[第一話 サクラ咲く]

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No.04 緋色の残像

「――立ち入ったことを聞くね、智帆」
「迷惑か?」
「図々しいとは思うけど、まあいいか。――小さい頃さ、僕は一度死にかけたことがあるんだ」
「死にかけた? なんか持病でもあるのか?」
「いいや、全然。病気じゃなくて、死にかけた原因は怪我」
 紅茶色の目を細めて、静夜は過去に見た景色を思い出す。
 ――天を夕焼けが赤く焦がしていたことを、強く覚えてる。
 そしてそれと同じくらい、赤いものがすぐ近くを彩っていくことも。
 胸が熱くてたまらなくて、ただただ必死に両手でそこを抑えている。けれど赤い色は広がる一方だった。手が、服が、地面が。丸い円を描くように広がっていって、赤く黒い溜まりを作っていく。
 夕焼けの赤は綺麗なのに。
 自分からこぼれる赤は綺麗ではなかった。
 苦しくて、力が入らなくて、身体は膝から崩れてしまった。助けて欲しかったのか、支えて欲しかったのか、なにを思っていたのかは今の静夜は覚えていない。ただ覚えているのは、視線の先にある双子の片割れの目がみるみる恐怖で凍り付き、静夜から生じた赤の中に倒れる姿だけ。
「公園で遊んでいた子供が通り魔に襲われたって新聞に載ったよ。捜査は難航して、結局、犯人特定は出来なかった」
 静夜は過去から現実に意識を戻し、自嘲気味に笑う。
「出来るわけないよね。だってそうだよ、智帆。普通の人には見えないんだから」
 更に何かを言おうとした静夜を、とっさに智帆は止めた。
「悪かった。もういい静夜」
 その先は語られずとも、智帆には想像出来る。
 荒ぶる心を持つ邪気から式神は生まれ、それらは今も破壊衝動に蝕まれている。だからこそ衝動を肩代わりできる存在を探し、雄夜を主とすることで穏やかな時間を今は過ごしているだけなのだ。
 雄夜が肩代わりしている破壊衝動に負けたらどうなるのか。
 その答えが、静夜が死にかけた過去の事実だった。
「そんなことがあったから、雄夜は怖いわけだ」
「記憶としては覚えていないけどね、雄夜は」
「はあ?」
「覚えてない。──ショックが大きすぎたんじゃないかな、倒れた後で高熱を出して。意識が戻った時にはなにも覚えてなかった。それでも恐怖だけは残って、誰かが壊れることへの恐怖がトラウマになった」
 ため息をついて、静夜はうつむく。
「僕たちは双子だけど、対等じゃなくなった。雄夜はただただ僕が壊れることを恐れて、守ろうとしてくる。それがね、すごく嫌なんだ」
 情けないねと静夜が笑うので、智帆は首を振った。
「当人が真剣に悩んでいることを、情けないと決めつけたりはしない。まあ、その変わり、解決方法を探してやるとか言って踏み込みもしないけどな」
「──智帆そういう理解の仕方、安心する」
「分かってるから、話したんだろ?」
「そうそう。話してみたかったんだよね。そんなことより──」
 すうっと声のトーンを静夜が落とす。
「ああ、何が起きた?」
「智帆はどこまで知っている?」
「あの娘が邪気ってことと、炎の力を手に入れたってことだな。あと、赤い霧はこの目で確認している」
「赤い霧は邪気そのものだと思うよ。僕の目の前で空気と同化し、光球になって襲いかかって来た。ようするにあの邪気は、僕と雄夜が邪魔だって理解しているってことになる。──浄化されない為に」
 炎の力を得た、あの邪気はかなり危険だ。
「光球は結界で弾けた、でも……」
 右手で額を抑えて、辛そうに首を振る
「巻き込んじゃったんだ。弾いたせいで、途中で現れた女性に襲い掛かった。しかも──あの人の中に入ったんだ」
「入った?」
 静夜の言葉を、智帆が繰り返した。
 倒れた女性の存在や、空間に色濃く残っていた邪気の気配。炎による被害や、雄夜の様子から考えて、かなりのことが発生したと智帆も考えていたけれど。
「邪気が人の中に入れるとは思ってなかったな」
 驚いたとゼスチャーしてみせて、智帆はベッドサイドで考え込む。静夜は紅茶色の眼差しで、興味深そうに友人を見やった。
「なにがあったって考えていた?」
「そうだな。変なモノを見たショックで気絶したか、物理的な衝撃を与えられたか、どっちかだろうと思った」
