[第一話 サクラ咲く]

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No.01 桜花乱舞
 丹羽とほぼ同じタイミングで、大江雄夜もまた緋色の霧の発生を目撃していた。
 倒れた静夜の側にいるのが耐えられず、白鳳学園近くに住む老夫婦の飼い犬のスイと一緒に走っている時にだ。
 まず最初に、湿度の高い六月のねっとりとした空気に似た感触が肌に触れた。不快感に眉をひそめ、雄夜は道路から大学部水鳳館の東側三階を見上げる。
 緋色の霧が室内に充満し、染め抜いているのが分かる。
「あの邪気か」
 雄夜の瞳が剣呑に輝き、アスファルトを蹴って水鳳館に進路を向けた。シベリアンハスキーも共に駆けだす。
 リードを放すと水鳳館の正門の下をスイが潜り抜ける。雄夜は持ち前の運動神経と長身を利用して門を飛び越え、再びスイのリードを手にした。
 室内に充満した緋色が点滅を開始している。
 なにかが起きると理解し、雄夜は召喚の札を取りだした。
 雄夜が守りたい特別な相手は今は側にいないので、遠慮する必要はない。自分が怪我したといてもかまわなかった。
 ――一人なら攻撃に専念できる。
「朱花っ!」
 気合をこめて鋭く喚んだ。
 空中に放り投げられた札は一瞬で炎をまとい、雄大な炎の翼を広げる。
 真紅のルビーに似た瞳を朱花は主に向け、命令を待つ。動物の勘なのか、スイは不思議そうに式神が佇む付近を見上げた。
「邪気を牽制しろ。何か企んでいる」
 ──内部に二名の生命反応がありますが?
「死ななければそれでいい」
 声ではなく脳に響いてくる確認に酷薄に答え、雄夜は階段を駆け上がった。朱花はそのまま羽ばたき、三階へと飛翔する。
 緋色の光は、強く、弱く、光量を変えながら脈打っている。朱花の瞳が室内を確認すると、丹羽が里奈の体を大きく揺さぶっているところだった。
「本田くんっ!!」
 揺さぶられるまま、里奈はなにかをぶつぶつと呟いている。目はひどく虚ろで、丹羽を認識している様子はない。緋色の光が点滅する度に、里奈の髪は風もないのに持ちあがって揺れていた。
 朱花はためらわずに窓へと突っ込んだ。
 羽ばたきの衝撃でガラスが粉々に砕かれ、光を反射してきらきらと散乱する。
「なにごとだっ!?」
 仰天したのは丹羽だった。
 彼には式神が見えないので、理由もなく突然に窓ガラスが割れたとしか思えない。
「本田くん、外に避難するぞ」
 丹羽はうずくまって動かない里奈の肩を抱いて立ちあがらせようとしたが、その手が里奈に弾かれる。
『触るな。時によって朽ちた者よ』
「本田くん?」
 冷たく、醒めた怒りを宿した眼差しを向けられて丹羽は驚いた。
 丹羽の知る里奈は、そんな目をする人間ではない。年齢だけは大人になったくせに、いつも迷子の子供のような、途方にくれた目をしている娘だった。
「一体どうした?」
 里奈の変化をいぶかしむよりも、心配が募って丹羽はもう一度、手を伸ばした。それを制するべく、丹羽の目には映らない朱花が教授と里奈の間に割り込んで妨害する。
 里奈が丹羽に危害を加える寸前、教授室の扉が開いた。弾丸のように飛びだした固まりが、丹羽に体当たりをする。
「な!?」
 当然ながらバランスを崩した丹羽の腕は「離れろ!」という雄夜の鋭い声を同時に引っ張られた。すぐ隣に、着地した大型犬の姿が入り、丹羽にはまったく状況が理解できずに混乱が増す。
 朱花が物質は燃やさずに、思念を滅する為の炎を里奈に放った。
『愚かね』
 里奈の顔で、冷たい言葉を吐きだす。表情は動いていない。炎に向かって娘は手をあげた。
 里奈の手からも炎が生じる、これは物質を燃やす炎だ。
 ――思念を滅するための炎と、物質を滅する炎が衝突する。
「スイ、走れっ!」
 雄夜は犬に声をかけ、声を失った丹羽を引きずって踵を返した。二人と一匹が教授室を飛びだした直後、爆発音が響く。
「爆発だと!? 部屋に残した資料は一体どうなる?」
 引きずられている丹羽の呆然といた問いに「知らない」と雄夜は律儀に返し、水鳳館の出口を目指した。
 室内での争いを続ければ、静夜が被害をカモフラージュせねばならない範囲を広げてしまう。だから雄夜は外におびき寄せたかったのだ。
 正面玄関から飛びだすのと、三階の窓から朱花が飛びだすのは同時だった。朱花を追って、窓枠から里奈が体を乗り出す。丹羽がそれを見上げて眉根を寄せた。
「本田くん、下がれ! 窓ガラスが割れた枠に手をつくなど、何を考えているっ!」
 やけに迫力に満ちた、場違いな一喝が響く。
