爽子の泣きそうな確認に、久樹は笑ってみせる。──妙にすっきりとした笑顔だった。
「なんかな、実感したんだ」
「なにを?」
 久樹は親指で自分自身を指差す。
「俺が炎の異能力を持っているって」
 邪気によって無理矢理に炎を引き出され、それを静夜の水によって鎮められていくのを、久樹は意識のある状態で初めて経験したのだ。
 自分が望んだわけでもないのに、炎を引き出され奪われていくのは、存在の根元から踏みにじられるような不愉快さだった。今でもひどい吐き気と、おぞましさに体が震えるほど。
「ようやくの実感か」
 爽子と見つめあう久樹に、智帆は低く確認してくる。そのまなざしはひどく剣呑で、丁寧な言葉使いも排除されているが、気にしている場合ではなかった。
「遅くて悪いとは思うけどな、仕方ないだろ。──俺は、俺が炎を生むのを感じてなかったんだ」
 ――自分の眼で確認しなければ、信じない。
 久樹のスタンスを垣間見た気がして、智帆はふんっと肩をすくめる。
「邪気に炎を補給する事態に二度となるなよ。──コントロールが出来ないことで、邪気に流れる部分があるのは許容する。だが──」
 智帆は眼鏡のブリッジを抑えて、静夜に攻撃を仕掛ける機会を伺う里奈を見やった。
「ねえ、本田さんに何があったの?」
「邪気が彼女の中に入ったんだ。それで心を縛られてる。また炎の異能力を邪気に大量に奪われたら、あの女性は二度と元には戻らない」
「二度と?」
 爽子の驚きに、智帆は無言で肯いた。
「……智帆くんたちはもしかして、本田さんを助けようとしてくれているの?」
 助けられるものも、助けさせないつもりかと、智帆は怒鳴った。あれは里奈が犠牲になる事態を恐れたからこその、怒りではなかったのだろうか?
「助けようとか、そんなんじゃない。犠牲にならないで済むなら、それで済ませたかっただけだ」
「智帆くん、それって助けたいって言ってるのと同じよ」
 爽子の指摘に口をつぐみ、智帆は腕を組む。にやにやと笑った久樹を、ぎろりと睨んだ。
瞬間、轟音と共に視界が白い煙によって塗りつぶされた。
「雄夜にぃっ!?」
「静夜兄ちゃん!」
 白煙の為に視界がきかない。里奈を懸命に呼び続ける丹羽の声だけが聞こえてきて、静夜と雄夜の状況もわからない。すぐさま風をまとい飛び込もうとした智帆の腕を久樹が強引につかむ。返されたのは敵意すらこもっていそうな視線だったが「聞いてくれってっ!」と続けた。
「最初に邪気に襲われて気を失った時に、俺はあの女の夢を見たんだ。”殺さなくちゃいけない。全ては醜くなっていくから”とか言ってたんだよ。まあ、ただの夢かもしれなけどな」
「──夢?」
 邪気によって異能力を引き出されて見た夢ならば、関係がないとは言いきれなかった。――ただ、どう関係するのかまでは智帆にも分からない。
「──とりあえず覚えておく。巧、将斗、二人の側にいろよ」
 真っ白い噴煙に囲まれる中、円を描くようなスペースの中で、静夜と雄夜、里奈と丹羽の四人は取り残され対峙していた。
「雄夜、多分──久樹さんが炎を自覚した」
 当然ながら二人は丹羽を間にして守っている。
 久樹の炎を奪った邪気は、丹羽と静夜という邪魔をまとめて排除するべく凄まじい熱を生じさせている。それを朱花が吸収しているが、気温は確実に上昇しつつあった。
 ――邪気の能力そのものが、桁違いに上がりつつあるのだ。
「このままだと本田さんの心は二度と戻ってこない。ちょっと手荒になるけど、徹底的に攻撃を仕掛けて邪気の力を弱めるしかない」
「徹底的に? あの女はどうする?」
「寄生している体に死なれたら、一連託生になっている邪気も消失する。邪気があの人を死なせはしないよ。まぁ」
 一旦言葉を切り、静夜は不穏な色を瞳に湛えた。
「心を失ったままより、治るレベルの怪我で済むなら、その方が良いと思うんだ」
 二人の会話に注意をむける余裕もなく、里奈に呼びかけ続ける丹羽をちらりと見やり「側にいる人間にとってもね」と、続ける。
 静夜は光に包まれた手をゆっくりと持ち上げ、胸の前であわせた。
 りぃん、という涼やかな音と、きらきらと輝き青き光のヴェールが降り注ぐ。髪に、肌に、服に、地面に。触れながら光を放ち、すべてを癒し守る高密度の水の結界を織り上げた。
「雄夜っ」

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