「そう考えるのが、やっぱり妥当だよね」
 しみじみとした声で呟く。
「なぁ、静夜。今までに邪気が人の心に侵入したところってみたことあるか?」
「ないよ。邪気は人の心から生まれたとはいえ、外に出た段階で異質物になる。そう簡単に人の心に侵入出来るものじゃない」
 すべらかに答えて息を付く。
 自分が口にしている事が、矛盾していることくらい静夜は分かっていた。邪気は人の心に入りこむ能力は持っていない。だが、目撃した邪気は、光を放ちながら萌黄色のスーツの女性の中に確かに吸い込まれていったのだ。
 あの光景は静夜の網膜に焼きついている。智帆は軽く眼鏡を治した。
「中に吸い込まれる事はあると考えよう。人間の心の中で、邪気は一体どういう影響を与えるだろうな」
 智帆の発言に、静夜はベッドから降りようとした足を止めた。
「そりゃあ」
「だよな」
 二人、なんとも複雑な表情で顔を見合わせて溜息を落とす。
 邪気は攻撃的で支配欲の強い気質を持っている。人の中に入れば、その肉体と精神を支配しようとするのが自然だ。
「とはいえ、人の心だってそれほど弱いわけじゃないからな。簡単に支配出来るわけもないだろうよ。だとすると、まず最初に何をするかな」
 静夜がベッドから降りるのをやめたので、智帆は隣の丸椅子に座った。
「寄生するとか」
「寄生?」
 怪訝な声と共に顔を上げると、今度こそ静夜はベッドから立ち上がった。
「自分のものではない意識に侵入されたら、絶対に気持ち悪いよね。例えばだよ、今の僕に歯が痛くなるくらいの甘いものを食べたい!っていう康太兄さんの気持ちが入ってきたら、違和感しかない」
「まあ、そうだろうな。しかしもっと面白い例えはなかったのかよ」
「生憎、気が利くほうじゃなくってね」
 微笑みで智帆の舌鋒をかわすと、静夜は細い手を持ち上げて、鼓動を打つ己の胸に添えた。
「でも、飛び込んできた感情がそれほど違和感がなかったらどうなるんだろう。今の僕はエネルギーが足りていないから、何かを食べたいって気持ちに入られても、それが自分の気持ちじゃないとは思わないかもしれない」
「食べたい理論から離れる気はないのか」
「だって新しい例を考えるの面倒だよ。それとも智帆がなんか考えてくるわけ?」
「うーん」
 真剣に腕を組んで考え込み、すぐに智帆は肩をすくめた。
「食べたい理論でいいか」
「自分が考えそうな気持だったら、受け入れることは出来る……」
「可能性は高いな。だから寄生か。本人が抱きうる感情に近いものを最初は与えて、徐々に邪気の感情で持ち主の心を染めていく。最初はなんとなくイライラするだけだよな。それから怒りっぽくなる。そして最後はひどくむしゃくしゃして来て……」
 二人、目があって、
「何かを破壊したくなるはず」
 同時に結論を出した。
「急ごう、保護しないとダメだ」
 

 邪気に寄生された可能性が高い本田里奈は、ひどい恐怖に震えながら道路を歩いていた。
 彼女が白鳳学園に就職をしたのは、学園愛に溢れていたからではない。
 就職活動中に、どうしても一般企業で働いている自分を想像できなかったのだ。悩んでいる間に時間は過ぎて、気づけばどこも採用試験は終わっていた。
 そんな里奈にため息をつきつつ助け舟を出してくれたのが、課題がやけに難しくて、生徒から嫌われていた、丹羽教授だった。内定辞退があって欠員が出たので、追加募集を学園がかけるか悩んでいると教えてくれたのだ。
 一般企業に勤めている自分が想像できないのと同じくらい、白鳳学園で働いている自分も想像できなかったが、里奈は実は丹羽の声がかなり好きだ。学園の職員になれば、声をずっと聞いていられると考えたのだ。
 丹羽教授が春休み期間の学園にいるので、着任前だが出勤して、とんでもないものを目撃してしまった。
 ──怖い。
 怖い、怖い、怖い。
 心の中が恐怖でいっぱいになって、うつむいたまま、ただただ必死に歩き続ける。
「本田くん?」
 突然に呼ばれて、里奈はハッとして顔を上げた。
 丹羽が正面に立っている。
 白鳳学園には巨大な図書室があり、蔵書は全てデータベース化されている。パソコンで全て簡単に検索・閲覧が可能だが、丹羽はかたくなに紙媒体を利用する性質で、今日もたくさんの資料を抱えていた。
「なにかあったのかね?」