 完全な無だった里奈の顔に、驚きの影がよぎる。唇が「教授」と呼ぶ形に動いたのを、雄夜は認めた。
 雄夜には良く分からないが、女の中に邪気がいることは分かった。邪気が人の心に入り、侵略が出来るとは知らなかったが、完璧に支配したようには見えない。
 もし支配したのならば、里奈の唇は邪気の言葉を語り、里奈の顔は邪気の感情を宿したはずだ。
 女の体の中で、邪気と心が支配権を争っている。
「あの女に話しかけていろ」 
 雄夜は高等部の教師は知っていても、大学部の教授は一人も知らない。それを差し引いたとしても、普通の大人に対する口の聞き方ではない乱暴さに、丹羽はぎょっとする。
 雄夜は鋭い瞳で、丹羽の元教え子を睨んでいる。触れれば切れそうな緊張感は、少年が真剣であることを教えていた。
 一つ咳払いをする。出来れば煙草を一服して落ち着きたいところだが、その暇もないらしい。背広のポケットの中の箱をもてあそぶ。
「何を話しかければ良い」
「なんでもいい。あの女の気を引くようなことだ」
「あの女ではなくて、本田里奈くんだ。以後は名前を呼ぶように」
 真面目に丹羽が訂正する。不思議そうに振り向いた雄夜の顔に、あどけない子供っぽさを見付けて、丹羽は少し落ち着いた。
 どんな子供でも、生徒と思えば許容できる。
「気を引くようにか」
 改めて考えて、部屋の窓枠から冷たい顔で見下ろしている元教え子を見上げる。
「本田くん。早くそこから離れなさい。離れなければ、改めてレポートを書いてもらうぞ。それとも卒論は受け取ってやったが、最低ラインだったからな。機会があれば書きなおさせたいと思っていた。丁度良い、書きなおすか?」
 気を引くことを話せと言ったにも関わらず、レポートの話しを始めた丹羽に雄夜が面食らう。それでは駄目だろうと口に仕掛けて、雄夜はさらに驚いた。
 頭上の里奈がさっと顔色を変えたのだ。
「教授っ! それはこまります!」
 慌てて叫んだ里奈の顔には、焦りがはっきりと浮かんでいた。緩慢に丹羽は首を振る。
 たしかにこれなら、時間が稼ぐことが出来る。
「朱花。静夜をここに連れてこい。意識がなかったとしても、なんとか起こせ」
 小さく命じた雄夜に、朱花はすぐに翼を羽ばたかせる。
 邪気が他人の体に入っているのでは、強行排除に踏み切ることは出来ない。相手を傷つけ、死なせてしまう可能性があるからだ。
 本田里奈から邪気を引きずり出してから叩く必要が生じた。これは雄夜だけでは出来ない。
 応援がくるまでの間、雄夜は場にいる面々を守って立ち回らなければいけない。正直、得意ではない。むしろ苦手だ。
 そんな雄夜からの救援を求められるより早く、里奈の保護が必要だと認識した静夜と智帆は、すでに内藤医院を飛び出して康太たちと鉢合わせしていた。
「あれえ、しーちゃん!?」
 目を丸くした統括保険医に「康太兄さん、町子先生が待ってるよ!」と声をかけ、静夜は叔父の側にいる中島巧と川中将斗に目配せをして駆け抜ける。
 すぐに緊急事態を受け取った初等部の二人のそれに続いた。
 あまりの展開の早さについていけず、爽子と久樹は立ち止まってぽかんとする。
「久樹、どうしようか?」
「さあなぁ」
 駆け去る少年たちの速度はかなり早く、急がないと追いつくことは出来ない。
 分かっているが動けないままでいると、こちらに向かって飛来してくる存在を見つけて久樹は息を飲んだ。
 見たこともない鮮やかな真紅の鳥が羽ばたいている。
 それだけなら珍しいですむが、よりによってその鳥の翼は炎をまとい、火の粉をきらきらと輝せながら飛翔しているのだ。
「なんだよあれ?」
 常軌を逸した存在に呆然と呟きながら、それでも久樹は無意識に爽子をかばって一歩ばかり下がる。
 炎の鳥は静夜の肩へと舞い降りて、こちらを振り向いた。爛々と輝く深紅の瞳が、久樹のそれとぶつかる。なにか、訴えかけられた気がした。
「見えているの、久樹?」
 震える声に尋ねられて、久樹はただ頷き、二人で炎をの鳥を凝視する。尋常ではない様子に不思議そうに首を傾げたのは康太だった。
「二人とも、どうしたんだい? なにか珍しいものでも見たとか? でも綺麗な青空しかないなあ。それにしても、しーちゃんが元気そうでよかった、安心したよ」
 のんびりとした康太の声に、久樹がおそるおそる問うてみる。
「先生には何も見えていないんですか?」
「何もって――何をだい? ああ、あのシブーストみたいな形をした雲のこと? いやあ美味しそうだね、あの雲」
「……。爽子、智帆の説明をちゃんと覚えてるか?」
 ケーキの魅力について語り始めた康太を久樹は無視する。爽子は緊張の面持ちで肯いた。
「──雄夜くんの式神は普通の人には見えないの。でもわたしには蒼花が見えて、久樹にも見えるはずだって言ったわ」
 幼馴染みの腕をぎゅっと爽子は掴む。大丈夫だと伝えるために、久樹は肯いた。
「あの統括保健医には、炎をまとう鳥は見えていない」
「智帆くんは、炎を操る朱花っていう鳥型の式神もいるって言ってた」
 二人は共に息を呑んだ。
「俺は持ってるのか? 炎の能力を」
 久樹はついに実感として己の炎を認める言葉を呟いた。
 頷きあって、二人はすでに小さくなった少年たちの背を追って走りだす。


 静夜を連れてこさせる為に朱花を手放した雄夜は、無防備となってしまった状態のまま里奈を──邪気を睨みつけていた。
 丹羽が里奈の心を繋ぎとめているうちに、外へと引きずり出してしまいたい。
 蒼花を喚ぶべきだと分かっている。けれど二体を同時に召喚したせいで、破壊衝動に負けて暴走しかけたのはつい先ほどの事で、決断が出来なかった。
 いつでも喚べるように握りしめた蒼花の札に額を付けて、雄夜は切れ長の眼差しを細めた。ぽう、と青い光が生まれ、札がやわらかに脈動を開始した。
 論文の書き方に話しが飛んでいる丹羽の目の前に、雄夜は札を付きつける。
「なんだね?」
 こんな時だというのに、論じる言葉を遮られて丹羽はやけに不機嫌そうだ。だが丹羽以上に雄夜は不機嫌な顔で、札を無理に握らせる。
「あの女――いや本田っていう奴の様子が変になったら、これを天に掲げて叫べ」
 女といった瞬間に睨まれて、雄夜は言いなおす。窓辺に立つ里奈は、まだ丹羽の言葉に聞き入っていた。
「何だね、これは」
「お守りだ」
「困ったときの神頼みというわけかね? 神頼みなど、あらゆる努力をした者が、最後に心を落ち着かせるためにするものに過ぎん。効果などは――」
「うるさい。いいから掲げて叫べ。神様助けてだ」
「神様助けて?」
 怪訝に復唱して、丹羽は伺う目で雄夜を見やる。難しい年齢の少年であるので、いかがわしい宗教に染まってしまっているのではと心配したのだ。
 雄夜は丹羽の視線を無視して走りだした。
 式神に頼らず、力づくで女を外に引きずり出す。それが雄夜の作戦だ。
 身を守る式神はなく、攻撃も出来ない。良い案ではないが、考えるのが苦手な自分に出来るのはこれくらいだと雄夜は思う。
 息一つ切らさず、三階まで駆けあがった。無残に黒く焦げた扉はノブが落ちていて役に立たず、雄夜は蹴破って侵入する。
 身を乗り出して女が外を見ている。
 室内は惨澹たる有り様だ。本が並んでいた棚は単なる黒墨となり、机は炭化して崩れてしまっている。丹羽に意識を集中している女は、一度も振り返っておらず、状況を認識していないのだろう。
 大学部に入ったらこなすことになるレポートや卒論とは、それ程までに人の興味をかきたてるものかと聞きたくなったが、考えすぎずに女の肩に手を置いた。
 一瞬、女――里奈の体が奮えて固まった。
 その隙に雄夜は女を抱き上げる。里奈が自らの身に起きたことを理解する前に、来た道を逆走する。
「え、え!?」
 里奈の声が裏返った。
 驚きは恐怖を呼び、恐怖は恐怖を与える現状への怒りを呼ぶ。一旦は支配権を奪われた邪気が、表に出てくるのは間違いなかった。
 三階から二階に駆け降りた地点で、里奈の声が消えた。
 二階から一階の階段途中の踊り場で、雄夜は熱さを感じる。
 女を抱える雄夜の手を包む、衣服が煙をあげた。
 ――熱い。
 正面玄関が見えて、驚愕の眼差しを浮かべている丹羽も見えた。
 腕の中の女が、ついと、うつむく顔を上げる。
 完全な無表情。
「叫べっ!」
 雄夜の真剣さに気圧されて、丹羽は手渡された札を持ち上げた。小さな声で、少し赤くなりながら、けれどはっきりと雄夜が指示した言葉を叫ぶ。
 轟音と共に、女――邪気が丹羽めがけて炎を投げた。天に掲げた札は閃光を発し、蒼花の力がきらめいて水を丹羽の周囲に生み出した。
 邪気が支配権を取り戻せば、かならず”里奈”の心を支える丹羽の排除に動くと、雄夜は理解していた。
 もちろん雄夜も危険なのだ。今、雄夜は身を守る術を持っていない。
 手短な場所に降ろしてから離れる時間がなく、悪いと呟いて放り投げた直後、里奈の身体がから再び噴き出した緋色の霧が膨張し──炎となって一気に広がった。



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