 抑揚の少ない声で尋ねられて、里奈はぱちぱちと瞬きを繰り返し、丹羽教授を凝視した。
「──ん?」
 丹羽は不思議そうな顔をして、抱えた本を揺すって持ちなおし、軽く顎をしゃる。
「一緒に来るかね? コーヒーでいいなら私でも出せるぞ」
「え? あ、でも」
 教授の声が体中に浸みとおり、里奈に落ちつきが戻ってくる。それで休憩に出てからの経過時間が気になって、時計に視線をやった。
 丁度、三十分が経過していた。
「ああ、戻る時間だったか」
「いえ。あと、三十分くらいは大丈夫みたいです」
「だったら来るといい」
 ぶっきらぼうに言って、丹羽は歩き出した。
「丹羽教授、あの」
「まだなにか問題があるのか?」
「私、その、休憩の目的が果たせていないんです」
 恐怖が薄れて、里奈の気持ちに明るさが戻ってくる。おずおずと悪戯な台詞を告げてみると、丹羽は目をすがめた。
「カップラーメンくらいしかないな」
「ご馳走になれますか?」
「良かろう」
 僅かに笑ってくれた教授に、里奈は心底ほっとした。隣に並んで、丹羽教授の研究室が水鳳館にあることを思い出す。
 怖かった場所のすぐ近くで、恐怖のあまり逃げ出してきた場所でもある。
 水鳳館に行く事になって、忘れていた恐怖が鎌首をもたげる。ただ待って下さいとは言えなかった。
 すぐに白梅館へと続く分かれ道にたどり着いてしまう。
「──ん?」
 丹羽が怪訝そうに眉を寄せて足を止めた。
 視界の先で、黒く焼け焦げてしまった桜が見える。
「あれ?」
 どうしようもない恐怖を別れ道の先で覚えたのに、今は何も感じなかった。ひどく拍子抜けする。いぶかしむ里奈の隣で、丹羽は「事故の連絡は入っていないがな」と呟いた。
 ――本当に何が起きたのだろう?
「教授。私、あの先でなにか見た気がするんです」
 水鳳館へと再び歩き出した丹羽を追って、その背に声を投げる。なんとなく話していたい気分だった。教授は驚いた様子もみせずに、無感動な言葉を返してくる。
「何かを見るのは簡単だ。私が意識せずに見ている風景も、何かの一つだからな」
「そうなんですけれど。そういう何かではなくて、もっとインパクトのあるものを。奇妙な光景を見たような気がするんです」
「そうか」
 正門は閉まっているので、通用門を開けて中に入る。施設内の自動ドアを稼働しているのでそこから中に入り、続く階段を上ってすぐの教授の研究室の扉を開けた。
「気になるのであれば、思い出す努力をするんだな」
「やっぱり、思い出さないと駄目でしょうか」
「気になるのなら」
 開けた部屋の中は雑然としている。
 学生時代に訪れていた研究室は綺麗だったはずだ。里奈の沈黙を呆れだと受け取って、丹羽が息を付く。
「助手が休暇中だ」
 パイプ椅子を出して座ってろと言い、丹羽は横にある部屋に消えた。ビニール袋をあさる音がする。何をしているのだろうと里奈が思っていると、「とんこつ味しかないぞ」という声が聞こえた。
 どうやら本当にカップラーメンを出してくれるようだ。
 手伝おうと立ちあがった拍子に、机の上に積まれた本の角に里奈の肘がぶつかった。
「あっ」
 大きな音と共に本が床に転がり落ちる。片付けようとして今度はパイプ椅子に足が引っかかった。前のめりに倒れて、足に激しい痛みが走る。
「痛いっ!」
 ついでに一緒に倒れたパイプ椅子が鉢植えを押し倒して、床に湿った土が散乱した。
 ――どうしてなの?
 さんざんな光景が、とても目に痛い。
 ――こんな所に。
 ズキズキと足が痛い。本当に痛い。
 ――こんな物があるのが悪いのだ。
 涙が浮かんで歪んだ視界に映る、あまりに散々な状況。
 ――だから。
「腹が立つ」
 低く、抑揚を欠いた冷たい声を吐きだす。
「痛い。なんでこんな目に会うの。腹立つ。腹が立つのよ」
「本田くん?」
 丹羽が顔を覗かせた。散乱した本に、倒れたパイプ椅子と鉢植え。けれどそれ以上に目を引いたのは、うつむいてぶつぶつと呟いている里奈だった。
「怪我でもしたのか?」
 近寄ろうとして、丹羽は目を見張る。
 里奈の身体からいきなり緋色の霧のようなものが沸き上がったのだ。 
「な──!?」
 驚く丹羽の丹羽の目の前で、緋色の霧は一気に広がり、部屋中に充満する。


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